利酒師 平成8年11月16日
前田 知恵子さん 「繊細な感覚生かし 酒の味わい追求」
 「すごい大酒飲みってわけじゃないのよ。結婚前は日本酒なんて一滴も飲めなかったんだから」とグラスを持って優雅にほほえむのは県内初の女性利酒師(ききざけし)前田知恵子さん。 鉄火肌のあねご風な女性を勝手に想像していたが、しとやかな知恵子さんは元幼稚園の先生。しっとりつややかな肌は毎日飲む日本酒のおかげかも。

 知恵子さんが「日本酒の苦手な女性向き」と言って薦めてくれたのは瀟洒(しょうしゃ)なボトルに入った「姫膳(ひめぜん)」というお酒。キリリと冷やして飲んでみたところ目からウロコが落ちた。

 フルーティで甘酸っぱくて、まるでワインのよう。ワイン以上にすっきりとして知的な味わいだ。「これが日本酒ですか」とびっくりするわたしに「日本酒ってなんだかおじさんが一升瓶ドンと置いて飲む、暗いイメージ。においも嫌いって女性が多いの。日本酒は男性の文化だった。近ごろやっと女性のためのお酒が出てきたところ。フランス人がワインを楽しむように皆が日本酒を楽しんでくれたらいいなって思う」と知恵子さんは言う。

 知恵子さんが結婚前はお酒が全く飲めなかったというのは本当の話。父親は公務員という堅い家庭で育った知恵子さんは、お酒を飲むのは悪いこと、女は酒など飲むものではないと父親から言われて育ったらしい。そんな知恵子さんが今では 酒師となって、お酒を飲む楽しさを皆に教える立場となっているのはなんとも不思議。

 そもそものきっかけは知恵子さんの嫁いだ家がお酒屋さんだったこと。夫の賢治さん(48)はかなりお酒のいける口。最初は賢治さんが飲んだ日本酒のにおいも嫌だったという知恵子さんだが、さまざまなお酒やワインのサンプルを職業柄味見したのがお酒との付き合いの始まりだ。

 試してみたら、結構飲める口だったという知恵子さん。結婚二十年目、一人で行った兵庫県の蔵元見学会で日本酒に対する認識がすっかり変わった。見学したのは純米酒しか作らない蔵元。そこでは米と米こうじと水しか使わず、全くの手作りだった。「母親が手編みのセーターを作るような温かさがあった。日本酒ってこんなに大事に作られている。それならもっと大切に飲まなくちゃいけないって思いました」

 むずかしい受験勉強をこなし、県内初の女性 酒師として認定されたのは昨年のこと。「楽しいお酒の飲み方」の講演を頼まれるなど引っ張りだこの毎日だ。年一回のペースで日本酒の良さを知ってほしいと「いい酒飲もう会」を開くなどの活動もしている。

 真冬から春にかけてが新酒の季節。これからがいわば酒の旬と言える。「新酒というのは香りが華やかで強い。でも若いお酒は荒々しくて元気いっぱい。寝かせて熟成させてまろやかになる。ひと夏蔵で過ごした『ひやおろし』をお薦めします」と知恵子さん。この「ひやおろし」は今が飲みごろ。薦められて冷やしたお酒にユズを浮かべて飲んでみたが、口当たりが優しく、なおかつおしゃれ。ジュースで割って日本酒のカクテルにもチャレンジしてみたい。

 「車でお酒を買ってきたら一日寝かせて。落ち着かせてから飲むのがいいの。日本酒はワインよりもずっとずっとデリケート。大事に扱って大切に飲んでね」と知恵子さん。なるほど、日本酒はまるで女性のよう。扱う時は優しく、大切にが極意と納得した。
平成11年1月8日没
人形作家 平成9年6月14日
柴田 綾子さん 「時代の色をまとい 色香放つ人形たち」
 人形(ひとがた)展と銘打った作品展が六月のはじめ、弘前市一番町の田中屋画廊で開かれた。 会場には不思議な色香を放つ人形二十体が並んだ。作者は青森市の人形作家柴田綾子さん(39)

 人形の顔は作家に似ると言う。人形たちの頬(ほお)の線と目の持つ雰囲気が柴田さんの顔と重なる。「人形というのは見る側の気持ちが映ります。悲しい気持ちで見れば悲しく見え、楽しい人が見れば楽しいもの。ここに並んでいる人形自身は無心でありたいと思っています」

