小堀綜合鉄工所工場長(鉄筋工)
平成8年6月22日
鈴木 末子さん 「鉄骨にほれ込み 男に交じり溶接」
  鉄板を切るけたたましい音が工場内に響く。鉄粉が宙を舞う。「三Kどころか五Kの仕事。でも自分がやらなければ誰かがやらなくてはいけない。五Kだって自分が楽しくやれればそれでいいんだね」。ざっくばらんで前向きな末子さん(45)は職場の花。「ちょっと歳いった花だけど、現場さ行けばどこでもマドンナってしゃべられるのよ」と明るい。

 十九歳からこの仕事を始めた。キャリア二十五年、筋がね入りの鉄筋工だ。具合の悪い時でも鉄骨を見ると元気が出るという末子さん。ぞっこん鉄骨にほれている。溶接工の資格も持つ末子さんは男性に交じって足場に登る。弘前市土手町の中三の屋上にあるコウンも命綱を付けて溶接した。「そりゃおっかないよ。でも仕事だからしょうがないっきゃ。コウンを見る度、あれ自分がやったんだと思うと満足」

 昨年九月、最愛の夫隆さんを亡くした。隆さんも仕事熱心な人だった。亡くなる当日まで、工場のこと、仕事を気にして末子さんに仕事場に戻るように言ったという。末子さんは時々、ダイエー弘前店に隆さんと末子さんが溶接した手すりを眺めに行く。それが隆さんの最後の仕事だった。

 末子さんは二十二歳の時、同じ工場で働く隆さんと結婚。以来ずっと工場で共働きを続けてきた。息子の浩一さんね13も小学生のころから日曜日になると、ネジを切ったり一緒に手伝ってきた。「父さんと母さん、こんなきたない格好で働いてて、嫌じゃないかって息子に聞いたことがあるの。せば、一生懸命働いている姿、かっこいいって言ってくれたの」とうれしそうに話してくれた。

 総合鉄工所の名の通り、工場では頼まれれば何でも作る。末子さんも何でもやる。「全部見よう見まね。誰かにやれることが自分にできないことはないと思うの」。今はリンゴ冷蔵庫の骨組みに取り組んでいる。現場に行けば「おかー、また行き合ったな」と仲間から声が掛かる。男ばかりの仕事場だ。今でも初めての現場に行くと、「なんで女が来るのよ」という顔をされる。だが、仕事を始めれば、男たちも黙る。「仕事では誰にも文句は言わせない。次からはあの人来させてって言ってもらえるとうれしっきゃ」

 仕事に関しては鬼、と言われている。納得がいくまでやらないと気が済まない。自分で決めたノルマが終わらないと休みも返上して仕上げる。雨の日はカッパを着て、真冬は吹雪の中、鉄骨を組み立てる。「女だはんで力が足りない分、全身で鉄骨を受け止めねばまいねの。夕方になると、上から下までどろどろ。でもこの仕事が大好き」と笑顔を絶やさない。

 「笑っても泣いてもどうせ一日なら、楽しく笑って仕事をしよう」が末子さんのモットー。この春高校を出て工場にやって来た新卒のジュンちゃんにも、楽しくやろうねと声を掛ける。「たった一人の女だからと周りから大事にしてもらってここまでやってこれたんだと思う。わたしにはこれしかないんだわ。夢は死ぬまで働くこと。体が続く
限り働くこと、それだけ」。末子さんのバイタリティに脱帽。
「なりや温泉」の女将  平成6年10月1日
成田 ミサさん 「心に安らぎを与える 湯治場のお母さん」
 碇ケ関温泉郷のひとつ、湯の沢温泉。緑に包まれた「なりや温泉」は湯治の宿として大正の末からにぎわってきた。館内に一歩入ると硫黄の匂いがまとわりつき、昔ながらの客舎といった雰囲気だ。ここの女将(おかみ)が成田ミサさん。「きょうは何回入ったの? 」。歯切れいい声が響き、お客さんとのやりとりが小気味いい。
 「最初はね、恥ずかしくていらっしゃいませも大きな声でいえなかったんですよ」と笑う。十九歳で大鰐の歯科医師に嫁いだが、たまたま夫の実家が温泉を経営していた。従順な若い嫁は、いつの間にか旅館の女将になっていた。大鰐から県境の温泉まで毎日通って、三十五年になる。

