インドカレーの店
「カリ・マハラジャ」開く
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 海老名 英一さん
  光輪さん
平成12年2月26日
「脱サラでカレー店を経営体によい食品を追求」

 「カリ・マハラジャ」とはヒンズー語で王さまのカレーという意味。インドの王さまが食べるカレーとはどんなカレーだろう。弘前市土手町で「カリ・マハラジャ」を開くご夫婦を訪ねた。

 ドアを開くと、スパイスの香りと少し変わったいでたちの二人が迎えてくれた。「うちのカレーは体に良い。安全がモットー。ホールのスパイスだけでカレーを作っている店は珍しいんですよ」。開口一番、英一さん(48)の言葉。おっとりとした雰囲気の英一さんだが、ことカレーの話になると語気が鋭い。

 英一さん食品会社にお勤めだったが、脱サラでカレー店を開いた。「いつまでも堅くならない串だんごなど、食品添加物入りの食べ物を消費者に提供するのが苦になった。添加物はやめましょうと上に提言したが聞いてもらえなかったんです」。あしたからの生活、子供のことなど考えたが、自分にうそはつきたくないと四十歳で退社した。

 英一さんのわきでふっくらと笑う奥さんの光輪(こうりん)さん(44)は大鰐町日精寺の生まれ。夫が突然会社を辞めると言い出せば、戸惑うのが普通だが、「相談はなかったですね。これこれで辞めたと言われ、嫌なら仕方ないかなと」話すおおらかな性格の女性だ。

 会社を辞め、時間を持て余した英一さんは毎日図書館通い。そこで出合ったのがインドのカレーの本だった。「カレーはスパイス料理とあった。じゃ、今まで我々が食べてたカレーは何だったのかって思った。スパイスはかつて薬だった。なら体にいいスパイスだけでカレーをつくろうと思いました。

 さまざまな料理研究家のレシピを試したり、東京や神戸のインド料理屋を食べ歩き、自分ならではのカレーを追及したという。その陰には管理栄養士として病院などで経験を積んできた、光輪さんの力があったのは言うまでもない。

 タマネギを真っ黒になるまでいため、無農薬栽培のトマト、スパイス各種を入れて煮込み、熟成させること三週間。小麦粉やカレー粉、化学調味料は一切使わない。ベース作りは英一さん。その後カレーに仕上げるのが光輪さんの役目。冬は体を温めるスパイスを多めに使い、風邪にも効用があるとか。「普段食べてるカレーを頭に描くとエッとなりますよ」と英一さん。

 それではと、わたしはチキン、ポーク、ビーフ、エビ、ベジタブルの入ったミックスカレー、ふくらし粉をいれずに焼いたインド式のパン「チャパティー」、自家製のヨーグルトの飲み物「ラッシー」、それに肝臓にいいという黄色いスパイス「ターメリック」で炊いた無農薬ライスのセットを選んだ。

 ソースは幾分とろみのあるマハラジャソースとさらりとしたスープ状のマハラーニ(王妃)の二種から選んで。マハラジャは濃厚な味。マハラーニはカリースープといった雰囲気。「冷え性の人は毛細血管まで広げるカプサイシンが多めの方が体が温まりますよ」のアドバイスを受け、標準より少し辛めの「E」ランク

 口に入れると新鮮なスパイスの香りが広がり、細胞が活性化される感じ。体にいいスパイスばかりと英一さんからレクチャーされ、食べ終わると本当に体がすっかり元気になった気分。

 「英一さんはまじめ。ひとつのものをとことん追求していくタイプ」と話す光輪さんに、「採算を考えず、自分でもバカだって思いますよ。でも体に悪い物を食べたい人はいないでしょ。こだわりじゃない、これが普通です」と言い切る英一さん。

 県外客も多く、東京で開いたら?と言われることもあるが、故郷弘前、しかも自分が生まれた土手町から発信していきたいと言う英一さん。きょうのお昼は、食べ慣れたジャパニーズカレーとはひと味違う、インドの王さまのカレーに挑戦しては?