 古い布にあこがれ、素材には縮緬(ちりめん)を好んで使う。人形たちからは明治、大正時代の持つ色とにおいが立ち昇るような気がした。布は鎌倉にある骨とう品店に頼んで、古いものを探してもらい使う。「わたしの人形は無国籍、無性別」と柴田さんは話すが、人形の持つ独特の色香はどこから生まれてくるのだろう。

 人形作りを始めたのは十年ほど前。「二十代は子育てに追われ、少し手が離れた時に手仕事を始めました」。柴田さんは高校を出てすぐに結婚。とてもそうとは見えないが二十歳、十八歳、十七歳と三人の子の母でもある。

 人形は石粉粘土で原型を作る。その際に顔の表情、指先の繊細な動きまで形作る。その上から丁寧に縮緬をかぶせていく。作品展には陶器の肌を思わせる真っ白い人形が三点飾られていた。縮緬や白無垢(むく)の花嫁衣装をほどいたものを縫い縮め、人形の体の線に添ってゆるやかな流れを作り出す。「目の見えない『ごぜ』には昼も夜もない。そんな『ごぜ』の世界を表現してみたくて、モノトーンで作りました」

 白い布に包まれた人形たちはガラスのような透明感を持つ。色を持たない分、作品の持つ精神性が表出しているような印象を受けた。今回の作品展には絵画と人形を合体させた作品も並んだ。大正時代の古い着物地に包まれた人形がアクリル画の画面から顔をのぞかせる「いつしかまちぬ春なれど」。白い手と顔だけが浮き出た「曼珠沙華」。現実とうたかたの境を生きる者たちの姿を幻想的に描いている。

 柴田さんは二年前、自宅の一隅に工房「創」を開いた。ここには柴田さんの人形や県内外の作家の陶芸作品、古布などが並ぶ。工房には柴田さんのきどらない人柄に引かれてさまざまな作家、友人たちがやって来る。「物だけ作っていたらその世界だけのちょっと怖い人になってしまう。それよりいろんな人と接してさまざまなことを吸収したい。人間観察は人形作りにも大切」と静かに笑う。

 「主婦だから子供が優先、家事が優先。長男の嫁の務めもちゃんとこなさないと」と柴田さん。きりきりとせず、自然でゆったりと人形作りに取り組む姿勢が人形たちの不思議な色香の源かもしれない。
画 家 平成9年10月4日
尾崎 ふささん 「一生掛けて 働く人を描く」
 尾崎ふさ画集のページを繰ると、腰をかがめ、うつむき、黄金色に実った稲を担ぐ農家の女性の姿が目に飛び込んでくる。

 「稲ショイ」と題するふささん二十七歳の作品だ。がっしりとした足腰、真っ黒に日焼けした顔と手。見る者に稲の重みがズシリと伝わってくる。そこには大地に足を付けて働く人間の姿がある。赤ん坊を背負い、あぜ道を黙々と歩くおばあさん。「一服やすみ」という作品には田の隅に腰掛け、幼子に乳をやりながら泥のように眠る若い農婦の姿がある。

 ページを繰っても繰っても、そこには働く人間の姿があった。飾り気のないがっちりとした構図、しっかりしたデッサン、力強いタッチがふささんの作品を支える。田んぼ、厳冬の海、浜辺、缶詰工場など場所は変わっても、働く人間を見つめるふささんの視線は変わらない。底にあるのは人間への慈しみと愛情だ。

 尾崎ふささん(74)は一貫して働く人間、特に女性の姿を描き続けてきた。「五臓六腑(ろっぷ)をフルに使って働く姿が美しいと思いましたからね」。黒いタートルとスリムなパンツ、銀のイヤリングとネックレスを身に付け、スパッと煙草(たばこ)の煙を吐く姿が決まる。あっけらかんとした笑顔の中に、けっして平坦ではなかっただろう人生の年輪がのぞく。

 両親は青森市で豆腐屋を営んでいた。「両親はばかみたいに働き通したわね。でもそんな父と母を尊敬していました」。十七歳の時、洋裁を勉強すると偽って上京。美術学校で絵を学んだ。「油絵の具を買うおカネがなくて、二年間デッサン一本」と笑うが、ふささんのデッサン力はここで培われた。

