| 「明舜が思い出したのは、女が毎夜のように喰(く)わせる猿の肉だった。それは干肉だったり、塩漬けの肉だったりするが、どちらも美味だった。そしてそれを喰うと、身体に力が溜(たま)り、あさましいほど女の身体が欲しくなるのだった。ある夜など、食事の途中、立ち上がって、女の胸を探ったことさえある。あれは人間の肉ではないのか、と明舜は思ったのである」。
しんと静まり返った教室に、関山さん(65)の声が響く。息を殺して、関山さんが朗読する「荒れ野」に耳を澄ます受講生。昨年の夏から、関山さんはNHK文化センター弘前教室で「藤沢周平の世界」と題して朗読の講座を開いている。
「『お、おーい』と呼ぶ声がした。続いて声は、待てや、旅のご坊、と言った。無残にしゃがれた声だった」。恐ろしい鬼女の声、野太い武士の声、かわいい娘っ子の声と関山さんは読み分け、みずみずしい声で藤沢周平の世界を構築していく。知らず知らずのうちに目の前には、何百年か昔の枯れた荒れ野が広がっている。
「藤沢文学にすがって生きてきたんだと思います」と関山さんは言う。藤沢周平の文学には男と女の心の綾(あや)、貧しい庶民の暮らしなどが繊細な文体で綴(つづ)られる。「その世界が幼いころの生活と重なります」。
関山さんは娘時代までを弘前市の北横町で過ごした。父親は病にかかり、母親が遊郭の下働きをしながら、姉妹を育ててきた。「遊女や遊び客の姿を見て育ちました。子供を連れた若い遊女の哀感。遊女の母親が遊女の幼子を連れて、遊郭の裏口におカネをもらいに来るんですよ。小さいころの原体験がわたしの情緒の中心にありますね」
高等女学校を卒業したあとは、母親が北横町で開いた食堂を手伝った。「遊びに来た人がちょっと飲んでいくような店でした。娘時代から男はそういうもんだと思って育ちました」。二十歳の時、病院のインターンであったご主人と結婚。「主人は遊女さんの集団検診をするために北横町に来ていました。好きになられて結婚するのが女の幸せと母に諭されて」とゆるやかに笑う。
四十歳を過ぎたころ、藤沢文学と出合った。なだれ込むように夢中になった。「この人の作品、分かる」と思った。枕元に本を置き、毎晩、一行でも二行でも読んでから寝ついた。「人間の持つ果てしない情念をこの人の本から学びました」。本に描かれるのはいつか出合った情景であり、その時、その時の関山さんの心の風景であったのかもしれない。
藤沢周平は人間の心の奥に潜むものをさりげなく、えぐり出して見せる。「朗読しながら、自分の人生、体験とだぶらせてしまいます。聴く人も同じかもしれませんね」。心の声を聴くように、ゆっくりと藤沢周平の描く小説世界を聴かせる関山さん。朗読のあとは作品の解説をしながら、人間の営みの中から生まれる思い、情念について語り合う。
「受講生と心の肌の触れ合いが出来たらいい。人間には墓場の下まで持っていかなくてはいけないものがある。自分の心の中だけに抱いていくもの。それぞれが抱える情念を作品に形を代えて、語ってもらえたらいいですね」。
九年前にご主人、七年前に娘さんを失ってから、死に対する美学について考えるようになった。「五木寛之がこう書いていました。人間は生まれる時に頑張って苦しんで生まれてきたのだから、死ぬ時も頑張って精一杯苦しんで死んでいくぞと。わたしも潔く死んでいきたいわね」。人生はこれ、すべて死へ向かう旅ときっぱり言い切る関山さん。その顔に激しさと優しさ、ふたつを見た。 |