草木染絞り 平成13年5月5日
鳴海 世子さん 「優しい色に心ひかれ 花や木の生命を布に」
 春の初め、弘前文化センターギャリーでリンゴの花や葉、幹を使って布を染め、絞りの技法で仕上げた着物や帯の作品展が開かれた。会場にはリンゴの花で染めた淡いピンク色のストール、幹で染め、手ぐも絞りを施したあでやかな着物など並び、華やかな雰囲気。

 「家の周りにある摘花されたリンゴの花やせん定された枝を使って出した色。捨てられる運命にある花や枝からこんなにきれいな色が出る。花の色をそのまま生かしたいと思いました」と話すのは作者の鳴海世子さん(68)。今回の作品展が四回目だが、毎回新しい技法に取り組むチャレンジャーだ。

 桜のつぼみが膨らみかけた春の一日、鳴海世子さんのアトリエを訪ねた。門番は世子さんの愛犬けんた君。五年前に夫の友則さんが亡くなって以来、世子さんはゴールデンレトリバーのけんた君と二人暮しだ。

 「けんた命なの。けんたの散歩があるから規則正しい生活ができる。けんたから元気をもらっています」と真っ赤なセーターにスラックスというラフないでたちで現れた世子さん。会場で見せたそそとした着物姿とは全く違う。

 「わらしにはね、夫が付けたあだ名がいろいろあるの。染め物好きの染子でしょ、ムタムタッと何でもやるからムタ子、作品をほめられるとすぐ舞い上がる単純花子、けんかすれば世界一の悪妻クサンチッペ。『ガリガリ不満大姉』ってわたしの戒名まで付けてくれたの」と亡き夫友則さんが突然亡くなり、ぼう然自失となった世子さんを支えてくれたのが長年親しんだ染めと絞りだった。

 世子さんが染めと出会ったのは中学の家庭科の教諭を始めてまもなくのころ。東京家政大学に内地留学し、染色を学んだ。中学の部活動で染色部をつくり、草木染、ろうけつ染めなど生徒と一緒に発表。「染色の鳴海先生」として活躍した。だが、五十七歳で教職を去る。「聞かない生徒をしかった後、自分の顔を鏡で見た時、口の周りにしわが増え、口紅がしわに入っているのを見て、もうやーめたって思ったの」

 仕事を辞め、ぼんやりと庭を眺める世子さんの目に映ったのがピンク色の八重桜だった。花びらを集め、ハンカチを染めてみたところ、優しいベージュ色に仕上がった。染色をやってみようとその時思った。

 それから、京都草木染研究所に通って改めて草木染を学び、名古屋の有松では絞りの技法の手ほどきを受けた。手筋絞り、手ぐも絞り。絞りの技法を組み合わせてさまざまな文様を生み出していった。

 「きりきりとくくった糸をほどき、布を開く時の心のときめき。草木染の優しい色に引かれてやってきました」と世子さん。藍で染めた布はぬれたうちに糸をほどかねばならず、朝の四時まで掛かってほどいたこともある。友則さんが唯一糸をほどいてくれた着物は、思い出の品として今も世子さんの手元に置かれている。

 「好きなことを好きな時に好きなだけするのがモットー。準備が大変で、作品展が終わるたびにもうやらないって思うの。周りはまたやるねって言うけど、今度やらない」と笑う世子さん。二年後、個展で世子さんの新しい作品に出会うことを期待してアトリエを後にした。

 「犬と染めが大好きなただのババですって必ず書いてね」。取材を終えて帰るわたしの背中に、世子さんの元気な声が響いた。
津軽富士見ランドホテル女将 平成13年5月26日
野崎 佳子さん 「岩木山にほれこんだ 夫の夢を引き継ぐ」
 弘前から北に向かい、藤崎、板柳を抜け、「米マイロード」を」走ること三十分。五所川原市の郊外、羽野木沢の峠上に津軽富士見ランドホテルはある。

 ぐるりとガラス張りのティールームからは穏やかな表情の津軽富士を一望できる。右手には大釈迦の山並み、眼下には五所川原、鶴田、板柳と津軽の野づらが広がる。晴れた日には権現岬、遠くには北海道を眺めることもできる。「夕日が地平線にストンと落ちます。そしてこの岩木山。主人がほれこんだのはこの雄大な眺めだったと思います」

 野崎佳子さん(58)が東京からこの地に一人やって来て、ホテルの女将(おかみ)となって八年の月日が流れた。がんで亡くなった夫豊栄さんの夢を引き継ぐためだった。

 東京で事業を行っていた豊栄さんが羽野木沢の古いホテルを購入したのは一九八三年。「これからは地方の時代」と見定めた豊栄さんの決断だった。東京の自宅に佳子さんと小学生だった三人の子を置いて、豊栄さんは当時荒れ放題だったこのホテルに移り住んだという。

