三月二十三日で八十六歳になった。黒いイヤリングが耳元で光る。「やっぱり幾つになってもおしゃれをしなくちゃね」とはほえむヤエ子さん。この冬はベージュと格子柄のマントを二枚作った。「わたしマント大好きなの。八十歳の時、紫のマントを買って以来ファン。マントが流行ればいいなあって思っているの。紫のマントって派手でしょ。目立って困っちゃうのよ。それでも着てますけど」と楽しそうに笑う。
「気持ちがぎりっとしないから」と家の中でも粉おしろいと口紅は忘れない。何でも見たいし、何でも知りたいたちと言うヤエ子さんは六十五歳を過ぎてから絵を始めた。部屋にはヒマワリ、ツバキ、ユリなどヤエ子さんが描いた水彩画が何点も並ぶ。春の国土社展に向け、今は岩木山の絵を制作中だ。
「絵を描くよう勧めてくれたのは主人。この家を建てた時、わたしの絵が飾れるようにと主人が壁をたくさん作ってくれました。わたしの絵を見ては、主人は目尻を下げていたんですよ」と十年前に亡くなったご主人昌四郎さんを振り返る。昌四郎さんとは満州で結婚した。敗戦から一年、満州での暮らしは大変だった。ロシアの兵舎までカルパスソーセージやタバコをぶらさげて「カルパス、ニーナード(ソーセージはいかが)」と言いながら、売り歩いた。隠れてウオッカを売って検挙され、死を覚悟したこともあった。ロシア兵に捕まりそうになり、ひざを鉄砲で撃ち抜かれたこともあったという。穏やかなヤエ子さんの一体どこにそんなたくましさが隠されているのだろう。
昭和二十一年、十五歳を頭に生後八ヵ月の紀子ちゃんまで六人の子を連れて日本への引き上げ船に乗り込んだ。幼かった紀子ちゃんは日本に着いて間もなく亡くなった。昌四郎さんの故郷弘前に帰り、駅前で露天を開いたのが「矢田洋品店」の始まり。ヤエ子さんは桜祭りのころになると、弘前公園で戸板の上に夏みかんを並べて売ったのを思い出すと言う。
「本当にいろいろやりました。お店と子育て。もうひた走りに走ってきたんでしょうね。でも嫌なことは全部忘れるたち。わたしは広島生まれだけど、弘前が好きなの。岩木山も桜もリンゴも大好き。今はもう一日一日をここで楽しく過ごしたいですね」
十年前からやゑ女という号で俳句を作っている。ヤエ子さん七十九歳、姉八十一歳でヨーロッパを回った時は日記代わりに「ヨーロッパ旅行百句集」を作った。毎日、リンゴ園まで散歩を欠かさない。散歩の中で作句するのが楽しみのひとつだ。
四月からはNHK文化センターで「温泉で四季の写生を楽しむ」講座を受講する。「どこかへ行くのがすごく好きなんです。車に乗るのも大好き。鯵ヶ沢まで受講生の仲間と一緒に行って、絵を描いて、途中の風景を見ながら俳句を作る。その上温泉にも入れるなんて最高」と目を輝かす。
「やりたいことはいくらでもあるんです。もう十歳若かったら、草木染もやりたかったの。でもあまりあれもこれもと手を広げると皆に笑われそう。俳句ももっとうまくなりたいし、絵ももうちょっと上手になりたい。体が動けなくなったら、好きなパッチワークをして楽しもうと思っています。これからもぼけないよう頑張っていきたいですね」と静かに笑った。 |