タイで日本語を教える 平成13年4月28日
高村 悦子さん 「退職後一人タイへ 異文化にワクワク」
 昨年の四月から、ボランティアとしてタイで日本語を教えている女性がいる。弘前市の高村悦子さん六十一歳。教職歴三十八年の経験を生かしたいと、退職後一人タイへ出発した。

 今、タイの学校は夏休み。連日四十三度を越す暑さだという。休みの合間をぬって一時帰国した悦子さんは少し日焼けして健康そのもの。「毎日楽しい楽しいと思って、わくわくしながら暮らしていると細胞ものびのびするんじゃないかな。元気なうちにお役に立つことができればと思うの」

 悦子さんのモットーはマイペンライ。タイ語で「大丈夫!なんとかなるさ!」。そのおおらかさが悦子さんの何よりの取り得のようだ。悦子さんがこれまで日本語を教えてきた中、高併設学校はラオスとカンボジアの国境に近いナミユンという町。

 日本人は悦子さん一人。難民も多く、時には強盗団が出没することもある。部屋には毒サソリが訪ねてきたり。それでも悦子さんはマイペンライ!。「テレビや冷蔵庫、シャワーや洗濯機、電話がなくても全然平気。昔の日本みたいで懐かしい。セミのトウガラシいためとかアリの卵のいためもの、大トカゲの煮物やネズミのソテー、カエルの姿焼きとか珍しいことばかりで楽しいわよ」と屈託ない。

 何よりも悦子さんが心引かれたのは子供たちの純真な瞳だ。悦子さんは弘大の教育学部を出た後、県内の中学校教諭として働いた。結婚後夫の毅一さんとともに北海道へ。そこで北海道教育大に通い、養護学校教諭の免許を取得。一九七九年に再び弘前に戻り、弘前第一養護学校の教諭となった。

 輸血が原因で八七年に悦子さんは肝炎を発病した。「医者からもう長くはないかもと言われたんです。それなら生きているうちにいろんなことをやろうと思いました」。障害を持つ子供たちに「さをり」を教えたいと大阪まで通ったり、心と体のバランスを整えて病気を克服したいとヨーガを始めた。

 養護学校の教諭をしながら、土曜、日曜を使い、毎週上京してヨーガ・セラピストの資格も取った。肢体不自由児の学校である第二養護学校に移ったのもこのころだ。「肉体的にもきつい学校に移りたいと思いました。生きているうちに奉仕したいという気持ちだったのかな」

 在職中にも何回か夏休みを使ってタイに行き、ボランティアで日本語を教えたことがあった。子供たちの生き生きとした目が心に残った。「十八、九歳のタイの子供たちは養護学校の子供たちに負けないほどの純粋な目をしていました」。退職を迎え、急にタイへ行こうと思い立った。「すいません、タイに行きますから」という悦子さんに毅一さんは「はい、どうぞ」と言ってくれた。

 タイでは日本は金持ちの象徴だという。タイの町を走っているのは全部日本車。日本人の経営する会社に入ると高給がもらえる。だから日本語を学ぶことが幸せへの道だと多くの人が考えている。

 悦子さんは中学生、高校生を相手に日本語を教える。教科書はないので自分でワープロをたたき、コピーして教材をつくる。弘前さくらまつりのポスターを持っていき、桜を教えたり、雪の写真を見せたり。「雪っておいしいの?と子供たちに聞かれました。子供たちにとって弘前は雪と桜で有名です」と笑う。

 タイ語を話せない、読めない中で、壁を取り去り、自分の思いを全身を使って子供たちに伝えてきた悦子さん。タイにいると心から、自然の中で生かされていると感じるという。「タイの学校はとても自由。手を抜いて面白くない授業をすれば子供たちは教室に来ないし、楽しかったらいくらでもやって来る。こっちが楽しく授業をやっていれば相手も楽しいし、それがきっと教育の原点かな」

 二十二日、悦子さんは再びタイに向けて出発する。教材に使うポスターやカレンダー、日本の写真をたくさん抱えて。タイでは、日本や日本人が失ってしまった本当の豊かさや優しさ、子供たちの真剣なまなざしが悦子さんを待っている。
料理研究家 平成13年9月1日
福士 るみ子さん 「季節の地物を使って 新しいレシピに挑戦」
 弘前市の富田町通りから細い路地に入っておよそ二百?b。小さな看板を掲げた小さなキッチン。ここが福士るみ子さん(47)の仕事場「胡桃(くるみ)」。

 注文に応じてお弁当、茶会席料理、ケーキなどここからさまざまな料理を発信する。「地元の食材をどれだけ料理の中に取り入れていくかがわたしの課題。青森にはいい食材がいっぱいあるもの」

