小鼓奏者
平成6年6月25日
角田 きみ江さん
(望月太賀君)
「常に心は無我の境地 雅びやかな音を追及」
 ポンポンポポーンと高く澄んだ音色が部屋に響いた。背筋をぴんと伸ばし、鼓を打つ額に汗が浮かぶ。

 角田君江さん、県内でも珍しい小鼓奏者だ。二十七日には歌舞伎座で行われる望月流宗家家元の襲名披露演奏会で鼓を打つ。「大きな舞台で演奏するのは楽しみです。小さいころ、嫌だ嫌だといいながらも習っておいて本当に良かった」と笑顔を見せる。

 君江さんは生粋の弘前っ子。ゆったりと話す君江さんの津軽弁は「ネハー」という響きが雅(みや)びだ。

 君江さんが鼓と出合ったのは六歳の六月。そのころ城下町弘前では、女の子は六歳の六月に習い事を始めたという。君江さんも母に連れられ踊り、三味線、長唄そして鼓と毎日稽古(けいこ)に通った。休みは日曜日だけ。「時々ずる休みをして、お師匠さんから連絡を受けた母にしかられましたよ」といたずらっぽい目で笑った。

 そんな幸せな少女時代も戦争が始まって一変した。食べるにも困難な時代となって、鼓を打つことはできなくなった。鼓は油紙で大切に包まれ、防空壕(ごう)の奥に隠された。

 戦後の混乱がおさまったころ、新進の洋画家だった和志郎さんと結婚。一男二女をもうけた。三人目の子が二歳になった時、もう一度鼓を打ちたいという思いにかられ、練習を再開した。十年のブランクは苦しかった。「思うように手が動かず、音も出なかった」と君江さん。元に戻るのに二年かかった。三十九歳で名取りとなり、現在は自宅で教室を開いている。 鼓は“どよっ”と曇った日ほど音がいいという。湿気が音を良くするのだそうだ。「からっとした外国で演奏すればいい音は出ません」。

 鼓の皮に調子紙という和紙を小さく裂いて張り、つばをつける。紙に息を吹きかけ鼓に湿気を入れながら、音の調子をみていく。勘と経験が頼りだ。「鼓は気難しい楽器。鼓が健康で元気がいい時はいいけれど、鼓のご機嫌が悪い時はいい音がでませんよ。だから演奏会の日は雨が降ってくれればと思っているの」。

 鼓を打つ無心の状態が心地良いと君江さん。試しに打たせてもらったが、心を込めるというより、思いを振り払うように打つ楽器だと思った。

 君江さんが残念に思うことは、弘前では演奏の機会がないこと。県内でも鼓の教室は数少ない。邦楽の火を絶やしたくないと君江さんは思っている。いつか弘前で大きな邦楽の会を開くのが夢。それまでは歯をくいしばって、頑張りたいと考えている。

 「無理するなよ」という和志郎さんの声に「舞台で死ねれば本望ですよ」と笑いながら返した。
津軽のシャンソン歌手 平成6年5月21日
秋田 漣さん 「ビバ!ふるさと弘前 津軽の心歌い続ける」
 一見すると、派手やかな印象。話をしながら、表情がくるくると変わる。大きな目を見開いて「秋田で聴いたグレコのコンサート、とても良かったわよ。歌に年齢が加わって、シャンソンはこれだなって感じだった。私も頑張ろうって勇気がでたわ」。漣さんは津軽を歌うシャンソン歌手。彼女は二十六日、弘前文化センターで初のリサイタルを開く。

 二十五年前、弘前市桶屋町に「舶来居酒屋漣」を開いた。今もカウンターの前にはズラリと舶来物の洋酒が並ぶ。シックでおしゃれな雰囲気が女性にも人気。ここが二十五年間、漣さんの舞台だった。毎晩ここで四ステージをこなす。歌が好きで好きで、初めはカウンターの中で歌っていた。「ママ上手だでば」とお客さんに声を掛けられたのがきっかけで、歌手の道を歩きだした。「独学でここまできたんですよ」。

 聖愛高校在学中から漣さんは人気者だった。友達には「れんちゃんなんか、すぐに東京に行くんでしょ」と言われたが、弘前にとどまって電話の交換手になった。「弘前が性に合っている」と本人。「都会の暮らしは駄目、好きじゃないの」。