 東京でふささんの一生を左右するような出会いがあった。作家宮本百合子との出会いだ。巣鴨の拘置所で熱射病にかかり、実家に戻されていた百合子の家の縫い物を手伝いながら、ふささんは百合子からたくさんのことを学んだという。

 「わたしがお針をするそばで、聞くも始めての話をしてくれました。セザンヌ、ドガ、ゴーリキー。百合子さんはいつもにこにこ笑っていて、あれがわたしの大学でした」。戦後、青森で農業をしながら、本格的に絵を描きだす。「自分も農業をやって、どんなに重労働かを知った。ただ土にうずくまって報われない百姓という存在を描きたかった。女はただの労働力。女の生活について考えさせられました」

 彫刻家佐藤忠良氏に呼ばれ、東京の桑原デザイン学校で美術の教師をした後、五十二歳で帰郷。現在まで十三湊、下北、津軽半島などくまなく歩き、働く女性たちの姿を描いてきた。スケッチブックを脇に抱え、常に一人で歩く。独身を通したが、「たった一度、恋をしました。画学校の同級生。戦争に行って、亡くなったのよ」

 画集には戦争に反対する女性たちの姿もある。その時、その時を精一杯生きる女性たちの姿は共感を呼ぶ。ふささんは頭にスカーフを巻き、今日もキャンバスに向かう。「こうしていられないんだよって気持ちになるっきゃ」。絵を描く傍ら、「てんぷらだけでもうんとかせようと思って」と気さくに台所に立つ。ふささんの作った「けの汁」は絶品だ。ちなみにふささんのあだ名は「働く人」。

 「人生っていろいろあるけど、なかなか捨てたもんじゃないわね」。キャンバスの中でふささんが好きだというシュウメイギクの花が静かに揺れていた。
ラボ・テューター 平成10年2月7日
相馬 喬子さん 「願いかなってカナダへ 英語を話す楽しさ満喫」
 「外国でのホームステイはわが家の元服式。わたしと娘も去年の夏、同時に実現。十七年目にしてやっと夢がかないました」。相馬喬子さん(50)は昨年の夏、ラボ国際交流の引率者として自身もカナダに一ケ月のホームステイを体験。「赤毛のアン」の世界のようなゆったりとした時間の流れを経験した。

 娘の奈緒さんね14は国際交流のホームステイでアメリカへ。それぞれにすてきなストーリーを抱えて帰国した。「わたしってこんなこともできるんだって自分に驚いたり、自分をもっと好きになったり。自分再発見の旅でした」と喬子さんは自信に満ちた笑顔を見せる。喬子さんがステイしたのは人口七百人の町「ラッシュバーン」。

 隣の家まで車で十分も走らなくてはいけないほどの郊外。生まれて初めて見たオーロラ。夜の十時ごろに始まる夕焼け。七月のカナダはベリーの季節。腰にブリキのバケツを付けて、草原でのベリーつみ。つみ取ったベリーはパイ、マフィン、ジャムにして三時のおやつや昼のデザートにする。「みんな生活そのものを楽しんでいました。何かのためにするのでも、もっとじょうずになるためでもなく、人生自体を楽しむ。人生観が変わりましたね」

 喬子さんは弘前大学卒業と同時に結婚。中学の英語の教師を三年ほど経験したあとは家庭に入った。子育てに専念する中で、「子供に英語の楽しさを知ってほしい」とラボ国際交流のチューター(家庭教師)として活動を始めた。だが自分の集まり(パーティー)を始めた途端に三人目を妊娠。「もう泣きたくなりました。でも開き直って、娘の奈緒が生まれて三ケ月の時にはラボと子育て、両方でいくぞと決意しました」

 手作りの絵本を見せながら「ナーサリーライム」や「おだんごぱん」を歌うような英語で読む喬子さん。エプロンシアターでは英語版「はらぺこあおむし」を披露。幼稚園から中学生まで週に一回、英語のゲームや歌で楽しい時間を過ごす。「娘は生まれた時からそんな環境だったので、英語を外国語とは思っていなかったみたい」と喬子さんは言う。