帯の仕立屋にしお
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 西尾 好弘さん
  優子さん
平成13年6月9日
「帯の仕立てと家事 同じ目線で二人楽しく」
 古い着物や羽織、野良着や思い出のショール、ふろしき、タペストリーを帯に仕立ててくれる帯職人さんが弘前にいる。それが西尾好弘さん(36)と優子さん(26)。四年前、東京から優子さんの故郷弘前にやって来て、帯仕立屋を開いた。

 好弘さんの帯職人暦は長い。両親と弟は名古屋で、兄は東京で帯仕立てを行う帯職人一家だ。両親の後姿を見て育った好弘さんは小学校三年生のころから「縫い」を手伝い、小遣いをもらっていたという。家庭科の裁縫の成績はもちろん抜群で、授業中は先生に頼まれ、教室内を見て回る係りだったほど。

 「でもぼくは帯職人にはならないって思っていました。両親は朝起きればもう働いていたし、夜中の二時、三時まで縫っていたのを見ていましたから、やらないぞと思っていました」と笑うのだから、人生は不思議だ。

 高校進学を勧める両親の言葉を振り切り、中学を出るとすぐ、双子の兄と共に東京の加古帯裁縫所に入った。ここで帯の縫い方の基礎からたたき込まれた。給料は手取り三万円。あまりのきつさに一日で逃げていく者もいた。

 「一日座っているだけで大変です。背中やおしりが痛くなる。一人前になるまで帰ってくるなと言われて出た家ですから、帰れないという思いと根性だけでした」

 修行時代に紀宮様の成人式の帯や武原はん、藤村志保さんの帯を担当し、そのころから帯の仕立てにこだわりを持ち始めた。「締めやすい帯を作りたい」。その思いを胸に二十六歳で独立。東京で兄と一緒に仕立屋を開いた。名を知られるようなり、二人でこなせなくなった帯の仕立てを手伝いに来たのが、優子さんだった。

 「結婚するなら帰って来い」。優子さんの両親の言葉に従い、弘前に帰った二人は城西団地の自宅で「帯の仕立屋にしお」を開業。一から営業を始めた。

 好弘さんは朝七時には仕事場に座る。公希くん(1)の世話を終えた後、裕子さんも好弘さんと向き合って作業台に座る。夜の七時まで作業を続け、出来上がった帯は宅急便で兄が営む東京の店に送る。一日中頑張っても帯三、四本がせいぜい。夕食の後、夜中の二時三時、急ぎの仕事があると四時、五時までも仕事場に座る。

 赤ちゃんを抱えて大変でしょう?と尋ねると「この仕事が嫌いでなかったから、ずっと続けたいと思っていました。好弘さんと一緒に仕事ができるのはうれしい」と優子さん。

 「ここは本当に男女参画社会ですよ。手が空いた方が公希のおむつを替え、寝かせる。一緒に家の仕事をし、帯を作る。どちらかが外で働き、どちらかが家にいる生活だとお互いに見えない部分がある。でもそれがないから二人同じ目線で生きていけるところがいいよね」と優子さんを見やる好弘さん。

 工房を持つのが二人の夢。「帯の職人でないと仕立てられない帯もある。第二次産業は外国に任せればいいみたいな考えは違うと思う。単純作業に見えるけど、下支えがあってこの仕事があるんだって、自分たちの作品で主張していけたらいい」と好弘さんは熱く語る。

 弘前ビブレで十一日まで開かれている「弘前工芸協会作品展」に二人の制作した帯が展示されている。「仕立ての技術を見てもらいたい」と二人。「そのお客様だけのオリジナルな帯、締めて楽しめ、目で楽しめ、飾りとしても楽しめる帯を作りたいですね」優子さん。着物の似合う待ち弘前で、着物を着る人が少しでも増え、着物や帯の良さをもっと知ってもらいたいというのが二人の思いだ。
弘前市教育長
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 佐藤 圭一郎さん
  恭子さん
平成11年10月16日
「手料理で夫の健康を支え 今流れる穏やかな時間」
 公式の場ではいつもシックな背広を身に着け、ほっそりとした長身に柔和な笑顔を絶やさない佐藤圭一郎さん。(69)。教育長として多忙な日々を過ごす佐藤さんの、プライベートな一面を拝見したいと、桔梗野にあるご自宅を訪問した。