 二年前、「ふるさとの山」というシャンソンと巡り合った。このシャンソンを津軽風に少しアレンジして歌う。「リンゴや岩木山に見守られて生きているんだ」という思いを込めて。 東京に出ようと考えたこともあったが、今は津軽で歌っていこうと決めている。お馴染みのシャンソン「再会」は津軽弁で演じる。へたなフランス語で歌うより、はっきりした日本語で歌いたいという漣さん。「津軽のシャンソン」は津軽で歌うのがいいんだと思っている。だから「沢山の地元の人に聴いてほしい」とも。

 二年前のくどうべんさんとのジョイントコンサートのあと、街で見知らぬ女性に「いいコンサートでしたよ」と声を掛けられたのが何よりも嬉しかった。店では会えない人に出会えるのがコンサートの楽しいところだと漣さんは思っている。

 休日には十三湖の近くまで野の花を摘みに行く。自然が大好きなのだろう。花のこと、野鳥の話になると目がきらきらと輝いた。今も朝七時には起きて公園を散歩する。「小さいころから早起きな子で有名だったんだから」といばる漣さん。

 夢だったリサイタルが実現し、これからの夢は東京でのコンサート? と聞くと「そんなことはしない。だって私は津軽のシャンソン歌手だもの。地元で歌っていきますよ」ときっぱり答えた。その表情は清々しく、堅実な津軽女の素顔が見えた。
書 家 平成6年6月11日
福士 夕湖さん 「熱い思いを書に託し 今が一番幸せの日々」
 「胸にひそむ火の叫びを雪降らさう」。この四月に開かれた福士夕湖さんの書道展は「津軽讃歌」と題され、津軽出身作家の詩や歌が数多く並んだ。この句が好きだという夕湖さんの思いはどのようなものだろう。

 夕湖さんが書と出合ったのは小学校教諭として働き出してまもなくの昭和三十一年。本屋から一冊五十円で北門書道会の本を買い、一人で勉強した。「初めは花嫁修行のつもりだったんですよ」。もともと「創り出す」ことが好きだった夕湖さんは書くことに魅せられていく。どうせやるなら日展にも毎日展にも入選したいと考えるようになり、通信教育で東京の書道会の指導を受けたりもした。

 七年後には毎日展入賞を果たすまでになる。一見、とんとん拍子に進んできたかのように見えるが、現実はそうではなかった。「紙も筆も買えないころがあったんですよ。三十円のバス賃、十円の子供の手袋代にも困った時代がありました」。三十六歳で結婚したが、働いても、働いても手もとにお金がない生活が続いたという。結婚生活四年で離婚、娘と母と夕湖さんとの三人暮らしが始まった。

 抑えられていたエネルギーが爆発するかのように書くことに熱中したという。「書かないと不安だった。筆を持てば満たされた。それでも昼は教師、夜は子育てに追われ、書く時間をみつけるのは大変でした。夜になると眠くなるでしょ。ある程度書いて、もうこれでいいじゃ、と思う心との戦いでしたよ」。夜中に目が覚めれば、筆を取った。朝四時に起き、学校に行くまでの数時間が唯一、書に打ち込める時間だったという。人の何十倍、何百倍も書き込むのが夕湖流の書なのだろう。

 離婚して精神的に苦しかった時、宗教と出合って自分自身が変わったと夕湖さんは言う。「自分の宿業を清めたかった。勉強すれば腕は磨けるが心を磨かないといい作品は書けませんからね」。創玄会十回記念展で特別賞を取ったのはそのあと。「無欲の作」と評された。その時の作品は今も部屋に飾られている。

 娘さんが高校生の時、「仕事をとるか書をとるかどっちかにして」と迫ったが、夕湖さんはどちらも捨てることはできなかった。この春娘さんに、「お母さん、書をやっていて良かったね」と言われたのが一番嬉しかったという。「この間から娘も書を始めたんですよ。書くのが面白くて面白くてと言ってるの」とほほえむ笑顔は母親の顔だった。

