カイトマスター(津軽凧研究家) 平成11年1月16日
佐藤 とく子さん 「雪に映える津軽凧 子らに伝統伝えたい」
 真っ白な津軽平野の大雪原。勇壮な武者絵の描かれた津軽凧(たこ)がうなりをあげて大空に舞う。毎年二月、「津軽大凧を揚げる大会」が藤崎町で開かれる。県内外から二千人ほどの凧愛好者が集まり、凧揚げに興じる。その中を、ひときわ華やかに飛び回る女性が佐藤とく子さんだ。

 「大会の会場には岩木山から真っすぐに風の通り道が二本きています。凧をこの風の道にそっと乗せる感じね」。日本でただ一人カイトマスターなる肩書を持つとく子さんは凧揚げのこつをこう語る。風を感じた瞬間に糸を引く。重たいはずの津軽凧がすっと空へ引き込まれていくという。

 カイトマスターという称号は六年前、アメリカのミッドランド市で開かれる芸術祭に凧作りと凧揚げの指導のために呼ばれた際、当地の市長からもらったものだ。

 津軽凧の楽しみ方は三つある。自分で凧を描くこと。風と一体となり、揚げること。そして雪原に座敷を作り、座り込んで酒をくみ交わしながら、凧絵の図柄を愛(め)でること。この津軽凧の楽しみ方を徹底して追求しているのがとく子さんだ。

 全国にはたくさんの種類の凧がある。中でも四本の指に入るのが津軽凧。大胆な図柄、特異な色使い。骨組みに県産のヒバを使った津軽凧は全国にその名を馳せる。「ぶんぶ」と呼ばれるうなりの紙を付け、ブーンブーンといううなりを楽しむのが特徴だ。

 「このブーンといううなりが津軽凧の不幸だったんです」ととく子さんは言う。終戦まじかの津軽に、津軽凧を揚げてはいけないという禁止令が出された。ブーンという凧のうなりが空襲と間違えられるからという理由だった。「きっと国民全体が必死に戦っている時に、空に凧を揚げるなんて不謹慎だってことだったんでしょうね」

 津軽凧は平和な空でないと飛ばすことはできない。「だから凧は平和の象徴」ととく子さん。凧の話になるととく子さんは子供のような笑顔を見せる。凧を描き、厳冬の風に向かって揚げる女性と聞き、たくましい女性を想像していたが、キャッキャとかわいい声を上げて笑う華やかな女性が現れてちょっとびっくり。

 だが、とく子さんの描く凧絵は人一倍激しく、力強い印象だ。「女の描いた凧絵とは思えないと言われます。凧に向かう時は男も女もありませんね」。とく子さんが凧に興味を持ったのは夫の甚弥さんの思い出話からだという。「父親と一緒に凧揚げをした思い出を語る夫がうらやましくて。わたしも凧仲間に入りたいと思いました」。凧絵の講習会に通い出したのが三十年前のこと。絵師について本格的に勉強するうち、とく子さんはみるみる津軽凧の魅力にはまっていった。

 凧愛好者のために始めた大会は、十七年の月日を経て地域興しの大切な行事となった。子供たちに凧の糸を引く楽しみを知ってほしいというのがとく子さんの願い。「津軽の文化である凧の伝統をきちんと次の世代に伝えていきたい」ととく子さん。

 「写真?凧絵の前なんてありきたり。アメリカで凧作りの指導をした際に買ったこの帽子をかぶりたいな」とやんちゃな表情を見せたとく子さん。希望通り帽子をかぶって、パチリ。「津軽凧は地面すれすれまで落としてから、揚げていくのが手技。面白いわよ」。大会当日は糸がちぎれんばかりの猛吹雪を期待している。

スキーヤー 平成10年1月9日
山本 とよさん 「マスターズに挑戦 80歳まで滑りたい」
 冬季オリンピック長野大会まであとわずか。ウインタースポーツの花と言えばスキー。日本の女性選手たちも力強い滑りを披露してくれるだろう。だが、日本で女性スキーヤーがオリンピックに出場したのは二十六年前の札幌オリンピックからだ。