 当時、使用人は十五人もいて、みんな年上だった。「最初は何も分からないから、茶の間の延長で帳場に座ってました。ばかにされましたよ。でもキーとなる性格じゃないし。何か言ってくれる人の方が有り難いの」。

 近くの川がはんらんし、最初の五年で三回も水害にあった。「浸水しても火事よりはいいなって思いました。埋まったものは掘り返せばいいし、床は洗えばいいし、畳は全部替えればいい」。

 こんなミサさんを慕って県内外からたくさんの湯治客がやって来た。「女将というのは湯治客にとって母親役。下宿のおばさんみたいなもの」とミサさん。病気の相談や時には心のカウンセリングも引き受ける。

 「飽きるまでいていいよ」と温泉に置いていかれた老人たちは家族に見捨てられたようで寂しい思いをする人が多い。時々電話してあげてねと置いていく人に声を掛ける。廊下ですれ違うときも一声掛けて、心細い思いをしないようにと気遣う。

 湯治客相手の温泉は県内でももう数少ない。「入浴して、自炊して泊まって二千五百円。経営は大変ですよ。いつまで持ちこたえるかって感じですね。でも毎年忘れずに来てくれるお客さんがいてくれるから、ここまでやってこれたんです」。安らぎを求めてやって来る湯治客にとって、ミサさんの笑顔が何よりの薬なのだろう。

 神戸で歯科医を営む長男はバリバリのキャリアウーマンと結婚した。それが不思議とミサさんは言う。「母親を見て育って、働く女はダメ、専業主婦の女性と結婚するとばかり思っていたのに」と笑う。その子が三歳のとき「水害でなりやが流れちゃえば良かった。そしたらママが帰って来てくれたのに」と言った言葉が胸に残る。「自分だけでやってきたんだって思うのはごう慢。家族やみんなに協力してもらってやってこれたんだと思います」。

 ボケない限り、寝込まない限り女将を続けていくというミサさん。昔ながらの湯治場のよさを守りながら、ミサさんの笑顔が「なりや」を支えていく。

ホテル「松園」女将  平成7年4月29日
田中 久美子さん 「一人三役キリリと 心に残るもてなし」
  「ステキな女将(おかみ)さんだから会ってみて」の声に誘われて、浅虫温泉駅に降り立った。陸奥湾には柔らかい春の雨が降っていた。海に沿って二、三分歩くと「松園」はある。 館内を散策すると、そこここに県内作家の絵画や彫刻、版画が飾ってある。海の見える茶房のテーブルには白と藤色の二輪草。いたるところに女性の気遣いが感じられる。一体どんな女将さんだろう? 薄いピンクの着物姿で現れた久美子さんはまるで桜の化身のようなあでやかな女性。
 「初めは女将になる気はなかったんです。でも運命でしょうね。やれるんだ、やれるんだと自分に言いきかせながらここまでやってきました」。

 久美子さんは浅虫温泉の旅館の一人娘として育ったが、「女将には絶対になりたくなかった。いつもお客さんがいて、家の中にプライバシーがないんですから。普通の家庭、普通の結婚にあこがれ、普通の奥さんになりたかった」と笑う。実践女子大の国文科を出た久美子さんはRABに入社したが、アナウンサーとして研修を受けただけで、結婚。「まるで給料泥棒よね。幻のアナウンサーと言われています」。

 幼なじみだった夫の康文さんは当時、東北大医学部の学生だった。「憧れだった普通の生活がやっと始められたんです。貧しいながらも楽しい我が家でしたね」と仙台での暮らしを振り返える。だがそんな暮らしも康文さんの癌(がん)の発病で崩れてしまう。一年間の闘病生活の末、康文さんは三十四歳で亡くなる。三歳、七歳、九歳の子供と久美子さんが残された。

 久美子さんが浅虫の実家に帰り、女将になって十年になる。子供たちは康文さんが泳いだ海で泳ぎ、野原で遊び、康文さんの母校の小学校に通って大きくなった。

 久美子さんはとにかく忙しい。取材中も、食事の最中にもひっきりなしに来客があり、電話が掛かってくる。いつもこんなですか?と尋ねると「いつもこう」と穏やかな笑顔が返ってくる。「本当は三つ自分がほしいですね。商売に徹する自分と母親としての自分。そして本当のわたしと」。

