パーカッショングループ・
ファルサ代表
平成6年9月10日
肥田野 恵里さん 「奥深さが本能を魅了! 心から楽しさを伝えたい」

 パーカッショングループ・ファルサのコンサートはとてもユニーク。ボディーパーカッションといって手や身体を打楽器のひとつにして演奏したり、拾ってきた石も楽器にしてしまう。そんな打楽器大好き人間が十五年前に集まって作ったのがファルサ。その代表を務めるのが肥田野恵里さん。マリンバ奏者としても活躍中だ。

 恵里さんは札幌市の生まれ。小学校四年のときから
マリンバを習い始めた。「本当はピアノがやりたかったんだけど、マリンバならいいって母に言われて。きっとピアノより買いやすかったからね」とほほえむ。珍しがられて「マリンバを弾く女の子」としてテレビの子供番組に引っ張りだされたこともあったという。大学の音楽科でもマリンバを専攻した。途中、本当にこの楽器でいいのだろうかと悩んだらしい。「ただ珍しいだけでチヤホヤされているんじゃないかしらって。上手だっていわれても空々しくてね」。

 そんな恵里さんが委託生として東京芸大に行って目からうろこが落ちた。東京で素晴らしい打楽器奏者に会って打楽器の奥深さと魅力を再確認した。

 そして十五年前、夫と共に弘前へきて作ったのがファルサだった。「結成して三年くらいは演奏してもどこの馬の骨って感じでみられましたね。変なタイコをドンドンたたいているしね」と笑う。そんなファルサも平成三年には県芸術奨励賞を受賞した。

 この夏は初の海外演奏会をデンマークで開いた。コペンハーゲンの王立音楽院のホールやチボリ公園での演奏はハッピーだったと恵里さん。「中でも猛烈に楽しかったのはなんといってもストリートでの演奏。道端に大道芸人みたいに帽子を置くのよ。向こうの人は気に入ったらコインを投げてくれるの。日本円にして五千円くらい集まったかな」と楽しそうに笑う。

 デンマークでも多人数による打楽器のアンサンブルは珍しがられた。特にオープニングで演奏したねぷた囃子は盛り上がったという。「デンマークの人は音楽好き。無理して聴かない。楽しんでくれているのが分かるのでやっている方もうんと楽しい。日本みたいにシーンとして、腕組みしながらウーンとうなって聴く人なんていないものね」。

 音楽の楽しさを伝えたいと小、中学校を回っての音楽鑑賞教室を始めて八年になる。今年も八月の末から毎週土曜日、小学校の体育館を使ってのコンサートが始まっている。初めて見る楽器に子供たちは目を丸くして聴き入ってくれるという。そんな地域に根を張った活動がファルサの本領だろう。「海外のコンサートで派手にライトを浴びたけれど初心に戻って地道にやっていきたいねって仲間と言い合っています」と恵里さん。最後に弾いてくれたマリンバの軽やかな音色が耳に残った。冬には名古屋でのソロコンサートが待っている。

黒石教会牧師 平成9年4月19日
伊丹 秀子さん 「黒石は第二のふるさと 教会の灯守り続けたい」

 黒石市の御幸公園の近くに小さな教会がある。
一九三〇年に建ったというその建物は懐かしい日本家屋そのまま。当時、不況の嵐が吹き荒れる中、ひとりのクリスチャンが土地を提供して建てられたものだという。屋根の上の十字架だけが教会だということを教えてくれる。

 この教会に女性の牧師がやって来たのは四年前。長野県生まれの伊丹秀子牧師(35)だ。「牧師って男の人で偉そうで堅くてとみんな思っている。そんな今までの牧師のイメージと全く違うって言われます。すごく軽い人で感動したって」と楽しそうに笑う。

 礼拝堂にはオルガンとピアノと長いす。三十人も入ればいっぱいという小さな礼拝堂だ。午後の四時を過ぎると、子供たちが礼拝堂に姿を見せ出す。秀子さんは「教会を地域に開放したい」と三年前から日曜学校をスタート。普段の日も近所の子供たちがやって来て、教会は遊び場に早変わりする。

