陶芸家
平成6年11月12日
野呂 千佳子さん 「土のぬくもりが魅力!納得いく作品作りたい」
 自宅の庭に窯(かま)を開き「ひろの窯」と名付けている。夫も同じく陶芸家。「主人は嫌だって言うけれど、私は勉強させてもらってます。作品を一番最初に見せるのはやっぱり主人。あ、いい作品作ってるなって思われたい」とほほえむのは野呂千佳子さん。

 ろくろを回す手元から、みるみる形が生まれて来る。「頭の中で考えたものが形になっていくうれしさを味わえるのは幸せ。土いじりの気持ち良さも魅力ですね」。

 陶芸との出合いは偶然だった。入学した学習院大学でたまたま見つけた一枚のポスター。そこには「あなたの作った湯飲みでお茶を飲んでみませんか?」と書いてあった。湯飲みが自分で作れるのかと「陶芸研究会」に入った。大学二年の途中で弘前に戻り、焼き物の会社に入る。「授業よりも何よりも陶芸は楽しかった。一生やりたいという思いはありましたね」。

 陶芸の基本は焼き物会社で先輩だった夫薫さんに学んだ。そのあと県工業試験場で二年間研修し、夫とともに独立して窯を持った。

 工房にはまきストーブが燃えている。「このまきの灰を釉薬(ゆうやく)にするんですよ」。千佳子さんの作品は伝統的なものから現代的な創作陶芸までさまざま。そんな作品を集めて、この十月ギャラリーデネガで初めての個展を開いた。四十歳の節目だったと千佳子さんは言う。「この仕事って定年はないし、甘えがでちゃう。元来なまけ者だし、自分を追い詰めないと駄目なタイプ。やろうって決心しないと一生できないから」と快活に笑う。

 年明けから準備を始めたが、搬入の前日まで徹夜で窯をたいていたという。「搬入の日、熱いのをさましさまし、焼き立てのホヤホヤを会場に持っていきました」といたずらっぽく笑った。

 自分が本当に作りたかったものや大きな作品が作れたのが何よりと千佳子さん。「普段はお客さんの注文をこなすのが先。食べていかないといけないから。だから作りたいけど作れないという思いをため込んできた。それがエネルギーとなって今回の作品展に集約できたんでしょう」。

 小学一年生の男の子のお母さんでもある。母親になって千佳子さんは神経質でなくなったと言う。「男性は仕事だと言えば夜中、朝までも作品が作れる。女は手かせ足かせがあって損だって前は思っていました。でも子供を産んでみて、結婚前に思っていた程マイナスじゃないなって思う。時間に制約があっても女は限られた中で頑張るしね」。人にいいねと言われるより自分でいいなと思える作品を作りたいと言う千佳子さん。女性として母親として成長していく中で、作品がどう変わっていくのか楽しみでもある。

絵本の読み聞かせをする 平成6年12月3日
附田 清子さん 「スリル満点の世界を 子供たちと共に体験」
 絵本の話になると止まらない。「ぐりとぐら」「三びきのやぎのがらがらどん」「はらぺこあおむし」。おなじみの絵本の名前がポンポン飛び出す。絵本の大好きな女の子がそのまま大人になっちゃったといった感じ。「絵本のお陰でいろんな経験ができて、人生倍も楽しく過ごせました」。

 ハキハキとした声が耳に心地よい。天使のようなこの声で十三年前から市立図書館の「おたのしみ子ども図書館」で子供たちに本の読み聞かせを行っている。近隣町村の公民館に頼まれて、ストーリーテリング、エプロンシアター、パネルシアターでステキなお話を届けることもしている。

 子供が大好きという清子さんは生まれ故郷の八戸で、幼稚園の教諭として十年働いた経験がある。そこで絵本の読み聞かせに出合った。十五年前、夫の転勤で弘前に来てからは、清子さんの世界は絵本を中心に大きく広がっていった。

 弘前に来てまず最初に始めたのが家庭文庫。家事よりも何よりも子供と遊ぶのが楽しくてスキという清子さんは、月一回日曜日、自宅を全部地域の子供たちに開放して、思いっきり子供たちと遊ぶ日を作った。八戸時代から好きで集めた絵本が本棚にびっしり詰まっていたので、子供たちに貸し出しも始めた。道路ではパン食い競争をしたり、手つなぎオニをしたり。集まった子供たちに本を読んで聞かせたりもした。その延長で市立図書館での読み聞かせが始まった。