 女将業の楽しさは思うようにプロデユースできるところ。久美子さんは二年前、館内にギャラリー「天の川」を作った。そこには久美子さんが好きで集めた絵画や陶芸作品が並んでいる。ここでピアノや弦楽四重奏のコンサート、源氏物語を読む会、県内の画家や書家、陶芸家の作品展も開いてきた。年に一度、県内でも珍しい邦楽のコンサートも行っている。

 「お酒を飲みながら、絵や陶芸を楽しんでもらいたくて。日常から離れた空間を提供したい。初めていらした県外のお客様に、青森の浅虫っていいなと心に残してもらえたらいいですね」

 久美子さんが一人の女性に戻れるのは日本舞踊を舞っている時だという。四歳からずっと踊りを続けてきた。一昨年は中学生になった娘さんと一緒に舞台立った。「普段忙しい母親ですから、趣味を通じて娘と会話してきました。娘に女将を継いでほしいけれど、きっとわたしがそうだったように娘も普通の暮らしに憧れるんでしょうね」。母親として、女将として、女性としてそれぞれの自分をしっかりと生きる久美子さん。女の顔はひとつじゃない。

青森コンパニオンクラブ会長  平成7年10月7日
松野 ミツさん 「仕事に誇りを持ち 青森へようこそ」
  きりっとした表情、短い髪。宝塚の男役といった雰囲気だ。そう言うと「小さい時から女ボスで、男の子を手下にしていたの。小学校のあだ名はマダムと女王蜂だったのよ」と豪快な返事が返ってきた。

 松野さんが青森コンパニオンクラブを設立して十三年、会長としてスタッフ百三十人の陣頭指揮を取ってきた。県内外、外国からの客人、時には天皇家の接待も引き受ける。「今でこそコンパニオンの仕事も社会的に認められてきましたが、最初は酌婦(しゃくふ)とさげすまれたり、罵倒(ばとう)されたこともありました」。
 松野さんは東北女子短大を卒業後、公立金木病院で栄養士として働いていた。きのうベッドで笑っていた人がきょう亡くなるのを見、人の一生は短いと思ったと松野さん。「悔いのない生き方をしたい、何か探そうと考えたんです」。

 あるパーティに出席した松野さんは、パーティを手伝う女性のグループを作ったらどうだろうと考え、「これだ」と即実行。昭和五十七年に青森コンパニオンクラブを作った。最初はお母さんの猛反対に遇ったという。だが松野さんの話を聞いたお父さんは新しい事業として認めてくれ、『お前なら出来る』と言ってくれた。その時は本当にうれしかったと振り返る。

 電話一台を近くの洗濯屋さんに置かせてもらっての出発。松野さん自身水割りの作り方、ビールの注ぎ方も知らなかったので、ホテルの宴会部長に習いながら、スタッフ四人でスタートした。「最初はスタッフも親には内緒という人が多かったんです。でも人に隠れてする仕事じゃない、プライドを持とうといつも話してきました」。

 青森コンパニオンクラブの女性にはみんなリンゴの名前が付いている。松野さんのネームは「世界一」。「わたし、体格大きいでしょ。だから世界一。リンゴの化身となって頑張っていこうと思って名付けました。松野ミツという名は忘れても、世界一は覚えてもらえます。世界一、元気かって声かけられるとうれしいですね」。

 松野さんはテレビ、新聞はもちろん、ベストセラーの本、話題の映画は必ず見る。出版記念のパーティに出る時は、その人の本に目を通し、和歌の会のパーティでは和歌の勉強をしてから仕事に臨む。「スタッフにも、学歴は必要ないけど、教養は高めておきなさいと話しています」。

 石橋をたたかずに渡るたち、だから体中あざだらけだと笑う松野さん。「なよっとしていては世の中渡っていけません。それなりの覚悟で始めた仕事です。男になったつもりで頑張ってきました」。松野さんの覚悟の程を示すように、茶室の壁に職責順位が張ってあった。大元帥はお客様、元帥が各ホテル様、大将松野ミツ、以下中将、少将と続く。

