長谷川自然牧場を経営する
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 長谷川 光司さん
  洋子さん
平成12年1月20日
「豚二百八十頭と鶏二千羽のお母さん温かな人柄が人を集めるお父さん」

きいきいぎゃぁぎゃぁ。にぎやかな鳴き声が豚小屋の置くから聞こえてくる。「ゆうべうまれたばかりの子豚。かわいっきゃ!」優しい目を向ける長谷川洋子さん(47)。「昔、動物大嫌いだったなんて思えないべ。それを百八十度変えた、だんなの力」隣で光司さん、(49)は胸を張る。

 片手にちょこんと乗るほどの子豚を抱かせてもらった。まだへその緒の付いた豚の赤ちゃんは、温かくて柔らか。十二匹の兄弟たちは先を争って母豚の乳房にむしゃぶりつく。

 その隣の柵の中では、おなかをすかせた雌豚たちがすごい勢いで一日一回のえさに食らいつく。きょうのメニューはパンとスパゲティと焼きそば。「パン屋の残りや学校給食の余りとか、人の食べる物は何でも食わせる。水は山の湧き水。腹を減らせてから食べさせるから身になる。一頭、一頭顔も違えば性格も違う。いじめだったあるよ」と説明する光司さんは、豚二百八十頭、鶏二千羽、犬八頭、そのほかアヒル、ガチョウ、ヤギ、ウサギ、タヌキなどが暮らすこの長谷川自然牧場の大親分だ。

 この地に牧場を開いて十五年になる。昔の農業のやり方が基本。鶏や豚のふんでたい肥を作り、畑に還元。その畑で取れた野菜のくずを鶏や豚に食べさせる。「これが自然循環式農法。今年は完全無農薬の米作りにも挑戦するつもり。畜産を入れた農業は足腰が強い。どんな世の中が来ても怖くないからね」と自信を見せる。

 長谷川さん夫妻が畜産を始めたのには訳がある。それまで作っていた葉タバコの農薬の害で光司さんが体をこわし、薬を使わないものをと研究した結果、自然養鶏にたどりついて。土の上を自由に歩き回り、草や虫をついばむ鶏。「詰め込んで育てるのではなく、のびのび育てる。昔の農家はどこでも鶏を放し飼いにしていた。それが当たり前の風景だったよね」

 隣でにこにこと光司さんの話を聞く洋子さんだが、ここまで来るのは並大抵でなかったろう。青森市の海辺生まれの洋子さん。「農家と漁師と酒飲みとは結婚しないって決めていたのに。犬も苦手だった洋子が今では豚屋のかっちゃだよって母が驚くの」と話す。

 豚をやるなら離婚すると宣言した洋子さんだが、豚の出産に立ち合い、赤ちゃん豚にミルクを飲ませる手伝いをしてから気持ちが変わった。「時間になれば子豚がわたしをブーブーブーって呼びにくる。目を見れば、豚の気持ちや言葉が分かるようになった。あんた一番幸せだってしゃべられる。子供いっぱいいていいねって」 それでもケンカをして実家に帰ろうと駅に行くことが何度もあった。

 「ここの電車さ二時間ぐらい来ないの。泣きながら駅で待ってても、もう三カ月我慢するかってそのうち思うんだよね」。長谷川さん夫妻には子供はないが、その代わり全国各地から長谷川自然牧場を見たいといういう若者たちがやって来る。近くの保育園の子供たちや不登校の子供たちも手伝いに来る。休日には卵や肉を買う人も来て、出来る仕事を手伝っていく。「いろんな人に生かされてうちの牧場は成り立っている人生の道の駅って感じかな」

 「野菜くずを食べ、ひなたぼっこして育ったうちの鶏の産む卵はおいしいよ」の声に引かれ、手伝いの若者たちと一緒に、昼ごはんを食べた。無農薬の甘いキャベツと豚肉の重ね煮。ぷるぷると元気のいい白身とぷくんと張りのある黄身は味が濃くて、絶品の卵ごはんだ。

