型絵染作家 平成8年5月4日
流郷 由紀子さん 「リンゴが結んだ絆 弘前は心の故郷」
 「リンゴの花から元気をもらって立ち直りました。それ以来リンゴに恋しています」。四月の末に弘前市一番町の田中屋画廊でリンゴ尽くしの作品を開いた流郷由紀子さん(50)はこう言ってほほえんだ。

 流郷さんは自然に咲く草花をモチーフに型絵染めをする作家。昨年一月の阪神大震災で西宮のアトリエと家が崩壊した。放心状態で避難所暮らしをしていた、そんな時、弘前の知人から「リンゴの花が満開ですよ。見に来ませんか」という誘いを受けたという。

 「岩木山のふもとで、無心に咲くリンゴの花を見た時、ああ生きているだと確認できました。元気なら、来年お礼の気持ちを込めて弘前で個展を開こうと決心したんです」

 会場にはたわわに実ったリンゴのタペストリー、リンゴの香がにおい立つようなランプシェード、器などリンゴの化身のような愛らしい作品が並んだ。

 その中には満開のリンゴ園から眺めた岩木山を描いた水彩画もあった。「日本全国に山はたくさんあるけど、岩木山と桜島の山が好き。岩木山は穏やかに包み込んでくれる感じがします。桜島を見ると心が奮い立ち、岩木山を見ると心が慰められます」

 震災後、工芸の無力さを感じたと流郷さんは言う。「避難生活に必要なのは一枚のアルミの皿と一枚の服でした。無駄なものを作っていたのかという思いがわたしの中にありました」。だが、弘前で見た満開のリンゴの花に慰められ、美しいものの持つ力に気付いた流郷さんは、西宮に帰った後、被災後初めて作品を作った。

 現在大阪にアトリエを開く流郷さんもとには、神戸の仮設住宅に住む人などが花の絵を描きに通ってくる。「月に一回のやすらぎだと皆言ってくれます。工芸作家の仕事は精神文化の引っ張り役だと思うんです。被災してみて、ぜいたくの大切さを実感した。わたしの絵や器を見てほっとしてくれたらうれしい。人の心が優しくなるような作品を作りたい」と話す。

 そんな流郷さんにも、染色の仕事を全く辞めてしまった時期があった。きっかけは結婚だった。それまで池坊短期大学の染色研究室で草木染を指導していたが、結婚を機に仕事は一切止めた。「結婚するからにはプロの主婦になろうって思ったんです。でも一年でがまんできなくなり、再開しました」と笑う。

 家の中でできることを、と考えた流郷さんは子供を連れて行く公園や道端に咲く草花を描くことから始めた。子供の描いた絵を型紙に彫り、子供のTシャツやかばんに型絵染めしたり、ランチョンマットに型染めするなど家庭の中で生かせる工芸を続けてきた。

 子供たちが独立した現在、流郷さんの活動は日本国内にとどまらない。花への興味からカナダ、アメリカ、フランス、アフリカへと世界中を旅する。まだ見ぬ花を求めて、単身アンデスの山に入ったこともある。流郷さんの描く作品は自由奔放で新鮮。その自由さが愛され、フランスでは隔年で花をテーマにした個展を開いている。

 「不器用かもしれないけど、自分の目で見、実際に体験しないと描けないの。リンゴも剪定、花摘み、実すぐり、収穫まで全部手伝いました。弘前との出会いをせっかくいただいたんだから、大切にしたい。弘前を心の故郷と思ってこれからも交流を続けていけたらいい。わたしの作品が人と人をつないでいけたらうれしいですね」とにこやかに話す流郷さん。リンゴが結んだ絆(きずな)。これから大きく実ってほしい。
チェンバロ奏者で         弘前バッハアンサブルを主宰する 平成12年2月12日掲載
島口 和子さん 「アンサンブル引き連れ 4年ぶりの渡欧公演」
 エレガントなロングドレスをまとい、優雅にチェンバロを弾く島口和子さん(49)。舞台で拝見する島口さんは、優美で、しとやか。

 ところが本人は「野生児よ。パーティーとかだめ。ナイフとフォークよりわしずかみがいいわめ。酒飲めば朝まで徹底して飲むタイプだった。昔は鍛冶町でどぶさらいしたり、道路で大の字になって寝たり。そういう自分、ちっとも恥ずかしいなんて思わないもんね」とまくし立ててくれ、こちらもすっかりうれしくなった。気さくな人なのだ。