 松野さんの夢はコンパニオンという職業を宝塚のようにしたいのだという。「宝塚も最初は温泉場の前座でした。この仕事に就いた人がマナー、教養を身に付け、この仕事をしていたことを誇りに思えるようにしたいですね。女でも頑張れば何でもできると若い人が夢を持てるようにしたい」。

 キラキラとした笑顔がチャーミングな松野さん。この笑顔で自分の運命を切り開いてきたのだ思った。
シティ弘前ホテル営業チーフ 平成8年3月30日
立原 てつ子さん 「個性生かした演出企画女性の感性で式に彩り」
  春は結婚のシーズン。近年、ホテルで結婚式を挙げる人が増えていると聞く。一生に一度の晴れ舞台をいかにその人らしく演出するかが営業マンの腕の見せどころ。弘前駅前にある弘前シティホテルで働く立原てつ子さん(46)もそんな営業マンの一人。三人の男の子を育て上げたベテランママでもある。
 紺のスーツ、ノーメイクの素顔が若々しい。飾りのない笑顔と率直な人柄がこの人の持ち味だろう。花嫁のイメージに合ったテーブルフラワー、コサージュ、席次表の色を選ぶなど女性の感性で式場の雰囲気を彩っていく。

 てきぱきとした対応からかなりのベテランと思いきや、本人は「とんでもない。社会人としてスタートを切ったのが三十四歳。それまではのんびりした専業主婦だったんですよ」と笑う。

 立原さんは弘前中央高校を卒業後、十九歳で結婚。東京、名古屋、新潟、福岡と夫の転勤で全国を回った。その間三人の子をもうけたが三十四歳で離婚。中学一年、小学校五年、二歳の子を連れて冬の弘前に戻った。「知らない土地で暮らせば後ろ指刺されることもなかったんでしょうが、わたしはやっぱり津軽に帰ってきたかったんです」と話すてつ子さんだが、風当たりは思いの他、強かったという。

 男の人と話をしただけでうわさになったり、社会に出て働くのだからと化粧をすれば、恋人ができたのではないかとからかわれた。「その時から化粧は全くしない主義」とてつ子さんは徹底している。

 社会人一年生となったてつ子さんを支えたのは当時中学生だった長男の弘樹さんね25と小学生だった秀実さんね22の二人。幼い弟の世話、食事作りなど文句も言わずにやってくれた。ホテルの仕事は時間通りには終わらない。土曜、日曜もない。結婚式の準備で遅くなったてつ子さんを心配し、弘樹さんと秀実さんは会社まで何度も自転車で迎えに来た。

 疲労から、気付いた時は病院のベッドの上ということも何度かあった。「ミスしちゃいけない。まちがっちゃいけないと肩に力が入り、気負いが出た時期もありました」と振り返る。すべてに体当たりで臨み、気が強い女だと思われたこともあったという。

 シティ弘前ホテルに入社したのは三十八歳の時。スタッフ最年長の女性だった。社内でてつ子さんは「かあさん」と呼ばれている。「歳上で、人より長く生きてきた分、それを仕事に活かしたい」とてつ子さんは言う。

 新郎、新婦の母親から見込まれて、悩みを相談されることも多い。式について気掛かりになった親から明け方の四時、五時に電話が掛かり、打合せをしたこともある。「マニュアル通りにやるのなら、シティ弘前ホテルで結婚式を挙げ、わたしが担当する意味がありません。どんなに苦労しても、いい披露宴だったという一言がすべてを忘れさせてくれます」