 調理台、オーブン、レンジ、食器洗い乾燥機、消毒庫。コンパクトなキッチンは、るみ子さん一人が働くのにちょうどいい広さ。「この小さな厨房で百食は作れます」とるみ子さんは胸を張る。

 自分で調理し、松花堂弁当に詰め、自分で運ぶ。調理師兼運転手兼社長。るみ子さんの相棒は真っ赤なパジェロミニ。「通りに面してお店を作って、もっと手を広げればと言われますが、欲はないんです。好きな料理を作れるってことだけで幸せ」と満足そうな笑顔だ。

 るみ子さんは東北女子短大を卒業した後、病院の栄養士をしていた。小学校一年の時に父親と死に別れ、二十六歳で母を亡くしたるみ子さんは自立したいという思いで弘前市の料理研究家中沢タミさんの助手となる。

 献立を立て、アドバイスを受け、食材をそろえ、下ごしらえをするのが助手の仕事。三十八歳まで助手を務め、その間に調理師と管理栄養士の資格を取った。「タミ先生には料理の段取り、技術をはじめ礼儀作法、思いやり、人への気遣い、さまざまなことを教えてもらいました。

 とにかく料理を作っていきたい、作ることから仕事の幅を広げたいという思いから、八年前に手作り工房「胡桃」をオープンした。「海のものと山のものとも前途は皆目分からない状態での出発。かけみたいなものでした」とほほえむ。

 サバのマリネ、カボチャとナスとトウガンの炊き合わせ、ミョウガとナメコとキュウリの和え物。手作りのおかずがぎっしり詰まったお弁当、ふっくらと優しい味のシフォンケーキ、あたたかい雰囲気のバナナケーキにチョコレートブラウン。化学調味料は一切使わず、煮干とカツオできちんとだしを取る。評判は口コミで広がった。

 るみ子さんにはもう一つ、料理研究家の顔がある。弘前女子厚生学院で学生に高齢者向けの料理や介護食を教え、津軽の市町村から頼まれ、公民館などで料理の指導にも当たっている。「その土地その土地の食材を使う工夫をしていきたい。自分の持っている引き出しからめいっぱいアレンジして」

 るみ子さんの料理の発想はざん新だ。深浦町の「つるつるわかめ」を焼き込んだケーキ。十三湖のシジミ貝を殻ごとたたきつぶし、ビニール袋に入れて発酵させること一週間。ナンプラーのような、シジミの発酵汁を使った炊き込みご飯はシジミ料理コンクールで最優秀賞を獲得している。

 「人の発想しない料理を考えるのが好き」というるみ子さんは笑い上戸のとっても楽しい女性。「青森名産のナガイモやホタテももっと家庭で使ってほしい。ありきたりの料理でなく、みんながあれっと思うものも作れるはず。青森のおいしい食材の普及にもっと力を注いでいけたらいいな」

 食にかけるるみ子さんの思いは深い。青森の産物、いつもの食材がどんな料理に変身するのか。るみ子さんのアイデアに期待したい。
南田温泉ホテルアップルランド女将 平成13年8月11日
葛西 恵子さん 「りんご観音に守られ いやしの空間を作る」
 黒石市から平賀町に向かい、黒石大鰐バイパスを走ると、左手に金色に輝く観音様が見えてくる。左の手にリンゴを掲げて立つのは、その名もりんご大観音像。
 「このホテルの創立者である義父はリンゴの問屋から始めた人なので、リンゴへの感謝の気持ちを表したものなんです」とにこやかに話すのは女将(おかみ)の恵子さん。秋田出身の色白美人だ。

 りんご観音像に守られるように、広い敷地にホテルの施設が広がる。恵子さんがアップルランドの女将になったのは一九九六年。県外からの観光客を呼べるような観光ホテルを目指し、夫の大八さんと二人三脚で新館を建てた時からだ。

 玄関に入ると、右手に庭を臨む明るいロビーが見えてくる。天井の柔らかな曲線が優しい雰囲気。階段三段ほどフロアーが下がったロビーは落ち着いた空間だ。鎌田舜英さんの書、今井理桂さんのつぼ、久保猶司さんの新しい感覚の津軽塗。津軽らしさを感じてほしいという恵子さんの望みで、ロビーには床の間的な空間が作られ、地元作家の作品が並ぶ。

 ここはティーラウンジだけではなく、パーティーやミニコンサートの会場としても愛用されている。広々と明るい庭を眺めることができるのがうれしい。「空間作りが旅の味わい。山あり川ありの自然に包まれたホテルなら何の努力もいりませんが、この場所でゆったりとくつろいでいただくために、いろいろな工夫をしています」と恵子さんは話す。