 今回の作品展は十年前から抱えている病いとの戦い、注射を打ちながらの書作だった。作品を搬入するという前日、すべての作品を部屋に並べ別れを告げたという。「作品との別れがあんなに寂しいとは思わなかった」と夕湖さん。共に暮らしてきた娘もこの春には社会人となって家を出た。一人となって書だけに打ち込める、今が一番幸せだとさわやかな笑顔を見せた。
2005年3月27日没
詩 人 平成6年6月18日
高田 久美子さん 「生きる証を詩に託す 良き伴りょと二人三脚」
 高田久美子さんは夫と猫のヒメちゃんとの二人と一匹暮らし。でもその日は隣りの家の子猫のポッキーが遊びに来ていた。「足が折れてるからポッキーってみんな呼ぶの。この感覚、すさまじいよね」。圧倒された私に久美子さんはこう続けた。「すごいでしょ、この猫の人なつこさ。処世術を知ってるって感じ。こうしなきゃこの猫は生きてけないんだよ」。鋭い切り口に彼女の感性が光る。

 久美子さんは詩人。県詩連の連盟賞や知事賞を受賞する実力派。昨年は県民文化祭で佳作に入選した。「一編を作り出すのに六ケ月はかかるよ。発表するなら最高のものを出したいしね」。

 久美子さんは四歳の時、脳性小児マヒと診断された。物心ついた時は寝たきりだったという。小学六年生の時、たまたま書いた詩を担任の先生が褒めてくれた。嬉しくて、それがきっかけ、と言って笑った。十七歳の時、高田敏子主宰の野火の会の同人になった。「詩を書いては送り、上位に入ったこともあってますます詩に引かれていった」と久美子さん。

 詩はワープロで書く。五年前、医者に字を書くことを止められてから、ワープロを練習した。一字一字人指し指で打っていく。「時々ね、不自由なのが下半身だけだったらなあって、思うよ。でも考えたってしかたないものね」。書きたいことがすぐに書けないもどかしさ。

 二十七歳の時出版した初めての詩集「子宮通信」がきっかけで、夫政志さんと手紙のやり取りが始まり、二年後に結婚した。結婚は勇気がいったと久美子さん。「でも結婚してよかった。私結婚するって思ってなかったもの。それは女の子だもの、結婚したいよね。普通にしたかった。普通というのにこだわってきた。普通じゃないからかナ」。アルバムの中の久美子さんは白いウエディングドレスを着てほほえんでいた。

 県南の生まれなので弘前で初めて雪を見たときは驚いた。「雪の日のヒューヒュー吹く風が好き。雪は全部を消して、また再生してくれるところがいい」。夢は? と尋ねると「ない」「夢は叶いそうもないことをいうんでしょ。夢はない、目標ならあるけど」。今年もさまざまなコンクールに応募する。詩作することが彼女の生きている証しだ。

 外に目をやれば、庭にいろいろなものが植えてあるのが見えた。トマト、イチゴ、パセリ。二人で大切に育てている。そして幸せも一緒に。

 「詩人」
ドカーン!
ズドーン!
バズーン!
自ら放った
思考の爆風で
自分の静脈の波打ちを
確かめる者
(詩集・子宮通信より)
NHK文化センター弘前教室で朗読教室を開く 平成10年2月21日
関山 アサさん 「藤沢文学に傾倒 情念世界を読む」
 「明舜が思い出したのは、女が毎夜のように喰(く)わせる猿の肉だった。それは干肉だったり、塩漬けの肉だったりするが、どちらも美味だった。そしてそれを喰うと、身体に力が溜(たま)り、あさましいほど女の身体が欲しくなるのだった。ある夜など、食事の途中、立ち上がって、女の胸を探ったことさえある。あれは人間の肉ではないのか、と明舜は思ったのである」。

 しんと静まり返った教室に、関山さん(65)の声が響く。息を殺して、関山さんが朗読する「荒れ野」に耳を澄ます受講生。昨年の夏から、関山さんはNHK文化センター弘前教室で「藤沢周平の世界」と題して朗読の講座を開いている。

 「『お、おーい』と呼ぶ声がした。続いて声は、待てや、旅のご坊、と言った。無残にしゃがれた声だった」。恐ろしい鬼女の声、野太い武士の声、かわいい娘っ子の声と関山さんは読み分け、みずみずしい声で藤沢周平の世界を構築していく。知らず知らずのうちに目の前には、何百年か昔の枯れた荒れ野が広がっている。

