着物、刺し子から洋服をデザインする 平成12年5月13日
大瀬 恵美子さん 「古い布の持つ優しさ美しさ 生かしてモダンな洋服に」
 弘前市青山に五月、和風ギャラリー「アトリエおおせ」がオープンした。アトリエの入口には、解体した武家屋敷の黒塗りの門が使われ、どっしりとした印象。

旧家をほごした時にもらったという飴(あめ)色をした麻の襖(ふすま)、大きな障子。アトリエのすみには古いいろりが置かれ、客人は炉端に腰を掛け、大瀬恵美子さん(50)の入れてくれるコーヒーや紅茶を楽しむ。

 大瀬さんは古い着物や絣(かすり)、刺し子を、モダンなデザインのワンピース、ジャケット、ブラウスなどに生まれ代わらせるのが仕事だ。
 「きれを見て、インスピレーションを受けるの。その古い布をどう生かそうかと」。古い丸帯はチャイナドレスに、昭和初期の麻の着物は夏のツーピース、男物の三尺帯からシックなブラウスが生まれる。

 アトリエには大瀬さんが仕入れてきた、懐かしい風合いの着物たちが出番を待つ。さわさわとした手触りの「銘仙」(めいせん)。銀掛かった灰色に青紫の模様が入る布地派は、戦前の女性たちが普段に愛用し着物だ。子供のころ、七五三の時に着た覚えのある、赤色の地に小菊や梅、折り鶴が散りばめられた布。優しい色合いの縮緬。

 「これは色使いから見て、明治時代の着物地。こちらは金紗(きんしゃ)。大正時代の模様ね」。そう言われれば、大正ロマンのにおいがするような。「明治時代の着物は品が良くて、骨董(こっとう)品の価値があるの。古い藍染、刺し子も今は希少です」。

 母親の年代までは、農家の嫁入り道具のひとつとして持たされたという絞り染めの刺し子。古美術商や古着屋、農家から買い入れた刺し子の仕事着を生かして、大瀬さんはロング丈のリバーシブルのコートに作り上げた。「並べても、売れないといいなって思っちゃう。売れなければ、わたしが着るもの」とうれしそうな笑顔を見せる大瀬さん。

 十五号サイズの女性も着れるような、おしゃれな服を目指しているという。「だれでもふわっとはおれるような服。大きいサイズだとおばさんぽいデザインばかり。だから自分で着たい服をデザインしようと思い立ったの。わたしに合えば、ほとんどの人が似合うのよ」とにこやかに笑う。

 この春、東京のギャラリーで開いた個展「和を着る」では、たくさんのファンが津軽の古い刺し子、縮緬、絣から生まれたモダンな衣装に見入った。「東京の人は古いこぎん刺しとか刺し子が大好き。一針、一針手で刺すぬくもりに心引かれるんでしょうね」

 ギャラリーは土曜、日曜だけオープン。平日は大瀬さんが仕事場としてここを使う。着物をほぐして布地に戻し、デザインを考え、ミシンで新しい服に仕立てていく。

 古い布が好きで、針を持つのが大好きという大瀬さん。「古いものは新しいものにはない風合いがある。肌に触れる感覚も穏やか。夏の絣ほど涼しいものはない。自然素材は体にも優しいの」

 時を経て、優しい表情をした布たち。てろりとした赤い襦袢(じゅばん)。少し色あせたボタンの柄は、どのような人の華やかな時間を彩ったのだろう。手に触れる布たちは、さまざまな思いを抱かせる。

 長い時間を生きた布だけが持つ優しさ、懐かしさ、美しさ。そんな布たちに出会う幸せが、大瀬さんの仕事を支えている。
「劇団弘演」役者・事務局長 弘前市在住 平成12年7月8日
作間 しのぶさん 「母の舞台を見て育ち 父の思いを受け継ぐ」
「劇団仲間」役者
東京在住
咲間 まみさん
「二人はライバル」と話す作間しのぶさん
「カエルの子はカエルになちゃった」と笑う咲間まみさん