 「冬休みに子どもを連れて来てびっくり。主人はいいとこだ、いいとこだって言ってましが、地吹雪がものすごかった。ここはだれがやっても繁盛しない所だから自分がやるんだと夫は言い張りました。とにかく夢を追う人でした」と佳子さんは遠く岩木山に目をやった。

 豊栄さんは津軽富士を眺めるためのティールームを作り、温泉を掘った。地域の人に能を見せたいと能舞台の建設を始めた九二年、がんを発病。一年間の闘病の後、能舞台の完成を見ることなく豊栄さんは逝った。

 「ホテルを続けようか、やめようか迷いました。主人の夢を知っていましたから、十分の一でも叶えてあげたいと思いました」。中学生、高校生と多感な年齢になっていた三人の子どもを東京に残し、九三年五月、佳子さんは女将としてホテルの屋台骨を背負った。

 それまで専業主婦として暮らしてきた佳子さんにとって、ここでの暮らしは戸惑うことばかりだったろう。環境の違い、言葉の難しさ、疎外感。「人に頭を下げることも初めての経験。素人ですからばかにされたり。そんな中で主人の夢だけが唯一の支えでした」と佳子さんは当時を振り返る。

 「子どもたちは、見知らぬ土地から仕送りする母親の気持ちを理解し、横道にそれることなく育ちました。それでも母親失格だったと思います」と話す佳子さん。五年前、子育てが一段落したのを機に、行ったり来たりの生活に終止符を打ち、ここに腰をすえようと決心した。

 豊栄さんが残した能舞台を使い何かしたいと、昨年から「朗読の夕べ」を開催。七月十九日には「琵琶湖の語る平家物語」、紅葉のころには「ギターと朗読の会」を予定している。「静かに耳を傾けてもらえる、語りべの宿を目指したいですね」

 狼野長根公園に続く傾斜地に立つここは別天地。静かで穏やかな時間が流れる。豊かなお湯がわく湯殿では、作家太宰治が「いちょうの葉をさかさまにしたような」と形容した優しい岩木山と向き合うことができる。

 「人生って分からないもの。苦労はさせないからって一緒になったのに、契約違反。夫の位はいにお線香をあげながら、いつもぶつぶつ言っています」と笑う佳子さん。「津軽の土になりたい」が口癖だった豊栄さんは、岩木山の見える弘前の墓地に眠る。

 豊英さんの夢は今、女将である佳子さんの夢となった。人生のこの地で、精一杯生きようと佳子さんは考えている。
 
船沢中学校校長 平成13年2月3日
前田 みきさん 「子どもたちを見守る 大人の覚悟が大切」
 昨年四月、船沢中学の第十六代校長となった。校長室には十五人の歴代男性校長のいかつい顔写真が並ぶ。この後ろに前田みきさん(55)の笑顔の写真が並ぶことを想像すると、ちょっと楽しい。

 現在、県内に女性の中学校長は五人。中弘南黒地区ではただ一人の女性校長だが前田さんに気負いはない。笑顔がとびきり温かだ。

 二十一世紀の子どもたちを育てるうえで家庭と地域と行政がどんな役割を果たしたらよいかについて、「子どもの遊びや体験を大切にすること」と同時に「大人たちよ、子どもを見守るゆとりと覚悟を持とう」と提案した。世の大人たちに地域ぐるみで子どもを見守り、育てるゆとりと覚悟を持つことの大切さを訴えた画期的な提言だ。

 「二十一世紀の幕開けがあの成人式。自分はこれまで学校教育と同時に、家庭教育や社会教育にかかわり、地域の大人や親たちが勉強する機会を作ってきた。あの成人式を見て、わたしは一体何をやってきたのかしらと思った。子どもの姿を自分たちの問題と考え、今、大人たちが立ち上がる時だと思います」。

 中学校の教諭として実際に、子どもたちの変化に接してきた前田さんならではの思いだ。「子どもたちが危なくないように、子どもたちのためにと大人がしてきたことは、一見子どものためのように見えて実は大人のためだった。その結果、今の子どもは失敗の経験がない。繊細でたくましさに欠ける子どもになってしまった。みんな一生懸命やってきたんだけど、何か忘れ物をしてきたのかもしれない。今、その忘れ物を取りに行く時期ではないかしら」