 大通りから一筋入った住宅地に佐藤家はある。南向きの庭はもう球根が植えられ、春花壇の準備が整えられている。「主人が花が好きで、でも植えたり、世話をするのはわたしの役目」と恭子さんは圭一郎さんを振り返る。結婚して四十二年、長年連れ添った夫婦ならではの、柔らかい空気が流れているのを感じた。

 教育長になって七年半。圭一郎さんの手帳はスケジュールで真っ黒。コピーした日程表が家にも張られ、恭子さんはそれを見て圭一郎さんの日常を支える。「出て歩くのも、人と話すのも好きなので、今の仕事を楽しんでやっているみたいですよ」

 恭子さんは兵庫県姫路市の生まれ。軍人だった父親に連れられて、小学校二年生までの六年間を弘前で過ごしたのが圭一郎さんとの出会い。恭子さんの兄、弘さんと圭一郎さんは大の仲良しで家を行ったり来たりの間柄だった。「三歳くらいの恭子が兄に連れられて、浴衣を着て遊びにきたのを覚えてますね」言う圭一郎さんに、「えっ、わたし覚えていない」と五歳年下の恭子さんは否定する。

 小学校二年生で弘前を去った恭子さんは京都東山へ。東京の大学へ入った圭一郎さんは、弘さんを訪ねて京都の家を訪問するつど、恭子さんの成長ぶりに目を見張ったらしい。恭子さんは短大二年生の時、髪をおかっぱ頭からパーマネントヘアーにチャレンジ。「それにはびっくりしました。子供だと思っていたから」。恭子さんの女性としての変身ぶりに息を飲んだという圭一郎さんの言葉から、初々しい佐藤青年の姿が想像できた。

 父親の決めた相手がいたという恭子さんの気持ちを射止めた圭一郎さん。「弘前か、遠いなあ」とポツリともらした父親の言葉を恭子さんは今も覚えている。結婚式を控え、二人で弘前へと向かう列車の中で、だんだん寂しくなってゆく窓の外の風景に恭子さんは悲しくなり、泣いてしまったという。

 圭一郎さんの兄弟を含め、家族八人での弘前の暮らし。まきを使ってのご飯たき。「女は外に出歩くもんじゃない」という姑(しゅうとめ)の言葉を固く守ってきた恭子さんは、典型的な津軽の嫁だ。二人の子供の服は全部手づくり。圭一郎さんの服はすべて子供たちの服にリフォームされた。セーターやおやつもすべて手づくりという暮らしは、今ではもう遠い世界の話。「それが当たり前の時代でしたものね」ほほえむ恭子さん。

 「仕事一本の人。だからうちは母子家庭と思っていました」と話す妻に、「家のこと、子供のことは全部妻任せという時代でした」と答える夫。「皆が皆そうじゃないわよねえ。でも時たまお前がいるからできるんだって言うの。そしたら私頑張らなくっちゃって思っちゃう。うまいでしょう。私浅はかだから」と恭子さんはおきゃんな一面を見せる。

 二年前、圭一郎さんは大病を患ったが、今ではすっかり健康を取り戻した。「家内の料理のお陰。京風だけど味付けうまいですよ。カロリーも考えてくれる。今まで家を守り、本当によくしんぼうしてくれたと思います」。「おばあちゃんの言うことに逆らったことはなかったですね。その代わりふとんの中で泣いたこともあったかな」
 趣味を持つこともなく、子育て、その後は介護と過ごしてきた恭子さんも、五年前から地婦連の仲間と社交ダンスを始めた。息子さん夫婦との穏やかな暮らし。「やっぱりあの時、がまんしてよかったんでしょうね」。だからこそ、今の幸せがあるのだと、昭和の時代を嫁という名で過ごした女性の人生に思いを馳せてみた。
 

