「土地の文脈を読み 新たなまちをつくる」
 

  造景建築家
    千葉 貴司さん
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 その土地が持つ歴史やものがたりを紐解き、土地の魅力を生かした街並みを造る、それが千葉さんの仕事だ。だから「造景・建築家」を名乗る。「建築が街並みを構成していくのだから、建築も風景の一要素。目立ってはいけない。若い時はよし!かっこいいものを造ってやるぞと思っていましたが、今は違う。建築とは、地域やまちづくりなどすべてを網羅した仕事だと考えています」。

 千葉さんは一九九五年に竣工した「弘前蓬莱広場」を皮切りに、「弘前藩ねぷた村」、弘前下土手町、上土手町商店街まちづくり、JR弘前駅舎と自由通路、JR浪岡駅・交流センターの設計、監修など青森県内の「造景」の仕事に携わってきた。
「土地の文脈を読む」を信条にしている。その土地がどのようにつくられてきたか、歴史と文化の流れを読み取り、元々のまちに敬意を表して、新たなまちの将来像を考え、実践していく、それが千葉スタイルだ。「それはまちづくりの作法みたいなもの。その土地の人が生き生きと暮らすために行うのがまちづくり。ハードだけ出来上がって、はい終わりではない。それを活かす提案、そこに関わる人づくりまでを考えていきたい」と千葉さんは話す。

 弘前高校時代、前川國男が設計した弘前市民会館の楽屋の赤いドアに魅せられた。建築家に憧れた。上京し、建築科で学び、卒業後入ったのが海外の都市デザインを手掛ける事務所で、サウジアラビア、シンガポールなどの都市デザインを担当した。「都市デザイナーの仕事は街の将来像をプランとして出すだけです。結局は絵に描いた餅。自分で実際に造りたいと思い、辞めました」と微笑むが、二十八歳での独立は厳しかった。そこから勉強し一級建築士の免許を取得。最初は看板やDMのデザインなどの仕事しかなかったという。次第に仕事が認められ、ショップのデザイン、住宅、オフィスも手掛けるようになった頃、ふるさとの仕事に巡り合った。

 豊田市や仙台市、浅草など、たくさんのまちづくりに関わってきた千葉さんだが、最初の一歩を踏み出したのが弘前だった。「上土手町商店街にセットバックを提案し、受け入れられたのは『こみせ』というキーワードを出せたから」と千葉さん。まさに土地の文脈を読む手法が生かされた。

 現在は長勝寺三門、弘前市役所、弘前公園内のライトアップなどハードをより一層活かす、観光資源の掘り起こしに力を注いでいる。
そんな千葉さんにとって、故郷とは?と問えば、「十代で上京した頃はとにかく理由のないコンプレックスがありました。自分は田舎者だと。でもそのコンプレックスがバネにもなった。弘前の仕事をするようになって、おれってやっぱり津軽衆だと気づいた。自分の原点はそこにある。今は誇りになりました」。

 二〇一一年の秋には、自身がまちづくりを手掛けた浅草寺を中心とした浅草の商店街に弘前ねぷたを持って行き、運行するというイベントも行った。「浅草の人と津軽衆は似ている。どちらも祭り好きのモツケ」と笑う千葉さんが一番のモツケかもしれない。

 新宿にアトリエを持ち、自宅は八ヶ岳の麓、仕事で全国を駆けめぐる千葉さんは回遊魚のよう。他所からの視点で地域を見る、だからこそ出来る仕事があるのだ。「まちづくり、ライティングだって建築家の仕事。総括すると建築という生き方を選んでいるのかな」と笑う千葉さんは、ダンディでカッコイイ大人だった。
                                         
                                          (文責・清水典子)








 

 


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