 前田さんが少女時期を過ごしたのは、大人たちが戦後の弘前の子どもたちを育てていこうと意気込みを持っていた時代。前田さんも中学生のころから、「弘前市子ども会連合会」に参加した。

 リーダー講習を受け、君たちが将来の弘前をつくっていくんだよと大人たちに励まされたことが忘れられない。子どもたちが自主的に企画した朝起き会、火の用心、墓場の草取り、作品展示会、バス遠足。異なる年齢集団の中で子どもたちはさまざまなことを学んだ。弘前大学在学中は事務局も経験。前田さんは子ども会で学んだことを生かしたいと教職に就いた。

 「青森県に劣等感を持つ子が多いけれど、もっとプライドを持ってほしい」と前田さん。子どもたちが青森県らしさ、地域の文化に触れる機会を増やしたいという思いを持つ。昨年の秋には文化祭の一貫として船沢中学として初めてのねぷたを制作。全校生で村内を練り歩いた。

 「ここが故郷だと自信を持って、いつでも故郷があるという気持ちで、子どもたちを全国に旅立たせてやりたいよね」と三人の母親でもある前田さんは話す。

 「うちの子供たち」。前田さんは船沢中学の生徒たちをこう呼ぶ。「うちの子供たちはみんないい子たちばかり」。まるでお母さんがわが子を自慢するかのよう。

 校長室には中学三年生と一緒に写した十枚の写真が飾られている。昼休みの校長室。その月の誕生日の子どもたちと一緒にお弁当を食べ、クッキーをつまみながらいろんな話をした、その記念だ。笑顔の女の子、照れくさそうな表情の男の子。それぞれがこの春、新しい世界に旅立つ。前田さんも三十八人の卒業生とともに、春の訪れを待っている。
書 家 平成13年9月22日
吉沢 瓔香さん 「縁あって書と出会い ともに歩んで16年」
 二年前、小さな赤ちゃんを抱いている吉沢瓔香(ようこう)さん(42)を見て驚いた。三人目の男の子周君だった。「また一から子育てのスタートです」。そう話す瓔香さんは笑顔にあふれていた。

 四十歳を迎え、書家としてこれからバリバリ仕事をしていくのだろうというこの時期に、再び子育てに突入する瓔香さんの選択は少し意外だった。そして二年。今年の六月、北門書道会会員展で最高賞の大幹賞を受賞。瓔香さんの書はこのところ輝きを増してきたように思う。

 「上の二人は夢中で育ててきた。今初めてゆっくりと子育てをしている感じ。子供がいるから頑張れる。子供たちが原動力ですね」。常に笑顔でゆったりとした物腰の瓔香さん。とは言っても、母、妻、嫁、書家、そして夫の仕事も手伝う瓔香さんの毎日は超が付くほど多忙だ。

 朝四時に起き、子供のお弁当作りを始める六時までが書と向かい合う時間。自宅に敷地内にある鉄心書道会の道場で書に熱中する。書と出会って十六年。書の道を歩んだ十六年は、吉沢の姓を名乗った十六年の月日と重なる。

 瓔香さん、本名葉子さんは弘前工業高校建築科の出身。小さいころから絵をかくのが好きだった瓔香さんは父親の進めで建築科に進学した。「自分では女子高に行ってごく普通の進路を考えていましたが、願書を出す前日、女も社会に出たら技術を持ってだめと父に言われ、そうかなと建築科に進学しました」。人の言葉に素直に耳を傾ける瓔香さんらしい選択だ。

 卒業後、建築設計事務所などに勤め、二級建築士の免許を取った。二唐刃物鍛造所に勤務していた吉沢俊寿さんと二十六歳で結婚。夫の仕事を手伝い、二唐鍛造所で図面をかけると張り切って嫁いできた瓔香さんだが、新婚旅行から帰った翌日、意外な展開が待っていた。

 「吉沢家にせっかく嫁に来たのだから、書を始めてみたら」。俊寿さんの母で書家吉沢秀香さんの誘いだった。「習字は小さなころから嫌いではなかったので、字がじょうずになれるかなと思って始めたんです」と笑う瓔香さん。それから毎日、鉄心書道会の本部に通い、家事を手伝いながら秀香さんの書道教室の助手として修行を始めた。

 一からのスタートは大変だったと思うんですが、忘れてますね。アバウトな性格で、血液型はO型でしょうとよく言われます。」とにこやかに話す瓔香さん。一九八六年、毎日書道展入選。この年に長男剛君が誕生。子育てをしながら筆を持つ生活の始まりだった。