 女性選手をオリンピックスキー競技に出場させるために力を注いできた女性がいる。山本トヨさん(70)。自身が選手候補に選ばれながら、女というだけでオリンピックに出場できなかった悔しい思いがトヨさんを支えてきた。「四十年前、自分が果たせなかった夢を後輩に託した。札幌オリンピックには仲間でそろいのスカーフを作って応援に行ったのよ」

 がっちりとした体型、しゃきしゃきとした話しぶり。往年のスター、ここに健在だ。毎朝、雨池国際コースをノンストップで五本が日課。夏場は水泳、山登りで体力維持に努める。「スキーはわたしの生きる一番の目標よ」

 一九五二年、全日本スキー選手権大会の回転で金、新複合で銀、滑降で銅バッチを獲得。この年にオリンピック候補となって合宿に参加したが、オリンピックに出場できたのは男性のみだった。

 悔しさをバネに女子アルペンの選手たちで「レディススキークラブ」を設立。スローガンは「女子をオリンピックに出しましょう」。事務局長として、資金集めに奔走したという。当時の写真が残っている。ベレー帽を粋(いき)にかぶったトヨさんはなかなかの美人。国体の花形選手でもあったトヨさんを射止めたのは岡山の男性だった。

 「国立公衆衛生院で勉強中に出会ったの。大井競馬場で毎朝、おカネがなくて裸足で走っていたわたしにズックをプレゼントしてくれた人でした」。岡山に行ってからも国体で皇后杯を取る活躍を見せる。「赤ちゃんをおんぶしてスラローム。わたしはママさん選手第一号」と胸を張る。

 ところがトヨさん三十三歳の時に不慮の事故で夫が死去。しばらくは岡山に暮らしたが、六七年に大鰐で国体が開かれることを知り、帰郷。大鰐中学校の養護教諭として働く傍ら、自宅を県内スキーの合宿所として開放し、力のすべてを若いスキー選手を育てることに注いだ。当時トヨさんの指導を受けた子供たちは、今はコーチとなって各地で活躍する。

 自宅の居間にはマッターホーンをさっそうと滑るトヨさんの大きな写真が飾られている。トヨさん五十二歳。「五十歳から、冬季オリンピックが開かれた会場に足跡を残そうと世界行脚を始めたの。青森は男性上位の土地。ばか女って言われたものよ」と大声で笑い飛ばす。

 フランス、オーストリア、スイス、アメリカ。冬季オリンピックが開かれたスキー場にダイナミックなシュプールを描いてきた。八一年からは全日本マスターズスキー大会(当時は全日本オールドパワー大会)に出場。七年前にはカナダのパノラマスキー場で開かれたマスターズ世界大会で金、銀、銅の三つのメダルを獲得。積年の夢を果たした。

 昨年は大鰐で開かれたマスターズ六十五歳の部大回転で見事優勝。今年も大山スキー場で開かれるマスターズ七十歳代の部に出場予定。活躍が期待される。「自分の好きなシュプールを描くのは最高。八十歳代まで滑りますよ」。真っ白な雪の上に、華麗なシュプールを描くトヨさんの姿が目に浮かぶ。トヨさんのスキー人生にシーハイル! 
2003年7月8日没
「花禅の庄」女将 平成9年9月6日
石澤 照代さん 「静けさと安らぎの宿 女将のセンス全館に」
 黒石温泉郷のひとつ、落合温泉は浅瀬石川を隔てて板留温泉と向かい合っている。なだらかなりょう線を見せる富岡山のふもとに「花禅の庄」はある。玄関に出迎えてくれたのが女将(おかみ)の石澤照代さん。うすものの着物に涼しげなテッセンの花が揺れる。

 館内は廊下、ロビー、エレベーターの中まで畳敷き。足裏から畳の優しい感触が伝わる。四年前に全館建て替えを行い、名称を黒石観光ホテルから花禅の庄に変えた。「全館に畳を敷き終えたとたん、それまでの騒々しさがぴたりとやみました」と女将。畳には消音作用があるのだろう。館内はしんと静まり、中庭の木々をぬらす雨の音が聞こえるだけ。

