「自分でつくった癌だから」を
 出版した

            黒石市緑町                                平成12年9月23日

玉田 由紀子さん 「癌を受け入れ  自然体で生きる」
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 この秋、自らの乳癌(がん)の闘病記「自分でつくった癌だから」を出版した。「『リンパ腺まで癌ができている。五年後の生存率は十数パーセント』。こう言われてわたしの癌人生がスタートしました。昨年の七月、無事に手術から五年を迎えて、何か形にしておこうって思ったんです」
 まあるい顔に柔和な笑顔を浮かべる由紀子さんには右の乳房がない。
  「乳房を取った最初の冬、津軽の寒さがこたえました。
乳房がないってこんなに寒いんだって。なくなって初めて乳房の温かさが分かりましたね」。穏やかに笑う由紀子さん。 由紀子さんは癌を「贈り物」と呼ぶ。癌という病をもらい、自分自身の生き方、考え方が大きく変わったと感じているからだ。

 由紀子さんは黒石の生まれ。弘前大学に入学し、二年生の時から実家を離れ、自立した生活を送ってきた。卒業と同時に聖愛高校の音楽の教諭となった。「ひとつのことをやり始めると、とことんやっちやうタイプ」と由紀子さんが話すように、授業、ホームルームの担当の傍らコーラス部の指導、オーケストラでは自らビオラを演奏し、大きな演奏会の事務局を引き受けるなど、放課後、休日関係なしに頑張ってきた。

 そして教師になって二十年目の春、由紀子さんは胸のしこりに気付く。詳しい検査の結果、癌と宣告を受ける。五年後の生存率とともに。「不思議にその言葉をスーツと受け入れることができました。ただ丈夫な体に産んでもらいながら、こうなってしまったことに対して、両親に申し訳ないという思いがあふれました」

 職場の入、クラスの少女たちにも癌であること、乳房を取ることなど隠さずに話した。「元気者で通ってましたから、周りはきっとびっくりしたでしょうね」と笑う由紀子さん。「女生徒たちがいつか病気にかかってしまった時、わたしのことを思い出してもらえたら。教師として、病気もまた自分にしかない財産ですね」。前向きな由紀子さんに頭が下がった。

  「癌という病気でももらわなければ、自分の生き方を変えることができなかった。それまでは何かをする能力を持ち、何かをすることに価値をおいた人生でした。癌になったお蔭で、この世に生きること、存在することに価値を置く人生に変わりました。生きていること自体に価値があり、素晴らしいことだと気付きました」

 本のタイトルは「自分でつくった癌だから」と決めた。これは抗癌剤の副作用に苦しみ、このままでは体自体がだめになると直観し、抗癌剤の投与を拒否して自ら別の治療法を選んだ由紀子さんならではの題名だ。

  「自分の生き方、生活の中に病気の原因があるんだと気付きました。わたしの尊敬する医師に、『医者に依存せず、自分でつくった癌は自分で治すんだよ』と言われたんです。わたし自身それが大切だと思いました。自分でつくった癌に自分で立ち向かおうと」

 この六年間、由紀子さんは血を浄化し、自然治癒力を高めるための療法と食事を続けてきた。そして手術から五年目の秋、由紀子さんは岩木山登山に挑戦した。自分の休で生きている実感をつかみたかったからだ。この春から、大好きな黒石の役に立ちたいとこみせボランティアに加わった。休日はこみせ通りをガイドして回る。

  「胸にはパットも入れていません。ありのままの自分で生きていきます。隠さずに温泉にも行きますよ」とにこやかな由紀子さん。肩の力を抜き、あるがままを素直に受入れ、自然体で生きる由紀子さんの顔はとても穏やかだった。
 


日本画を描く

            弘前市北園                                平成12年3月18日

松原 峰子さん 「時の流れに目を向けて 奇をてらわずに描く」
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 松原峰子さん(65)の初の画集をいただいた。優しい乳白色の扉を開くと、鮮やかな朱赤の上に記されたタイトル。いつもおっとりとした笑顔をたたえる峰子さんにしては、意外なほどの激しい色調に、少しの間見入った。

