弘前大学助教授
平成7年1月1日
日影 弥生さん 「家政学は社会の鏡」
 「『日景先生は家庭科の先生だから家事は何でもできるベー』なんて男の人に言われますが『エー何にもできないわ』って言うんです。だって主婦には家庭管理能力があればいいのよ」と豪快に笑う。

 家庭管理能力とはズバリ家庭を管理する能力。つまり家族が何を快適だと感じるかを把握して、自分で出来ない家事は家族に割り振って家庭を円滑に運営できればいいという訳。極端に言えば主婦は家事ができなくても、管理する能力があればいいということになる。

 弥生さん自身、高校までは家庭科が大嫌いだったという。だが大学で学んだ被服学は家庭科のイメージを一掃するほど新鮮だった。被服学の化学的な世界に引かれ、研究者の世界に入り、二十七歳で弘前大学の「家政学科教室」の助手になった。

 埼玉生まれの弥生さんは、弘前にやって来て、初めての雪に難儀したらしい。「洗濯物もふとんも干せないのが悲しくて。もう駄目、生きていけないって思ったほど」と笑う。でも住めば住むほど弘前のいいところが見えてきたという。「自然があって、都会的な雰囲気で文化的な街」とべたほめする。

 二十九歳で津軽の男性と結婚。相手は家事がお得意。料理は私よりじょうずと折り紙がついた。「小学校一年の息子の作ったお寿司はおいしいですよ。小三の娘は日曜日のごはんは私に任せてねと手作りのパンまで焼いてくれるの」とほほえむ顔はやっぱりお母さん。彼女の家庭管理能力は抜群とみた。

 大学では小学校の教師を目指す学生に家庭科の授業のやり方を教えている。家庭科は社会の情勢に一番敏感な学問であるはずというのが持論。縫い物したりという昔ながらのイメージしかないのを残念がる。

 「家政学は人が生きていく上でなくてはならない学問。衣食住、健康、環境問題、地域などに全面的にアプローチする学問なんです」。そんな意味合いからも男女共同参画社会実現に向けて、弥生さん自身力を尽くす。

 「職場、家庭、地域などあらゆる場面で、男女が共に力を合わせて、一から作っていくのが男女共同参画社会。子供たちの男女共同参画意識を高めるためにも、これからの家庭科の役割は大きいです」

 弥生さんは男性教諭も家庭科を教えるようになってほしいと思っている。現在弘大で家政学を専攻している学生は四十人。その中に男子の学生がたった一人。将来高校の家庭科の先生になるのが夢だという。

 少しづつだが世の中も変わりつつある。変わらなくてはいけないと弥生さんは考えている。市民の意識調査の結果、男性がまだまだ優先されていると感じるという人が八割近くにのぼった弘前市。この弘前市が男女共同参画社会を実現できるかどうか、市民一人一人の意識改革に掛かる。弥生さんの頑張りも続く。
弘前市議会議員 平成7年5月20日
安藤 晴美さん 「家族の応援が支え 女性の声を議会に」
 「女の人ってたくましい。選挙は大変だから、みんなに二、三キロはやせるよと言われたのに、逆に太ったんですよ」。安藤晴美さん(43)は四月に行われた弘前市議会選挙に初当選した新人の議員。小学五年から大学一年生まで、四人の男の子のお母さんで、豪快な笑顔と笑い声が印象的な女性だ。
 弘前市議会議員は三十六人。その中の唯一の女性議員だ。自分が議員になるなんて、一年前までは考えてもみなかったという晴美さん。出馬にはいくつものハードルがあった。「出馬の依頼があった時、わたし自身、恥ずかしいとか子供たちがどう思うかなどいろいろなことが頭をよぎりました。でも今、前向きな勇気を持たないと、一生後悔するかなと決断したんです」。