 「読み聞かせの面白さは冒険、スリル、現実では味わえないワクワクを子供たちと共有できるところ。子供といっしょに不思議な世界で遊んでくる感じかな」と瞳を輝かせる。三人の子供たちには生後五ケ月くらいから小学四年生ごろまで絵本を読んであげていた。「高三になる娘が絵本の思い出を懐かしそうに話すのを聞いて、私もなんだかうれしくて」と清子さん。

 四年前から末っ子の典子ちゃんといっしょに、「スキップわくわく」という演劇教室に参加して、親子で舞台に立っている。清子さん親子のお得意はパネルシアター。気に入った絵本を題材に、場面場面を切り絵にして大きなパネルに貼りながらお話を進めていく。

 典子ちゃんと二人で一カ月かけて絵を描いたという「やまなしもぎ」のお話を清子さんが演じてくれた。懐かしい昔話の世界がパネルの上に広がる。「二人で役を振り分けて、あちらこちらで演じてきました。母子でどさ回りしているみたいでしょ」と笑う。

 「四日にはスキップわくわくのメンバーといっしょに大鰐町でかこさとしの絵本『どろぼう学校』のお芝居をします。芝居はとても刺激的ですね。でも私にとっては絵本の読み聞かせが原点。これからは津軽の昔こに挑戦したい。津軽弁が苦手なのがちょっと難点だけど」と照れた。

「クチュール千代」オーナー

平成7年2月4日

鷲尾 千代さん 「亡き夫が心の支え いつも毅然と生きる」
 千代さんのギヤラリー「クチュール千代」は海の近く。陶芸家ゲルト・クナッパーさんが制作した陶壁に包まれて建っている。一階のアトリエでは千代さんが見てほしいと思う作家の作品展を開いてきた。フロアーには石井康治さんの華やかな吹きガラス、木内克のおおらかな彫塑の世界が広がった。

 千代さんが青森に戻ったのは三年前。故郷を出てから三十年の月日が流れていた。

 千代さんは和服が似合う日本的な女性、といったイメージだが「見かけよりずっと男っぽい性格」と笑う。小さいころから自分の意思を通す子だったという。「父はわたしを大地主のところへ嫁に行かせたいと思っていたんです。でもわたしはお嫁にいきたくなくて、いろんな学校へ行ったんですよ」。東北女子短大の被服科、白銀学園、杉野ドレスメーカー女学院のデザイン科。そのあと親が決めた会社に勤めもしたが、やっぱり違うという思いを捨てきれず親の反対を押し切って上京した。

 『週刊女性』でファッションライターとして働いたあと、新宿の小田急百貨店一周年記念企画の仕事が舞い込む。「学校を出ただけですから不安でしたね。やってみることも大事よと友人に勧められて引き受けました。今なら考えちゃう。若さかしらね」と千代さん。東京オリンピックにちなみ、世界十二カ国の民俗衣裳をペーパードレスに仕立て、デザイナーとしてデビューを果たした。その後六本木に「クチュール千代」をオープンし、劇団民芸の舞台衣装を担当するなど順風満帆の中、当時文芸春秋専務だった鷲尾洋三さんとの結婚を決める。

 「わたしが三十四歳。洋三は六十二歳。父より年上でした。父も母もそれは猛反対でしたね」。だが洋三さんの熱意と千代さんの頑張りに両親の許しが出たという。「親子って感じでしょうか。洋三は明治生まれのどっしりとした人で、わたしも主人の影響を受けて、考えてから行動するようになりましたね」。

 「主人はわたしが若く見えるのを嫌がって、いつもとても地味な着物を着せたんですよ」。千代さんはこの時から洋服を着るのをやめた。「千代、早く五十になれ」と言っていた洋三さんだが、結婚後一年で癌と宣告される。五年の結婚生活だったが、人生の中で一番幸せな時だったと千代さんはほほえむ。

 仕事だけは続けてほしいという夫の言葉を守り、千代さんは帯地、着物地を使ったオリジナルファッションや玩具(がんぐ)、ねぶた絵を取り入れたざん新なデザインを次々と発表していった。

 だが父親が亡くなる時、心配したのは千代さんのことだった。「千代にはファミリーがない。故郷へ帰っておいで」という父の言葉が胸に残った。「青森はわたしにとって安らぎの地。ここで若い人を育てていけたらと思いますね」。

 「クチュール千代」は千代さんが好きだというバラの花が目印になっている。何色のバラが好きですかと尋ねると、即座に「赤です」と答えた。「赤は情熱の色というけれど、寂しい色でもあるんじゃないかしら」。いつも毅然(きぜん)と生きる千代さんの心のつぶやきを聞いた気がした。
画家(県立あおもりろう学校勤務) 平成7年7月15日
張山 田鶴子さん 「花の力に生かされ 花の心を描く」
 あどけない雰囲気の人だ。個展の会場に飾られた作品は花の絵ばかり。激しさを秘めた真紅の薔薇(ばら)。たおやかに描かれたガーベラ。梅雨寒の雨が降る中、青森にある張山さんのアトリエを訪ねた。