 一ページ目を飾るのは「刻」という作品。豊かに実る南瓜(かぼちゃ)と枯れた葉やツル。季節は秋の終わりだろうか。実りを支えるために命を使い果たし、今は無残な姿をさらすものたち。そのかたわらには、あおあおとしたカボチャの茎が伸び、黄色の花を咲かせ、つぼみをはぐくむ。決して実りには到らない、けれども無心に生きる植物の姿が目を引く。

 無慈悲に移ろう時と、その中で懸命に生きる姿は人の人生と重なる。この作品は国民文化祭おおいた美術展日本両部門で教育長官を受賞した。美しいものを美しく描くだけでは収まらない峰子さんの美意識はどこから来るのだろう。

  「実家は多治見市で陶磁器にかかわる仕事をしていて、わたしが高校生の時、倒産。いつかわたしも陶磁器の仕事に就きたいと思っていました。それで親に無理を言って女子美の短大に行かせてもらったんです」

 女子美の先輩に当たる片岡球子、丸木俊にあこがれた。だが、女子美では個性の強い同級生たちに圧倒されたという。「あんたなんかどうしてここに来たのと言われて。仕送りも少なかったのに阿佐ケ谷のデッサン研究所に毎晩通った。何とかデザインで身を立てたかったんでしょうね」と振り返る。

 東京で頑張りたいとレナウンにデザイナーとして就職。ここでまた個性的な同僚だちからさんざんにたたかれたと笑う。東京での暮らしはあきらめ、多治見市で小学校の臨時教諭をしながら、玉川大学の通信教育を受け、小学校の教員免許を取得したという。静かな雰囲気とは裏腹に、なかなかの根性の持ち主だ。

 なぜ弘前に? 「夫の邦明は兄の親友で、当時は院生で就職浪人。ぶらぶらしていて、やっと県の職員に採用が決まり、青森にやって来ました」とほほえむ。峰子さんも青森市新城の小学校に勤務。保育所もなく、近所の人にニ人の子を預けながらの共働きは大度だったろう。体を壊した峰子さんは仕事を辞め、弘大の教官になった夫と共に弘前へやって来た。

 子育ても一段落したころ、峰子さんは津軽塗の展示会で師匠となる熊谷仙真さんのボタンの絵と出合う。モノトーンで表現された動きのある花びら。もう一度絵を描きたいと熱心に願う峰子さんに日本画を教えたのが仙真さんだった。峰子さんは四十七歳になっていた。

  「とにかくスケッチをして来いと言われた。わたしって単純だから絵を習うってこういうものかなと。岩木町のリンゴ園へ行け、板柳がいいと言われれば、吹雪の中、一人でリンゴ園にスケッチに行きました。行けって言うなら行ってやろうじゃないって。鍛えられましたね」。職人かたぎの仙真さんは峰子さんに、自分で考え、自分で描くしかないことを伝えた。

 峰子さんの作品からは気負いのない、素直さが伝わる。リュックをしょってあちこちを歩いて探したモチーフ「樹魂」。「どなられ、しかられながらだから、バックは赤」と笑う。庭にやって来るアカゲラ、ヒヨドリ、モズ、キジ。決して奇をてらわず、ふと心を動かされた風景を淡々と描く。

  「わたしが死んだら、わたしの絵なんか子どもたちが適当にかたづけちゃうんだろうなと考えたら、形として残しておきたいと思い、画集にしました」。にこやかに話す峰子さん。雪をかぶった枯れ色の山アジサイ。雪明かりの中に姿をとどめる枯れ野の植物たち。命の営み、てん末を見つめる静かな目。画集の最後のページを落ち着いた茶色が彩る。峰子さんの作品に心象の風景を重ねながら、ゆっくりと画集のページを閉じた。

 
 