 長谷川さん夫妻の温かい人柄が人を集め、自然牧場はいつもにぎやか。岩木山を正面に眺めながらの生活は厳しいけれど温かい。「今だばサラリーマンの嫁になってただ家でばほってしているよりずっといいって思う」と楽しそうに話す洋子さんの耳元で、「わたしなりの抵抗」だという小さなピアスがキラリと光った。


青荷温泉常務取締役支配人
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 福士 収蔵さん
「綾結」織主 玲子さん
平成11年7月24日
「思った通りに進む 夫妻の我慢強さは天下一品」
  「好きなことをやってきた人」と言う玲子さんに、「よく黙って付いてきたな」と収蔵さんは答えた。玲子さんが沖縄本島まで船で十八時間かかるという石垣島から青森県にやって来て二十七年の歳月が流れた。

 「なんでこんな遠くに来たんだろうと思ったこともありました」と話しながら、玲子さんの目にみるみる涙が膨らんだ。二十七年という月日は楽しいこと、苦しいこと、寂しいこと、すべてを含んだ玲子さんの軌跡。「津軽生まれでないけれど、もっとも津軽女ったけんた人だよ」と収蔵さんは玲子さんを評した。

 二人が出会ったのは東京のど真ん中。方や津軽弁、方や琉球(りゅうきゅう)言葉の二人が東京で恋に落ちたのも不思議と言えば不思議。学生生活を終え、津軽に帰った収蔵さんから石垣島で暮らす玲子さんの元に、月に一ぺん手紙が届いた。玲子さんから収蔵さんに届く手紙は赤と空色の縁取りのあるエアメール。まだ日本に復帰していない沖縄からのラブレターだった。

 「ワさ口べただはんで手紙書いてさ。青森においでと」。玲子さんの両親はもちろん猛反対。ひと夏、玲子さんが収蔵さんの就職先である青荷で暮らし、これなら大丈夫と結婚に踏み切った。

 そのころの収蔵さんの夢は「青荷温泉を都会の人のオアシスにすること」。当時の青荷温泉はまだ脚光を浴びることもなく、ただ静かな温泉だったという。東京での暮らしを経験した収蔵さんは、ごみごみした都会の暮らしに疲れた人が、きっといつか青荷のような所を求めてやって来るだろうと考えていた。「先見の明があったと思うよ」と収蔵さんは胸を張る。

 青荷にやって来た玲子さんを待っていたのは朝五時に起きて、夜中まで眠ることのできない忙しい生活。調理場、掃除、洗濯。「まず働いたね」と収蔵さんは玲子さんを見やった。青荷温泉が脚光を浴びたのはそれから十年ほどたってから。玲子さんは子供と共に浪岡に暮らし、収蔵さんは月に一、二回家に帰るだけの生活がそれから長い間続いた。

 「玲子がいてくれたからワさ好きなことできたんだね」と頭を下げる収蔵さん。「石垣から来て、なんでわたしと子供を家に置いて青荷に行くのって思ったこともあったと思うよ」話す収蔵さんの横で、静かに笑う玲子さん。我慢強さで沖縄の女性は天下一品。収蔵さんの父親、親族などを看病する間、玲子さんは十年以上も石垣島へ帰ることはできなかったという。

 我慢一筋できた玲子さんにもずっと温めてきた夢があった。それは機織りを再会すること。石垣島の女たちは小さい時から機を織って暮らしてきた。「一人前に織れるようになると嫁に行けました」と玲子さん。税金の代わりに琉球政府に反物を収めてきたので、沖縄の女たちはだれでも鼻を織れるのだという。

 芭蕉の木を手で裂き、木炭で煮て柔らかくして作った糸を横糸、津軽に咲くタンポポやフキノトウ、リンゴの樹皮で染めた糸を縦糸に。沖縄と津軽を結びたいという思いで機を織る。三年前、黒石のこみせ通りに開いた店にはその思いを込めて「綾結び」と名付けた。

 縦糸の間に横糸を通す単調な作業を繰り返し、繰り返して布を織っていく。気が遠くなるほど静かで、単調な作業が続く。無心に機に向かう玲子さん。働き者の沖縄女性の姿がそこにあった。

