小説家 平成10年5月2日
宮崎 素子さん 「失われた風景を描く」
 ある画廊の写真展で一枚の風景写真と出合った。そこにはどっしりとした旅館風の建物が写っている。現在の大町二丁目。その町は戦前、新開地と呼ばれていた。

 「わたしが生まれ育った遊郭があった町。いつかこの町を書きたい、書かないでは死なれないと思っていました」と宮崎素子さん(66)は話す。素子さんの小説「草の町」は新開地が舞台だ。「町では、その一帯と、墓地がある辺りに緑がふんだんに残り、駅の方に向けて、まだ広い田園が続いていた。町中には、草の匂いが満ちていて、それは夜の町の性質を補ってあまりあるぐらい、むしろ健康的な美しい町にさえ感じられるのだった」(草の町より)

 「御料理」と書かれたこの建物は素子さんの生家「満月」。昭和初期に建てられ、木造三階建て、広い間口の二階には長い欄間があり、「まんげつ」の文字が彫刻されていた。玄関の右手には「店張り」といい、客が女の顔を見定める座敷があったという。この写真は大鰐町の写真家向井弘さんが一九七四年に撮影したもの。その二年後、「満月」の建物は市の区画整理事業で姿を消した。

 草のにおいのする町だったと素子さんはその町を回想する。きらびやかな夜の表情とは異なり、昼のその町は明るく、健康的だった。遊郭を経営していた人もその町に暮らした女たちも一生懸命生きていた。そんな町と人々の姿を描いたのが「草の町」だ。 素子さんはこの町で育った。父親の健吉さんは大町の旧名、泉町一帯で手広く商売をしていた。釣り堀、射的、料理屋。「父は商売を精一杯やる人でした。わたしを湯船に頭から入れ、丸洗いするような豪快な人でしたね」。

 素子さんが三歳の時、母親が亡くなり、五歳の時、父親も亡くなった。同じ年に素子さんをかわいがってくれた継母(ままはは)も亡くなり、祖父母との生活が始まる。物思いにふけることの多い少女だった素子さんは、弘前高等女学校三年の時、父の思い出や自分の内面をつづった作品「未波」を書き上げる。

 文芸部の顧問、工藤達郎教諭に高い評価を受け、校内の文芸誌「すばる」に掲載された「未波」は、評判となる。さらに地元の雑誌「週刊自由」にも取り上げられ、大きな反響を呼んだ。

 「机の中にファンレターが来たり、小説家になるのかと言われたり、皆が教室に顔を見にくるので学校に行くのもいやになりました」と素子さんはほほえむ。その後、商人宿で働く女性の姿を描いた「風の宿」が中央で評価される。大胆な描写と激しいテーマが注目され、「女だてらにあたもの書いて」という強い風当たりとなって素子さんを襲った。当時、地方で女性がものを書いていくことは、今思うよりもずっと困難なことだったのだろう。その後、素子さんは結婚し、執筆活動から遠ざかる。

 「書けば、傷を広げるような痛みがいつもありました。その度にもう書かないと思いました」。柔らかく、鮮烈な素子さんの感性は心の奥深くにしまわれた。 そんな素子さんがもう一度、この町を書きたいと思ったのは区画整理でこの町が変ぼうしていくのを見た時だった。「この町の姿を書き残そう。この町に生きた人の姿を描きたい」。そして誕生したのが「草の町」。

 今、素子さんは新開地を舞台にした新しい小説を書いている。「まだまだ書き足りない。もっとこの町を分かってほしい」。そんな思いが素子さんを揺さぶる。「宿命」と素子さんは笑った。

