「グルメさわだ」オーナー・故沢田教一夫人 平成11年12月11日
沢田 サタさん 「写真を通して夫と再会 今も心に生きる教一の姿」
 津軽にこの冬初めての、激しい雪がふぶいた夜、澤田サタさん(74)のレストランを訪ねた。ふっくらと愛らしい笑顔の女主人が、エプロン姿で出迎えてくれた。「グルメさわだ」は自宅を開放した小さなレストラン。一日一組だけ、サタさんの手料理がいただける。気持ち良く暖められた居間には、一枚の写真が飾られていた。

 そのモノクロ写真には、幼子の手を握り、赤ん坊を腕に抱えて必死に川を渡る二つの家族の姿がとらえられている。日常の暮らしを一瞬にして壊す戦争への、無言の抗議が伝わる写真だ。「安全への逃避」と名付けられたこの写真は、ハーグ世界報道写真展のグランプリ、ピュリッツアー賞などを受賞し、サタさんの夫、故教一さんのカメラマンとしての生き方を決定づけた。

 「沢田が亡くなって約三十年。今でも沢田の写真集を見たという若い人たちから、電話や手紙が届きます。今年は文庫本『泥まみれの死』が新装版となって再び世に出、沢田の人生がドラマになった節目の年。写真を通して、わたしも改めて沢田と出会っているきがします」

 今年、サタさんは十年ぶりで教一さんと暮らしたベトナムのホーチミン市、激戦地フエを訪れた。ベトナム戦争を撮り続けたカメラマン沢田教一とサタ夫人を描いたドラマ「輝ける瞬間」の撮影現場への同行だった。

 大きなビルやホテルが立ち並び、近代的な町へと変貌したホーチミン市。「わたしにとっては今でもこの町はサイゴン。きれいになってびっくりしたけれど、市場や路地は昔のまんま。でも人々の顔に笑顔があった。子供たちの目のきれいだったこと」

 サタさんが今回撮ったという写真を見せてもらった。道端でスイカを売る陽気なおばさん。路地にたむろする子供たちの笑顔。「こんな平和なベトナムの姿を沢田に見せたいと思いました」とサタさんは少し遠い目をした。

 サタさんは弘前市の生まれ。いつか外国に行きたいというあこがれを持つ女の子だった。「好奇心おう盛の怖い物知らず」とサタさん。十八歳でたった一人、知り合いを頼って満州に渡ったこともある。「食いしん坊なの。行けば中国の料理が食べられるかなと」と言って屈託なく笑う。

 戦後、三沢市の米軍基地でハウスキーパーを募集していることを知り、さっそく応募。元は船のコックさんだったという家の主人からスペアリブ、ポークビーンズ、ローストビーフなど洋食を学んだことが、現在のサタさんの出発点だ。

 サタさんと教一さんの出会いは本当にドラマチック。教一さんより十一歳年上で、結婚はあきらめていたサタさんの元に、クリスマスの夜に届いた一通の電報。「セキイレマシタ・マイオクサン」。十九歳の教一さんからだった。

 三沢での幸せな結婚の日々。そして上京。UPIのカメラマンとなり、その後ベトナムに渡った教一さんとの生活は、結婚十四年で終止符が打たれてしまう。カンボジア郊外での襲撃による突然の死。

 「心に決めたことは必ず実行する人でした。若いのに常に落ち着いていて仕事熱心。だからわたしは彼を若ジジイって呼んでいた。わたしはいつも彼に付いていっただけ」。朝も夜もない戦場の取材。隣で地雷が炸裂し、目の前で若い兵士の肉体が肉片となる。どろどろになって帰ってくる教一さんを支えたのは、おおらかで、いつも明るいサタさんの存在だったに違いない。

 当時、外国人記者はサタさんを「小柄だが、太平洋ほど広いハートを持つ女性」と評したという。「あまり深く考えないで、すぐ行動しちゃう。だから失敗もたくさん」。サタさんの無邪気な様子や失敗をだれよりも楽しんでいたのは教一さんだったろう。

 教一さんが亡くなって二十九年の歳月が流れた。「沢田はずるい。今でも三十四歳の顔なんだもの。ここに来たお客さんが沢田さんのお母さんですかなんて言うの」と笑顔を見せるサタさん。

 「寝てばかりいると何もできないよ」というのが教一さんの口癖だった。「だからわたしは今もばたばた忙しく暮らしています。先のことは考えず、きょうを大事に生きればいいよね」。教一さんが好きだったという赤を」着て、まるできのうのことのように二人の暮らしを話すサタさん。心の中の時計は二十九年前のまま、とまったままだ。
声楽家 平成12年10月7日掲載
虎谷 千佳子さん 「弘前オペラと共に30年 自分らしく歌いたい」
 「わたしはね、おめ、音楽だけはやらないでけって、母に言われて育ったのよ。音楽家はからきじだって」。カラカラと美しいソプラノで笑う虎谷千佳子さん(51)。

