平成11年3月17日
378.jpg     弘前公益社     弘前市松原16
          代表取締役    清藤 哲夫さん
           専務取締役               君子さん
 
    
「社長、専務と呼び合い20年
           地域に感謝の気持ちを発信」
                 
    家ではお父さん、お母さん、会社では社長、専務と呼び合う。まゆ毛の下がった哲夫さんは見た目と同じく温厚な人柄。君子さんはどっしりと構え、哲夫さんを笑顔で支える。「お宅は奥さんがいいからとみんなに言われます」と照れる哲夫さん。四月には二人、銀婚式を迎える。

  弘前公益社が法人となって今年で二十周年。社長、専務と呼び合って二十年の歳月が流れた。胸には「心」の文字をデザインした社章が光る。「遺族の心、葬儀の心を大切にしたいという思い」と二人は声をそろえる。

 この二月、弘前仏教会に所属する津軽のお寺八十ヵ所を紹介した「こころ一津軽のお寺さん巡り」を出版した。お寺の歴史、仏像や掛け軸、石碑などの宝物、住職の座右の銘、随想などを紹介し、好評を得た。「二十年という歳月お世話になった分、世の中にお返ししたいと思いました」

  結婚してから、全国の葬儀社を二人で見て歩いた。哲夫さんの肩には三代目としての重責があった。一八九二年、士族だった初代が生け花から始めたのが「清藤造花店」だった。

  「おやじが花を造り、おふくろが自動車の免許を取って、その花を配って歩いた。母も苦労していました。それまではひつぎを扱う業者と分業していましたが、このままではだめだと名前も変え、互助会制度も導入したんです」

 二人の目標は会社をしっかりしたものにすること。共通点は仕事だった。葬儀社の仕事は相手方に合わせなければならない。子育てをしながらの専務の仕事は大変だったろう。「子どもに離乳食を作って、さあ食べさせようという時に電話一本で出勤。深夜でも今亡くなったと連絡があればすぐお宅に伺うのが私たちの仕事です」と君子さん。一人を背中におぶい、スクーターの前に一人立たせて、弘前の町を走って歩いたという武勇伝も残る。

  「当時、葬儀のイメージは暗く、葬儀屋、ああそんなものという認識でした。だから業界のイメージ、レベルを上げたいと常に思っていました」と哲夫さんは振り返る。

 亡くなった人を喪葬するという大切な仕事をしていることを地域の人に知ってもらいたいと必死で頑張ってきた。青年会議所の理事長、観光協会副会長を務め、現在は弘前商工会議所副会頭として活躍する哲夫さんに、昨年三月、もう一つ新しい肩書が加わった。それはFMアップルウエーブの社長という仕事だ。

 地元のFM局という思いを地域の人に持ってほしいと自ら回り、百八十人から株を集めた。「弘前のための、弘前にしかない、弘前らしいFM局を目指しています」。君子さんも音楽番組のパーソナリティーを経験しか。「弘前に対して何かお手伝いしたいという彼の気持ちがよく分かるので、協力しようと思いました」と君子さんはにこやかに笑う。

  「何も言わなくても相手の考えていることは分かる」と言い合う二人。家庭と会社と、四六時中一緒の二人だからこそ言える言葉だろう。しっかりと向き合ってきた夫婦の二十五年は、堅実な実を結びつつある。


                                                  平成13年11月17日
384.jpg       弘前市北園2丁目
   弘前大学学長     吉田  豊さん
                                  淑子さん

  
 「何でもとことん凝り性の妻
        畑作りで夫の健康を支える」
                                            


    門に一歩入ると、まるで雑木林の中にいるよう。鳥が運んできたという実生のホウの木、ナナカマド。ブナの大本がちょうど紅葉の盛りを迎えている。

  「これはね、うちの畑で採れた今年最後のズッキーニを入れて焼いたケーキ。このラズベリ―も庭のものなの」。お茶は庭のレモンバームのハーブティー。ゆでられたクリも実生で育ったクリの木からのプレゼント。温かい気持ちにあふれるティータイム。銀髪の穏やかな笑顔の女性が弘大学長吉田豊さん(71)の人生の伴侶淑子(としこ)さん(71)だ。

  「家内はね、医者の妻とか学長の妻としては分からないけど、農家の主婦としては第一級ですよ」と太鼓判を押す豊さん。淑子さんが長年手塩にかけて耕してきた吉田家の畑を見せてもらった。

  「今は歳を取ってこれだけの広さになってしまったけれど、昔はここで大根を山ほど作って、たくあんを漬けたり、トウモロコシを七十本収穫して、ゆでて医局に持っていったり。おいしいって言われるとうれしくて」と楽しそうに話す淑子さん。

  「今もいろいろ植えているだろう。言ってごらん」と豊さんが優しく声を掛けた。畑には初夏から晩秋までさまざまな野菜が顔をそろえる。春一番にはフキノトウ、ウド、ボンナ、シドケ、ミズ、ゼンマイなど庭で山菜採りも楽しめる。

  「シドケも?」と驚く私に「土に付いてきたものを私が種を取って大切に育ててきたの」。吉田家にやってきた植物は幸せだ。淑子さんの手に掛かると、なんでも大きく育っていく。居間には三十年もののアンスリューム、家にやってきて十年というポインセチアがのびのびと葉を広げる。「私、絶対死なせないから鉢がいっぱい増えてしまって」と笑う淑子さん。豊さんは弘大附属病院第一内科の名医だったが、淑子さんは草花の名医だ。

 豊さんは藤崎町、淑子さんは三戸町の出身。豊さんは東奥義塾高校から弘前大学へ。当時は全員、文理学部に入学してからその先の進路を決めた。将来どの道に進むか迷っていた豊さんに医者の道を決意させたのは兄の言葉だった。「兄は結核で、自分のような患者を治せるように頑張れと言いました」。医学部在学中、アメリカのコーネルカレッジ三年生に編入、卒業後また弘大医学部に戻った経験を持つ。

 淑子さんは日本女子大の国文科を卒業後、アメリカの高校に留学した活発な女性。二十六歳でお見合いをした二人を結びつけたのは、アメリカ留学という共通点だった。「何でも新しいことに興味を持つ新しもん好き」という豊さんと「私なんてドンキホーテ。一人アメリカに乗り込んだんだもの」という淑子さん。お似合いのご夫婦だ。

  「家内は凝り性。何でもとことんやる。家庭の料理が一番おいしいね。畑で採れた農薬のないフレッシュな野菜をたっぷり食べられるというのがぼくの健康にいささか貢献しているんじゃないかな」と笑顔を見せる豊さん。学長として大学改革という大きな課題と取り組んできた豊さんを支えたのは淑子さん手作りの野菜と愛情たっぷりの料理。

 けんかなどなさらないでしょう?と水を向けると、「子供のことではけんかもしました。外では厳しい顔をしているけど、家では娘たちをペットのようにかわいがるんだもの」「いや、ちゃんと子供もしかりましたよ。外ではもっと優しいんだ」「あら、新聞で写真を見るとこわーい顔して写っているから外では厳しいのかと思ったわ」

 来年の一月で二期六年の学長の任期を終える。「弘大はぼくの母校だからね。活力が落ちたり、縮小されたりするのは耐えられない。世界に発信し、地域と共に創造する弘前大学。きっとそうなりますよ、いつか」と語る豊さん。「ぼくはもう燃え尽きたから休みたい。足腰が弱らないうちに家内と二人で海外の友人を訪ねて歩きたいね」という豊さんに淑子さんが優しい眼差しを向けた。

 窓の外では木々の葉が、晩秋の光を浴びて温かい色合いを見せていた。

 
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