 こみせ通りを歩いて楽しい所にするのが収蔵さんの夢。「こういう店っこがいっぱいできたらいいな」と思いは膨らむ。津軽と沖縄。何千キロという距離を超えて出会った人と人との不思議な縁。「来てよかったんだよね。この数年、津軽っていい所だと思えるようになりました」。静かに語る玲子さんの目にもう一度涙が浮かんだ。
りんご農家
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 工藤 清一さん
  昌子さん
平成12年9月30日
「品種改良に夢をかけ「未希ライフ」「紅夏」生む」
 九月半場のリンゴ園。「つがる」の収穫が終わった工藤清一さん(63)の畑では、新品種リンゴ「かんき」の真っ赤な身が歓迎してくれた。

 「まず食べてみてけ」と差し出された「かんき」の実。二つに割って口に入れると、「千秋」に似た甘酸っぱい味と香りが広がった。「このリンゴは千秋の子ども。未希ライフの妹分に当たります。わたしが千秋の種から育て、つくり出した新品種のりんごです」

 弘南鉄道石川駅近くにある工藤さんの園地には十四種五百本のリンゴの木が植えられている。「未希ライフ」「かんき」「安祈世」「栄黄雅」、現在登録出願中の「石川ゴールド」までが「千秋」の子どもあたり、今年お目見えした「紅夏」と「黄明」は「未希ライフ」の長女、長男に当たるという。

 「朝、リンゴ畑さ来ると、もう新しい品種のとこさ足向くんだね。みんなにまためのとこさ行ったって笑われている。おなごに夢中になるよりいいよね」と頭をかく清一さんの隣で、「畑仕事の最中でもふっといなくなって、新しいリンゴのとこさ行ってニタニタしているの。リンゴがおなごだべか。もう勝手にやってって、野放しにしているの」妻の昌子さん(57)はあきれ顔だ。

 「苦労は大いにありました。品種改良はかまどけしって言われたものです。結婚して四十年。失敗したなあ」と言ってアハハハと笑う昌子さん。清一さんと正子さんが結婚したのは、一九六三年、「ふじ」が市場に出始めたころだった。

 昌子さんは公務員家庭に育ち、リンゴ園にも行ったことがなかった。「えの母親が見て、気に入った人なら、わもいいなと思ったわけよ」と清一さん。「行けばなんとかなるだろうって嫁ぎました。高校でてすぐでしょ。成人式には息子がいて、早まったかなって思ったことも。いつかいいことあるかなって今までやってきたの」昌子さんは話す。

 清一さんが品種改良のとりこになったのは「千秋」の生みの親、今喜代治さんとの出会いがきかっけだった。今さんのつくった「千秋」の味に魅(み)せられた清一さんは「千秋」本木三本をもらい、三年間でそれまであったスターキング二百本にすべて千秋を接ぎ木していく。

 実割れという「千秋」の欠陥をなくし、よりよい品種をつくるため、一九八一年、「千秋」の実の種を取り、畑にまいていった。秋には葉を見て雑種をのぞき、春にはまた移植。それを繰り返し、千個の種から最終的に三百本が苗として残った。

 ピンポン玉ほどになった実をかじり、第一印象でこれはという苗を選び、大きなリンゴの木に接ぎ木していった。「自分の道楽だはんで、一人でやっていった」と笑う清一さんに、「こうなってしまえば聞く耳をもちませんので」と苦笑いする昌子さん。「これなら」と思うリンゴが出来たのは八六年の秋だった。

 新しいリンゴには、当時放映されていたNHKの大河ドラマ「いのち」の主人公未希の名を取り、「未希ライフ」と名付けた。実割れをせず、さわやかな風味を持ち、台風シーズンの前に収穫できる新品種の誕生だった。

 清一さんは現在も品種の改良に力を入れる。「地球温暖化で夏が暑くなり、つがるの生産が難しくなっている。つがるに代わる品種を育てたい。台風が来る九月の中旬までにおいしいリンゴが収穫できたら、農家の収入が安定する」。そんな思いから生まれたのが八月に真っ赤に実る「紅夏」と九月の中旬にジューシーな実を付ける「黄明」だ。