 「草の町」の風景を大町の中に見ることはもうできない。広々と続いていた田んぼも、町の中を流れていた小川も子供たちが「葬式ごっこ」をした墓所(ハガショ)も今はもうない。失われた風景を描こうとする素子さんの執筆はこれからも続いていく。
  平成8年7月13日掲載
久保田 篤さん 「砂漠歩いて横断 旅の記録を本に」
 「古シルクロードを行く」というタイトルの本が五月に出版された。昨年の九月、三蔵法師が歩いたという古シルクロード四千`の旅に参加。敦煌(とんこう)から米蘭(みーらん)までロプ砂漠六百`の走破にチャレンジした。その時の旅の記録が友人や家族三十五人に宛てた手紙という形で著されている。
 篤さんは「この人が本当にロプ砂漠を歩いてきたの?」と目を疑いたくなるほど華奢(きゃしゃ)な女性。本人も「隊の仲間は皆、登山ルックで集合したのに、わたしはマニキュアにけばい化粧、おしゃれな服で参加。誰も砂漠に行くなんて思わなかったみたいよ」と優雅にほほえむ。

 なぜ砂漠へ? の問いには「自分を鍛えるため」という明快な答えが返ってきた。「昔の方々のように、ラクダで砂漠を旅したいなあとずっと思っていたところ、古シルクロード四千`の旅、隊員募集の記事を新聞で見て、これだって思ったんです」

 篤さんは二十七歳、二十五歳、二十二歳の双子、合わせて四人の男の子のお母さんでもある。子育てが一段落した四十五歳の時、一年間主婦の休暇をもらい、単身イギリスに留学。八ケ月英語を勉強し、その後セスナのライセンスを取りにアメリカへ三ケ月。残りの一ケ月でペルーとボリビアを一人旅したというタフな女性。

 「結婚してすぐに男の子四人のママでしょ。夫の仕事ぶりを見て、男に生まれないで損したって思いました。男の人って自由でいいなと思っていたんです。アメリカなら三カ月で女の人もセスナのライセンスが取れると聞いて、すぐにやりたくなっちゃった」と笑う。

 「自由に、好きなように」が子育てのポリシー。「わたしの個性を大切にしてくれ、他人の目や口を気にせず、あれしちゃいけない、これしちゃいけないと決して言わない主人に感謝しています」と話す。いつもは報告のみの篤さんだが、死をも覚悟のシルクロード二ケ月の旅はさすがに夫の許可を得なくてはと思ったという。

 真剣な顔で「お願いがあります」と切り出した篤さんに夫の耿平さんからは二つ返事でOKが出た。「後で聞いたら、あんまり真剣なんで、離婚でも言い出されるかと思ったって笑っていました」。探検隊には二十歳から六十歳までの女性十九人、男性二十人が参加。落伍者を乗せるラクダが二十三頭、中国人の隊員二十人が加わっての旅だった。

 一番大変だったのは顔も歯も洗えないこと。「それと下着の替えがないことかな。洗濯はできないし、トイレと下着では苦労しました」とおちゃめな表情を見せる。隊の中では「ヒメ」と呼ばれていた。一日四十`を歩くという強行軍の旅。女性小隊長の「ヒメ、しっかりしぃや。ヒメ、がんばらなあかん」という叱咤(しった)激励の言葉が飛んだという。

 久保田さんらしくてユニークなエピソードがある。「顔は洗えなくとも、最後までバッチリお化粧しました。真っ暗な中、皆より三十分早く起きて砂の上に化粧品並べて、手探りで化粧しました。同じテントの人でもわたしの素顔は見たことないでしょうね」とケラケラ笑う。

「この砂漠で皆さんができないことは何かしらと考えたら、お化粧だったの。わたしはしっかり女をやってましたよ」。お見事、と頭が下がった。砂漠で一番うれしかったのは風を見たこと。見渡す限り砂という風景の中で、大の字になって空を見ていたら風の姿が見えたと少女のような目を向けた。

 「気力、体力があればどんなことでも人間は克服していけると思いました。歩くという才能を見つけて、またまた楽しく生きられそう」とさわやかな笑顔を見せる篤さん。まだまだこれから、そんな勇気をわたしも篤さんから貰った気がした。
エッセイスト 平成6年4月2日掲載
片山 良子さん 「リンゴのささやきを 文字に代え全国発送」
 「暮らしの手帖」のエッセー「すてきなあなたに」の執筆スタッフになって十五年になる。日常の生活の中から感じるさまざまを、ぴかりと光る言葉にして読者に伝える。