 「男性を慰め、男性だけが楽しむような旅館はだめ。プライドのある旅館にしなさいと若いころに言われた言葉がずっと心に残っていました」。照代さんが中学生の時、両親が農業から転業してホテルを始めた。部屋数五室の小さな宿は「黒石ホテル」と名付けられた。「とてもホテルと呼べるものではありませんでしたが、いつかは大きくしたいという父の願いが込められていたのでしょう」

 跡を継ぐはずだった弟が別の道に進み、照代さんに白羽の矢が立った。次々と土地を買い、ホテルを大きくしていく父親の姿を見ていた照代さんは「商売って面白い」と跡を継ぐことを決意。「弘前料理学院」で和洋中華の料理を勉強。その後京都で京料理を学んだ。仲居の立ち振る舞い、経営者の使用人に対する教育の仕方を見、二十歳にして「わたしならこうする、ここは違うんじゃないか」と考える強さと才覚が照代さんにはあった。

 帰郷して家業に入り結婚。板長として厨房(ちゅうぼう)に立ちながら、四人の子を育ててきた。女将と呼ばれるようになって十年になる。「三十歳代までは負けられないとつっぱっていたように思います。人の言葉が素直に聞けなかったり、お客様にくってかかってケンカしたこともありました」

 古い建物だったころは「なんだ民宿かあ」と言われた悔しさに、「そんな風に言われないものを作りたい」と歯をくいしばってきた。優しい表情に似ず、なかなかのじょっぱりだ。バブルがはじけた最悪の時期に建て替えを決意。オープン早々失敗をたたかれたこともあったが、「逆にそれがバネになった」と笑う肝の据わった女性だ。

 目の輝きが違う。この仕事が楽しくて仕方がないといった様子。館内の隅々まで照代さんの思いが届いている。部屋には「思草」「白粉花」など季節の花の名が付けられ、女性客には色とりどりの浴衣が用意されている。

 出迎え、見送りは欠かさない。「お客様がどういう心持ちで帰られるか見届けるのが仕事。従業員のサービスの仕方が分かる一瞬」と鋭い。「女将は朝早くから夜遅くまでの仕事。今は無理が効かなくなった分、智恵を働かせています」と笑顔を見せた。

 七月には東京で開かれた「全国女将サミット」に参加。常にワンランク上を目指す努力家だ。「黒石温泉郷は交通の便は良くなったがまだまだ通過点。これから黒石全体で集客を考えないと」。冬枯れ対策として雪見の宴や「まっこ」を考えるなど独自の企画を立てている。

 庭園を眺めながらの露天風呂、炉を囲んで川魚料理を楽しむなど「和」の粋(いき)を心ゆくまで楽しめる場所。女将の晴れやかな笑顔に出会うだけでも来たかいがありそう。
全日本写真連盟会員 平成10年12月5日
みうらゆきこさん 「今」をみつめ写真に撮る
 三年前から岩木川を撮っている。相馬村から西目屋に向かって車を走らせる。護岸工事が行われている河畔に車を止め、オレンジ色のブルドーザーにカメラを向ける。さまざまな角度から被写体をねらう。レンズに小雪が舞う。

 「海に注ぐ寸前の岩木川を見て育ちました。今、岩木川がどんな風に変わっているのか見てみたいんです」とみうらゆきこさん(51)は話す。

 カメラを握ったのは三十歳を過ぎてから。結婚、三人の男の子の子育て。何かを始めたいとフジフィルムの青森駐在員になったのが写真に興味を持つきっかけとなった。最初は写真コンテストに入選したいと決定的瞬間をねらったり、美しい風景などを撮影した。だが撮り続けるうち、何かが違うと感じるようになったという。

