平成13年11月17日
弘前市北園2丁目
弘前大学学長
吉田 豊さん
淑子さん
「何でもとことん凝り性の妻
畑作りで夫の健康を支える」
門に一歩入ると、まるで雑木林の中にいるよう。鳥が運んできたという実生のホウの木、ナナカマド。ブナの大本がちょうど紅葉の盛りを迎えている。
「これはね、うちの畑で採れた今年最後のズッキーニを入れて焼いたケーキ。このラズベリ―も庭のものなの」。お茶は庭のレモンバームのハーブティー。ゆでられたクリも実生で育ったクリの木からのプレゼント。温かい気持ちにあふれるティータイム。銀髪の穏やかな笑顔の女性が弘大学長吉田豊さん(71)の人生の伴侶淑子(としこ)さん(71)だ。
「家内はね、医者の妻とか学長の妻としては分からないけど、農家の主婦としては第一級ですよ」と太鼓判を押す豊さん。淑子さんが長年手塩にかけて耕してきた吉田家の畑を見せてもらった。
「今は歳を取ってこれだけの広さになってしまったけれど、昔はここで大根を山ほど作って、たくあんを漬けたり、トウモロコシを七十本収穫して、ゆでて医局に持っていったり。おいしいって言われるとうれしくて」と楽しそうに話す淑子さん。
「今もいろいろ植えているだろう。言ってごらん」と豊さんが優しく声を掛けた。畑には初夏から晩秋までさまざまな野菜が顔をそろえる。春一番にはフキノトウ、ウド、ボンナ、シドケ、ミズ、ゼンマイなど庭で山菜採りも楽しめる。
「シドケも?」と驚く私に「土に付いてきたものを私が種を取って大切に育ててきたの」。吉田家にやってきた植物は幸せだ。淑子さんの手に掛かると、なんでも大きく育っていく。居間には三十年もののアンスリューム、家にやってきて十年というポインセチアがのびのびと葉を広げる。「私、絶対死なせないから鉢がいっぱい増えてしまって」と笑う淑子さん。豊さんは弘大附属病院第一内科の名医だったが、淑子さんは草花の名医だ。
豊さんは藤崎町、淑子さんは三戸町の出身。豊さんは東奥義塾高校から弘前大学へ。当時は全員、文理学部に入学してからその先の進路を決めた。将来どの道に進むか迷っていた豊さんに医者の道を決意させたのは兄の言葉だった。「兄は結核で、自分のような患者を治せるように頑張れと言いました」。医学部在学中、アメリカのコーネルカレッジ三年生に編入、卒業後また弘大医学部に戻った経験を持つ。
淑子さんは日本女子大の国文科を卒業後、アメリカの高校に留学した活発な女性。二十六歳でお見合いをした二人を結びつけたのは、アメリカ留学という共通点だった。「何でも新しいことに興味を持つ新しもん好き」という豊さんと「私なんてドンキホーテ。一人アメリカに乗り込んだんだもの」という淑子さん。お似合いのご夫婦だ。
「家内は凝り性。何でもとことんやる。家庭の料理が一番おいしいね。畑で採れた農薬のないフレッシュな野菜をたっぷり食べられるというのがぼくの健康にいささか貢献しているんじゃないかな」と笑顔を見せる豊さん。学長として大学改革という大きな課題と取り組んできた豊さんを支えたのは淑子さん手作りの野菜と愛情たっぷりの料理。
けんかなどなさらないでしょう?と水を向けると、「子供のことではけんかもしました。外では厳しい顔をしているけど、家では娘たちをペットのようにかわいがるんだもの」「いや、ちゃんと子供もしかりましたよ。外ではもっと優しいんだ」「あら、新聞で写真を見るとこわーい顔して写っているから外では厳しいのかと思ったわ」
来年の一月で二期六年の学長の任期を終える。「弘大はぼくの母校だからね。活力が落ちたり、縮小されたりするのは耐えられない。世界に発信し、地域と共に創造する弘前大学。きっとそうなりますよ、いつか」と語る豊さん。「ぼくはもう燃え尽きたから休みたい。足腰が弱らないうちに家内と二人で海外の友人を訪ねて歩きたいね」という豊さんに淑子さんが優しい眼差しを向けた。
窓の外では木々の葉が、晩秋の光を浴びて温かい色合いを見せていた。 |