 ちょっと少年ぽい雰囲気で、例えるならピーターパンといった感じの咲間まみさん(37)。一本気で、戦前の日本女性の役柄がぴったりな作間しのぶさん(39)。二人の姉妹は今、女優の道を歩んでいる。

 父親は「劇団弘演」の名演出家だった故作間雄二さん、母は「劇団弘演」の女優として今も舞台に立つ秋本博子さん。姉妹は幼いころから、芝居に掛ける両親の姿を見ながら育った。

 姉のしのぶさんは「劇団弘演」の役者。事務局長であり、舞台演出も手がける。長崎で原爆を受け、後遺症に苦しむ、幸薄い女性直子がはまり役。舞台で演じるかげろうのような揺らめき、清楚(せいそ)な透明感が魅力だ。

 妹のまみさんは「劇団仲間」の女優。五年前の弘前公演「森は生きている」では、主人公をいじめる「いじわるなお姉さん」の役で見事ないじわるぶりを発揮した。「親の姿を見て、芝居の華やかなところばかりでなく苦しいところを知ってましたから、わたしは絶対に芝居はやらないって思っていたのに。カエルの子はカエルになっちゃいましたね」とまみさんは苦笑する。

 今から三十二年前、二人一緒に「劇団弘演」の舞台を踏んだ。まみさんが六歳、しのぶさんが八歳。二人にとって「弘演」のけいこ場は家庭のようなものだった。物心つく前から、劇団員に囲まれて育ったという。

 「けいこ場にはくしゃみしてもおこられるような緊張感があった。父は芝居に対してとても厳しい人だった。芝居は人と人とのぶつかり合い、絶対に妥協できないという完璧主義者。わたしたちも父の思いをひきずっていますね」としのぶさんは父を振り返る。

 「しのぶさんは耐える人」とまみさんは言う。二人が中学生の時に雄二さんは亡くなった。女手ひとつで子供を育てている母の姿を見て、しのぶさんは進学をあきらめOLに。まみさんが就職したのを見届けた後、札幌の劇団でプロの女優として七年間舞台に立った。

 「まみは底抜けに明るくて、自由奔放。のめり込むタイプ」としのぶさんはまみさんを評する。聖愛高校、弘前厚生学院を卒業後、保育園の保母として働き出したまみさんだが、芝居の道を捨てきれず上京。八百人が受験して五十人が合格という倍率の中、二十三歳で「青年座」の研究生になった。

 養成所を卒業した後は弘前に帰り、母が経営する喫茶ブラジルを継ぐはずだったが、「プロになりたい」という一念で劇団「仲間」を受験。それから十三年。一年のうち四ヶ月を旅公演で暮らす生活を続ける。

 まみさんは「おにの捨六」で九月二日、五年ぶりに弘前文化センターの舞台に立つ。「トメというよくばり婆さんの役。前はいじわる姉さんだし、あくの強い役多いですね」と豪快に笑う。「わたしも若いころは主役指向があって、なんでこんな役なのと思ったこともありました。でも今は、あの人きれいと言われるより、味のある役者といわれるようになりたいですね」

 「劇団弘演」の「青山司追悼公演」が九月二十三,二十四日、弘前文化センターで開かれる。しのぶさんは母博子さんと共に舞台に立つ。「母親であり、役者としても大先輩ですが、舞台に立つと同じ立場。演劇論争をすれば遠慮なくずけずけ言って火花を散らします」としのぶさん。

 くしくも九月、弘前でそれぞれの舞台に立つ二人。この春、劇団の仲間と結婚し、主婦、OL、そして役者と三役をこなすことになったしのぶさん。フリーの舞台監督を夫に持ち、ひどい時は一年のうち二ヶ月しかともに暮らせないというまみさん。「芝居って人間を愛していないと駄目だとこのごろ分かった。今わたしたちの課題はどれだけ多くの人に芝居を見てもらえるか。演劇は人間が生きる上で絶対に必要なものだよね」と二人、声をそろえる。