 礼拝堂の隣の部屋が秀子さんのプライベートルーム。ここで子供たちはマンガ本を読んだり、ゲーム機で遊んだり思い思いの時を過ごす。「教会が時間に追い立てられている子供たちの息抜きの場になれたらいいな。」ファミリーコンピューターとマンガが趣味という秀子さんは子供たちにとって牧師先生というより遊び場のお姉さんといった存在だ。

 なぜ牧師に?と聞けば「両親はクリスチャンでもなんでもないの。それどころかキリスト教徒になると当時は連合赤軍になるんじゃないかって猛反対されました」と笑う。中学一年の時にアメリカのクリスチャンの家庭にホームステイしたのがきっかけだ。

 何も分からない日本の中学生に細かい心遣いをしてくれたアメリカ人の家族の
優しさに驚いた。初めて出会った人間のタイプだった。「帰国後、それまで暗くて
人見知りするタイプだったわたしがすっかり明るく変わりました。アメリカ人の家族に恩返ししたくて、高校一年の時に洗礼を受けた。

 「激しい親子ゲンカの末でした。お前の将来にはいっさい責任を待たないと勘当同然」と秀子さん。その時はまだ「牧師は男」と思い込んでいた秀子さんは大学は薬学部に入学。だが上京して女性の牧師に出会い「やっぱり牧師になりたいと
大学を辞めた。フリーターをしながらおカネを貯めて「東京神学大学」に入学。卒業後日本キリスト教団の教師検定試験を受け、四国の高知教会で見習いとして勉強したあと、初の赴任地が黒石と決まった。

「女性は男の牧師の下で補佐というのが多かったけど、わたしは牧師として一人立ちしたかった」と話すが「いろんな教会に赴任するのを楽しみにしていたから、ここの生活も楽しんでいます」と自然体だ。生まれた土地も城下町だったので、黒石にいると故郷と錯覚するという秀子さんは雪かきも「ジャズダンスを習う代わりに」楽しんでやった。

 秀子さんの夢はいづれここに新しい教会を建て直すこと。
「小さな町で小さな教会を守り続けてきた人々の心を大切にしていきたい」と話す。結婚は?と余計なことを尋ねれば「それは神のみぞ知る」とかわされた。

カフェ「フェニックス」の
ママさん
平成7年3月18日
中西 マスエさん 「思うがままに歩む ハイカラママさん」

 弘前市桶屋町で、コーヒーとカクテルの店を営んでいる。「ここがわたしのお城」とマスエさん。北に面した窓からは柔らかな光が入り、低く映画音楽が流れている。

 八十二歳のマスエさんはハイカラでチャーミングなママさん。店にはクラーク・ゲーブルの写真が貼ってある。
「ゲーブルのちょっと下品で、野性的なところがええナ」。映画が大好きなこの人は神戸は湊川新開地の大きな
下駄屋のお嬢さんとして育った。

 周りは映画館が続く歓楽街で、裏には福原遊廓があったという。「その真ん中を通って小学校へ通ったんよ。賑やかなところやったけど、新開地も今度の震災で焼けてしもた。この春、九十一になる姉を訪ねて、神戸に行こうと思っていたのにな」。

 弘前に来て四十年になる。どうして弘前に? と幾度となく問われた。「縁というのは不思議なものやナ。そのころ、主人がか京都でネクタイやマフラーの製造業をしていて、在庫を掃かすために北の国へ来たの。たまたま知り合いがいたから弘前へ。ほんのちょっとのつもりが四十年やもの」。マスエさんが夜行の普通列車に二十七時間も揺られ、弘前に下り立ったのは四月の末。街は「観桜会」にわき立っていた。「えらい田舎やと思たエ。寒いとまだ角巻きしてはるお人もいたわね」。
 
 「新しいところに行くのは面白い。何があるか分からないんだもん。冒険心やね。結婚した時かて、神戸を飛び出したくて、夫をステップボードにしたんかな」。
冗談とも本気ともつかないことを言う。

 弘前では「サントリークラブ」「トリスホール」「再会」といくつものバーや喫茶店を
経営した。昭和四十九年に夫を亡くしてからは。人で店を切り盛りしてきた。
「子供五人を育てながらの商売はそれは大変やったよ。主人は顔を出さないオーナーだったしな。でも元気印ということなら自信ありや。常にアホかいなと思われる生活ぶりでございます。オホホホホ」と笑う。