 

  第23代県手踊り名人位

            黒石市末広                                平成12年8月12日

山本 とし子さん 「激しい動きと色香 手踊りは津軽の華」
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 「津軽三下り」の三味線の響きに乗せて、切れのいい手踊りを披露する山本とし子さん(49)。扇を二本、帯締めに差し、気合とともに一気に開く。そらせた指先に視線を向け、赤い番傘をくるりと回してはポーズを決める。

 一曲が三分と少し。涼しい顔で踊り終えると、一気に顔から汗が吹き出す。とし子さんは県の手踊り名人決定戦、第二十三代手踊り名人位の持ち主。四十二歳での快挙だった。「四十歳過ぎての名入位はわたしが最初でした。周りは若い人ばかりで、意地で頑張ったようなもの」と津軽女のじょっぱりを見せる。

 中腰の姿勢が多く、つまさき立ちで激しい振りを見せる津軽の手踊り。黒石よされで見せる華やかな組踊りは圧巻だ。

 とし子さんは民謡好きだった祖父の影響で、幼いころから津軽民謡に合わせて踊っていたというほどの踊り好き。十歳から手踊りの師匠について、本格的な練習を始めた。

 かつて、黒石よされといえば各町内で組踊りの舞台を作り、その数は十五も十六にもなったという。「よされの舞台に上がるのが、子供のころの一番の励み、喜びでした。みなさんさ見てもらえるし、楽しいし」。朝から晩まで市内の舞台を踊って回ったのが小学校、中学校時代の楽しい思い出,家々の土間で踊った「かどづけ」も懐かしい思い出だ。

 津軽民謡の踊り手として十八歳で大阪へ。「踊りが好きだとこでサ、踊りで食べていけたらと都会に行ったけれど、やっぱり黒石が一番。人が多くてめまいしてまる。都会は地に足がつかない感じで性に合わないね」ととし子さんは笑って見せた。

 黒石に戻って結婚し、二人の子を産んだが、手踊りは続けた。「妊娠、出産以外はずっと踊ってた」というとし子さん。市内の宴会場で「お運びさん」をしながら、要望があれば仕事着から晴れ着に着替え、手踊りを披露。「ビールケース二つくらいは軽くかついで階段を登りました。それが手踊りの修行になったのかな」。宴会で見せる、とし子さんの切れのいい「津軽じょんから節」「津軽よされ節」に酔った津軽衆も多いはずだ。

 人に勧められ、三十六歳で県手踊り名人戦に初挑戦した。津軽予選には百五十人が参加し、十人が予選通過という激戦だった。初挑戦で予選を通過したとし子さんはそれから六年、毎年、毎年、名入位を目指して挑戦を重ねた。

 三分間の手踊りに一年を掛ける。黒石の踊りは大きく、華やかに踊るのが特徴だという。きりっとした激しい動きの中に、優しさと色香を伝える「津軽三下り」。踊りが好きでなかったというとし子さんの夫も、大会で見事に踊る妻の姿を見て、次第に理解を示してくれるようになった。「年も年だけに、これ以上挑戦しても駄目かなとあきらめたこともありました。でも最後まで頑張らないと、協力してくれる主人に申し訳が立たない。途中で投げられないと思いました」

 とし子さんは現在、夫とともに焼き鳥屋を切り盛りしながら、結婚式や町村のイベントで「とし子の手踊り」を披露する。浪岡で開く手踊り教室では、小学校二年生から五十代までのお弟子さんを仕込んでいる。

  「黒石よされに、自分の弟子と連を組み、組踊り大会に出場するのが夢。弟子が育つのに五年は掛かるかな」と話すとし子さん。血をわかせる津軽三味線の音色。提灯(ちょうちん)の揺れるこみせ通り。黒石の町が一年で一番活気を帯びる黒石よされ。町のどこかで、とし子さんも見事な踊りを見せるに違いない。
 

 

 