 夫の房治さんは弘前大学の教官。「仕事柄、夫の方がわたしより大きな勇気がいったと思います」。房治さんは考えた末、「やってみたら」と言ってくれた。だが、そのあと子供たちの猛反対が待っていたと言う。当時高校生だった長男には「自分は母さんの気持ちが理解できる。でも弟たちは小さいから理解するのは難しいだろう。だからやめろ」と言われた。

 晴美さんは五枚の便せんに自分の気持ちを託し、子供たちに手渡した。自分の生い立ち、なぜ共産党に入ったのか。「お母さんは世の中みんなの幸せを願う仕事をしたいんだと言ったら、小さい子たちも理解を示してくれました」。それから、晴美さんの奮闘が始まる。とにかく顔を覚えてほしいと、町内の街角で朝七時半から旗を立て、タスキを掛けて立ったという。

 途中、ツヅラゴで倒れた晴美さんを助けて、房治さんは朝食と五個のお弁当作りを担当してくれた。「朝起きてふぶいていると、きょうはどうしようかなって思うんですよ。でも受験生だった長男と二人、合格目指して頑張ろうと励まし合ってきました」。

 どんな抱負を持っていますか?と尋ねると「女性や子供たちが幸せになる政治を目指したい」。子供を保育園に預け、保母として働いた経験を持つ晴美さん。「子供が病気になれば、夫とどちらが休むか、どうする、こうすると大変な思いをしました。働くお母さんたちの思いを伝え、学童保育や保育所の問題に取り組んでいきたい」。女性が安心して働ける環境を整えたいというのが願いだ。

 それからもうひとつ、晴美さんの夢は弘前の子供たちに豊かな環境を作ってあげること。「作り手の顔が見える自校式の給食を実行したい。弘前の子供たちが毎日あったかい給食を食べて、食べることに満足している、そんな姿を見るのが夢なんです。あと乳幼児医療の無料化を進めたいですね」。

 全国的に三歳までの乳幼児医療の無料化が進んでいる。青森県ではまだ、低所得世帯に限り、一歳未満の外来の医療費が無料化されただけ。「弘前でも三歳までのすべての子供たちの医療の無料化を実現したい。そういうことが豊かさのバロメーターだと思うんです。頑張ります!」。女性の代表として頑張ってほしいと思うと同時に、女性の声を議会に届けるため、もっとたくさんの女性議員の誕生が必要、と感じた。そう思いません?
 
郷土料理研究家 平成6年7月16日
高橋 みちよさん 「津軽の食文化を追求 使命感に燃える日々」
 弘前文化センターの調理室で精進料理を教えている高橋みちよさんを訪ねた。白衣に三角きん姿、テキパキとした口調が小気味いい。

 三十五年勤めた東北女子短大教授の職を平成三年に退いたが、今は前にも増して忙しい日々を過ごしている。

 高橋さんといえば、津軽のカッチャのイメージが強いが、生まれは宮城県。「一人で暮らしているって聞いてびっくりする人多いんですよ。体が弱かったから結婚もしなかったし」。

 父親は終戦の年に亡くなり、兄たちは戦死。妹や弟を先に学校に入れ、みちよさんが東北女子短大に入学したのは二十九歳の時だった。

 初めての寮生活で食の違いに驚いた。テーブルに並んだ魚も野菜料理も見たことのないものばかりだった。故郷とは全く違う津軽の食の独自性に心引かれたという。

 昭和四十年代後半になると出来合いのそうざいが店先に並ぶようになった。「これはいけないって思いましたよ。昔ながらの津軽の味を書き残さなければと」。それから、授業の合間をぬって、土曜、日曜、祭日は郷土料理の聞き書きに走り回るようになる。

 話を聞きに行くと、おばあちゃんたちに「先生さ、めし炊いたことあるんだか」と必ず聞かれた。「みんな丁寧に教えてくれました。私も本当に分からないから聞いた通りに書いてきた。それがかえって良かったんでしょうね」。それらは「聞き書青森の食事」「津軽の惣菜」などにまとめられた。