 今一番うれしいのは長男、次男の友人たちが立原さんの働くホテルで式を挙げたいと言ってくれること。「子供たちが友達にわたしがここで働いていることを隠さずに話し、ここで働いていることを誇りに思っていてくれることが何よりもうれしい」と言う。二人の子はそれぞれ独立し、三男瑞穂君はこの春高校生になる。これから自らの人生を生きるてつ子さん。女性ならではの柔らかさでこれかもさまざまな人の人生最良の日を演出していくことだろう。
社会福祉法人弘前愛成園理事長 平成10年3月28日
三浦 昭子さん 「受け手の視点大切に 祖父の思い引き継ぐ」
  養護施設「弘前愛成園」の中に入ると、小さな子供たちがワーッと集まってきた。「先生」「昭子先生」「このお客さんはだあれ? 」
 にこにこ顔が近づき、小さな手がいっぱい伸びてきた。「みんなお客様が大好きなの。よその方に触れるのがすごくうれしい。施設の子供たちは皆愛情に触れたがっているんです」。愛成園には事情があって親と生活できない一歳から高校三年生までの子供たち約八十人が暮らしている。
 部屋には小さなベッドが六つ。小学生の部屋には二段ベッドときちんと整とんされたロッカーが整然と並ぶ。ここが子供たちのアットホーム。小学生、中学生、高校生はここからそれぞれの学校に通う。 三浦昭子さん(59)は弘前愛成園、養護老人ホーム「弘前温清園」、特別養護老人ホーム「弘前静光園」、「花園保育園」などの施設を持つ社会福祉法人「弘前愛成園」の理事長として忙しい毎日を送る。

 「戦後の混乱期、父も母も戦災孤児の世話に懸命でした。だからわたしも施設の中で孤児と一緒に大きくなった。みんながひとつの家族という感じで、今思うと不思議な環境でしたね」。ふわっとした笑顔が魅力的な女性だ。

 昭子さんは満州生まれ。一九四六(昭和二十一)年、両親と共に弘前へ引き揚げてきた。「弘前愛成園」は九十六年前、昭子さんの祖父佐々木五三郎さんが「東北育児院」として創立。戦後、昭子さんの父親昌武さんが理事長として施設の経営に当たってきた。「職員も一緒に寝泊まりして、皆一生懸命だった。母は全体のお母さん役でしたから、わたしに特別のことをしてくれたという思い出はありません。入学式や卒業式も出てはくれなかった。でもほかの子は親がなかったから、親には甘えられないぞとわたしも子供心に思っていました」

 当時の生活が理事長となった今も昭子さんの心の中に生きている。少ない物でもみんなで分け合った生活。アメリカから届くチーズ、チョコレート、乾燥果物などの「ララ物資」をみんなで興奮して食べたこと。「園内で豚や馬、羊を飼い、イチゴを育てたり、施設の中で育ったからこその、楽しいことも味わった。貧しかったけど、心豊かな生活だった。ここの子供たちにもいろんな経験を与えてあげたいなって思うの」

 昭子さんが大切にしているのは受けて側の視点。自分の子だったら、自分の親だったら。「プロとして勉強したわけじゃないから、素人の目を忘れたくない」とにこやかに話す。「父や祖父の頑張ってきたものをつぶせない」と跡を継いだが、大変なことを引き受けたなという思いもある。だが「一緒に育った子たちも各地で頑張っている。わたしもめげずにしっかりしなきゃね」と常に前向き。

 プライベートでは弘前高校の同期会「三三会」の会長を務めるなどの人気者。「お酒ならなんでもOK」という豪快な一面も持つ。毎日、入院中の父親を見舞ってから登園する。施設内の老人の寂しさやつらさが八十五歳になる父親の姿と重なる。「自分のこととして考えないと分からないこともある。やっと老人までたどり着きました。入っている人にとって何が本当に幸せか、楽しいか。これからも考えていきたい」。

 温清園のお年寄りにもう少し広いスペースをあげることができたら。休日、愛成園の子供たちに家庭の雰囲気を味合わせてくれるボランティアの人がもう少しいてくれたなら。施設の人と外部の人が交流できるサロンのようなものを作りたい。昭子さんの思いは膨らむばかりだ。
ホール&ギャラリー 平成10年11月14日
高橋 幸子さん 「光と風がキーワード いやしと安らぎの空間」
  弘前市安原三丁目に十月、不思議な建物が出現した。黒い板に包まれ、屋根には銀色の囲い。回りに築かれた土手には小さな木々が息づいている。

 「光と風にあふれた空間。自分自身がいやされる場所が作りたかったんです」。その不思議な印象の建物は貸しホール。「使い方は限定しません。自由に好きなように使ってほしい」とオーナーの高橋幸子さんは話す。