 母から娘へ、父から子へ、芝居に掛ける情熱は着実に伝わり、豊かな実りの季節を迎えている。
弘前馬術協会インストラクター 平成12年6月17日
高木 時子さん 「心を触れ合い 馬と共に歩む」
  鮮やかな雪型の残る」津軽富士が間近に見える岩木川河川敷。緑に囲まれた馬場で背筋を伸ばし、気持ち良さそうに馬を走らせる女性が高木時子さん(47)。弘前市で「市民乗馬教室」を開く、名インストラクターだ。

 時子さんは一九八九年から十年間、馬と一体になりさまざまな演技を披露する馬場馬術と障害の選手として国体に出場。東日本大会で優勝の経験を持つ。「一度乗れば馬にとりつかれますよ。馬は麻薬」と話す時子さんに誘われて、河川敷練習場でわたしも挑戦。「哲学者」という異名を持つ思慮深そうな馬、チャージャーに乗せてもらった。

 ベテランの馬は初心者が背中に乗るとすぐに見破り、軽くあしらわれるというがチャージャーはこわごわ乗る記者にも礼儀正しく応対してくれた。練習場では大学生や主婦、きょうが二回目という小学生の女の子が楽しそうに馬を乗りこなす。

 十頭いる馬の性格を知り尽くしている時子さんは馬をほめたり、叱ったり。子供と同じように愛情を込めて接する。お手は?の言葉に右手を上げるクーちゃん、笑ってごらんと言えばウーッと歯を見せて笑うときめきちゃん。時子さんと馬たちとの心の交流が伝わる。

 手綱さばき、座り方、足の力の入れ方ひとつで横歩きをしたり、スキップ、バック、三拍子のワルツステップまでこなす馬たち。Tシャツの上からブラジャーのホックをはずす、いたずら好きの馬もいたり。

 時子さんが乗馬を始めたのは二十六歳の時。夫と共に弘前市森町でひろさきユースホテルを開くと同時に馬術協会のメンバーになった。東京に通い、馬学、スポーツ医学、実技などの講義を受け、C級コーチ、審判、スポーツプログラマー、騎乗資格を取った時子さん。馬術連盟公認のインストラクターとなり、三十歳で乗馬教室を開いた。

 「近くの子供たちに馬に触り、乗ってほしかったんです」。現在二歳から八十歳までのメンバーが時子さんの教室で乗馬を楽しむ。

 教室に入ると、最初は馬のブラッシングから。馬とのスキンシップが何より大切。動物は何でも大好きという時子さんの馬小屋では、捨て犬だったもんじゃ丸、ぶた子、テツ、捨てチャボや捨てウコッケイ、猫たちが仲良く暮らす。ネコとキスをする犬、馬の足元をのんびり歩くチャボの姿は、見ていてとてもほほえましい。

 「自閉症の子が馬に触れ合うことで明るくなったり、横道にそれそうな時、馬に助けられたという子供たちもいます」。そう話す時子さん自身、八年前の夫の死、自身のがんから立ち直り、元気な日々を過ごせるのは馬のおかげと笑顔をこぼす。

 「馬は体調が悪くても決して弱音をはかない。倒れるまで頑張ります。鳴いたり、ほえたりせず、目だけで訴える。馬はわたしにとって子供、そして彼。いつまでも一緒に歩いていきたい」。

 二十四、二十五日の東北大会、八月の下旬、秋田県で開かれる国体の予選に向け練習に励む。「障害の選手として女性では最年長。でも、日ごろから馬に愛情を注いでいると、馬が分かった、ちゃんと跳んでやるよと言ってくれるんです」と笑う。