 「コンテストに入選する写真が本当にいい写真なのかなと思った。ネイチャーフォトのような写真はわたしにとって写真じゃないと思い始めました。コンセプトを持たない写真は写真じゃない」。そんなころ、大鰐町の写真家向井弘さんと出会った。その風景をどう見るのか、どうとらえるのか。「足元から撮れる写真活動を」という向井さんのアドバイスがゆきこさんの胸に残った。

 「玄関を出てすぐ撮れるようなカメラアイを持てと言われても、何を撮ったらいいのか分かりませんでした。町に出ても最初は何も見えなかった」。そんなゆきこさんに転機が訪れたのは鉱山の廃坑を撮り始めてから。かつて繁栄し、人の生活を支えた鉱山の町。崩れ落ち、すたれてしまったものへの視点。

 「最初は壊れた建物そのものに目がいきました。それがだんだんと残された町のたたずまいや生活、雰囲気を撮りたいと思うようになりました」。建物の跡地。かつて人が生活したことを伝える日常の残がい。鉱山から出た水に汚染された土地。風景を撮りながら、環境問題にも目が向くようになった。「でもまだまだ視点が甘い。何を伝えたいのか明確じゃないと言われます」とゆきこさんは苦笑いする。

 三年前から向井弘さん、原田メイゴさん、赤川健太郎さんと共にフォトセッションに加わっている。「八年かかって、やっと仲間に加えてもらえました」。仕事を持つゆきこさんにとって、写真と取り組めるのは休日だけ。写真を始めてから、休みに家にいることはなかった。「子供は投げっぱなし。まるで父子家庭。主人がよく堪忍袋の緒を切らずに耐えてくれたなと思っています」

 休日には弘前、藤崎、板柳、鶴田、五所川原、中里、十三湖へと車を飛ばした。子供のころに水遊びした岩木川はすでになかった。護岸工事で強制的に表情が変えられた川がそこにはあった。「人の生活を守るためには工事は必要。今はこういう川としてしか存在できない。そんな今の岩木川を撮っていきたい」とゆきこさん。

 モノクロの写真しか撮らない。自分で現像し、焼きつける。そうして初めて自分の作品になるのだという。今の風景、ありのままの現在を自分でとらえ、写真に残していくことがゆきこさんにとっての「写真」なのだろう。

 わたしも今回の取材で初めてじっくりと岩木川を見た。白神山地に発し、津軽平野を走り抜け、十三湖に注ぐ母なる川。人の暮らしの中で、岩木川も急速にその表情を変えていく。「今」の風景が十年後、二十年後にどう変わっていくのか。わたしもみつめていきたいと思った。
十和田湖「花鳥渓谷」所長 平成10年3月6日
木村 暢子さん 「バラの声に耳を傾け 自然と生きる」
 ピカソ、アラビアンナイト、プレイボーイ、シンデレラにファーストラブ。さてこの共通点は何でしょう?分かった人はかなりのバラ通。
 これらはみなバラの花の名前。バラに魅(み)せられて、バラの花と共に生きる女性がいる。それが木村暢子さん(54)。

 十和田湖の休屋方面から子の口に向かって車を走らせること十五分。右手に大きな看板が見えてくる。ここが十和田湖のほとりに十万坪の敷地を持つ「花鳥渓谷」。百種、五万株のバラが咲き誇る、東北でも一番大きなバラ園だ。花の季節になると、甘い香りが湖畔に満ちる。

 「何億年も前から咲いていたという野バラもあります。恐竜も眺めたかもね」と暢子さんは日焼けした顔をほころばせる。

 「花鳥渓谷」は十四年前にオープンした。一九八二年、休耕田と休耕畑となり、荒れ果てていた土地を買い上げ、ブルドーザーで平らにし、暢子さんらスタッフ七人はバラの苗を一本一本手植えしていった。「気の狂うような仕事でした」。

 なぜ、そこまでしてバラ園を?と問えば「十和田湖に滞在して、ここの空気を吸って、のんびり、ゆっくり、十和田湖を体感できる場所を作りたかった」と暢子さん。十和田湖が大好きという暢子さんの思いが結集した場所だ。