 「藤沢文学にすがって生きてきたんだと思います」と関山さんは言う。藤沢周平の文学には男と女の心の綾(あや)、貧しい庶民の暮らしなどが繊細な文体で綴(つづ)られる。「その世界が幼いころの生活と重なります」。

 関山さんは娘時代までを弘前市の北横町で過ごした。父親は病にかかり、母親が遊郭の下働きをしながら、姉妹を育ててきた。「遊女や遊び客の姿を見て育ちました。子供を連れた若い遊女の哀感。遊女の母親が遊女の幼子を連れて、遊郭の裏口におカネをもらいに来るんですよ。小さいころの原体験がわたしの情緒の中心にありますね」

 高等女学校を卒業したあとは、母親が北横町で開いた食堂を手伝った。「遊びに来た人がちょっと飲んでいくような店でした。娘時代から男はそういうもんだと思って育ちました」。二十歳の時、病院のインターンであったご主人と結婚。「主人は遊女さんの集団検診をするために北横町に来ていました。好きになられて結婚するのが女の幸せと母に諭されて」とゆるやかに笑う。

 四十歳を過ぎたころ、藤沢文学と出合った。なだれ込むように夢中になった。「この人の作品、分かる」と思った。枕元に本を置き、毎晩、一行でも二行でも読んでから寝ついた。「人間の持つ果てしない情念をこの人の本から学びました」。本に描かれるのはいつか出合った情景であり、その時、その時の関山さんの心の風景であったのかもしれない。

 藤沢周平は人間の心の奥に潜むものをさりげなく、えぐり出して見せる。「朗読しながら、自分の人生、体験とだぶらせてしまいます。聴く人も同じかもしれませんね」。心の声を聴くように、ゆっくりと藤沢周平の描く小説世界を聴かせる関山さん。朗読のあとは作品の解説をしながら、人間の営みの中から生まれる思い、情念について語り合う。

 「受講生と心の肌の触れ合いが出来たらいい。人間には墓場の下まで持っていかなくてはいけないものがある。自分の心の中だけに抱いていくもの。それぞれが抱える情念を作品に形を代えて、語ってもらえたらいいですね」。

 九年前にご主人、七年前に娘さんを失ってから、死に対する美学について考えるようになった。「五木寛之がこう書いていました。人間は生まれる時に頑張って苦しんで生まれてきたのだから、死ぬ時も頑張って精一杯苦しんで死んでいくぞと。わたしも潔く死んでいきたいわね」。人生はこれ、すべて死へ向かう旅ときっぱり言い切る関山さん。その顔に激しさと優しさ、ふたつを見た。

弘前観光ボランティアガイド 平成6年9月3日
山田 レイ子さん 「心に残る触れ合い!弘前の良さを再確認」
 「ワイー、弘前に来てありがとごすじゃ。いいとき来たねはー」。懐かしい津軽弁が公園に響く。山田レイ子さんは弘前観光ボランティアガイドの一期生。弘前を訪れる観光客のガイドを務めて二年になる。

 しゃきしゃきした口調が『津軽の江戸っ子』といった感じ。「でしょう、みんなさ言われるのさ」と朗らかに笑う。朝九時から夕方の五時まで下乗橋近くのテントに詰めて、観光客を待つ。この夏、一日に多いときは二十組を案内したという。

 「今年は暑くて暑くて。疲れて食欲もなくなりましたよ。ワーもう駄目っ、て思っても、お客さん来ればピンとするから不思議。弘前のいいとこ見せたくて仕方がないのね、はりきっちゃいますよ」。屈託なく笑うがなかなかの苦労人だ。二十一歳で結婚したが三十一歳の時、夫を白血病で亡くした。小学校三年と五年生の女の子が残された。

 子供たちとの生活を支えるため、市の職員になって市立病院の会計窓口に座った。「結構貧乏だったみたいね。私は忘れちゃったんだけど、娘は遠足のおかずに五十・のウインナーを買った時の恥ずかしさを今でも覚えているって言うもの」。それでも親子三人元気でやってこれたのは周りの人たちが良かったから、とレイ子さんはほほえむ。

 退職後、今度は本当にやりたいことをしたい、できたら大好きな弘前のために何かしたいと考えていた。そんな時、観光協会がボランティアガイドを募集していると知ってさっそく応募した。