 リンゴ問屋を営んでいた義父の甚八さん(84)が、冬場は寒かろうと従業員のために温泉を掘ったのが南田温泉の始まり。一九七二年、温泉に宴会場とプールを増設して、レジャーセンター「アップルランド南田温泉」がオープンした。

 秋田の高校を卒業し、東京の銀行で働いていた恵子さんと見合いをし、見初めたのが甚八さんの長男大八さん。その名の通り、おおらかで心優しい大八さんに引かれ、恵子さんは請われるまま平賀へと嫁いできた。「私の実家が商売人でないので、逆に大変さも何も分からないから来れたんだと思う。何回か出ていこうと思ったこともありました」

 食事時間は家族ばらばら、子供は一歳から保育園に預け、一家総出の経営だった。恵子さんが経理を任されたのは嫁いで三年目。その年は冷夏に泣かされた。「日帰りのお客様は当時農家の方が多く、天を仰いではおカネを勘定していました」

 八三年にはコンベンションルームを建て、それ以降結婚式、宿泊、日帰り企画と積極的な経営を行ってきた。継ぎ足し、継ぎ足し増築してきたホテル内はとても広い。館内では迷子になるお客様もいるほど。新館の窓の外にはリンゴ園と津軽の穏やかな田園風景が広がる。

 「女将さん業、好きな仕事です。いろんなお客様がいらしてくれて、いろんな人に巡り会える。出ていかなくて良かったですね」とほほえむ恵子さん。リンゴぶろやリンゴ会席なども用意し、地元の女性たちに日帰りや一泊泊まりでゆったりくつろいでもらいたいというのが恵子さんの願い。「気軽に来て、リフレッシュして帰ってもらえる、そんないやしの場を目指したいな」

 女性に愛される、こまやかな配慮のあるホテルを目指して、恵子女将はきょうも張り切る。
挿絵画家 平成13年7月21日
工藤 新子さん 「筆先から生まれる 草花の優しい表情」
 毎月一回、「女のページ」で和菓子を描いている。「風薫る」「清水の流れ」「祭りの夜」。顔彩でさらりとかかれた和菓子には味わいがある。

 「和菓子を描くのはとても難しい。まずおいしく見えないと駄目だものね」とほほえむ工藤新子さん(55)。おっとりとした、物静かな女性だ。

 陸奥新報に連載した宮崎素子さんの小説「夢舎」「新草の町」挿絵は淡墨を使って、ふわりと優しい小説世界を表現した。余白を生かしたその絵は温かく、懐かしさを誘った。

 獏不次男さんの歴史小説「公儀隠密帖」では、扇の中に藩政時代の津軽を描いた。雪の降りしきる五重塔、津軽信政公、時には妖艶(ようえん)な女性の裸体。「その文章の中の空気を絵の中に出すことができたらいい。読者の想像をかき立てるような」。描き過ぎず、適度に省略された絵からは、独特の空気感が伝わる。

 敗戦の年の生まれ。双子の妹の名は草子。両親が付けた新子、草子の名前には、新しい時代を強く生きようという思いがあふれる。

 弘前市鷹匠区の実家の周りには小さな子どもたちがたくさんいた。八月。子どもたちで骨を組み、和紙を張ってねぷたを作った。墨でねぷたの絵を描き、ろうがきして、染料で色を乗せる。「大きな子どもたちが描くのをそばで見ていました。私はヤーヤードー専門。笛や太鼓と一緒に家々を回って、だらこ(小銭)をもらって」

 父親が木と竹で扇灯ろうを作り、和紙を張って描いてくれた「まんじゅ姫」。門口に飾られた小さな子どもねぷたの愛らしさ。それらは新子さんの、懐かしい思い出のねぷただ。

 女子美術大学では日本画を専攻した。油絵のべたついた質感よりも、さっぱりした岩絵の具の感触が好きだったからだ。学生時代、帰省するとねぷた絵師竹森節堂さんのアトリエに通った。描かれていくねぷた絵の美しさにみとれた。いつか自分で鏡絵を描きたいと強く思ったという。

 竹森さんが亡くなった年の夏、「如来瀬」と「高杉四ッ谷」の大型ねぷたを描いた。市長賞、知事賞を獲得するなど、それから五年ねぷた師として活躍した。

 子育てに本業のバレエ教師、そしてねぷた絵師というハードな生活の中、三十歳を過ぎて絵師の筆を折った。四十三歳でバレエ教師もやめ、その後の十年、母、嫁、主婦としての務めを果たしてきた。