 園内には世界の絵本を展示した「文学館」、イチイの木を使った二百・の迷路、県ゆかりの文学者の原稿を集めた「耕文館」など十三の施設が造られ、ロッジやレストラン、宿泊施設も整う。

 六月の末になると、野バラの小道にはバラの原種であるオールドローズが可憐(かれん)な花びらを開き始める。モダンローズは七月の始めから雪が降るまで花を咲かせる。「五万本のバラの手入れは大変です。花がら摘みがひと苦労」と言いながら、バラに係わる仕事が楽しくて仕方ない様子の暢子さん。

 青森市生まれの暢子さんだが、学生時代から十六年間、東京で暮らしたことがある。「都会の暮らしは殺伐として、いつも酸欠状態の金魚みたいでした。東京で暮らしたからこそ、ここの良さが分かる。地元の人にこそ、地元にいいところがあることに気付いてほしいです」。アルプスの少女ハイジのような暢子さんに、都会の暮らしは似合わなかったようだ。

 園内の自宅で、愛犬マックス、猫のミューミュー、トゥトゥと共に暮らす暢子さん。「わたしは十和田湖を守らなくてはいけない人間」と話す。「山菜やキノコなど山の幸をもらうわたしは、昔のままの十和田湖を残すことで、自然にお返ししたいんです」。

 雪解けと共に園内はにぎやかになる。キツツキのコンコンコンというグルーミングの音が「花鳥渓谷」の春の始まり。ウグイス、カッコー、アカゲラ、さまざまな野鳥が園内にやって来る。テンやキツネ、タヌキが姿を見せることも。バラの花の季節には芳香が園内を包む。「朝一番にマックスと園内を散歩するのが最高の幸せ。朝露にぬれたバラが一番きれい」

 五十歳を越えて、一層パワフルになったという暢子さん。「何でも来いって感じ。だれにはばかることなく、今まで培ってきたものを発揮できるような気がします」。くよくよせず、自然体で生きるのがモットー。十和田湖を汚す心ない観光客には「帰れ!」と怒鳴るという暢子さん。バラの声に耳を傾けながら、これからも自然と共に生きていくつもりだ。
ヒロサキ・バレエ・カンパニーを主宰する 平成11年3月13日
青山 洋子さん 「ひらめきと実行でキラリ創作バレエの演出に尽力」
 かなり底抜けにユニークな人だと思う。豪放、大胆、男勝り。そんな言葉が頭に浮かぶ。昼に合う約束をすれば、ワイングラスを傾けながら。夜はパーボンが友達。「こうした格好でお酒を飲んでいれば、だれもバレリーナだなんて思わないよね。そこがいいのよ。気取ったのは苦手」。
 素顔に口紅を引くだけのシンプルメイク。「一日三回、百円の石けんで顔を洗う。それが手入れのすべて」という洋子さんの、舞台で主役を張る時の変身ぶりには目を見張る。

 昨年、三年ぶりに舞台に立った。彼女のおはこのライモンダ。可憐で愛らしいライモンダが十字軍の兵士として遠征した恋人と、野性的な魅力を持つサラセン人との間で揺れ動く女心を扱った物語だ。

 「わたしの一番好きな作品。大人の女でなければ踊ることはできない。ある程度人生を経験したようなバレリーナが踊る内容だと思うの」。甘い言葉をささやく男を拒絶し、恥らう初々しいライモンダ。男の誘いに迷い、微妙に揺れ動く人間臭いライモンダを彼女は堂々と演じた。

 暢子さんは三十五歳の時、初めてライモンダを踊った。舞台の回数を重ねるごとに、ライモンダの心の動き、変化が理解できるようになったという。「今回舞台に立つために、一ヵ月半で十キロ体重を落としたの」となにげなく話すが、プロとしての根性は座る。

 「三歳半からバレーを始めたから、もう五十年。東京でプロを目指したこともあったけど、芸術と心中するだけの才能はないと自分で分かったところが、わたしのすごいところよね」。この無防備さは、津軽ではちょっと珍しいタイプだと思う。