 千佳子さんは弘前オペラの舞台で「蝶々夫人」を演じるなど、三十年間華やかなプリマドンナを務めてきた。弘前市民会館大ホールで十四、十五日に行われる第三十回記念公演「フィガロの結婚」では伯爵夫人の役で舞台に立つ。

 千佳子さんの祖母方は画家が多く、祖母の弟が阿部合成、祖父方の姉妹は皆音楽家という芸術家の一族。「大おばは音楽が汚れるからって結婚しなかった人なんです。みんな芸術家で破滅型だったから、音楽だけはやめてと母に言われたんでしょうね」

 弘高時代は文学少女だった千佳子さんは、東京の大学に行って国文学をやるのが夢だった。だが、三姉妹の長女だった千佳子さんは地元に残り、家を継ぐ責任が負わされていた。「捨てばちな気持ちで、進むなら勉強しないでいい学部って考えました。絵は合成おじの大変な人生見てましたし、体育は運動会でいつもびりだったし、ピアノは小さいころから練習してきた人に勝てないし、歌ならあーって言えば声が出るかなと。そして進んだのが声楽。偶然の産物です」

 入学した弘前大学で出会ったのが、生涯の友となる音楽科の仲間たちだった。当時から落ち着きを見せ、大学の先生かと思ったという一つ年上の熊木晟二さん。学科のプリマドンナとして活躍していた木村直美さん。作業服姿で学校に通い、ずっと電気工事の人だと思われていた木村義昭さん。当時はフルート担当だった虎谷順一さん。現在の弘前オペラをつくり、支えてきた貴重な仲間たちだ。

 それから三十年。弘前オペラと共に歩んできた。子供を出産した後も翌年には舞台に立った。仲間たちはみな、幼い子供を連れて練習に集まった。

 「第十回公演では百万円も赤字が出て、もう解散しようと思ったの。そしたらちょうど県の文化報奨もらって、やめられなくなっちゃった。みんなでボーナス出し合って穴埋めして。今弘前オペラに残っているのは、そこまでやってきた人ばかりですね」

 昨年の二月、千佳子さんはがんの手術を受けた。引きこもりがちだった千佳子さんに、「一緒に舞台をやろう」と仲間たちは背中を押した。今回は手術後の復帰の舞台となる。公演が行われる同じ日、東京では娘の亜希子さんが母と同じ「フィガロの結婚」の舞台に立つ。

 「娘は中学を卒業するまでわたしに反発していました。歌だけはやらない、オペラだけはやらないと。小さな時投げて歩いたから、寂しかったんだと思う。でも今は音大に通い、わたしよりオペラにはまっているのよ」と千佳子さんは笑顔を見せた。

 病気を経て、肩の力が抜け、楽になったという。「世界を舞台に歌う人のようになりたいと思ったこともあった。舞台の上で所帯じみたところを見せては駄目と突っ張ったこともあった。でも今は自分らしく歌いたい。それだけかな」

 オペラによって結ばれた音楽科の仲間たちも年齢を重ねた。「ベテラン中心の、このメンバーでやれるのは最後かも。ここから若手が育って、三十五周年には蝶々夫人を演じてほしい」と次の世代に期待を寄せる。

 「歳をとったら、仲間みんなでオペラハウス付の老人ホームを建てようって言ってるの。お昼にはカルメンを歌ったり、『まだまだ駄目』って若手をしごいたり」。千佳子さんの人生は最後の最後まで、弘前オペラの仲間たちとともにある。
2004年3月3日没
書 家 平成11年9月11日
鎌田 舜英さん 「インターネットが趣味 墨の文化を世界へ発信」
  鎌田舜英。響きのいい名だ。中国の伝説の名君の名「舜」と秀でるの意味を持つ「英」。書の師匠だった故佐藤中隠さんから二十七歳の時、つけてもらった。舜英の書はダイナミックでおおらか。そう伝えると「わたしって繊細なところもあるんですよ」とちょっと不服そうに口をとがらせた。

 今年の春、コーラスグループ「ねむの会」の演奏を聴いていて、薄物をまとい、「宵待草」を独唱する女性の姿に目が留まった。白木佳乃。舜英さんのもうひとつの顔。佳乃さんはコンピューターを自在にあやつり、短歌や漢詩をつくり、弘前高校と弘前学院大で書を教え、一人娘のためにケーキを焼く。鎌田舜英と白木佳乃がカラフルに交差する人生。