 主宰する弘前バッハアンサンブルのメンバー四十人を引き連れ、この四月から四回目の海外公演に赴く。彼女はボス、女親分と言った役どころだ。舞台ではチェンバロを演奏しながら、息使いと目で全体を指揮する。十人十色、四十人四十色のメンバーをまとめていくのは大変だろうと推察するが、「始めるに当たってわたしが選んだ基準は根性のあるやつ。津軽のえふりこきを集めたの、わたしなりに。だからまとめるなんて思ってないのよ。それぞれが自分の居場所を持つアンサンブルにしたいから」と言い切る。

 何でもとことん窮めるたち。小学校四年の時、たまたま学芸会でピアノの伴奏をすることになったのが、ピアニスト島口和子の始まりだった。家にピアノがあったわけではない。放課後、裸電球の下で一人学校のピアノに向かった。

 学芸会が終わってからも、練習は毎日四時間。担任の先生がつくったスケジュールをこなしていった。「できない」と言うのはしゃくだという思い。それが和子さんを支えたという。バイエル、チェルニー。すべて独学。「与えられたものを必死でこなして、その結果が今」と和子さんは話す。

 弘前中央高校時代から、合唱の伴奏者として全国的に注目される存在に。「自分の感覚一本でやってきた」と言える強さと才能が彼女にはある。「いい時代に生まれたかな。想像力がいっぱい使える時代に育った。川で泳いだり、木登りしたり。そのすべてが今のわたしをつくっているの」

 最初は好きでなかったチェンバロだが、「壊してもいいから弾いてみろ」という回りの勧めで、演奏を始めた。もとより才能あふれる人なのだろう。NHKホールで弾くまでになり、きちんと勉強したいと、その後渡米。二年に渡り、本格的にチェンバロを学んだという経歴の持ち主。

 「意に反して大きな舞台に立たされたり、先へ先へと物を置かれ、あとからわたしが追いついてきた感じ。前はチェンバロに弾かされている感じだったけど、最近やっと自分で弾いている感じになったかな」

 小さなことにはこだわらない。「男に生まれれば良かったねと祖母によく言われた」と豪快に笑う。しょいこんだら最後、団員たちのすべてを抱え込む覚悟はできている。「それだけの度量がないとね。体ばかり大きくてもだめだもんね。すもうとりじゃないんだから。最後はバッハアンサンブルと心中するつもりよ」

 今回のヨーロッパ公演にかかる費用はばく大。行けば身になると思うから、借金してでも行く。十二日午後七時から弘前市民会館ホールで、創立十五周年記念渡欧壮行公演が開かれる。ヨーロッパでの演奏会と同じプログラムが披露される。

 「死ぬ時は死ぬ。あしたはないかもしれないから、今やらなくちゃいけないことをやっていくだけ」。男性的な和子さんの優雅な演奏を聴きに、今夜は弘前市民会館にいらっしゃいませんか?
「酒林」のオーナー 平成12年4月22日
花田 春子さん 「人の出会いを大切に お客様が私の家族」
中央弘前駅から橋を渡り、土淵川沿いに南へ少し歩くと、酒処「酒林」がある。黒地にしゃれた白い文字の看板が目印。この店のあるじが「春ちゃん」こと、花田春子さん。

 薄墨桜の、花の色の上着をはおって現れた春子さん。彼女の名前はこの季節にぴったり。一月生まれの女の子に、早く春よ来いという思いを込めて、父が名付けた。「昔はこんな名前って思ったけど、今は好き。春になるとなんだか元気が出てくるの」という春子さんの楽しみは散歩。自宅から川端町の店まで、風景を眺めながらゆっくりと歩く。

 お気に入りの店でコーヒーを一杯。あごの線で切り揃えた髪が、知的な雰囲気だ。「うちの店はね、人に言わせると女のいない店だって。何も構わないから、お客さん同士、ゆっくりとおしゃべりしていく。ご自由にどうぞ、がモットーかな」とクール。

 ありのまま、飾らない人柄が人を集めるのだろう。「この道に入って二十三年。おべんちゃらのひとつも言えないのに、よく店やってるねってお客さんに言われるわね」

 高校時代に実家が倒産。両親が貯めてくれた結婚資金を使って、最初はカウンターだけの小さな店を始めた。「平凡に結婚して、子供をたくさん産んで、なんて夢もあったのよ。店を開くなんて考えてもいなかった。最初はいらっしゃいませも言えなくて、震えたものよ」と春子さんは笑う。