 よく津軽ではじかれませんでしたね?とストレートに聞くと「だってパワーが違うもの。はじくことはあっても、はじかれたりなんてしないわよ」。アハハハと笑うパワーに、なるほどと納得。

 東京バレエグループでソリストを目指して練習に励んだか、「地元に帰って最高の指導者になりなさい」というアドバイスを守り、津軽で生きてきた。二十二歳で古川バレエ研究所を設立。今まで育てた弟子の数は二千人を優に超える。けいこ場での洋子さんは厳しい。バレエに対する真摯な姿勢がこちらにも伝わってくる。

 努力するなんて言葉は苦手と彼女一流のバリアを張るが、「子供を寝かしつけた後で夜中のにけいこ場へ行き、泣き泣きけいこしたこともあったっけ」と本音をぽろり。

 抜群の企画力を持つ。バレエの中に中国の京劇を取り入れて「孫悟空」を演出したり、「ねぷた絵」をバックに、津軽を舞台にしたオリジナル作品を企画したり。「白鳥の湖」の設定を現代に代え、セットを街の風景にした、「ザ・スワン」では、ロックコンサートのような照明を使い、観客の度肝を抜いた。

 「古典バレエの振り付けや内容は現代の感覚と隔たりがある。踊る人も見る人も共感できる作品を作りたい。皆をあうっと言わせる演出をしたいわね」。昨年、弘前市民会館で開かれた県民文化祭総合フェスティバルではその企画力を買われ、総合プロデューサーを務めた。

 ひらめくと即実行。ババババとやりぬく。「でもね、しんねり、みっちり努力するということはないから、ここまで。わたしにとって最高の財産は、最高の亭主を手に入れたってことかな」。

 夜は夫の隆蔵さんと二人で飲みに歩くのが楽しみという洋子さん。それでも朝にはみそ汁とご飯で夫を送り出すという彼女に、普段人には見せない妻の顔を見た。ひとつの箱には収まらない破天荒さ。それが彼女の魅力だ。
フラワーアレンジメントの教室「ラ・フルール」を開く 平成10年8月1日
小田嶋 淑さん 「花から気をもらい 自然により自由に」
  「電話で聞いた記者さんの声からイメージしてフラワーアレンジしてみました」。ベルガモット、ヒソップ、ペパーミント、クラリーセージ。さわやかなハーブのアレンジ。羊の耳のような柔らかな感触が心地よいその名もラムズイヤー、鮮やかなピンクのペインテッドセージなど初めて見る花もある。

 「現代の働く女性はみんな疲れている。だからテーマは癒(いや)し」と小田嶋淑さん(38)は話す。生けられたハーブはすべて夫の淳さんね40が種や苗から育てたもの。小田嶋家のガーデンには五十種ものハーブがすくすくと育っている。「花に触れて、花の気をもらい、女性たちにリフレッシュタイムを作ってほしいな」とにこやかに笑う。

 可憐(かれん)なハーブの花が好きな淑さんだが、本人はヒマワリのような元気いっぱいの女性。「わたしっておおざっぱで、男っぽいの」。そんな淑さんがフランス風フラワーアレンジメントに出合ったのは二十二歳の時。「花嫁修行で日本の生け花を習っていましたが、庭に咲く花を自然に生けることができないというジレンマがあったんです」

 たまたまデパートで見たフラワーアレンジメントの第一人者野口美知子さんのエレガントなアレンジに魅せられた淑さんは、すぐに仕事を辞めて上京。野口さんの教室に通いつめてヨーロッパ風の花あしらいを学んだ。

 「庭に咲く花を自然な感じで取り入れて、室内のインテリアにマッチさせる。固定観念にとらわれず、自由なのが魅力」と話す。夏のテーブルデコレーションは「涼しげに」がポイント。ブルーのデルフィニュームやテッセンなど寒色系の花を中心に淡いピンクのハーブなどをあしらえばさわやか。