 物心ついた時から筆を握っていた。弘前中央高校で出会った佐藤中隠さんが人生を変えた。「中隠さんと出会ってなければ書家にはならなかったでしょうね」。「女は信用できない」が中隠さんの口癖だった。女は恋におぼれ、才におぼれ。「出来る女ほど早く去っていく、書を捨てると経験から思い込んでいたみたいです。結婚などするなと言われ続けました」と笑う舜英さん。

「書を捨てない」という条件で許された結婚。三十一歳で子供を産み、三十三歳の時、書のルーツである中国の文化を学びたくて、弘前大学大学院に入学。好奇心旺盛な頑張り屋だ。

 「鎌田舜英は独身で書だけをする人」と語る。墨の中で思い切り遊ぶ。舜英さんが一番好きなのは近代詩文だ。白い紙と向き合い、墨の濃淡、線の強弱で思いを自由に表現する。まるで絵を描くように。詩をばらばらにほぐし、組み立て、縮めたり、デフォルメしたり、アングルを変えてみたり。言葉の持つイメージを自分なりに解釈し、紙にぶつける。

 近代詩文の持つ自由さ、奔放さが性に合っているのだろう。「自分の心に合った詩と出会うことが大事。ぴたりと合った詩なら、わーっとどんな風にも書けると思う」。今、日展に向け作品を制作している。太陽の下で書くのが好き。「快晴の日は、書き日和だって思うの。うしみつ時にじくじく書く気にはなれないわね」。カラカラと声を立てて笑った。

 四十歳の誕生日を目指し、インターネットで作品を公開しようと考えている。スキャナーで作品を取り、デジタル化しているところだ。全国に散らばった教え子からインターネットを通じて書の作品が届くこともある。「若い人たちがこれから書にどう親しんでくれるか。ちょっとした試み。外国の人にも日本の文化、情報を提供したい」と好奇心いっぱいの目を光らせる。

 仲間たちは皆、書一筋。いろいろな事に手を出す舜英さんはちょっと異色の存在だ。「もうすぐ不惑の年だけど、今はこんな風にしていたい。一手じゃだめだと思う。武器はいっぱい持っていた方がいいよね」といたずらっぽい目を向けた。

 書を書くという放電する行為の中で、コンピューターをいじったり、短歌をつくり、歌を歌うことが舜英さんの充電なのだろう。「四十歳代は自分から発信していきたい。これからを生きる世代に古いものの良さを感じてもらえるように」。書の世界も少しづつ、新陳代謝を続けている。
ワインコーディネーター利酒師 平成12年11月18日
前田 望美さん 「母と同じ利酒師の道を 仕事と家庭の両立が夢」
  「この三年半。振り返ると十年ぐらいたっている気がします。いろいろなことがありました」。前田望美さん(26)が学生時代を過ごした札幌から故郷弘前に戻って三年半の月日が流れた。昨年一月に亡くなった母知恵子さんの跡を継ぎ、 酒師、ワインコーディネーターとして活躍する毎日だ。

 今からちょうど四年前の十一月十六日。母知恵子さんは県内初の女性 酒疎師として「私的に素敵」の欄に登場してくれた。ガラスの酒杯を持ち、輝くような笑顔を見せてくれた知恵子さん。望美さんを前にして、わたしは知恵子さんの面影を探した。

 「母は家族の中のアイドルでした。弟は母を知恵ちゃんと呼んでいて、父におれの女を取るな、なんて言われて。娘から見てもいつも一生懸命で、かわいい人でした」。笑顔を浮かべてゆっくりと、望美さんは口を開いた。

 望美さんが弘前へ戻ってきたのは、 酒師として活躍し、家事と仕事に忙しい日々を過ごす知恵子さんをサポートするためだった。「本当は教師になりたくて。百%納得して帰ってきたわけではなかったんです」。公演やイベント、営業にと外に出ていく知恵子さんを支え、望美さんは「前田酒類食品販売」の経理を担当した。

 望美さんの気持ちを動かしたのは知恵子さんの前向きな姿だった。「わたしも何かしなくっちゃと思いました。母が日本酒ならわたしはワインをやろうかなと」。一九九七年十月、東京で行なわれた第一回ワイン・コーディネーター呼称資格試験をパスして、県内初のワインコーディネーターとして仕事を始めた。

 「酒の旭屋」のワイン部門を任され、日本酒は知恵子さん、ワインは望美さんと車の両輪として活躍を開始したさなか、知恵子さんが病に倒れた。最後の最後まで前向きだった知恵子さん。「母は仕事が大好きでした。自分のことを認めてくれる人がいるのはとてもうれしいと。母はずっと頑張ってきた。それを受け継ぎたいと思いました。わたしがやるべきだと思いました」。九九年の秋、望美さんは知恵子さんと同じ 酒師の資格を取得した。