茶道遠州会
    岩木乃支部長

            弘前市稔町                                平成12年9月16日

横山 宗哲さん 「和の心が支部のモットー 楽しい手づくりの茶会を」
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 江戸時代、三代将軍家光の茶道指南(しなん)役を務めた小堀遠州がつくり上げ、完成させたのが茶道の流派のひとつ、遠州流。

 遠州流の岩木乃支部長横山宗哲さん(73)の家を訪ねた。岩木山がくっきりと姿を見せる秋晴れの朝だった。

 宗哲さんのお茶室は雪の日でもおけいこが出来るよう、露地も含めてすっぽりと屋根に包まれていた。茶室の名は「聖光庵」。織部焼で庵の名称が記されている。「少年の日、遠州がお茶を学んだのが陶芸家としても知られる古田織部。織部の伝統に挑戦するデザインが大好き。わたしも果敢(かかん)に挑戦するたち」と言い、つややかな笑顔を見せた。

 宗哲さんが支部長を務める遠州流岩木乃支部では十月八日、全国から八百人の茶人を集め、遠州会の全国大会を開く。「まず一服どうぞ」とおっとりした笑顔で迎えてくれたが、開催の日まで一ヵ月を切り、本当は目が釣り上がるほど忙しいはずだ。

 大会の準備は四年も前から始めた。「東京と同じことをやっても何にもならない。リンゴ園での野点(のだて)を計画したり、お土産用のお菓子袋も自分たちで縫いました。遠くまで来てよかったと思ってもらえるよう、手づくりの茶会を考えています」

 宗哲さんの本名はテツ。テツさんが生まれて初めて抹茶を飲んだのは戦時中のことだった。女学校を終えた後、テツさんは軍の動員で東京の技術員養成所で働いていた。戦時下であったにもかかわらず、養成所には月に一回、どこかのお寺から尼さんがお茶のおけいこをつけにやって来たという。「お菓子なんかない時代に、小さい黒砂糖を食べてから飲んだ抹茶。もんぺを着たわたしたちの中で、尼さんの姿の美しかったこと。それがずっと頭から離れませんでした」

 戦後間もなく、弘前で結婚した。相手は戦艦大和の生き残りという海軍の出身者だった。戦争中に見たお茶をたてる尼さんの姿が忘れられず、いつかお茶を始めたいと願っていたテツさんは、縁あって遠州流と出合い、二十六歳からお茶を始めた。

 夫忠さんと一緒に会社を経営する傍ら、四十歳で師範を取った。「もううれしくて。師範の看板、大きくてね。こうやってだっこして帰りました」と当時を懐かしむ。

 お茶のよき理解者だった忠さんが病に倒れたのは六十五歳を過ぎて、これから二人で旅をしたり、楽しもうと考えていた矢先のことだった。「お父さんの看病が半端になるから、お茶をやめると言いました。そしたらお前からお茶を取ったら何が残るんだとお父さんに言われて。とても寂しがりの人でしたが、お茶と言えばどこでも行かせてくれました」

 忠さんが亡くなって一年後、テツさんは支部長となった。「恩返しのつもりで引き受けました。毎日だれかが訪ねてきてくれるので寂しいと思ったことはありません。これもお茶をやっていたお蔭」と感謝する。

 宗哲さんの一日は岩木山を眺めることから始まる。「毎日岩木山を見て、元気をもらっています。人のために力を使えば、自分も新たな力がわいてきます」。支部のその名の通り、岩木山から力をもらい、にこにこと一日を過ごし、人の和を大切にする。それが宗哲さんのモットーだ。

  「こう見えて実はとてもひょうきんな人」というのがお弟子さんから見た宗哲さん評。全国大会の懇親会では芸達者な支部のメンバーらが自ら踊り、歌い、もてなす予定だ。宗哲さんも得意の津軽弁で「十二支の数え歌」を披露する。