 片山さんのエッセーにはリンゴが登場することが多い。それもそのはず彼女は「リンゴ園のおかみさん」。自宅の前庭には、春はリンゴの花、秋には真っ赤なリンゴの実がたわわに実り、客人を迎える。家の中にもリンゴのグッズがあふれ、片山さんはさながら「リンゴの家の主」といった雰囲気。

 「肩書は主婦にしてね」とおっとりとした口調で語る彼女。「リンゴの家」の時間はゆっくりと穏やかに過ぎていく。テーブルの上では手作りのリンゴケーキが甘い香りを立てている。エプロン姿がよくお似合いの片山さんは、主婦業の、プロでもある。

 月四本もの連載を抱えるエッセイストでもあるが、仕事場はどこだろうと見回せば、「ほら、あそこ」と台所の片隅を指さした。「わたしのエッセーは台所から生まれているんです」。

 リンゴ園の暮らし、リンゴのささやきを東京に向けて発信しているが、津軽の生まれではない。ちゃきちゃきの江戸っ子四代目だ。太平洋戦争が始まり、父親は戦地へ。残された家族五人は弘前へ疎開した。小学生の時だった。 

「津軽に住み五十年近くになるけれど、津軽女にはなれなかった」と片山さんは語る。だが、東京で生まれ、津軽で育ち、結婚した相手は神戸の人、というバイリンガルな感覚が逆に、「津軽」を的確にとらえさせるのかもしれない。

 「東京に帰りたいと思ったことはありませんか」と尋ねれば、「岩木山とリンゴが引き止めたんですよ」と片山さん。夫と息子は岩木山のふもとに広がる農園で、リンゴ作りに取り組む。抜群の糖度を持つ天下逸品のリンゴだ。

 「リンゴ園のおかみさん」業のかたわら、エッセーを書き、点字図書館から依頼される本を読み、テープに吹き込む「音声訳者」の仕事のこなす。彼女の愛らしい声のファンも多いのでは。

 そしてもうひとつ、十七年間続けているのが視力障害者のための料理教室。父親の死後、母が過労で倒れ、働きながら夜間の高校へ通った十代、盲学校に本の読み聞かせに行って以来、視力障害者との交流は続いている。

 「父を戦争で失い、二十一年間しゅうとを看護した経験がわたしに命の強さ、弱さ、いとおしさを教えてくれた。草や花も含めた生き物の命の貴さを伝えたい」。これからもこの地で息づく草や木やくだものが語る言葉を文字にして、全国に産地直送していくのだろう。
田舎舘村農協女性部
部長
平成6年4月9日掲載
肥後 ゑ子さん 「くよくよ暮らすより 鼻歌うたって楽しく」
  一五三a、四六`の小柄な体のどこにそんなパワーが秘められているのだろう。農閑期の冬には、土木工事の現場であらくれた男たちに交じって働く。体を動かす仕事が大好きというゑ子さんは取材の日、黄色のヘルメットに作業服といういでたちで、雪交じりの風の中碇カ関の河川敷にいた。
 この春から農協婦人部は農協女性部と名称を変えた。未婚の女性も入れるように、との配慮からだ。新生「田舎館村農協女性部部長」がゑ子さんの肩書だ。
 お歳は?と尋ねると、「わたしだっきゃ、おととしから五十五歳だと思ってたんだけど、友だちにアーレーあんた去年も五十五だったんじゃねのさって言われて調べてみたら、今年が正真正銘の五十五歳。なんか三歳も若返った気分」とよく通る大きな声で笑う。小さいことは気にしない、これが若さの秘訣らしい。

 昨年、農協と村役場とで共催して行ったイベント「田植えツアー」ではファッショナブルな農作業服で、楽しげに働く彼女の姿がひときわ目を引いた。農作業もおしゃれなものを着たいと自らデザインした。

 「農家に嫁が来ないというのは、わたしたちが悪いんだよって皆に言っているの。身ぎれいにして、楽しく農作業さねばだめ」と仲間を一喝する。そう語るだけあって、本人はいつも楽しく農作業をこなす。「ニラが採れているから、畑さ遊びに来て」が彼女の口癖。自慢のニラはゑ子さんが作った堆肥から生まれる。

