江戸時代、三代将軍家光の茶道指南(しなん)役を務めた小堀遠州がつくり上げ、完成させたのが茶道の流派のひとつ、遠州流。
遠州流の岩木乃支部長横山宗哲さん(73)の家を訪ねた。岩木山がくっきりと姿を見せる秋晴れの朝だった。
宗哲さんのお茶室は雪の日でもおけいこが出来るよう、露地も含めてすっぽりと屋根に包まれていた。茶室の名は「聖光庵」。織部焼で庵の名称が記されている。「少年の日、遠州がお茶を学んだのが陶芸家としても知られる古田織部。織部の伝統に挑戦するデザインが大好き。わたしも果敢(かかん)に挑戦するたち」と言い、つややかな笑顔を見せた。
宗哲さんが支部長を務める遠州流岩木乃支部では十月八日、全国から八百人の茶人を集め、遠州会の全国大会を開く。「まず一服どうぞ」とおっとりした笑顔で迎えてくれたが、開催の日まで一ヵ月を切り、本当は目が釣り上がるほど忙しいはずだ。
大会の準備は四年も前から始めた。「東京と同じことをやっても何にもならない。リンゴ園での野点(のだて)を計画したり、お土産用のお菓子袋も自分たちで縫いました。遠くまで来てよかったと思ってもらえるよう、手づくりの茶会を考えています」
宗哲さんの本名はテツ。テツさんが生まれて初めて抹茶を飲んだのは戦時中のことだった。女学校を終えた後、テツさんは軍の動員で東京の技術員養成所で働いていた。戦時下であったにもかかわらず、養成所には月に一回、どこかのお寺から尼さんがお茶のおけいこをつけにやって来たという。「お菓子なんかない時代に、小さい黒砂糖を食べてから飲んだ抹茶。もんぺを着たわたしたちの中で、尼さんの姿の美しかったこと。それがずっと頭から離れませんでした」
戦後間もなく、弘前で結婚した。相手は戦艦大和の生き残りという海軍の出身者だった。戦争中に見たお茶をたてる尼さんの姿が忘れられず、いつかお茶を始めたいと願っていたテツさんは、縁あって遠州流と出合い、二十六歳からお茶を始めた。
夫忠さんと一緒に会社を経営する傍ら、四十歳で師範を取った。「もううれしくて。師範の看板、大きくてね。こうやってだっこして帰りました」と当時を懐かしむ。
お茶のよき理解者だった忠さんが病に倒れたのは六十五歳を過ぎて、これから二人で旅をしたり、楽しもうと考えていた矢先のことだった。「お父さんの看病が半端になるから、お茶をやめると言いました。そしたらお前からお茶を取ったら何が残るんだとお父さんに言われて。とても寂しがりの人でしたが、お茶と言えばどこでも行かせてくれました」
忠さんが亡くなって一年後、テツさんは支部長となった。「恩返しのつもりで引き受けました。毎日だれかが訪ねてきてくれるので寂しいと思ったことはありません。これもお茶をやっていたお蔭」と感謝する。
宗哲さんの一日は岩木山を眺めることから始まる。「毎日岩木山を見て、元気をもらっています。人のために力を使えば、自分も新たな力がわいてきます」。支部のその名の通り、岩木山から力をもらい、にこにこと一日を過ごし、人の和を大切にする。それが宗哲さんのモットーだ。
「こう見えて実はとてもひょうきんな人」というのがお弟子さんから見た宗哲さん評。全国大会の懇親会では芸達者な支部のメンバーらが自ら踊り、歌い、もてなす予定だ。宗哲さんも得意の津軽弁で「十二支の数え歌」を披露する。
「こんながさがさした時代だから、ほっとする時間が必要。堅苦しく考えず、肩の力を抜いて、気軽にお茶を楽しんでもらえたら」とほほ笑む宗哲さん。紺の薄物を着た宗哲さんの姿はすがすがしく、秋の空のように大きく晴れやかだった。 |