「品種を多くし、次々と旬のリンゴを出荷して、消費者にあきられないリンゴを作りたい」と清一さんは語気を強める。ふと我に返り、「津軽のばかこだなあ」とつぶやく清一さんに、「まず、ばかこだね」と応じる昌子さん。清一さんの新種への挑戦は、きっとこれからも続いていくのだろう。
「寺崎自動車代表取締役」
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 寺崎 忠光さん
  きゑさん
平成11年12月18日
「“えじ”を通して三十年 妻の存在が心の支え」

 裸一貫から自動車整備工場「寺崎自動車」をつくった寺崎忠光さん(58)の自宅を訪ねた。

 きれいに雪吊(つ)りが施された庭の木々。料亭とみまごう玄関から、着物姿のきゑさん(58)が顔を出した。東京下町のおかみさん、といった雰囲気で粋(いき)に着物を着付けている。

 「かかさ年取って、こしていくなるって思わねかったけど、わさ先見の明(めい)があったんだべな」と開口一番、よける暇もなく、ノロケのアッパーカットが飛んできた。隣で笑いをこらえるきゑさん。「二人でいても冗談ばりするもんで、二人していつもワーッて大笑いしてるの。この人はどの話が本当か分からないのよ。この口に負けないでね」

 初対面の忠光さんだが、最初の一言で互いの緊張感がほぐれ、ずいぶん以前からの知り合いのような打ち解けた気分になった。人の心をつかむのがうまい人なのだろう。「若いころはこしておしゃべりでなかったね。自分で自分の顔が分かっている。この顔でむすっとしてたら怖いでしょう」忠光さんは豪快な笑顔を見せた。

 二人とも東目屋の生まれ。中学を出て実家の運送業を手伝っていた忠光さんが、青年団仲間の中から選んだのがきゑさん。「あちこちの女の人見てたはずなのに、性格さほれられたかな。わたしさ選んだってことは」ときゑさんがしゃべれば、「迷惑したな、選んでな」と、すかさず忠光さんが切り返す。丁々発止のやり取りが小気味いい。

 六歳の長女とおなかの中に長男を抱え、二人が目屋から弘前に出てきたのは一九六九年のこと。「自動車整備の会社を興したい」という夢を実現するため、忠光さんは資金作りに神奈川県へ出稼ぎに。きゑさんは弘前のアパートに残り、子育てに没頭した。

 四年後、待望の会社を設立。忠光さんが自動車を整備し、きゑさんが車を洗って納車する、そんなスタートだった。「無我夢中で働いたって記憶だけ。けんかだけはしないって心に決めていた。けんかすれば、商売にさわるもの」ときゑさんは穏やかに笑う。

 忠光さんは会社でも自宅でも、かなりのワンマン。今に座ったら最後、後は口を動かすだけ。「いいですね。全部奥さんがしてくれて」と感想をもらすと、「そのための奥さんだべな」「今、そう言い切れる男の人は少ないですよ。男の人の生きづらい時代になってますからね」「今にわもそうなるんだね。粗大ごみとかね」

 「この人さ、付いていくの大変なの。よくこの人と三十六年やってきたと自分のこと、ほめてやりたいよね」ときゑさんが言えば、「わだって偉いって思うね。よく今までなのこと面倒見て来たって」。この勝負はきゑさんの勝ちだろう。朝、「行くあー」と居間に立つだけの忠光さんに、上から下まで全部コーディネートして仕度するのがきゑさんの仕事。「このを支える。これがわたしの職業」ときゑさんは言い切った。

 ここまで来たエネルギーは何?と問えば「えじ(意地)。そしてチャンスをどう生かすか。人と同じことしていればだめだもんね」。「人が働いていない時働く人」ときゑさんは忠光さんを称する。「みんなが寝ている時まで、鍛治町で働いているもんね」と二人で笑った。

 料理じょうずなきゑさんの手料理を食べに、昼は自宅に戻るという忠光さん。「ちゃんとありがたみを感じてますか」というわたしの愚問に、「な、死ねばひとなぬか過ぎれば、わも死ぬんだねって言ってるの」とやり返された。冗談めかして言う忠光さんだが、本心をちらりとのぞいた気がした。

