大池さんの作る人形は陶器のようなすべらかな肌と風になびく髪、流れるようなフォルムが特徴。昭和五十五年から日展に十六回連続人選を果たしている。
一点作るのに四ヵ月ほどかかる。丸太をノミで削り、その上に粘土を付けて肉付けしていく。削りと肉付けを繰り返して造形したものをヤスリで磨き、和紙か絹を張って
胡粉(ごふん)を何回も塗っていくという。
「根気とエネルギーのいる仕事。主人の協力があってこそ」と話す豊子さんは、大学生を頭に小学一年生まで
五人の孫がいるチャーミングな女性だ。
「これほどやるとは思ってなかったんですよ。最初は戦後のどさくさの中で育った娘たちに、おひなさまを作ってあげたかったの」。豊子さんが人形作りを始めたのは二十七年前、四十歳を目の前にしたころ。「結婚してから何かしたい、何かしたいと思っていました。でも子供の手がすっかり離れるまでとがまんしていたんですよ」。一番下の子が小学六年生になったのを機会にあれこれチャレンジを開始。
その中で巡り合ったのが人形作りだった。
たまたま見た石崎あいさんの人形に心引かれ、なんとか弟子にしてほしいと頼みこんでみたという。だが弟子は取らない方針の石崎さんにきっぱりと断られた。
それでも諦めきれない豊子さんは、電話での指導でいいからと必死で頼みこんだ。
やっと許しが出た電話を通しての指導。「新聞紙をカセイソーダで溶かして・・」と教わりながら作ったという一作目の作品を見せてもらった。それは、小さな子供があどけない表情で唄を歌っている愛らしい人形だった。
「初めて作ったこの人形にはわたしの魂が封じ込められているんですよ。
今まで抑えていた気持ちを全部閉じ込めて・・」。
それから五年後の昭和五十一年、日展に初出品し、見事に初入選を果たした。
作品は「休日」。幸せそうな親子を人形にした。「おむつを洗ったり、ずっと子供の世話に明け暮れてきたので、これしか知らなかったから、家庭の中の親子の姿を人形にしたんです」と豊子さんは照れた。
その後は弘前ねぶたの鏡絵や見送り絵を題材に作品を作った。近作は夫婦が遠くを眺めている「彼方」や「雨去りて」「虹」など、男と女の姿が形作られた作品が多い。「モデルは主人とわたし。雨が降ったり、風が吹いたり、虹の立つ日もありました。風も雨もおさまって、二人で静かに暮らしたいなーという願望なんですよ」。
豊子さんは敗戦後すぐのころ、女医を目指して女子医専で勉強していたことがある。だが、勉学の途中で医者の卵だったご主人と出会い、意気統合して結婚したのだという。女医さんになって、ばりばり働いていたかもしれませんね?と水を向けると、にっこりと笑った豊子さん。
「この道で良かったんでしょうね。後悔はありません。幸せな人生だと思っています」。そう語りながら、居間の片すみで人形作りをする豊子さん。「そうじや洗濯、
食事の支度の合間に作るのよ」と話す、その穏やかな笑顔に思わず見人った。
人の人生にこうしていたら、ああすれば、という仮定は存在しない。この人生が唯一のもの。自分自身が選び取ってきた道を後悔することなく、いい人生だと言い切る先輩の姿に頭が下がった。豊子さんの製作する人形の気高さ、優しさは、そんな豊子さん自身の生き方を映しているのだと、そう感じた。いつまでも、自分自身のために、人形作りを続けていただきたい。 |