 「十一月、十二月は一年で一番忙しい月」と望美さんは張り切る。十六日のボージョレ・ヌーボーの解禁に始まり、連日のように開かれる味わう会でワインの話を披露する。「春から夏にかけて好天が続き、おいしいブドウが出来ました。今年のボージョレ・ヌーボーは期待できそうです」とにっこり。店頭では好みや料理に合ったワインをアドバイスする。

 ワインコーディネーター、 酒師として腕を振るう望美さんだが、「来年三月に結婚します」と幸せそうな笑顔を見せた。「相手のおじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんと一緒に住みます。みんなで温かい家庭をつくっていきたい。それは母もしてきたことですから。仕事も家庭も両立していきたい。それが夢」と話す望美さん。

 着実に一歩一歩、前に進んでいく望美さんの姿はとても頼もしい。「お母さんが目標。家庭の中でもすごくいい母親だった。外に出て仕事だけできればいいとは思わないの。母が理想かな」。少し照れたような表情を見せる望美さん。知恵子さんの姿を思いながら、望美さんは新しい生活を切り開いていくのだろう。輝くような笑顔が知恵子さんの笑顔と重なった。
七戸町立鷹山宇一記念美術館館長 平成11年9月25日
鷹山 ひばりさん 「父の絵と共にある幸せ 自然に包まれ子育て中」
 「お父さんの絵を守りに七戸町に来ないか」。その言葉に心を動かされ、鷹山ひばりさん(49)は今年の春、七戸町にやって来た。夫と六歳の息子を伴って。雪景色がひばりさん一家を出迎えた。

 青森市からみちのく有料道路に入り、走ること三十分。国道四号線に下り、天間林村を過ぎると七戸町文化村が見えてくる。この一角に鷹山宇一記念美術館がある。暗闇に舞う蝶、咲き乱れる赤や紫の花。透明感あふれる青と緑の世界が鷹山宇一の絵画だ。ここには宇一の作品と彼がコレクションしたエレガントな西洋ランプなど約三百点が並ぶ。

 ひばりさんはここの名物館長。その名の通り、ハイトーンの愛らしい声と抜群に華やかな笑顔の持ち主だ。

 「息子の壮央(いさな)を産んだのが六年前。四十三歳の高齢出産でした。人よりも二十年遅くスタートした子育て。共にいる時間が短い分、子供と濃い時間を過ごしたいとここでの子育てを選びました」

 自然の中でゆったりと壮央君を育てたいというひばりさんの思い。「東京には故郷という意識がない。息子には故郷や幼なじみを持たせてやりたいのです」と話すひばりさん。父、宇一さん(90)が小学校時代を過ごした七戸町で、温かい人々に囲まれて子育てすることがひばりさんの願いでもあった。

 とは言っても、戸惑うことも多い。壮央君の入学式の日も大雪だった。「大変な所に来ちゃったって思ったわよ」とひばりさん。それでも雪が溶け、草が芽吹き、やがてウグイスが鳴き始める季節の移り変わりに新鮮な驚きを感じた。「遅く来る春ほど強い春だと思いました。東京にいたからこそ、豊かな場所、本当に豊かな心とは何かが分かるのだと思います」

 朝十時、美術館に出勤する。来館者に宇一さんの作品、思い出話を語るのがひばりさんの仕事だ。家族のこと、作品を描いた当時のこと。話を聞きながら作品を見ると、またひと味違うねと言ってもらえるのがうれしい。

 「父の描くなだらかな山は七戸の山」とひばりさん。小学校六年まで過ごした七戸に宇一さんの原体験があるとひばりさんは考えている。「終戦後、疎開先の七戸で父は個展を開きました。町の人たちがみんなで父の絵を買ってくれ、それを資金に再び上京したんです。七戸の町の人に支えれて、絵かきとしての父があった。そんな七戸の人たちの心を父はとても大事にしていました」

 展示されている宇一さんの絵には「個人所蔵」と記されたものが多い。町民が個人で購入した作品を美術館に預ける形で公開している。「自分一人で所有するより、みんなに見てもらいたいという町民のみなさんの心にお返しできたら」。この美術館自体、町民が十年前から「美術館をつくる会」をつくり、準備運動を続け、一九九四年に完成した。町民手づくりの心のこもった美術館だ。

 五月にひばりさんが企画し、開催した「平山郁夫展」には県内外から一万五千人が訪れ、大成功を収めた。東郷青児亡き後、二十年に渡り仁科会の事務局としてさい配を振るったひばりさんならではの企画だった。

 「毎日毎日、父の作品と対峙(たいじ)できるのは娘として本当に幸せ」とにこやかな笑顔を見せるひばりさん。町民の手に支えられた鷹山宇一記念美術館。人口一万一千人の町の、美術館に入れ込む意気込みは大きい。

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