 ホールに足を踏み入れてみた。朝の光が高窓から差し込み、ホール全体が優しいミルク色に包まれている。「夕暮れ時、夜。それぞれに表情を変えて、この空間は人の心をいやしてくれます」。「いやし」という言葉が幸子さんの口から何度となく出る。このホールのテーマは「いやし」。「昼間は光と風、夜は星や宇宙に包まれる。いつも自然を感じられる場所がほしいとこのホールを作りました」

 幸子さんは昨年六月、夫の勇夫さんね61をがんで失った。たった半年の闘病生活で勇夫は逝った。一切の後片付けが終わったあと、幸子さんはうつ病になった。だれとも会いたくない、口もききたくない。「いやされたいと切実に思いました。自分自身がいやされたい。居心地のいい空間を作ろう。わたしがいやされる場所ならば、人もいやされるだろうって」

 この土地は将来、勇夫さんと共に住もうと購入していた場所だった。それが叶(かな)わない夢となった今、いやしの場としてみんなに愛される空間を提供したいというのが幸子さんの願いだ。

 コンクリートとしっくいで塗られた落ち着いた色調の壁と木とを組み合わせたざん新なスペースだが目に優しい。百三十九平方・の空間はコンサートにも適するようにドーム型になっている。「今の時代は小さな子供からお年寄りまでピーンと張り詰めて生きている。いろんなひずみがいつか爆発する。爆発する前に自分を精一杯表現してほしい。自分を取り戻せる空間、自分を大事にしようと思える空間として自由に使ってほしいんです」

 幸子さんの話を聞いていて、たとえばここで仲間を呼んで、六十歳の誕生パーティーを開いたり、今まで描きためた絵や書き続けた詩を披露してみたりするのもいいなと思えてきた。頑張って生きている自分自身へのごほうびとして。そんなこともたまにはいい。

 一日のオープンに先立ち、十月二十四日、記念コンサートとして左手のピアニスト中島章雄さんの演奏が行われた。数年前、中島さんのことを新聞記事で知った幸子さんは、いつかこのピアニストと出会いたいと思っていたという。芸大在学中に発病。右半身にまひが残り、ピアノから遠ざかっていた中島さんは十八年後、左手のピアニストとしてよみがえる。

 左手のみでトロイメライを演奏する中島さんと、十年前に心臓病から右半身まひになり、懸命なリハビリで今は自立した生活を送る娘の佳子さんね22の姿が幸子さんの中で重なって見えたのかもしれない。

 幸子さんの夢はアドヴェントヒルズを森に包まれたホールにすること。今はまだ小さな木々がやがて大きく成長し、森になる日を夢見る。数年後、森の中のホール、光と風に包まれたアドヴェントヒルズは人々のいやしのスペースとして大きな存在になっているかもしれない。目を上げると、午後のオレンジ色の光がホールの天井で軽やかに戯れていた。
BARクロンボのママ 平成10年10月10日
桜田 節子さん 「"クロンボ"が人生の伴りょ笑顔で人をくつろがせる」
  「バー・クロンボと結婚して四十五年って感じかしら。クロンボはわたしの主人みたいなものね」 高窓にはめ込まれたステンドグラスから午後の光が差し込む薄暗い店内。重厚なカウンターの内側に立ち、桜田節子さん(67)は「そうなのよ」というようにゆっくりと笑って見せた。
 化粧っけの全くない顔にマダム風の大きなメガネ。紺のブレザーにブルーのストライプのシャツが細身の節子さんを一層シャープに見せる。バーのママというより学校の先生のような印象に一瞬めんくらった。

 弘前で一番古いバー・クロンボ。バーの草分け的存在として弘前で親しまれている。「水商売って昔は人から後ろ指さされたものですよ。でもわたしは自分の仕事に、とても誇りを持っています」。よく通る声で一言、一言丁寧に話す節子さん。開店当時のことを一人語りしてくれた。

 一九五三年、バー・クロンボはオープンした。当時の弘前にはバーと呼ばれる店は一軒もなかったという。舶来のお酒がずらりと並ぶ棚。一枚板の重厚なカウンター。ハイカラなステンドグラス。むくの重たい玄関のドア。店内はそのまま昭和の時代にタイムスリップする。