 毎日午後一時には店にやって来る。自分のためにコーヒーをいれ、一人の時間を愉(たの)しむ。近くの銭湯でゆっくり温まったあと、マスエさんの楽しみは文章を書くこと。映画音楽を聴きながら自分史をつづり、日々に思うことを書きつけていく。「娘時代、阪急デパートに勤めていて、女性の従業員を組織して組合みたいなものを作ろうとしたん。それで検挙されて十日間拘留されたことがあるんや。
随分屈辱的な取り調べを受けて。そんな時代もあったね」と静かに話す。

 「いろいろやりたいんよ。去年、PTA成人講座で講演したん。わたし書くの好きやろ。それに話すのが加わるからよけい面白いやん。初体験だから、はりきったんよ。またやりたいなアー」とマスエさん。ドキドキしなかった?と尋ねると
「するかいな、そんなもん」と威勢がいい。
 
「悠々自適。お金はないけどナ。ええやん、八十になってからセカセカしないことにしたんねん。自分の体におうたやりかたせにや、長続きせんもん。店は長くやりたいね」。明るくサッパリと生きるマスエさん。
「またコーヒー飲みにおいで」。
背中で聞いた言葉が温かかった。

弘前学院大学教授 平成10年3月14日
遠藤 知恵子さん 「50歳が人生の再出発 生き方に回り道なし」

  弘前学院大学で社会学を教える遠藤知恵子さん(57)。「お若いですね」と声を掛けると、「若さの秘けつは年取ってから学校に入り直すことかしら?」といたずらっぽい笑顔を見せる。

 専業主婦を十三年経験した後、三十八歳で北海道大学教育学部に学士入学。十年掛けてマスター、ドクターコースヘと進み、五十歳で生まれて初めて就職したという異色の大学教授だ。

 札幌に家族を残し、弘前に単身赴任して七年になる。「一人暮らしは生まれて初めて。夫とは離れることによってお互いに良さが分かった。別々に暮らす意味がありましたね」。ニコニコと温和な表情を崩さない。肩の力が抜けている。「主婦の感覚が抜けず、教授会でお茶を入れようとして、遠藤先生しなくていいからと男の先生にたしなめられたり」と照れる。

 二十四歳で結婚した。二十五歳で母親になり、二年おきに三人の子を生んだ。
とにかく社会とつながりたいとPTA活動、子供劇場、母親クラブなどの活動に参加。「子育ての中で、親が変らないと子も変らないと感じた。その時から、家庭に入った女がどう社会とかかわっていくかがわたしの大きなテーマとなりました」

 長女の中学入学を機に大学に入り直そうと心を決めたが、一年目は大学から
拒否された。「ここはカルチャーセンターじゃない」と陰口をたたかれたこともあった。聴講生として一年通い、実績を積んでから再度挑戦。夫は室蘭に残り、知恵子さんは中学生と小学生の子を連れて札幌に移住し、北大に通った。

 「これが一回目の別居。夫と離れて、子育てしながら学生をしたという人は意外に少ないかも」とふんわりした笑顔を見せる知恵子さん。学部の卒論のテーマは、
当時最も関心を持っていた「PTA」だった。

 苦労がなかった訳ではない。長男が中学生の時、びっくりするくらいの反抗を見せた。「大学院を止めた方がいいのかなあと思った時期もありました。でも止めて、親がべったり見ていればいいという訳じゃない。客観的に子供を見ようと大学院を続けました」

 五十歳で弘前へ就職が決まった時はさすがの夫も難色を示した。「すぐに帰るからと半年掛けて説得しました。わたしが家を出てからは夫も食事を作り、洗濯をするようになり、このごろはわたしよりいいものを作って食べているみたい」。新しい夫婦の形が生まれつつある。

 ゼミでは女性か自立するとはどういうことか、人間にとって働くこととは、高齢者の問題などさまざまな切り口から社会を見直そうと考えている。「大学を地域に開いていきたい」と学外への開放講義や公開講座にも積極的に取り組む。

 「生活や地域の中に学習のきっかけはある。それぞれの生活の中で変わっていくことが学習。まずは自分たちが抱える問題に気付くこと。講演会を聞いて男女役割分担を大声で叫ぶよりも、生活の中で徐々に変わっていくのもいいんじゃない」とやんわり語るが、さすが実戦に基づいているから説得力がある。