 長男、続いて次男も国際交流のホームステイを経験。ラボの仕事を続ける中で、喬子さんの中にもいつかは外国に、という夢が育っていった。奈緒さんが中学生になったら、そんな思いが昨年の夏に実現。夫の信さんの承諾を得て訪れたカナダは喬子さんに大きな喜びと自信を与えてくれた。

 日本から持って行った茶道具でたてた抹茶。甘納豆とゼラチンで和菓子も手作り。筆ペンでの習字、浴衣の着付け、ちぎり絵、折り紙も教えた。手作り絵本で読んだ「ジョニーズケーキ」で子供たちともすぐに友達になった。楽しく夢のような四週間。女手のなくなった相馬家では信さんが自炊生活を経験。帰国後、奈緒さんに「お父さんも成長したね」とほめられたという。

 今、喬子さんはカナダでスケッチしてきた風景をパステル画に描いている。花いっぱいの庭。ベリーつみをした草原の池。また行きたいという思いが膨らむ。

 「書く、読むが中心で聞くと話すが欠けている日本の英語。話すことで英語の楽しさが広がる。若いお母さんたちに英語の楽しさを知ってもらい、子供たちに伝えてほしい」。絵本を作り、小さい子を持つお母さんに見に来てと勧める喬子さん。英語版「三匹のこぶた」を演じながら、「英語ってとっても楽しいものなのよ」。喬子さんの顔がそう語っていた。
詩 人 平成11年2月13日
葛西 美枝子さん 「雪が詩のエネルギー 詩作は生のあかし」
 二月の空は気まぐれ。春は近いよとばかりに、青空に淡い雪を舞わせたり、急に険しい顔になり、激しい雪つぶてをぶつけてみたり。くるくると変わる、そんな二月の雪が好きだという葛西美枝子さん(65)。雪を題材に詩を書き続ける「雪おんな」でもある。

 パーティなどで見掛ける美枝子さんは大きなリボンを髪に付けてきたり、かわいいおしゃれで会場の目を奪う。「自分が納得することをしたい。おしゃれでも何でも。半分おばかさんなのよ。そこのとこ、ちゃんと書いてね」とちゃめっけもたっぷり。

 美枝子さんの色は紫。この日も紫色のコートに手袋。ショートブーツも靴下もそれからヘアーバンドも口紅も紫色とフルコーディネート。コートと襟元を飾るスカーフには二月をイメージするように、小さな雪の文様が散る。「二月の誕生石は紫色のアメジスト。紫はわたしの色と決めています」と美枝子さん。

 雪の詩にこだわるのも二月生まれのせいだと笑う。弘前生まれの弘前育ち。女学生のころから、俳句、短歌、詩を書き始めた。その中でも、より表現が自由で、制約のない詩に心引かれた。三十五歳の時に出した処女詩集「露草の咲くところ」(津軽書房刊)には妻であり、母であり、小学校の教師であり、そして詩人である作者の心の軌跡が描かれている。

 四十歳を過ぎたころ、美枝子さんは憑(つ)かれたように、雪を題材にした詩を作り始める。昭和詩人全集・詩集「雪舞う」(四海社刊)には「雪のうた」「雪女」「吹雪の夜に生まれた女」など、美枝子さんの内面にしんしんと積もる思いを重ねた詩が連なる。

 「男と女の記憶の上にも/白く/白く/雪が降る」「わたしの幼年は/深いふぶきに包まれ/雪晴れの青い夜は/キシキシと一本の糸が鳴る」(雪のうた)、「ふぶきの夜は/雪女がくるのです/わたしが雪女になるのです」(雪女)。そんな言葉が当時の詩には密生する。

 「女ならだれでも持っている業みたいなものを表現したかった。四十二歳でなければ書けなかった詩ね。今なら言葉としてストレートに出したりしない。詩は自分の歴史なのでしょう」。教師と母親と妻と女と詩人。そのつなぎの部分が素のわたしだと話す美枝子さん。素の部分に降り注ぎ、詩のエネルギーをなってくれるのが美枝子さんにとっての雪なのだろう。

 駆り立てられるように詩を書いていたという四十歳代。当時の美枝子の多彩な活動には圧倒される。個人詩誌「波」の編集。ギャラリーを使って、写真や書、音楽と詩とのジョイント。美枝子さんの詩「女人誕生」から創作バレエ「雪舞い」が生まれたり。