 田舎館村農協女性部員は百四十人。他の地域では部員が減少しているのに、当地では増えているという。部員増加に一役買っているのが「ふれあい百円コーナー」。六月から十一月まで村道沿いに店を出し、百円コーナーの会会員八十人の農産物を販売している。

 以前は小さな小屋だったが、昨年みんなで出資して新しい店を建てた。「売れた分はそれぞれ月末に自分の口座に振り込まれるようにしたの。そうすれば自分の小遣いになって、作り手もうれしいでしょう」。口座振り込みが功を奏して、今まで農業に関心のなかった若い嫁さんたちが畑に残った野菜を夜中に袋詰めして、百円コーナーに持ってくる人も出てきた。月に二十五万円も稼ぐ人もあるという。

 仲間みんなが月十万円くらい稼げるようにしたいというのがゑ子さんの願い。そうすれば嫁さんも外に働きに行かなくても済む。みんなが楽しく農業ができるようになるのがゑ子さんの夢だ。

 昨年、突然の事故で夫を失い、ショックで涙も出なかった。その時ほど農業をやっていて良かったと思ったことはない。「くよくよ暮らしてもどうしようもない。楽しくやりたいよね」。ゑ子さんたちが作った野菜や花が百円コーナーに並ぶ日も近い。
長勝寺のガイド 平成7年9月16日掲載
須藤 きみさん 「心和む笑顔 思いやりの人」
 しばらく会わないと顔が見たくなる、きみさん(81)はそんな人だ。身内のおばあちゃんに会ったような、あったかい気持ちになる。父親が長勝寺の住職だった。数えの十八で結婚してからは津軽家の菩提寺「長勝寺の大黒」として切り盛りしてきた。
 きみさんの毎日は忙しい。講演を頼まれたり、日本赤十字の仕事をしたり、外出しない日はないほどだ。そんな中で物を大切にするきみさんの暮らしぶりには頭が下がる。「夏の間にむいたナスの皮を干しておくの。冬になったら湯で戻し、油でいためて食べればおいしいですよ」。

 
 きみさんの朝は早い。四時半には起きて、精進料理を作り出す。取材の日もぜんまいの白和え、煮物、酢の物、寒天寄せなどのおぜんが仏さまにあがっていた。そのあと壇家四百の位牌(いはい)堂の掃除をし、花を生ける。「お参りに来た人が、おぜんがあがっていて良かった、花があがっていて良かったとよろこんでもらえるようにね」と喜美子さん。

 芸術家になった気分で毎日の精進料理を作るのだと言う。「五色使って彩り美しくね。ごっつぉうっていうのは目で見てきれいでなくっちゃ駄目。鼻歌うたいながら作ります。楽しく作らないと、おいしくないでしょ」。

 人に物をあげるのが大好きだという。「ほめれば何でもあげてくるの。『これ、けらって』帯やら腰巻きまであげてきて、病気だって笑われるの。人に物食べさせるのも大好きで、人がおいしいってよろこんでくれると、なんとなくホノラっとなって」。

 きみさんの口ぐせは「これ、食べなさい」。顔を見れば、お腹すいてないか、漬物どしてらと気遣う。きみさんは四歳から十一歳まで、深浦の母親の実家で育てられた。「何となく遠慮して、食べたくても食べたいって言えない子供時代があったので、食べなさいって人に言うのが好きになっちゃったの」。

 毎晩の米とぎはきみさんの仕事。米を計る時、最後のひと盛りは大盛りにする。「多めに炊けば、誰が来てもまま食ってけって言えるでしょ。何はなくても思いやり、ですよ」。

 六十七歳で夫を亡くしてからは、三男三女の子供と助け合いながら寺を支えてきた。「文化財を守るというのは大変です。寒くても直せない。本堂も庫裏(くり)も障子一枚だけ。冬は凍みます。火の始末に一番気を遣いますね。自分の物はいいけど、国からの預かり物ですから、いつも気掛かりです」。