 地域とかかわって、その地域の課題を研究していきたいと考えるが、「地域としっかり結び付くと北海道に戻れなくなるかしら」と苦笑する。この土地に住み続けたいと考える知恵子さんにとって、北海道に根づいている夫とどう歩み寄っていくかが今後の大きなテーマだ。「理想論は理想論として、夫には申し訳ないと思ってますね」。研究者ではない、素顔の知恵子さんが笑っていた。

ヨガインストラクター 平成8年8月17日
鈴木 恵子さん 「木や鳥と同じく 自然に生きたい」

 赤ちゃんがおなかにいる間もヨガの先生を続けた。
「倒立やプリッジは臨月でも大丈夫。倒分は逆さまになることで胃や腸に圧迫されている赤ちゃんが楽になるのよ」。

 兵庫県の生まれだが、岩木山の麓(ふもと)で暮らすようになって十一年になる。おばあちゃんのたきさん(92)、お母さんのたけさん(72)、絵師である夫の秀次さん、二人の子との六人暮らし。「リンゴと米を作る農家の嫁です。農家の嫁らしからぬ嫁」と笑う。週に二日、サンライフ弘前、弘南生協尾上店、岩本町公民館など五か所でヨガを教えている。

 サンライフ弘前の教室では三十代から六十代の女性たちがゆったりとした音楽の流れる中で、ヨガを学んでいた。鈴木さんの声に合わせて、ポーズを取っていく。「ゆっくりと呼吸をして。体の中の血がサラサラと流れてていくのを感じます。はい力を抜いて」。滞っていた血の流れが良くなり、体のこりがほぐれていくのが分かる。ポーズをとった後の脱力感が心地よい。

 「気持ちのとんがっている人の体をヨガでほぐしてあげると、優しい気持ちに戻れます。相手のことを思いやれる余裕ができる。体と心は。一体なんですよ」。鈴木さん(44)がヨガと出合ったのは二十五歳の時。東京学芸大で精神薄弱児教育を学んでいたが、芝居に引かれ中退。役者を目指し青年座の研究所で学んだ後、前衛劇団の舞台に立った。その一方で前衛舞踊にも心引かれ、自分の踊りを作りたいと腐心していたころだった。

 「自分には才能がない、どうやって生きていったらいいのだろうと悩み、自分に自信をなくしていた時、『すべての人の中に仏がいる』というヨガの言葉に救われました。ヨガはわたしの道しるべ」と話す。

 自然体で生きることをモットーにしている。大地くん(12)海くん(4)は自宅で出産した。
「わたしひとりが頑張るのではなく、おばあちゃんも夫も家族皆が頑張ったお産でした。不自然なことより、自然に生きたい。風や木や鳥と同じ存在だという思いを大事にしたい」。

 ヨガと聞くとオーム真理数の麻原のイメージが強いが「わたし自身子育てをし、農作業をするという俗っぽい人間だから、悟りを得るというようなものではないですね。わたしのは農作業や生活の中から生まれたヨガ。本当は邪道なのかも」とクスリと笑う。

 岩木町五代の獅子舞いの会員としても活躍。女は入れないという五百年の歴史を破り、たった一人の女性会員として踊る。
三十一日には五代の神社で舞い姿を見せる。「獅子を舞う時も岩木山からパワーをもらって踊ります。わたしがこの地で頑張れるのは土や宇宙やリンゴの木からパワーをもらっているから。ここで暮らすようになったのも、岩木山に呼ばれてきたように思うの」。

 九月から弘前市中野にある弘南生協西弘店で子育て中の女性を対象にしたヨガの教室を始める。「子供をそばに寝転ばせなからできるヨガの教室です。子育て中のお母さんのストレス解消になるんじゃないかしら」。
体の不自由な人やお年寄りにもヨガを教えたいと鈴木さんは考えている。

 「二十代のころ、役者としてやっていきたいと躍起になっても思い通りにはいかなかった。
今できることを精一杯やっていれば次が生まれる。次に行くべきところに自然に連れて行ってくれると思うようになりました。
これもヨガが教えてくれたことかな」。化粧っ気のまったくない素顔が眩(まぶ)しかった。

 
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