 「この道を極めよう」と三十六歳の時、「酒林」を開いた。それまでは同級生に何やってるの? と聞かれ、水商売になんとなく引け目を感じたこともあったという。「ここに店を開いたのはね、店の前に川があったから。いやなことも川に流せるかなって思ったの」。同級生に会っても、自分の仕事を堂々と言えるようになろうと心に決めた。

 料理は春子さん自ら包丁を握る。「フキのみそ和え」「ひじきの煮物」「ごぼういため」「菜の花のサラダ」。お客さんの健康を考え、献立を考える。「酒林」のお客さんの七十lは女性。「わたしがちっとも美人でないから、女性がきやすいのかな」とちゃかす。仕事帰りにちょっと飲んで、気分転換してから帰るキャリアウーマンも多い。

 「パーティ帰りにお茶だけ飲んで帰る人もいるのよ。休憩所、息つぎみたいな場所かな」

 ここ数年、常連客が次々と亡くなっていくのが寂しいという。津軽書房の故高杉彰一さんもその一人だ。カウンターの真ん中が常席だった。「あのでっかい図体で着物きて、ここに座って三時間、四時間。腰をすえて飲む人だった。すごいロマンチストでね」と春子さんは懐かしむ。

 「酒林」はいつのまにやら、津軽の文化人の集まる店になっていた。春の宵は文化談義に花が咲く。「まだ、やってるか」と東京、大阪から出張で弘前にやって来る人も店をのぞく。そんな時は「続けてよかった」と思う。

 店のすみには黄水仙。「黄色い花はね、幸せを運んでくるんだって」と時おり、少女のような笑顔を見せる。壁にはセンスのいい絵が一点。サラ・ボーンの「スターダスト」がバックに流れる。お客さんの愚痴や悩みに、静かに耳を傾ける春子さん。

 しょっちゅう来る人が一週間来ないと、病気かしらと気にかかる。「お客さんがわたしの家族かな」。それなら、春子さんは大家族。「酒林」の」主婦として、お客さんの顔を思い浮かべながら、きょうも包丁を握る。
ギャラリー「つぼた文庫」を開いた 平成12年3月4日
坪田 庸子さん 「天保時代からの蔵生かし父のコレクションを展示」
 古い蔵を生かしたおしゃれなギャラリーが弘前市本町に誕生した。オーナーは坪田庸子さん(61)。江戸の天保年間に建てられたという蔵の中はしんとした雰囲気。柱時計がゆったりとした時を刻む。「急な階段だから気をつけて」。庸子さんの後ろについて蔵の二階へ上がると、古い児童書の棚があった。

 怪盗ルパン、シャーロックホームズ、江戸川乱歩。子供のころ、胸を躍らせて読みふけった本のタイトルが目に飛び込んできた。黄ばんだ背表紙。ページをめくれば、時を経た本ならではの、日なたのようなにおいが鼻をくすぐる。

 「ここにあるんは父が集めた本。自宅を開放して子ども文庫を開いていた当時のものです。懐かしいと言ってくれる人も多いですよ」と庸子さんは話す。

 亡くなった庸子さんの父繁樹さんは、軍医として終戦を迎え、戦後この地に「坪田内科小児科診療所」を開業。楽しみが少なかった当時の子どもたちに喜びを与えたいと、近所の子どもたちを集めては、夜の診療所を開放して器楽演奏の練習をしたり、子ども文庫を開くなどの活動を始めた。ボランティアの先駆者だ。

 「でも、それはわたしたち家族にとっては大変なことでした。診療所は父にとって副業みたいなもので、おカネにならないことばかりして、母に苦労を掛けた人でした」。庸子さんはそっとほほえんだ。

 診療代もおカネのない人からは取らないという現代版赤ひげのような人だったという。おカネの工面など苦労する母親の姿を見て育った庸子さんには、父親をうらむ気持ち、父に反発する思いがあった。「父のお陰で命拾いしたとお礼を言われたり、最近になってやっとわたしの知らなかった父の姿が見えるようになりました」

 四十九歳で脳内出血、五十歳で乳がん。大病の後、父のコレクションの整理を始めた。三十三年間勤務した弘前学院大学を昨年の春退職し、これからどうしようかと考えた時、父の姿がよみがえった。蔵をつぶして老後のために駐車場にしたら、とのアドバイスも受けたが、「父が集めたものを何かの形で残したい」と退職金を使って蔵を改装。ギャラリー「つぼた文庫」をオープンした。

 常設展示として蔵の一階には繁樹さんがコレクションした関野準一郎の版画、珍しい切手などを展示。曾祖母の残した古いタンス、長持ち、母親のミシン、父の顕微鏡など庸子さんにとって懐かしい品も並ぶ。