 張山田鶴子さん(52)さんのアトリエ「ふろーら」には季節の花とモーツァルトの音楽があふれていた。あの生き生きとした表情を持つ花たちの絵はここで生まれた。ちょうど薔薇の季節。薄紫の薔薇が花びんいっぱいに生けられている。隅々まで清らかなアトリエからは、張山さんの静かな生活がうかがえた。

 「娘は東京の学校に行ったので今は独り暮らしなんですよ。今のわたしから絵を取ったら生きられないでしょうね。心の埋めどころでしょうか」。教師をしながら、ずっと油彩画を描いてきた。示現会展、日展と入選を重ね、二年には芸術文化報奨、昨年は第一回国際都市美術展で大賞を受賞した。

 「昔はね、百点取れないと泣くような子だったんですよ。死んでも日展に入りたいと思った時期もありました」と静かに笑う。おっとりとした今の張山さんからは想像もつかない。四十歳の時、頼りきっていたご主人を亡くたのがひとつの転機だった。

 それまでは公立中学の国語の教師として受験一色の生活を送っていたが、一転県病に入院している子供たちが通う第一養護学校若葉分校の教諭となった。「わたしも自分らしく生きたくなったのでしょうね。分校に通う子供たちは心の痛みも大きい代わりに、思いやりや愛情を感じる度合いも大きいんです。心を通わせられると思いました」。

 若葉分校で国語と美術を担当した張山さんは子供たちと素晴らしい経験をする。全国三百五十校から作品が集まる「障害児絵画展」でたくさんの入賞者を誕生させた。「クラスには白血病の子もいて、その子たちは時間が限られているんです。絵や詩を作ることで生きる喜びを味わってほしかった。子供たちの優しさはわたしの励みにもなりました」。

 張山さんの絵を見た人は「優しい気持ちになれる、ホっとする」と口を揃えるが、「わたし自身が絵から一番いやされているんです」と張山さんは答える。「人に会うと明るくするというのは自分の心に明るさがほしい人がむしろそうするんだと思うの。今はね、絵も愛情だと思うようになりました。花を描いているのではなくて、花への思い、愛情を描いているんでしょうね」。

 張山さんの描く花からは寂しさ、憧れ、幻想、強さ、孤高、ひたむき、たおやかさ、よろこび、あらゆる思いが伝わってくる。それはその時々の張山さんの思いでもあったのだろう。

 「絵空ごとって言うでしょう。現実と絵空ごと、二つの世界を行き来しています。年齢も、母親であることも関係ない。寂しがり屋で甘えん坊の、そういう自分をやっと愛せるようになりました。この自分を抱きかかえながら生きていきたいと思います」。

 張山さんがいれてくれた温かい紅茶が体から心にしみた。
岩木屋の 平成7年9月30日

舘山 あい子さん

「山の幸を材料に 姑と嫁二代の味」
 秋の訪れが早い岩木山のふもとの嶽温泉。ここで昭和三十五年から店を開く「岩木屋」さんの店頭には、キノコ、アケビ、キミなど色とりどりの季節の味覚が並ぶ。この岩木屋の“あいちゃん”館山あい子さん(46)は自他ともに認める「津軽にこだわるじょっぱりだ女の人」だ。

 「岩木屋」に嫁に来て十一年、あい子さんの働きぶりには頭が下がる。朝四時には起きて食事の支度、小学校に通う子供たちの世話、洗濯を済ませ、毎朝六時には店を開く。「嶽温泉の朝は早いの。せっかく来てくれたお客さまをがっかりさせたら申し訳ないでしょ」。

 若いころ弘前でリフォームの店を開いていたあい子さんは「ハイカラさん」と呼ばれていたが、「外見と中身が全く違うの。とにかく古いものが大好き」と笑う。岩木屋さんの二階には、あい子さんが拾ってきて磨いたという柱時計が七つ、大切に飾られていた。

 「わたしが育ったのは本当の農家。鶏や馬や牛と一緒に暮らしていたの。いろりを囲んで、家族みんなでご飯食べて。昔のものやばさまが好きなのはそのせいなのかな」

 あい子さんが特にこだわるのは「ばさまの味」。若いころから山歩きが好きだったあい子さんは、岩木山に登って山菜を取り、漬物を作ってはみんなに配っていた。「昔の津軽の味が懐かしいと思っている人に食べてもらいたい。それが若いころからの夢だったの」。