 夏を前面に押し出して演出するなら、「ねぶた祭り」など夏祭りをイメージして明度、彩度の高い花を選ぶのも一考。「うちの教室のフリースタイルアレンジはオアシスも剣山も使わないのが特徴。より自然に、より自由に、生き生きと花をあしらいたい」

 淑さんの教室には男性も通っている。「これからは男性の生徒も増えてくるのではないかしら。青森の男性もどんどん好きな花を買って、自由に生けて楽しんでほしいな」。去年、淑さんは音楽に合わせて花を生けるデモンストレーションを行った。映画音楽に合わせて、秋の八甲田を花で表現した。

 「耳と目と鼻、五感に訴える生け方をしたい。どんどん外に出て行って、大道芸でも余興でも、みんなの見ているところで花を生けたい」と意欲満々。夢は作品集を出すこと。ハーブ、インテリア、花、一緒に暮らす猫たちのこと。そんなおしゃれな本を出そうと考えている。

 十月には弘前で初めての花展を開く予定。「伝統ある弘前での花展は厳しそう。でも固定観念からちょっとはずれて楽しんでもらいたいですね」。さわやかな淑さん流の花あしらい。花の素顔を生かした、自然で自由なアレンジは淑さんの生き方にぴったりフィットしていた。
産婦人科の女医 平成6年5月14日
大橋 良子さん 「人生の裏側を見続ける豪快な肝っ玉母さん」

 「私が医者になろうと思った時代は、未婚の女性が妊娠したり、母親になることが許されない時代だった。自殺したり、苦労を抱える女たちの姿を見て、女性の味方になりたいと思ったのよ」。

 大橋良子さん、七十二歳。今も現役で頑張る女医さんだ。ふっくらとした顔に優しい目、頼れるお母さんというイメージ。下白銀町に産婦人科の医院を開いて三十年ほどになる。

 良子さんは青森市生まれ。父親は女子師範学校の教師だった。どうして医者を目指したんですか? と尋ねると「父は常々、女も仕事をもって働かなくてはいけない、と言っていました。私を男のように育てたんです。それに医者はおへちゃでもできるからいいって」と言って笑った。父親も良子さんが五歳の時に日大の夜学に通った程の努力家。勉強するということが当たり前の家だったという。お金はなくなっても、子供についた学問や技術はなくならない。女も自立して生きなくてはいけない、という父の言葉が良子さんの胸に残っている。

 昭和十八年、帝国女子医専を卒業し、産婦人科の医者となった。新宿の鉄道病院で勤務医をしながら病院の労働組合の婦人部長をした。その中で、やはり組合の運動をしていた夫と出会い、結婚。良子さん二十八歳、夫二十三歳の時だった。

 昭和二十三年にお母さんの故郷だった弘前に帰り、同じく産婦人科医師だった姉といっしょに医院勤務を続けた。そしてその間に男の子二人を産み、育てた。「三十代のころは、働く女として保育所が必要だと痛切に感じて、保育所をつくろうと頑張った」という良子さん。医者と奥さんと母親との三足のワラジは大変ではなかった? 「私というより夫が大変だったでしょうね。分娩は時を選ばないし、夜中の往診も多いし」。今も頼まれれば、夜中でも往診に行く頼もしい先生だ。

 今までに取り上げた赤ちゃんは五千人以上。「分娩に立ち合う度に、産婦人科医になって本当に良かったと思う」。でも「産婦人科の医者をしていると人生の裏側が見えて考えさせられることも多い」とも。良子さんは桜を見ると思い出すことがある。ある女の子のことだ。桜祭りを見たあと、死のうと思いお堀端を歩いていたが、大橋産婦人科の看板をみつけ、訪れてみる気になったのだという。その時の少女は今どこでどう生きているのだろう。女の人を幸せにできるような医者になりたいとその時思った。

 「いつやめようか、いつやめようかと思いながらここまでやってきた。ほんとにいつまで続けられるかしら。これからは老人ホームを作る運動をしようかな」。女性が気軽に体の悩みを打ち明けられる、いつまでもそんなお母さんのような存在でいてほしい。
 
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