  「こんながさがさした時代だから、ほっとする時間が必要。堅苦しく考えず、肩の力を抜いて、気軽にお茶を楽しんでもらえたら」とほほ笑む宗哲さん。紺の薄物を着た宗哲さんの姿はすがすがしく、秋の空のように大きく晴れやかだった。

 
 

「野の庵」女将

            弘前市五十石町                           平成12年8月26日

佐藤 貞子さん 「幻の津軽そばを発信 おいしさ全国に伝えたい」
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 春は満開の桜に埋もれ、夏は西堀の緑、秋には紅葉、冬は白一色の雪に包まれる料理屋「野の庵」。弘前公園と垣根ひとつで結ばれ、公園の緑を借景に持つ。その名の通り、白然にいだかれたたたずまいが魅力だ。

 「野の庵」の名付け親で、ここの名物女将(おかみ」が佐藤貞子さん(53)。きりっとしたきっぷの良さと堂々とした物腰で、女丈夫という表現がぴたりとはまる。

 築百五十年という武士の屋敷を生かし、落ち着いた雰囲気の中、地元の食材を用いた料理を出してきた。高級料理店というイメージが強い「野の庵」だが、昨年の秋から、野の庵の献立に「幻の津軽そば」が並んだ。

 「野の庵のご先祖はかつて、お城の公園の中で『かねよ』という津軽そばの店を開いていました。やっと今、『かねよ』の時代に戻ったんです」と貞子さんはゆっくりとほほえんだ。

 「召し上がれ」と出された津軽そばは光っている。大豆をふかし、すりばちですり、それをさらしで搾った汁をソバ粉に入れて打つのが津軽そば。焼き干しと昆布でだしを取った優しい味の汁と甘いそばの香りが懐かしい。心和ませる味だ。かつて津軽の人は、なにかにつけこの津軽そばを食したのだろう。「津軽そばをみんなに食べてもらうのがわたしの任務。野の庵も原点に返ったんだと今は感無量です」

 貞子さんは弘前市石川の生まれ。喫茶店を営んでいた貞子さんは、青年会議所の活動を通じ彰さん(49)と知り合い、結婚。当時は紺屋町で開いていた「かねよ」で夫の両親とともに料理屋を切り盛りした。「もっと繁華街で店をやりたい」と夢を描いた彰さんに説得され、紺屋町の店をたたみ、かくみ小路に「かねよ」を移したのが一九七〇年代の前半だった。

 「かくみ小路にいたころが一番苦しかった」と貞子さん。とことん行き詰まり、逃げようかと夫と二人相談したこともあった。「逃げるなら、あんた一人で逃げなさい。わたしは逃げない。ここで頑張るって言い張ったの」と貞子さんは笑って見せた。やると決めたら最後、とことんぶつかっていくのが貞子さんの生き方。

 それには訳がある。弘前中央高校時代、音楽の教師になりたかった貞子さんだが、「東京に行くなら勘当だ」という父親に説得され、一度だけ夢をあきらめた経験がある。「あそこであきらめて悔いが残った。卒業写真を見ると寂しい顔して写っています。あきらめちゃいけないって思いました。逃げずに最後までやり通そうと思ったんです」

 十五年前、今の場所に移ってきた。「ここに来てから何かに押されているように感じます。お城に戻って来て、ご先祖さまに守られているような」と遠くを見る貞子さん。この秋から店の名を「かねよ 野の庵」に改める。原点に返り、先祖の思いを犬切にしようという気持ちからだ。

 「お客様を選んでいないか。仕事をより好みしていないか。少しごう慢になっていた時、そばをやれよというご先祖さまの意思だと思いました。全国に津軽そばのおいしさを発信していきたい」と張り切る。女将という仕事がとても楽しそうだ。

 「女将として、お客様皆様に育ててもらったと思います。これからも奥を取り仕切る刀自(とじ)の心意気でお客様に接していきたい」という貞子さん。

 時は秋。紅葉を眺めながら食べる温かく優しいそばの風味は、先人たちの愛した、津軽の味である。

 
 
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