 限られた時間を、いくつもの顔で過ごす美枝子さんだからこそ、あふれる思いを詩を通して広がるさまざまな活動に投じていったのだろう。「詩を書くことが生のあかしなのでしょう」

 美枝子さんは今、できるだけたくさんの人に自分の詩を読んでほしいと考えている。四年前から弘前市相良町の喫茶店「UNO」で毎月、「珈琲のうた」という詩を発表している。

 「できるだけ優しい言葉で詩を書こうと思うようになりました」と言う美枝子さん。今月の詩には「節分ですっかり鬼を払っても/すぐまた/鬼がやってきて/今はもう/鬼も内 福も内/雪の二月は/鬼も福も包み込んで/また降るのです」。安らぎ、怒り、愛も憎しみもすべてを抱き込み、内包する二月の雪。さまざまな思いを内に抱えながら、穏やかな表情を見せる雪女に似て、それは美枝子さん自身の姿なのかもしれない。
日本画を描く
平成10年6月27日
成田 笑子さん 「日本画が心の支え 匂い立つ花を描く」
 風に揺れる南国の花。向日葵(ひまわり)、カンナ、グラジオラス、真っ赤なデイゴの花。成田笑子さん(65)が描くのは、明るく燃えるような花たち。光を受けて華やかに咲く花の姿は、成田さんが求める心象の風景なのだろう。

 「絵を描き始めたのは、息子の死がきっかけでした」。静かな言葉だった。高校二年で亡くなった息子、佳樹さんの死から立ち直れなくて、鬱(うつ)になって寝たり起きたりの日々。見兼ねた夫 さんの「何か好きなことを見つけてみろ」という言葉が導きとなった。

 押し絵、木目込み人形、日本人形、ちぎり絵。いろいろなことに手を染めた。「新しいものに挑戦すれば、後ろを振り向かないで済むかもしれない。つきものが付いたように次々新しいものに取り組んでいきました」。そんな中で出合ったのが日本画だった。

 庭に咲く草花を描いた。木立ちベコニア、オモト。スケッチしては色を乗せていった。日本画を描き始めた翌年、県美術展で奨励賞を受賞。四年後の一九八八年には県展会員に。絵筆を握ったこともなかった成田さんにとっては夢のような出来事だった。「よし、やるぞって。すごく頑張ったの、わたし」

 八九年に夫と二人で訪れた沖縄で見たデイゴの花と大きな緑の葉セロームを描いた「南葉樹」を東京で開かれる旺玄展に初出品。一年掛かりで描いたこの絵が初入選を果たした。「夢じゃないかって家中走り回るわたしに、夢じゃないよって夫がほっぺたをつねってくれたり」

 そんな喜びもつかの間、 さんが病に倒れた。がんだった。朝、五時に起きて絵を描き、入院中の さんと夜まで過ごし、夜中に再び絵を描く生活。祈りを込めて一心に描いた「蓮」が連続入選を果たした。「入選したよって報告したら、よかったねって。素晴らしい絵を描いて生きていけよ。何年かしたら、作品展をやりなさいというのが夫の最後の言葉でした」

 その言葉に支えられて生きているようなもの、と成田さんは静かに話す。「絵がなかったら、とても生きてはこれませんでした」。昨年の秋、成田さんは さんの言葉通り、弘前文化センターギャラリーで初めての作品展を開いた。「彼岸花」「椿」「泰山木」。あでやかな色彩が会場にあふれた。

 その中でひときわ目を引いた作品がある。真っ白なカサブランカのひと群れ。清らかな香が画面から匂(にお)い立つようだった。成田さんはこの絵に「香華」(こうげ)と名を付けた。香華とは仏前に備える花のこと。夫と息子に捧げる花だったのだろう。「一番好きな絵です」と笑子さん。

 今年、 さんの七回忌を終えた笑子さんにうれしい知らせが届いた。旺玄展会員推挙の報告だった。作品展終了後、五十点の作品はほとんど笑子さんの手元を離れていった。「淋しくなるかなと心配したけれど、すかっとした気持ちになった。不思議とさわやかな気持ち。ひとつの区切りになったのかな」と穏やかな表情を見せる。