 現在は会員に指導する秀香さんの助手を務める傍ら、鉄心書道会で子供たちに書を教え、ヨークカルチャーセンター弘前で初心者のためのペン字の講座を開く。空いている時間は夫を手伝い、会社で製図を行う。今携わっているのは長勝寺の御霊屋(おたまや)の扉の飾り金物の復元。拓本を見ながら、図面を起こしていく。

 「私の祖父は弘前工業高校で刃物などを造る鍛造を教えていました。八幡様の本殿の金物を造ったと聞いています。私もこの仕事をちょうだいし、すごくうれしい。今思うと、ご縁があったんですね」

 師であり、しゅうとめである秀香さんから瓔香の名をもらって十四年。秀香さんの弟子として、嫁としてさまざまなプレッシャーがあっただろうと想像する。「根性という言葉には縁がない人間。競争は本当に苦手で、競争するくらいなら初めから走らないというタイプ」と自分を語る瓔香さん。そんな瓔香さんだからこそ、ここまでやってこれたのかもしれない。

 「うちには男の子しかいないから、書の教室に来る女の子たちがかわいくて。自分の子供がたくさんいるような気持ち。縁あって与えられた書の仕事、子供たちに書の楽しさを伝えていきたいです」。いつも前向きでおおらかな瓔香さんに頭が下がった。
ボタニカルアーチスト 平成13年4月14日
米田 美代子さん 「季節を追い掛け 花の生命を描く」
 「一心に描いていると、自分もスミレや野いちごの仲間になったような気分なの」。そう言って童女のような笑顔を見せるのは米田美代子さん(60)。
  ふんわりと柔らかい雰囲気がまるでタンポポの綿毛のような人。時に風に乗ってふわふわと遠くまで飛んでいきそう。
 「道端の雑草と呼ばれる草にも、目を見張るような命の仕組みがある。オオイヌノフグリや小さなハコベの花をルーペでのぞけば、繊細な細工で宝石よりきれい。いつまでも道端にしゃがみこんで眺めています」

 米田さんが描くのはボタニカルアート。ボタニカルアートとは英語で「植物学の芸術」のこと。十八世紀のヨーロッパで植物学の世界から誕生した。日本での歴史は浅い。

 まずは植物を静かに観察。時にはルーペで花の中、めしべやおしべのようす、葉の付き方や葉脈、葉に密生した細かい毛などをじっと見詰めて下絵を描いていく。植物学的に性格でなおかつ、美しいのがボタニカルアートだ。

 米田さんは十和田市の生まれ。高校を卒業後上京してアニメの色付け、ガラス絵などの仕事を経験。その後犬のトリマーになった。デコパージュのインストラクターの資格を取り、卵を使ったエッグクラフトの教室を開くなど多趣味な米田さん。

 雑誌などから切り抜いた絵を木やガラス、陶器に張り、その上から何十回となくニスを塗って仕上げるデコパージュ。卵に小さな穴を開け、中身をストローで吸い出し、少しずつスポイドで水を入れ、何回もすすいで洗った後、絵を張ってニスを塗るエッグクラフト。ニスを塗って乾かし、耐水ペーパーで磨いてはニスを塗り、それを三十回も繰り返す。とても手間の掛かるクラフトだ。

 作品展を開くと「素晴らしい絵を描かれますね」「ウズラ卵みたいな小さなものによく描けますね」と声を掛けられた。「切り抜いて張って、何回もニスを塗るのもとても大変なの。でも切り抜いて張ったものだと説明すると、なんだ張っただけかと言われてがっかりすることが多かった。やっぱりへたでも自分で描きたいと始めたのがきっかけです」

 二年前、高校時代のクラスメートと結婚。四十年間の東京暮らしに終止符を打ち、青森に帰ってきた。「気ままに好きなことをやってきたから、結婚するって言ったらみんなびっくり」と笑う。

 昨年は岩木山のふもとの座禅草の群生、一輪草、カタクリ、ミズバショウ、庭に咲いた黄色のスミレ、弘前のリンゴもたくさん描いた。「まずちゃんと見ること」と米田さんは言う。「人間の目って見ているようで見ていないものだなって思う。見たつもりになっているだけなの。その時は一生懸命描いていても、何年か経ってから作品を見ると葉の着き方が違っていたりね」

 葉っぱ、雑木林。ルーペを片手に近くの山を歩き回る季節がやってきた。植物画は季節との追い掛けっこだ。その季節にしか見ることのできない草花を描いていく。五月から十和田湖畔にある「ギャラリーぶな」で米田さんの作品が常設展示されることになった。「失われていく自然の中の小さな草花を描いていきたい」という米田さん。花の気持ちになって描く米田さんならではの生命力がそこにはある。
 
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