桜庭利弘美術館オーナー
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 桜庭 利弘さん
  ムツさん
平成12年8月19日
「絵ひと筋の夫 そばには常に笑顔の妻」
  太宰治の文学碑のある金木町芦野公園。涼しげな水をたたえる芦野湖を目の前にして、桜庭利弘美術館は建つ。
 「わんつか入って、お茶っこ飲んでって」桜庭利弘さん(65)が来館者に声を掛ければ、妻のムツさん(60)も「どうぞどうぞ、中に入って」と声を合わせる。ムツさんの満面の笑顔に誘われ、茶の間にあがりこむ来館者も多い。

 美術館の二階からは芦野公園の松と桜、芦野湖の浮き橋が眺められ、とてもくつろいだ気分。利弘さんの描いた深浦町の灯台、金木の里山、川倉の野原、十三の砂山などの油絵が郷愁を誘う。

 一階には150号の大作「潮だまり」が展示されている。「これは自分が育った深浦の海。自分の原風景です」利弘さんはわたしに絵を見せた。三十六歳の時中央展に出品し、初入選した記念の作品だ。そこには原点に帰ろうともがく画家の心象が描かれている。

 その前年、桜庭さん夫妻はかわいい盛りだった三歳の長男を亡くした。「用水路に落ちて死にました。酒をやめよう、半端はやめてしっかり絵を描こうとこの時、心に決めました」

 利弘さんは深浦の海辺の村で育った。父親は家族を残し、カムチャッカや北海道で大工をし、年に一度しか帰って来なかった。母親は山菜や海の物を背中にしょい、売りに出た。『じゃく』って言うんだね。一匹オオカミで放浪癖のある人間を。父親みたいになりたくないって思っていたのに、いつの間にか似てしまった」と利弘さんは苦い表情を浮かべた。

 木造高校を出た利弘さんは東京の美術学校に行くのが夢だった。だが家が貧乏だったので、そのまま代用教員となり、車力中学に赴任。そこで十九歳の利弘さんは十四歳のムツさんと出会う。「当時の美術といえば、ただ絵をかくだけだったのに、デッサンをさせたり、我執を見せてくれたり、とても新鮮でした」とムツさん。

 二十二歳の利弘さんは高校二年生となったムツさんに求婚し、回りの反対を押し切って結婚する。「上京して絵を志すことをあきらめるには結婚しかなかった」と利弘さんが言えば、「高校中退してまで結婚しても、すぐに離婚するに決まってるってみんなにみんなに言われました」とムツさんはにこやかに切り返す。

 それでも利弘さんは絵かきになる夢を捨てることが出来なかった。「夏休みになると絵をかくため、カネを持っていなくなる。酒は飲むし、校長とはケンカする。全部ばつの人間」と当時を振り返る利弘さん。「飲み屋の女の人連れて来て家に泊めたり、普通じゃ考えられないでしょ」とそれでも笑顔のムツさん。思わず、よく我慢を、と言えば「結婚する時、父に言われました。男を成長させるには女の忍耐が必要だと。それが今でも心にあります」

 「この人の絵をかいている姿を見るのがとても好きだった。初入選を知った時は震えるほどうれしかった」ムツさん。「この人は度胸あります。わたしが退職金をすべて投げうって自分の美術館を建てたいと言った時、すぐに賛成してくれた。この人があって、今のわたしがあるんだな」

 桜庭美術館が建って五年。金、土、日が開館日。多い日には一日二百人もが来館する。「全部ばつの人間のわたしを皆が支えてくれた。恩返しったって返すものないから、せめてここに絵を見に来てもらえたら」と利弘さん。美術館は入場無料。近所のおばあちゃんは散歩がてら絵を見に来て、ひとしきり桜庭さん夫妻と話しをしていく。おしゃべり役は専ら利弘さん、ムツさんは隣でにこにこと笑っている。

 「田舎にもこんな美術館があっていい。これからも若い人の作品を応援していきたい」と意欲を燃やす利弘さん。そばには笑顔のムツさん。山あり谷あり、二人で生きる人生。夫婦という縁(えにし)の不思議を改めて感じた時間だった。
 
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