 今、笑子さんはさ100号の作品に取り組んでいる。沖縄でダジュラと呼ばれる花を描く。バックには金ぱく、銀ぱく、虹彩はくを丁寧に一枚一枚張っていく。「今でも二人が生きていてくれたらと思う。でも二人の分も頑張って生きていかなきゃだめなんだよね。最近、やっとそう思えるようになりました。娘夫婦も応援してくれるしね」。アトリエで一心に描く笑子さん。隣の座敷では、佳樹さんと さんが写真の中で静かにほほえんでいた。
会席料理の教室を開く
平成11年1月23日
工藤 信子さん 「気さくな茶会で 楽しさ味わって」
 穏やかな冬の日差しが心地良い年末の午後、会席料理を教える工藤信子さんね46を訪ねた。ショートカットの活動的な髪に紺地の着物をきりっと着付けた信子さんがさわやかな笑顔で出迎えてくれた。

 玄関わきに「柚香塾」とある。「お茶の世界と聞くと、厳しくて怖いイメージがあるでしょ。でもお茶を全く知らない人でも気軽にお茶事を楽しんでもらいたいと、六年前に塾を開きました」。ふくいくとした柚(ゆず)の香りが大好きという信子さんが付けた名だ。

 その日は会席料理のおけいこ日。江戸時代の京都の商家で食べられていたという献立を、十人ほどの弟子と共に調理する。自宅の台所を開放しての料理教室は明るくざっくばらんな雰囲気。向付は一日(ついたち)のいわし。京都の商家では一日にはお頭付の魚を食べるという習わしがあった。しまり屋の京都ではお頭付のいわしをよく食したという。

 汁ものは白みそ仕立ての埋み豆腐。「年末に埋み豆腐を食べると、一年の間についたうそが全部帳消しになるんですよ」と信子さんが注釈をつけてくれた。納会にふさわしく、ニシンの甘辛煮をのせたニシンそばをわん盛に。京都らしい堀川ゴボウの煮付け、柚子の砂糖漬け、真紅の京人参(にんじん)と大根の紅白なますは目にも鮮やか。

 抹茶と共に楽しむ和菓子ももちろん手作りで。この日は小倉鹿子(かのこ)に挑戦。あんこと甘納豆で見事な主菓子が出来上がった。ここまでは普通の料理教室だが、ここから柚香塾ならではのお茶事が始まる。

 信子さんが主(あるじ)となり、客人となった弟子たちをもてなす。身繕いを整えた弟子たちは、畳のにおいもすがすがしい茶室に通される。「料理を作るだけではつまらない。みんなでざっくばらんに茶会席を楽しむのが目的です」と信子さん。自分たちで作った会席料理を、今度は客人として楽しもうという趣向だ。

 信子さんは六年前までOLとして働いていた。「四十歳になり、あと何年元気で働けるだろうかと思った時、趣味を生かした仕事をしたいと考えました。茶事の楽しさをみんなに知ってもらいたいと思い切って旗揚げしました」。教室を開くにあたって、自由の身になって始めたいと所属していたお茶の流派を退会した。「わたしはお茶の先生ではないんですよ。四季の移り変わりを花と軸と料理で楽しむ方法を伝えたいだけ」

 庭では白玉椿、わびすけ、にしきぎ、紫式部などの茶花を育て、床の間に生かす。信子さんがお茶から学んだことは肩の力を抜くこと。好きな軸の言葉に中国の詩人白楽天の詩「蝸牛角上何事争」がある。「かたつむりの角で争うようなことは止めなさい。あまり一生懸命にならず、その人なりに無理をせず、ありのままで楽しみなさいという意味です。なまけもののわたしにはぴったりの言葉」と飾り気のない笑顔を見せる信子さん。

 茶花、軸、料理を通して皆におおらかな人生観を伝えたいというのが信子さんの願いだ。ざっくばらんな雰囲気の中で、お茶事に対して抱いていた堅い、むずかしいといったイメージが払しょくされた。慣れない人や年配の人にも茶事を楽しんでもらえるよう、立礼の席も考慮中だ。信子さんならではの楽しいお茶会。その中で感じるちょっとした緊張感が普段の生活に気持ち良い刺激を与えてくれると好評だ。
 
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