 にこやかなきみさんだが、昨年は辛い一年だった。弟の小館衷三さんを亡くし、百日過ぎないうちに、長男を亡くした。「小さいころからチョコレートが好きな子で、大人になってからはわたしにいつもチョコレートや飴を届けてくれて。母さんはいろんな所に講演にいくから、その時みんなにあげればいいよって。死ぬ二週間前にも病をおして口寂しい時に食べてくださいってチョコレートを買ってきてくれました」。

 今年、長勝寺の庭にチョコレート色のコスモスが咲いた。きみさんが岩木町まで行って求めてきた種から咲いたものだ。きみさんは万感を込めて「コスモスに母が涙の一雫(しずく)」という俳句を作った。

 それでも毎日楽しいですよと穏やかにほほえむきみさん。「だんだん、残りの日が少なくなってくるから一日一日大切に生きないとね。経験は大した薬になりますよ。人が嫌な事チクリと言うでしょ。あれは注射だと思っているの。人に苦いこと言われれば良薬だって思うの。そうすればア、そうかと直るでしょ」。

 「かかあって言うのは慈しみのある人のことなんですよ。えのかかあというのは尊敬語。お経ではカアカアとは慈しむ、笑うの意味なんです」。きみさんの話は尽きない。「もうじき曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花が咲きますよ。またそのころ来なさいね」。また病気が出たと笑いながら、お菓子を山ほど持たせてくれた。

フリーアナウンサー 平成6年7月9日掲載
奥村 潮さん 「人生の起伏を味わい 今は毎日感謝の日々」
 ラジオから流れる彼女の「この人とモーニング」を聴きながら、午前中のティータイムを過ごす人も多いのでは。彼女の豊かな人生観が相手の心をゆっくりとほぐし、奥に隠されたものを引き出していく。

 張りのある美声、しゃきしゃきした語り口がリスナーを魅了する。輝く目と表情がとてもチャーミングな奥村潮さんはフリーのアナウンサー。イベントの司会、CM録音、RAB、ABA、FM青森のスタジオと、毎日忙しくかけ回っている。「今でこそ人には、肩で風きってるね、なんて言われるけど、とーんでもない。昔は自信がなくて、暗い子だったのよ」と言ってケラケラ笑う。自信をつけたくて東京の大学へ行った。入学した青山学院短大で、何のクラブに入ろうかな、とのぞいた放送研究部がアナウンスとの出合いだった。

 卒業後青森放送に入社し、アナウンサーとして活躍したが四年で退社。長男の誕生がきっかけだった。だが仕事を辞めたつもりが、周りが放ってはおかなかったらしい。出産後、パーティーやイベントの司会、CMのアナウンスと次々仕事が舞い込んだ。おばあちゃんや友達が快く子守りを引き受けてくれ、仕事場へ。好むと好まざるとにかかわらずフリーアナウンサーの人生が始まった。

 「今考えるとラッキーでしたね。好きな時間に働けて、プライベートな時間も
大切にできたし。ご近所や友人のお世話になりました。でも子育てや仕事をやり抜く中でだんだん自信がついて、知らず知らずのうちにごう慢になっていったのね。私はこれだけやっているのに、どうして貴方はこうなの、なんて思うことも多かった」。

 そんな時、たまたま受けた検診で乳がんの宣告を受けた。「こんなに一生懸命頑張っていたのに、なんで病気なんかになったのって思いましたよ。でも病気を経験して、周りの人の考えや生き方を認められるよう
になった。そしたら肩の力が抜け、自分もうんと楽になったのよ」と潮さん。

 病気がきっかけとなって、相手の気持ちを思いやる心のゆとりができたのかもしれない。そういえば、以前は話をするのがじょうずな人という印象だったが、今回出会って、人の話しに耳を傾けるのがじょうずな人という印象に変わった。彼女の中で変わった部分がきっとあるのだろう。

 「三十代には戻りたくないわね。がむしゃらで一生懸命になりすぎる。四十になって体力が衰えてくると逆に余裕ができるのね。今は毎日ありがとうって気持ちよ」と笑顔がこぼれた。