 「去年の秋、ガイドをしながら弘前城の桜の紅葉を初めてじっくり見ました。あんなに素晴らしいなんて六十七年生きてて初めて知りましたよ。ガイドしながら私自身、弘前の良さを再確認したんです」。

 レイ子さんは朝五時に起きてまず新聞に目を通す。話題にする材料を仕入れるためだ。案内する人を見て話題を選ぶようにしているという。「一銭にもならないのにそんなに頑張らなくてもって言われるけど、弘前っ子だもの。遊びに来た人に弘前を良く思ってもらいたいの」。

 どんな人にも優しくニコニコを心掛けている。ヤクザっぽい人やむずかしそうな人も進んで引き受ける。「この間案内したお年寄りが、こんなにいい思い初めてしましたってとても喜んでくれて。皇后様にでもなった気分だって何度も何度もお礼言われました。ボランティアしていて本当に良かったと思ったんですよ」


 こんなに楽しい仕事はないというレイ子さん。菊祭りの期間中も、全国からやって来る観光客に笑顔を振りまき、弘前のイメージアップにひと役買うことだろう。
華工房「だぷね」を主宰する 平成7年7月1日
小野 華也さん 「夢を温め続けて50歳で”花”開く」
 梅雨晴れの午後、小野さんの花工房「だぷね」を訪ねた。工房の名はゼウスが恋したギリシヤの女神ダフネから取ったという。四月にオープンしたばかりという工房では小野さんと生徒が青い花のコサージュを作っていた。

「自然にマッチした花を生けたい」と話す小野華也さん(50)。県内では珍しい英国式フラワーアレンジメントを手がける女性だ。

 娘のころからの夢をかなえるため、昨年たった一人でイギリスに留学した。「これからの人生のために休みをもらいたいと考えたんです」。ゆっくりと自分の思いを語る華也さんは優しい雰囲気の中にシンの強さを感じさせる。

 二十三歳で津軽藩の藩医だった小野家に嫁いだ。ご主人は小野家十四代目。十五代目の医者を育てなければいけないというプレッシャーは大きかったと振り返る。

 大家族の中で「嫁」の仕事をこなしながらも、花の仕事をしたいとずっと思ってきたという。出産、三人の男の子の子育て。反抗期、高校受験、大学受験とひとつ山を越すたびに「いつか時期が来たら」と夢を温めてきた。

 「イギリスのアレンジフラワーはカントリーぽくて自然。華やかなものより、庭に咲く花を使う英国式のアレンジを勉強したいって思ったんです」。留学を決めるまではもんもんとした日々を過ごした。迷う華也さんに留学を決意させたのは子どもたちの励ましだったという。

 「ママはこれから自分の人生を生きていいよ。やりたいことがあるなら、応援するから」。航空券は子どもたちが用意してくれた。「晩ごはんの支度をし、ぎりぎりまで雑用を済ませ、疲れ果てて飛行機に乗りました。成田からはただひたすら眠って行きましたね」と笑う。

 イギリスでは「マム」の愛称でみんなに親しまれた。ヨーロッパや日本から来た若い娘さんが「頑張ってるマムを見ると勇気が出る」と言ってくれた。「四十代まで自分に自信が持てなくて、わたしは一体なんだったんだってずっと思ってきたんです。若い時のマムより今の方がステキだって言われた時、今のわたしでいいんだって初めて思えました」と華也さん。

 辞書を片手に講義を聴き、論文、実技試験、口頭試験とこなしていった。イギリスで迎えた五十歳の誕生日にはたくさんの友人が祝ってくれた。「終生忘れられない誕生日になりました。イギリスの風土の中で、イギリスの花を見て過ごせたのは何よりも幸せ。自分の五感でアレンジメントを学べたのが一番」とほほえむ。

 華也さんは現在、弘前マンドリンアンサンブルのコンサートミストレスとしても活躍。第五回定期演奏会が一日、弘前文化センターで開かれる。また女性の奉仕団体「国際ソロプチミスト津軽」の副会長も務め、六月には外国人留学生援助のためのチャリティーコンサートも開いた。

 「英国で学んだことをこれからの人生に生かしていきたい。行動すればきっと何かがあるって思いました。たくさんのことはできないかもしれない。でもできるだけのことはしていこうと決心したんです」。ガッツのある華也さん。きっとステキな五十代が待っていることだろう。
 
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