 太い梁(はり)が走り、どっしりとした柱が支える天保年間の蔵。そこに収められた品々が発する懐かしいにおい。「父の人生はすごかったなと思う。自分を捨てて人のために生きた。反発してきたのに、今わたしも同じことをしている」と笑う庸子さん。

 ギャラリーは入場無料。興味のある人に自由に見学してもらいたいというのが庸子さんの思いだ。父親が集めた品々を楽しそうに説明してくれる庸子さんの姿に、繁樹さんへの愛情を感じた。今後は貸しギャラリーとしても開放していく予定だ。

 「反発したのは、自分だけの父であってほしいという、わたしの焼きもちだったのね」。薄暗い蔵の二階で、繁樹さんの集めた貝合わせが優しい色を見せる。雪に包まれた古い蔵に、春の陽が差し込む日も近い。
弘前市老人クラブ連合会女性部長県老人クラブ連合会女性部長 平成11年8月28日
船水 京子さん 「婦人部長として19年 今ではすっかり津軽女」
  「老人は生きがいを持って長生きしてほしいですね。でなければ生きる意味はありません」。厳しい物言いだが、十九年間、地域の老人たちと接してきた実感だ。

 「老人自身がもっと積極的に世の中に飛び出して行かないと。『おらなんか』なんて思ったら駄目」。はぎれのいい言葉が京子さんの口から飛び出してくる。そう語るだけあって、京子さんは弘前市だけにとどまらず、県老人クラブ連合会女性部長、全国老人クラブ連合会女性部の委員を務めるなど、前向きに社会と係わっている。「姉妹には変わったと言われます。強くなったんでしょうね」

 京子さんは函館市の生まれ。四十八年前、津軽の嫁になった。「弘前に嫁に来る時、両親には『津軽に行ったって一年持つはずない』といわれたもんです」と懐かしそうに遠くを見た。

 津軽の嫁になったとは言え、夫の弘行さんは自衛隊に勤務し、舞鶴、横須賀、呉、大湊、稚内と京子さんを連れ、全国を回った。三年の周期で転々と動く生活の中で、自ら飛び込んで行かないとその地域のことも分からず、友達もできないことを知ったという。

 四十歳で日本ボーイスカウトの隊長の資格を取った。少年隊の隊長として小学校三年生から五年生までの男の子五十人を引き連れてキャンプに行ったり。隊長は男性の仕事と思われていた当時のこと、女性隊長は随分珍しがられたらしい。

 それらが現在のボランティア活動に役立っている。京子さんは一九八〇年に東地区老人クラブの初の婦人部長になった。土地の人間でないからと一度は断ったが、ほうぼう見た人の方がいいんだと説得された。婦人部長として話しをすれば「いい気になって」「東京弁使って」と陰口をたたかれたこともある。そんな時、いろいろな土地でもまれてきたことが京子さんの支えとなった。

 老人クラブ連合会の全国大会で座長を務めたり、さまざまな会に出て高齢者の立場からしっかりとした意見を述べる京子さん。「女が出たって役に立たないと言われますよ。でも出てくる男性、大したことないんですよね」と厳しい。「さまざまなことに女性も参画すること。いつもお茶くみじゃだめ」と仲間たちにははっぱをかける。

 一番かわいそうなのは長生きしたこと、と思われる高齢者の姿を見るにつけ、市や県で老人たちの楽園をつくれないかと切実に思うという。七十代、八十代の高齢者が自分たちの年金で充分に暮らせ、楽しめる施設をなぜつくれないのだろうと語気を強くする。介護保険の問題などつばを飛ばしながら話すから、夫には「お母さんが大臣やればいいね」とちゃかされるらしい。

 町会、老人クラブと山ほど仕事がある。「やることがあって本当に幸せ。黙って何もしないでいたらボケますよ」と笑う京子さん。「この地域で育てられた恩をボランティアで返したい。人は一人で生きていけません。地域の中で生きているんですから」

 私生活では朝五時前に起きて、朝食と夫の弁当をしっかりつくる。「自分の健康は自分で守る」がモットーだ。趣味は日本舞踊。七年前、西川流の師範となり、毎月上京し、人間国宝西川扇蔵さんにけいこをつけてもらっている。十月には弘前市民会館の舞台であでやかな姿を披露する予定。「ぜったい死ぬまで踊りますよ」と柔らかな笑顔を見せた。

 地区の町会長を務める夫と二人三脚、地域のために力を出す京子さん。今では人になんと言われようと、津軽の女だ。
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