 津軽の郷土食のどこに引かれた?「郷土食はここで生き抜いてきた女の知恵の結晶ですよ。気候、風土を上手く利用している。凶作の時のための工夫も見られます。弘前は食文化の程度が高いですね」と言い切る。

 NHK文化センターの「精進料理」の講座はいつも受講希望の人でいっぱいだ。昔ながらの郷土食もメニューに入っている。「年を取ると昔食べた味が懐かしくなる。でも今はそれを教えてくれる人も少なくなりましたからね。核家族も増えたし」。津軽の味を書き残そうと今も原稿書きに追われている。

 弘前での一人暮らし、疎外感はなかった?「夕方、仕事から帰ると、近所の人がかあさん食べる物あるのってあれこれ届けてくれたり、寂しいなんて思ったこと一度もないですよ。それに私きかないからね。いじめられたなんて感じないんだかもしれない」と笑う。「この土地で一人前にしてもらい、ここで飯を食わしてもらったんだもの。お返しですよ、今私がしているのは。津軽の郷土料理を書き残すこともそのひとつだと思っているの」。今ではすっかり津軽の味になった高橋さんの料理。お昼に炊いてくれた豆ごはんの味が心に染みた。

司法書士 平成8年9月14日
黒滝 貴子さん 「人の人生と向き合う 女性司法書士第一号」
 「司法書士というのは女性に向いた仕事。自宅でできるし、作文能力が少しあればいいの」。藍染のブラウスが仕事着という貴子さんはゆっくりとした口調で話す。司法書士は国籍取得、戸籍、登記など法務局に提出する書類や離婚調停の申立て書など裁判所に出す書類を製作する。

 現在、県内に女性の司法書士は六人。一九七二年、県で初の女性司法書士が二人誕生したが貴子さんはそのうちのひとり。二十五年のキャリアを持つ。

 女性司法書士第一号と聞くと、やり手のキャリアウーマンを想像するが、貴子さんは野の花が大好きというしっとりとした雰囲気の女性。自宅兼事務所の前には、いつ通っても季節の花が手おけに生けられ、風に揺れている。

 事務所の中もおよそ事務所らしくない。低くクラシックが流れ、棚には作家のぐい飲みが並び、コスモス、エノコログサ、ホトトギスなど秋の草花が殺風景になりがちな仕事場に彩りを添える。おいしいお茶が出されると、友人宅に来たような気分ですっかりくつろいでしまう。

 「この仕事は人の人生と向き合うことも多いんです。十年ぐらい前は毎日離婚調停の人が来ていたし、五年くらい前は自己破産申し立ての人が多かった。時代の流れの分かる仕事です」

 離婚、婚約破棄など悩みを相談に来る人もあるという。女性の司法書士だから女性の気持ちが分かってもらえそうとわざわざ電話してくる人、話だけして満足して帰る人もいる。「登記の仕事だけやっていれば楽しくない。裁判関係の仕事は話を聞いて、日数を掛けて書類作って、手間は掛かります。でも、相手にお世話になりましたって感謝されればうれしい。ただこれは全然お金にはならない、
ほとんどボランティアね」

 司法書士を目指せとアドバイスしてくれたのは、ご主人の巖さん。貴子さんは仙台の東北学院大で文学を勉強していた。巖さんは東北大法学部の学生だった。学院大の学祭で二人は知り合った。「東北大や学院大の法学部にちょこちょこ通って、『盗聴生』して司法書士の勉強をしました」

 二人はおしどり夫婦としても有名。自転車を二台並べて走らせ、市内のギャラリーへ。陶芸展や絵画展で肩を並べて鑑賞する二人の姿をよく見掛ける。休みの日には二人で岩木山や八甲田の湿原に山歩きに出掛ける。「仲のいいとこ、悪いとこそれぞれあるけど、他の人たちより少し仲の良いパーセントが高いのかも」と貴子さん。