                                                  平成11年11月13日
374.jpg      弘前市一番町
     
    
革細工職人      寺田 茂樹さん
     
書 家                     沙舟さん

    「夫は新人革職人 淡々とわが道歩む」
            
    弘前市一番町の坂の途中に、百年は時を経たという古い革具屋さんがある。
一代目当主亀蔵の名を取って、亀屋馬具店。今年の春、三代目を継ぎたいと新人革職人が見習いに入った。寺田茂樹さん、六十歳だ。

 店内を通り、暗いトンネルのような小路を抜けると、色鮮やかな黄色の家が出現する。ここが寺田さん夫妻の新居。妻は書家であり、馬具店の次女である沙舟さん(51)。肩まで伸ばした市松人形ヘアーとミニスカートがトレードマークの女性だ。

 脂の乗った女流書家と仙人のような風貌(ふうぼう)の革細工職人。テレビドラマのような、一見不思議なカップルだが、絶妙なコンビネーションを見せる。「茂樹さん、少し髪なぜた方がいいと思うよ」と沙舟さんが言えば、言われるままに鏡に向かい、素直に髪にくしを人れる茂樹さん。そのさまがなんともほほえましい。

 中学校の教諭を一年早く退職したこの春から、茂樹さんは髪とひげを伸ばし始めた。「単なる不精」と笑うが、心機一転の思いがあるのだろう。「昨年の秋、教師を辞めて革職人になると言い出した時は驚いた」と話す沙舟さんだが、「この亀屋の家をなくしたくなかった」という茂樹さんの決意に、誰よりも喜んでいるのが沙舟さんだろう。

 情熱的な書を書く沙舟さんだが、二人は意外にもお見合い結婚。「この人、すごくすてきな人だったの。目も今より倍も大きくて、スポーツマンで。世間ずれしてないって感じ。今も世間ずれしてませんけど」と沙舟さん。「背が高くて、スポーツができる女性かなと」。そこが気に人ったと照れ笑いを見せる茂樹さん。結婚してあっと言う間の三十年だったと二人は笑顔を見せる。

 馬具店では、戦前は馬のくらや面綱(おもずな)、戦時中は軍隊で使うバッグや馬の用具、戦後はランドセルやカバンを手作りしていた。現在は職人さん三人で、バッグや犬の首輪などをこつこつと制作している。

 茂樹さんは手縫いにこだわる。「ミシンより手縫いの方が自分で作ったという感じが強いはんで」。半年やってみてどうですか?と問えば「自分で考えて形ができるって面白い。何もあきてこないから、割りと合っているのかな」

 一方の沙舟さんは「商売しているって誰も思わないよね。よく食べてるものだって不思議でしょ」。アッハッハと大きな口を開けて笑うが、昔は内気で口数の少ない女の子だったらしい。

 「書を始めて変わった。わたしはだめと言ってはいられないのが書の世界です」。締め切りが迫れば、寝ないで作品を仕上げる姿にケンカをしたり。初めは書に理解を示さなかった茂樹さんも、一九八〇年、沙舟さんが妹の黄娥さんと開いた書の姉妹展を見、書家としての妻に協力するようになったという。

 沙舟さんは派手で自己主張の強い女性に見られがちだが、実は料理や裁縫が得意という家庭的な面も。「この人の料理は料亭なみだよ」と茂樹さんもほめる。沙舟さんの手料理と赤ワインで晩酌というのが寺田家の常。「いつか、亀屋をバンと再建できたらいいよね」と二人は顔を見合わせる。

 片方が我慢するでもなく、合わせるでもなく、それぞれが好きな道を淡々と歩んでいる、そんな夫婦。「でもね、この髪とミニスカートは亭主の趣味なの」。沙舟さんのトレードマークはご亭主の好みだったとは。亭王の好きな赤烏帽子(えぼし)ならぬ、ミニスカートに脱帽。

 
 