 そんな思いを実現したいと、あい子さんは春先から「嶽の岩木屋でしか食べられない『ばさまの味』」を作ろうと店を閉めてから料理の研究をしてきた。「おたくの商品、近ごろ弘前市内のどこさ行ってもあって、いっきゃの」とお客さんに言われてショックを受けたのだという。

 「せっかくここまで来てくれて、市内で買える商品が並んでいたら、みんながっかりするでしょ。わたしの夢と反するような気がして。これはがんこに曲げたくないの」。店にやって来るおばあちゃんに、「自分ではこう作るんだけど、おばあちゃんはどして作るの」と聞き書きして、たくさんのメモを取ってきた。大量生産では出せない、手作りの味を引き継いでいきたいとあい子さんは言う。

 まだ未発表だという「ばさまの味」をごちそうになった。「落葉キノコとサモダシの塩から」「サクラシメジと菊のピーナッツみそ和え」など。「畑シメジのごま油いため」はシャキシャキした歯応えとごま油の香り、ナンバンのぴりっとした味つけが魅力。その季節にしか味わえない懐かしい味だ。

 「春は採りたての山菜、秋はキノコを使って、一日に何個しか手作りできないわがままな味を作りたい。おふくろの味で「岩木屋」を始めた姑(はは)の原点に戻りたいんです」。

 自ら岩木山をデザインしたというラベルも出来上がった。あい子さんの「ばさま」の味が店頭に並ぶ日も近い。「でも満足してしまえばおしまい。これでいいと思わず、いつも何かをやっていないと前に進まない。いつまでもあいちゃんと呼んでもらえるような元気
な“ばさま”になるのが夢なの」とあい子さん。津軽女の心意気を見せた。

平成8年4月7日
矢田 ヤエ子さん 「おしゃれ心がけ 俳句に夢中」

 三月二十三日で八十六歳になった。黒いイヤリングが耳元で光る。「やっぱり幾つになってもおしゃれをしなくちゃね」とはほえむヤエ子さん。この冬はベージュと格子柄のマントを二枚作った。「わたしマント大好きなの。八十歳の時、紫のマントを買って以来ファン。マントが流行ればいいなあって思っているの。紫のマントって派手でしょ。目立って困っちゃうのよ。それでも着てますけど」と楽しそうに笑う。

 「気持ちがぎりっとしないから」と家の中でも粉おしろいと口紅は忘れない。何でも見たいし、何でも知りたいたちと言うヤエ子さんは六十五歳を過ぎてから絵を始めた。部屋にはヒマワリ、ツバキ、ユリなどヤエ子さんが描いた水彩画が何点も並ぶ。春の国土社展に向け、今は岩木山の絵を制作中だ。

 「絵を描くよう勧めてくれたのは主人。この家を建てた時、わたしの絵が飾れるようにと主人が壁をたくさん作ってくれました。わたしの絵を見ては、主人は目尻を下げていたんですよ」と十年前に亡くなったご主人昌四郎さんを振り返る。昌四郎さんとは満州で結婚した。敗戦から一年、満州での暮らしは大変だった。ロシアの兵舎までカルパスソーセージやタバコをぶらさげて「カルパス、ニーナード(ソーセージはいかが)」と言いながら、売り歩いた。隠れてウオッカを売って検挙され、死を覚悟したこともあった。ロシア兵に捕まりそうになり、ひざを鉄砲で撃ち抜かれたこともあったという。穏やかなヤエ子さんの一体どこにそんなたくましさが隠されているのだろう。

 昭和二十一年、十五歳を頭に生後八ヵ月の紀子ちゃんまで六人の子を連れて日本への引き上げ船に乗り込んだ。幼かった紀子ちゃんは日本に着いて間もなく亡くなった。昌四郎さんの故郷弘前に帰り、駅前で露天を開いたのが「矢田洋品店」の始まり。ヤエ子さんは桜祭りのころになると、弘前公園で戸板の上に夏みかんを並べて売ったのを思い出すと言う。

 「本当にいろいろやりました。お店と子育て。もうひた走りに走ってきたんでしょうね。でも嫌なことは全部忘れるたち。わたしは広島生まれだけど、弘前が好きなの。岩木山も桜もリンゴも大好き。今はもう一日一日をここで楽しく過ごしたいですね」
 
 十年前からやゑ女という号で俳句を作っている。ヤエ子さん七十九歳、姉八十一歳でヨーロッパを回った時は日記代わりに「ヨーロッパ旅行百句集」を作った。毎日、リンゴ園まで散歩を欠かさない。散歩の中で作句するのが楽しみのひとつだ。