 二人には共通の夢がある。長男正憲さんね21、次男正樹さんね19はそれぞれ東京でプロの棋士として活躍中だ。「少年少女囲碁全国大会小学生の部」で優勝した正憲さんは小学校の卒業式の翌日、東京の大枝雄介棋士の内弟子となった。正樹さんは中学一年から日本棋院の寮生となり、プロの棋士目指して修行。棋士として活躍する二人の姿を夢見て、以来仕送りを続けてきた。

 「下の子が二十二歳になるまでは頑張って仕送りしないとね」と貴子さん。「息子さんたち、楽しみですね」と水を向けると「えぇ、楽しみ」と穏やかにほほえんだ。

板画(イタエ)デザイナー 平成10年11月21日
秋田 昌子さん 「木の温かさを生かし”板画”を生み出す」
 秋田昌子さんね56は木を使って風や雨、雪を描く。薄い木を重ね、接着し、圧縮した「積層」や自由に思いのまま木を成形した「成形合板」を使い、ダイナミックな風景を表現していく。 

「木が好きなんです。子供のころ過ごした武蔵野の雑木林の木のにおい、感触が心の中に残っているのかもしれません」。無着成恭さんの明星学園で小・中、高校と過ごした昌子さんは自由に個性を伸ばすことができた。

 井の頭公園で風や雨と遊んだ思い出。そんな遠い記憶の中から生まれたような作品がある。染めた木を重ね、灰色の冬の風、紅色の秋の風、ブルーグリーンの初夏の風を描いた「風」。大地にぶつかる直前の雨つぶを表現した「雨」。まあるくふんわりとしたボタン雪や細雪(ささめゆき)を表した「雪」。この三部作は二年前、新制作展「スペースデザイン部門」で初出品初入選を果たした。

 昌子さんは桑沢デザイン研究所で写真を学んだ。カメラマンとして仕事をしたのち、天童木工で家具のプランナーとして働いてきた。「成形合板の家具を毎日見て過ごすうち、その曲線の美しさに引かれました」。木に力を加えることにより、こんなに自由に、思いのままの曲線を作ることができるのかという驚き。

 自分でデザインしてみたいという思いを抱えていた昌子さんにチャンスがやってきたのは四十九歳の時。山形県で開かれる紅花国体の「記念壁画」を作らないかという企画が飛び込んできた。「千載一遇のチャンスだと思いました。これは逃せないと」。

 子供から老人までだれが見てもわかるものをと、昌子さんは出羽三山と最上川をイメージした風景を染色した板と成形合板を使って制作。横約九・、高さ約六・のダイナミックな構図を持つ風景レリーフは新しい美術分野の誕生だった。

 昌子さんはこれを「板画(イタエ)」と名付け、昨年商標登録した。一九九三年に開いた初の個展では、「ジャパン・ジャポン・ニッポン」という現代浮世絵的な作品を出品。奈良・吉野の千本桜をモチーフにした作品で、淡いピンクに染められたなだらかな曲線の山肌に桜を表す大小の丸い木が彩りを添える。

 浮世絵師、葛飾北斎の富嶽三十六景の中の「凱風快晴」を木で表現したモダンな作品も並んだ。「木を使って日本的な題材を表現してみたい。木は金属と違って見た目も感触もあたたか。日本の建物にもしっくりとなじみます」と昌子さん。

 水の流れ、音の流れ、宇宙の流れをイメージしたという「旋律」、光と風が織りなす光景を大胆にデザインした「stream」などダイナミックな構成力と繊細な感性が合体して面白い作品が誕生する。東京生まれの昌子さんだが、この春天童木工を退職し、夫の郷里である弘前に活動の場を移した。

 「弘前の風物を題材にした作品作りや津軽塗のデザインにも挑戦したい」と話す昌子さん。青森の自然と昌子さんの豊かな創造力が重なりあって、どんな作品が生まれてくるのか。五十六歳の作家はスタートを切ったばかりだ。
 
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