                                                  平成12年11月11日
376.jpg  
 木造町出野里字大柳

    詩 人     桜庭 恵美子さん
                        俊 雄さん

    「家族の姿を詩に 妻の才を見守る夫」

 「あの世には、おまえと二人で行ぐ。おしめをとらせるための長男の嫁だもの。あの世に行っても、おらを世話するのが、おまえの仕事だべ。やっぱり、おまえを連れで行ぐことにする。二人で仲良く、にぎやかに行ぐべし。家のまん中の部屋で/聴力の薄い耳を澄まし、細い視力を砥いで/剪定された老木のような指をふるわせ/わたしの体に自分の生命を接ぎたそうと/姑はゆっくりやわらかく言葉を食む」(詩集「女たちの私小説」より)

 桜庭恵美子さん(53)の詩は命の持つ残酷さ、哀(かな)しさ、生きることと死ぬことの意味を問い続ける。絵空事ではない、女の現実を裸にしていく。その視点の鋭さが怖くもあった。

 五所川原市を越え、岩木川に洽って土手の造を連むと木造町に入る。津軽平野を二つに裂いて流れる岩木川に抱かれるように、桜庭さんの自宅はあった。

  「わたしはお父ちゃんと一緒に写真撮ってもらうんだ」。恵美子さんは夫の俊雄さん(67)の隣にちょこんと寄り添った。かわいい素顔にわたしは少し面食らった。「ばあちゃんの寝たきりをきっかけに、家事も畑仕事も孫の育児も介護も、みんなしてやる、夫婦してやるって変わったの。お父ちゃんも変わった。女の仕事、男の仕事って分けることはないんだって暗黙のうちに了解したのね」と恵美子さんは俊雄さんに笑顔を向けた。

 恵美子さんの第五詩集「女たちの私小説」には姑(しゅうとめ)を介護した三年間の目々が詩の形でつづられる。「姑の介護をぬきにして私の三年間の生活はなく、私を書けば、姑を書くことであり、姑の時間は、私の時間でもあった」と恵美子さんは詩集のあとがきに記す。

 部屋に満ちた異臭、波のように襲う吐き気を振り払うように姑をたたいた午後のこと。汚物にまみれた姑の手や足や性器を洗い、泣きながら敷布の交換をした時の気持ち。恵美子さんは隠さずにありのままを詩にしか。「介護というのはする方もされる方もこしたもんだよね。うそは書けないと思いました」。ハイカラで地域の婦人会の会長をし、威厳のあった姑久美さんの晩年の姿は読む人の心を凍らせる。

 恵美子さんが詩を書き始めたのは二十七歳の時。父親の死がきっかけだった。高校を出てすぐ、中学時代の理科の担任だった俊雄さんと結婚。子育てと家事、きょうと同じあしたがくる日々の中、五十一歳の若さで亡くなった父の死が恵美子さんの心に詩を残した。「父さんに悔いはなかったの? と問うことは、悔いはないかと自分に問うことでもありました」

  「わたしの詩は日記のようなもの」と恵美子さんは言う。父の死、姉の死、農業を守る木造町の人々の姿、そして姑をはじめ、さまざまな女たちの人生を詩に託した。「何よりも人間を古くのが好き。自分を含めてこの小さな地域に生きている人を古いていきたい」。隣でにこにこと恵美子さんの言葉に耳を傾ける俊雄さん。

  「わたしにもし書く才能があるとしたら、それを一番最初に認めてくれたのは夫。わたしの道楽を黙って認めてくれたんだもの」。「よく詩集出すだけのへそくり作ったなあって感心してるの」と俊雄さんはにやりと笑う。「うん、わたしへそくり作るのじょうずだのさ。主婦歴三十五年のベテランだもの」「今までよくやってくれたよなあ」と俊雄さんはぽつりともらす。

 恵美子さんと俊雄さんは二人で畑仕事をし、町の介助ボランティアに参加する。「親って何でも教えるもんだなって思う。ばあちゃんから教わったことは多かった。一老人の介護であっても、だれか一人でも共感してもらえたら」と二人は顔を見合わせた。家族の詩を書き続ける恵美子さんとそれを見守る俊雄さん。さまざまな出来事を越えて来た二人に、今静かな時間が流れていた。

 
順次掲載します。暫らくお待ちください。今月の私的に素敵、お読みください。
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