 みんなを元気づけてあげられるような仕事を目指している。「一人一人がもう一歩何かしたら街も人ももっと変わることができる。私は何か頼まれて、やるか、やらないか、どうしようと迷ったら、やることにしているの。安全パイは取らない。やって失敗したらそれだっていいじゃない。もっと恥をかきましょうよ」。弾けるような笑顔がまぶしかった。
ホテル「グランメール」山海荘総支配人 平成11年2月20日掲載
杉澤 むつ子さん 「女性の視点生かし 安らぎのホテルに」
 鰺ケ沢町を見下ろす高台に二十日、グランドオープンするホテル「グランメール」。ラウンジに座ってホットミルクを飲めば、まるで大きな海を独り占めしたような気分。「この広い海をみなさんに見ていただきたくて、ここにホテルを建てたのよ」と総支配人の杉澤むつ子さん(49)。

 晴れやかな笑顔のむつ子さんに館内を案内してもらった。玄関には百年前の大きな英国製の鏡とアームチェア。ロビーにもしょうしゃな手回しミシン、古い時計などクラシカルな家具が並ぶ。「このホテルのイメージは和の生活に洋の文化が入ってきた、明治、大正時代の雰囲気。鰺ケ沢は津軽藩の御用港としていち早く文化が入って来た土地柄。そんな活気ある空気を伝えられたらいいわね」

 館内はむつ子さんの女性ならではの視点が生かされている。県内のホテルでは珍しい全身海草パックを施してもらえるエステルームを備えたり、男風呂、女風呂といった名称はなく、洋風、和風の二つの風呂が時間帯で男女交代するシステム。車椅子で来館できるよう、段差のないバリアフリーの部屋も用意した。

 海は時間帯によってその色を変える。真下に見える浜辺には白いレースのような波が打ち寄せる。「ゆっくりと二、三日泊まってもらえる施設にしたかったの。ここを拠点に津軽一円を見てもらえたらいいですよね」。部屋からは出来島海岸、七里長浜、権現崎まで美しい海岸線を見通すことができる。夏には目の前の海にじゅっと音をたてるように、夕陽が沈むという。

 「毎朝、ここに来るたびにまず海を見ます。大島、小島、北海道は見えるかなって」。にこやかに笑うむつ子さんだが、鰺ケ沢の住人になった二十五年前には、この海が大嫌いだったという。

 むつ子さんは木造町の生まれ。法律の勉強をしていた慶祐さんと東京で知り合い、結婚。東京でサラリーマンの妻として暮らしていたが、父母の経営していた山海荘を継ぐことになった慶祐さんにくっついて、鰺ケ沢町にやって来た。

 「昭和五十年当時の鰺ケ沢には、コーヒーを飲むところもなかった。家族で食事する場所もないし、ここは自分でやるしかないんだと思った。これがわたしのエネルギーのもとかな」

 旅館業は全く未経験のむつ子さんだったが、山海荘の向いに喫茶店を作ったのを手始めに、女将(おかみ)道をばく進してきた。「若くて、何も知らないっていいことよね。本当に怖いもの知らず」。三人の男の子の子育てもきちんとこなし、山海荘、水軍の宿、そしてホテルグランメールの女将業をこなすむつ子さんは有能なキャリアウーマンだ。

 「主婦業だけやるより、ずっと楽しかった。仕事を通して世の中と接して、いろいろな人と出会えたのが何より」と言うむつ子さんは、暇だと逆に体調を崩すという根っからの仕事人。寂しくて嫌いだった海が今ではむつ子さんにとって、大きな支えだ。

 「海があって、山があって、川があって、釣りもスキーも海水浴もできる鰺ケ沢は本当に恵まれた土地。西海岸にはダイヤモンドの原石がごろごろ転がっていると思う。キラキラにしなくてもいいから、少し磨けばもっと輝く。楽しみながら、この仕事をしていきたいわね」

 鰺ケ沢の人にも気軽にコーヒーや食事に来てほしいというのがむつ子さんの願い。地元の人に鰺ケ沢のいいところを再確認してもらいたいと、そう思っている。

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