 「ウイスキーを炭酸で割ったハイボールが当時のはやり。コークハイやジンフィーズ。みんな競って頼んだものね」。サントリーの白のシングルが四十円。ダブルが八十円の時代だった。目屋の尾太鉱山からは話に聞いたバーを見るためにたくさんの鉱山労働者が来店したという。

 節子さんの生まれは青森市。小さなころは「お嬢さん」として大切に育てられた。女学校を出てから、実業家だった父親が亡くなった。「六人姉妹の長女だから、父が亡くなって何か始めなくてはって考えたの。資金がなくても始められる商売って思った時、バーを開く決心をしました」。二十二歳の時だった。

 妹たちの面倒を見るために苦労したのでは、と想像に難くないが本人は詳しくは語らない。ただ一言、「若いころは近所の人にもいや味を言われて泣いたものね」。そんなこともあったわねと笑って振り返ることのできる年齢になったのだろう。

 今の歳まで独身で通した。恋は? と尋ねると「そりゃいろいろありましたよ。でもうちの母がいい母だったの。嫁に行くのなら、母も一緒に連れていければいいなと思っていた。母がとても大事だった。母がいたから朝早く起きて、ご飯を食べて、朝九時っていえば洗濯物が干してある普通の生活ができたんですね」

 いいものを見せてあげると一枚の写真を見せてくれた。かわいい女の子が四人、写っている。「これはわたしの孫。今は孫と遊ぶのが何よりも楽しみ」と穏やかな笑顔を見せる。独身を通した節子さんだが、三十二歳の時から妹の子を実子として育ててきた。「娘を育てているときは無我夢中。孫を見ると、子供ってこういう風に育ってきたんだなって楽しくて仕方ないの」と幸せそうな表情で顔をほころばせた。

 「基本は笑顔。お客様がくつろぎに来る社交場なんだから笑顔で殿方をくつろがせないとね」。バー・クロンボのママとしての顔と穏やかな「おばあちゃん」としての顔。どちらも節子さんの飾り気のない素顔だ。「死ぬまでクロンボと一緒に頑張るわよ」。屋根をぬらす雨音が店内をそっと包み込んだ。 

俳人 平成11年3月20日
小野 寿子さん 「しなやかで歯ごたえ十分おちゃめな津軽女ここに」
 

俳句仲間では「寿子さま」で通っている。句会での寿子さんの、ちくりと辛口の批評が快感だという人も多い。長い髪を三つ網にし、頭の上で結った髪型が寿子さんのトレードマーク。お茶目でおきゃんで、うれしい時は本当に嬉しそうに振る舞う、少女のような人だ。
 
 寿子さんは現在、NHK文化センター弘前教室で「日曜俳句」の講座を持つ。病の中で俳句を作り続ける人、「ボケ防止」と言いながら楽しく俳句する人。さまざまな「日曜俳人」との出会いが寿子さん自身、楽しくて仕方がない様子だ。

 寿子さんは昨年の正月から夫の亥留馬さんと二人で、一日一句を始めた。カレンダーの余白に毎日、その日の出来事や気分を俳句でつづる。「日記がわり」と寿子さん。

 ある日の俳句カレンダーから。「けふもまたきんぴらごぼう外は雪」、「ますらおの作りしカレーや雪やこんこん」

 これは寿子さんが東京に出掛けた留守の味気なさを、亥留馬さんが作句したもの。対して寿子さんの俳句は「羊かんの厚めは夫に雪降る夜」

 夫婦二人の、こんな穏やかな生活は今だからこそ。敏腕記者だった亥留馬さんは、朝家を出ればそれっきり。「あんまり夫が家にいないので、わたしのことを未亡人だと思っていた人もいたくらい」と寿子さんは笑う。そんな忙しい新聞記者の夫を一番理解し、助けてきたのが寿子さんだろう。二人を結びつけたのも新聞だったのだから。

 寿子さんは金木町の生まれ。下宿しながら通った弘前中央高校で、新聞作りと出会う。「わたし、新聞記者になりたかったの。その前は眼科医。当時、金木はトラホームが多くて、母もいつも目を病んでいた。だから眼科の医者になりたかったの」。