 「再び筆を持ち始めたのはここ二、三年」と新子さん。家事を終えてから、台所の食卓で挿絵を描く。庭に出て、草花を描くのが日々の楽しみ。シダ、ドクダミ、ツユクサ、アジサイ。はしごに乗ってモクレンの葉を描いたり。

 葉の付き方、花びらを納得するまで観察する。アジサイを見つめながら、淡い水色を白い紙の上に乗せていく。その筆先から花たちが優しい姿を現す。青梅とカタツムリ。青くにじむアサガオ。新子さんの目を通して描かれ、色を染められた草花はそそとした風情だ。

 「絵の中で生き生きと草花が息づいて、静かな時間が流れているような、そんな絵を描きたい。今という時を表現したいですね」。それには岩絵の具を重ねていく日本画の手法よりも、顔彩という画材が合っているのだろう。

 「毎日少しずつでもかく時間を作って、描き続けていきたい」という新子さん。淡い水色を抱いたアジサイの花に新子さんの姿が重なった。
弘前大学非常勤講師 平成12年12月23日
佐藤 きむさん 「現場で得た知恵を 若い人に伝えたい」
 「時事随想」のメンバーとして「モモヒキはいて省エネしよう」「数学嫌いがなぜ悪い!」と元気のいい文章を二ヶ月に一度、陸奥新報に載せる佐藤きむさん(68)。今も現役で弘前大学と弘前学院大学で国語科教育を教える。

 自称「授業屋の職人」。中学校の国語科教諭として三十七年間培った技、思いを若い学生たちに伝えるのが仕事だ。

 月の半分は大学や生涯学習講座の講師。残りの半分は文筆業と忙しい身の上。「魚釣りや山菜取り、読書に菊の栽培と悠々自適に暮らす夫には、ご苦労様ですって言われます」と苦笑いする。

 弘前市の生まれ。子ども時代は営林署勤務だった父親に伴われ、金木、青森で過ごした。ひらすら本を読むのが好きな少女だったという。弘前中央高校時代は生徒会新聞作りと生徒会活動に血道を上げた。「小さいころから家庭的な子ではなかったわね」。その当時から元気いっぱいで「仕切るのが大好き」というあねご肌のきむさんの姿が浮き上がる。

 「当時、女の人の仕事といったら学校の先生。結婚しても仕事をしたいと思いました」。弘前大学教育学部を卒業後、小学校の教諭を経て一九五六年から付属中学校の国語科教諭となった。「スポーツする子と違って、むすむすっと本を読んだり、もの書いてる子が光を浴びる場面ってない。そういう子たちに光を当てたくて、作文コンクールにもいっぱい出品しました」。以来三十七年間、「作文教育のきむ先生」として全国に名をはせた。

 六十歳で定年を迎え、夢だった「大河小説ざんまい」の生活を送る予定だったが、たまたま弘前大学教育学部国語科教室のポストがあいた。「応募したら」の勧めを受け、助教授の公募にチャレンジ。見事、六十歳の国語科教育の助教授が誕生した。

 「わたしが中学校で実際にやってきたことを、若い人に伝える場を得たことは幸せ」ときむさん。現場を踏んできた者だけが伝えることのできる教師の智恵、経験はきむさんの財産だ。

 「中学の教師をしていたころ、わたしの夢を何倍にもしてかなえてくれた作文がありました」ときむさんは「小さな魂のドキュメント」と題した一冊の本を見せてくれた。大手新聞社が主催する全国中学校つづり方コンクール入賞作品集。その入賞第一位・文部大臣賞に輝く作品がきむさんが指導した「小さな魂のドキュメント」だった。本を読むことによって一人の生徒が成長する姿が、中学生らしい誠実な文章でつづられている。作者は弘大付属中学三年生の今泉昌一さん(元今泉本店社長)。中学の教師として過ごしたきむさんの胸に残る、キラリと光る小さな思い出のひとつだ。

自宅では今も月二回、若い女性の国語科教諭を集めて研修会を開く。一緒に夕食を取りながら、授業のやり方をアドバイスし合う。時には先生たちの「くどき」を聞き役に回る。「ただ話を聞くだけですよ」と笑うが、きむさんのような先輩に話を聞いてもらうだけでどんなに心強いだろう。

 書斎の机の隣には大きなワープロが一台。「紙にボールペンで下書きしてからワープロで打つの。画面に向かっても何も浮かんでこない。やっぱり紙に向かわないとね」と物書きとしての姿勢をかたくなんい守るきむさん。大学での講義と月何本もの原稿。「朝起きて、とこの中でおなかがすくまで大河小説よんでいたい」という生活は、まだまだやって来そうにはない。
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