 四月からはNHK文化センターで「温泉で四季の写生を楽しむ」講座を受講する。「どこかへ行くのがすごく好きなんです。車に乗るのも大好き。鯵ヶ沢まで受講生の仲間と一緒に行って、絵を描いて、途中の風景を見ながら俳句を作る。その上温泉にも入れるなんて最高」と目を輝かす。

 「やりたいことはいくらでもあるんです。もう十歳若かったら、草木染もやりたかったの。でもあまりあれもこれもと手を広げると皆に笑われそう。俳句ももっとうまくなりたいし、絵ももうちょっと上手になりたい。体が動けなくなったら、好きなパッチワークをして楽しもうと思っています。これからもぼけないよう頑張っていきたいですね」と静かに笑った。

2003年8月21日没
茶道家
平成8年2月3日
吉村 年魚子さん 「花から教えられて 精いっぱい生きる」
 『丸い顔にややつり上がった細い目、形のよい鼻の下には、おはぐろをつけた小さな口がやさしく微笑んでいる。端然と座る品のいいその顔立ちは、いくら見ても見飽くことがない』。これは吉村年魚子さん(61)の随筆集「李さんのピアノ」に収められている「私の次郎左衛門雛」の一節だ。

 「この雛(ひな)人形はわたしの半生を見守り続けてくれたんです」と話す年魚子さん。毎年三月には自宅の広間にこの人形を飾り、雛茶会を開いて人形の供養を行っている。音楽家だった父親の弦三さんは、人形収集家としても有名な人だった。弦三さんが人形など郷土がん具を納めるために建てた家が「朱魚房」で、小さいころからその家の掃除と人形へのお供えは年魚子さんの役目だった。

 次郎左衛門雛はその昔、殿様ご愛用の雛だったという。土淵川の水害に合い、「朱魚房」のほとんどの人形が泥に埋まった中で、年魚子さんの機転で助かったのがこの次郎左衛門雛だった。雛茶会は亡き父の供養の日でもある。

 年魚子と書いて「あゆこ」と読む。「父は川の魚が好きでした。人形の家も川端に造りました。年魚子という名は最初抵抗がありました。学校では誰もそう読んでくれないし。でも今では誇りに思っています」

 雪の日に訪れた年魚子さんの住まいは静かなリンゴ園に囲まれていた。数奇屋造りの門をくぐると、別天地の趣がある。通された「寄り付きの間」には李朝のものという白磁に紅白のツバキがこんもりと生けられていた。

 遠州流の茶華の道を歩む年魚子さんだが「見掛けよりもがらっぱちなんです。男兄弟の中の女の子でしたから勢いが良くて。小さいころからあねごで親分肌。戦争ごっこばかりして、母は困ってお茶を習わせたんじゃないかしら」とほほえむ。

 お茶は六歳から始めた。母、祖母、そう祖母も遠州流の茶人だった。母から学んだ茶道が生きる道しるべだと年魚子さんは言う。「お茶には人との接し方の術(すべ)が含まれています。相手を慈しむことがお茶の基本。お茶は自分のことより相手のことを考えることの訓練になりますね」

 寄り付きの間にはゲーテの言葉が飾られている。「済んだことをくよくよせぬこと、滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ人を憎まぬこと、未来を神にまかせること」とある。

 「これをモットーに暮らしています。人が来ればどうしたら喜ばせてあげられるかと思うの。物事のすべては感謝から始まるんですよ。亡くなった母は大きくものを考えられる人でした。人の悪口、愚痴、弱音を言うことは決してありませんでした。そんな母に追いつけ、追い越せですが、かないませんね」。

 随筆家としても活躍する年魚子さん。その文章は率直で歯切れがいい。からっとした性格が人を集めるのだろう。年魚子さんの話を聞きに、遠州流支部長だった母コトさんのお弟子さんや友人が遠くは市浦、大館などからやって来る。

 「寒さの厳しい今が一番楽しい」と話す。「春を待つ心が好きです。雪が解けたらああしたい、こうしたいって思いを巡らせることができるでしょう」。裏庭では茶花を育てている。春にはコブシ、マンサク、レンギョウが一斉に咲き出し、一年中花が絶えることはない。

 「瞬間を精一杯生きることを花から教えられました。ボタンのように高貴な花は散り際がきれいですね。わたしもアー楽しかった、皆さんありがとうと言って死にたい。それまで、人の役に立って、輝いて生きたいですね」と晴れやかに笑った。春の日、次郎左衛門雛に合うのを、わたしも楽しみにしている。
 
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