 たてがみを何時間も掛けて編み込み、大会には馬たちも精一杯おしゃれをして臨む。馬と時子さんの心の触れ合いが織りなす人馬一体の競技。馬たちの優しい眼差し。浮世をちょっと離れた、心安らぐ世界がそこにあった。
ヨーロピアン磁器上絵付 平成12年6月24日
茂貫 浩子さん 「世界でただ一つの マイカップを描く」
 ティーカップに描かれた小さな三色スミレ、水色のワスレナグサ、チョウチョ、小鳥、愛らしい小花の数々。女性ファンの多いヨーロッパの磁器だが、マイセンなど、その歴史は意外と新しい。

 十六世紀以降、東洋から伝わった藍色の染付、華やかな色絵などは金や宝石に匹敵する宝としてヨーロッパ王侯貴族の心を引きつけたという。十八世紀に入って、磁器は当時の貴族や王族に熱烈に愛好されていた新しい飲み物、紅茶、コーヒー、液体のチョコレートを飲む器としてヨーロッパ独自のデザインを見せながら、発達していったという。

 魅惑の液体を優雅な磁器のカップで飲む貴族たちの姿は十八世紀の肖像画にたくさん残されている。そんな華やかな歴史を持つヨーロピアン陶磁器は女性たちのあこがれ。

 自分だけのティーカップでお茶を楽しむことができたら、オリジナルなコーヒーでお客様をもてなすことができたら。そんな思いから、ヨーロピアン磁器上絵付の勉強を始め、弘前で初めての、作品展を開くのが茂貫浩子さん。

 取材の通例でお年は?と聞くと「年、忘れました。あんまりおおざっぱな性格で」と笑い飛ばされた。昨年の十月に東京から弘前へやって来た浩子さんだが、自然に恵まれた弘前の暮らしは楽しくて、と笑顔がたえない。愛犬マーチンを連れての一時間の散歩は吹雪の中でも毎日欠かさず、雪国の暮らしを満喫したという「根あか人間」だ。

 浩子さんが始めて「ヨーロピアン磁器上絵付」の作品を見たのは十五年前。横浜で開かれたスイスのニヨン焼の作品展だった。ティーカップやポット、お皿や花瓶などの磁器に描かれた薔薇(ばら)の花、ヒナギク、スミレ。クラシックで上品な絵柄がすっかり気に入った浩子さんは早速、東京の教室に通い、その後先生に付いて勉強。一学年十人限定という大倉陶園が開く「オークラ・チャイナペインティングスクール」に入りたくて待つこと五年。オークラのスクールで三年間、もう一度基礎から磁器上絵付を学んだ。

 「オークラではデッサンから始めて、材質の勉強、オークラ独自のバラの描き方など習いました。わたしみたいなおおざっぱな人間でも大丈夫。あまり細かく神経質になるより、のびのびと描いた方が楽しいじゃない」と浩子さん。

 好きな白地の磁器を選び、チャイナペインティング用の細筆を使い、上絵付用の粉絵の具を油で溶きながら描いていく。花や果物、色とりどりの鳥や子供の似顔絵など、好きなものを題材に。描き終わったら専用窯に入れ、八百度で焼くこと四時間。世界でただ一つのマイカップ、マイソーサーの出来上がり。愛犬マーチンの顔を描いた絵皿は浩子さんのお気に入りの一点だ。

 「そんなに難しいものじゃないの。だれでもすぐに描けるようになります。楽しみながら作品がどんどん増えていきますよ」

 初の作品展は二十九日から七月四日まで、弘前市一番町の田中屋画廊で開催。桜の花びらのティーカップ、リンゴを描いた絵皿、ローゼンタールの白いカップにチョウチョやミツバチ、トンボを描いたもの、貴婦人のスタンド、天使の描かれた花瓶、ひな人形など約百二十点が並ぶ。

 「一緒にやってみたいなという方はご連絡ください」と浩子さん。好みの花や模様を描いた自分だけの食器は魅力的。テーブルクロスや紙ナプキン、ハンカチやソファの柄とテーブルウェアの模様を合わせたり、お友達の好きな花を描いて、カップをプレゼントしたり、楽しみはどんどん広がりそう。あなたも、優雅なチャイナペインティングの世界をのぞいてみてはいかが?

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