 高校卒業後、新聞社を受験したこともある。「女性はだれも採用にならなくて、とてもくやしかった。時代が早かったのね。そうでなかったら、わたし絶対新聞記者になってたわよ。なんでも乗るし、ちゃかしだし、いいジャーナリストになってたかもね」と楽しそうに笑う。

 二十三歳の時、高校で新聞部の仲間だった亥留馬さんと結婚。「そこが人生の分岐点。記者も医者も諦めたのは亥留馬との出会いが大きかった。でもこれで良かったんでしょうね」と寿子さんは言う。

 一九七八年、寿子さんは日本ジョンソン社が企画した「ジョンソン奥様使節団」として半月間、アメリカにホームステイを経験する。全国から約四千人が応募し、十五人が選ばれた。「それからわたしの考え方が変わりました。福祉、ボランティアについてアメリカで実感しました」

 国際障害者年に青森市で「われらにんげんコンサート」を開いたり、使節団の仲間たちと東京でバザーを企画し、収益金をポーランドに建てられた日本美術技術センター設立のための募金にしたり。使節団の女性たちは今も全国各地で活躍中だという。その仲間たちとは今も旧交を温める。

 どこへでもはんなりとした着物姿で、ものおじせず出かけていく社交的な寿子さん。金木の女性のイメージはじっと耐えるタイプを想像しちゃうけど、と言えば「耐えてはきましたよ。じっと耐えながら、いろいろやってきたのよ」とあくまで陽気。

 いるだけで回りを明るくする寿子さんはどこでも引っ張りだこ。現在は「あおもり米レディ」に任命され、県産米つがるロマンの応援団としてPRに活躍中。しなやかな中にしんのある、歯応え充分な津軽女ここにあり。
 


 弘前モータースクール
     技能指導員

平成6年10月4日

米田 安希子さん

「教習生の気持ちに寄り添い運転の楽しさを伝える」

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  「冬場はやっぱり怖いですよ。教習する人に命を預けているようなものですね』。こう話すのは米田安希子さん。弘前モータースクールの技能指導員になって3年半になる。

 にこやかに話すが、去年の冬は教習中を無理に追い越そうとした後続車が滑っで転倒し、事故に巻き込まれそうになった。
「アーッもう死ぬ」と本当にそう思ったという。

 教習所の先生と聞いてなんとなくシャキシャキしたタイプを想像していたが、物静かでじっくり考えなから話してくれる。
「エンジンがかかるまでは時間かかかるけれど、いったんかかるとワーッと走るタイプ」と自己分析する。

 指導員になろうと決心した時もそうだった。パートで働きながら、女手ひとつで二人の子を育てていた安希子さんは「女性指導員募集」の記事を新聞でみつけ熟考した後、履歴書を郵送した。「日曜日、祭日が休みで、正社員になれるというのが一番の魅力でしたね。しっかりした仕事に就きたいというのが願いでしたから」。

 「面接の時、賃金のことばかり聞いていたと今でも笑い話になるんですよ」と安希子さん。若い受験生が多い中、最年長の安希子さんは入社試験に見事に合格。が、それからが大変だった。

 実地試験に備えての運転の練習、法令などの教科、指導法などを必死で勉強」た。「30過ぎてからの勉強はひと苦労でした。覚えるのに時間がかかる。
人の倍以上やらないとついていけなくて。夜中に起きて朝方までやったり、生れて一番勉強したのがこの時でしたね」と笑う。

そしてこの時の経験が指導員になった今、とても役に立っている。年配の教習生の気持ちが手にとるように分かる。だから教習に手間取った人が免許が取れたと報告に来てくれるのが何よりも嬉しい。そんな時はやっていて良かったと心から思うと言う。

 悲しいのは「女には教えられないだろう。女には注意されたくない」などと言われる時。
若い男の人に多いという。そういう男の子に会うと悲しくなる。

 安希子さんの朝は早い。5時には起きて中学生の子のお弁当と朝食と遅番の日は夕食まで用意する。きょうは遅番ですか? 朝、夕飯用に中華丼を作ってきました。温めて子供2人で食べていると思います。子供を一人前にするまで、私も頑張らないとね」。

 最後の教習の時、「無理はしないで。事故を起こさないでね」と教習生に話すという安希子さん。頼れるお姉さんといった雰囲気が教習生に人気の秘密かもしれない。

 
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