平成17年12月4日掲載
猪股 愛子さん 「包み込む気持ちで しなやかに生きる」
 女性社長と聞いてバリバリのキャリアウーマンを想像するのは、もう時代遅れなのかもしれない。猪股愛子さん(65)はおっとりとした雰囲気の、人を包み込むような笑顔の持ち主。しなやかに社長業をこなす。

 共立設備工業は弘前オフィスアルカディアがある扇町に社屋を移したばかり。デスクにはマルメロが置かれ、やさしい香りを放つ社長室。部屋からは西に大きな岩木山、北に県武道館の建物が眺められ、雄大な風景に心が和む。

 水色のスーツをきれいに着こなした愛子さん。「皆さまのご支援のおかげで、こんなご時世にこんなすてきな場所に社屋を建て、毎日楽しく働かせてもらっています」。

 愛子さんは西目屋村の生まれ。二十四歳で三歳年上の真さんと結婚。専業主婦となったが、三十五歳から夫君と共に猪股建設を切り盛りし、その後給排水、空調などを受け持つ共立設備工業の社長となった。愛子さん四十歳のことだ。

 「主人が社長業の先生でした。何でも教えてくれたので不安はなく、夫のような社長になりたいと思ってやってきました」

 真さんは強い面と優しい面を持つ親分肌の人物だった。夫の姿を理想の社長と目指してきた愛子さんだったが、九年前に真さんは亡くなった。以来、愛子さんが二つの会社のトップとして土台を支えてきた。

 愛子さんのモットーの一つが「互助和敬」。互いに助け合い、敬い、和を重んじる姿勢だ。社内の和、地域との和を大切にし、いい仕事をすることで地域に貢献したいと考えてきた。

 社員の姿を見、疲れているのではないか、悩みがあるのではないか、目配り、言葉がけを忘れない。当たり前のことのようだが、なかなかできるものではない。

 あいさつ、靴の脱ぎ方に始まり、社員教育に心を砕く。「私は現場では素人。社員の健康管理としつけが社長の大切な仕事の一つです。会社の看板を背負っている社員をりっぱに育てたい」と和顔で話す。社長としての真さんの姿勢は、愛子さんの中で大きな花を咲かせているようだ。

 「和を以て敬う」の気持ちは、大好きな仏教から学んだものだ。経を持ち帰った三蔵法師の足どりを訪ね、何回かシルクロードを旅した。ガンジス川のほとりに生きる人々の姿を目にし、人は裸で生まれ、裸で死んでいくのだと実感した。生かされているとの思いを強くしたという話をする中で幾度となく「感謝」という言葉が出てくる。

 「人生は種まき。主人が生きていた時に種をまいておいてくれて今がある「。私が今まいている種は、次の時代に芽が出てくれればいいなと思います」

 私生活では、猫の大五郎と明るくにぎやかに暮らしている。お茶とお花が趣味。故郷に恩返ししたいと、九月に西目屋村で開かれた暗門祭では暗門の滝近くの湧き水をくみ、呈茶を行った。「六十五歳にしてようやく故郷のお手伝いができた」と喜ぶ。

 同志でもあった夫を亡くしてから苦労がなかったはずはないが、「大変なこと、嫌なことはすっと忘れちゃう。同じ水を飲んでも牛は乳とし、ヘビは毒とする。誰でも考え方一つ。太陽の心を目指して明るく生きたい」と常に前向きな女性だ。

 心の中に今も生きる真さんの強さと優しさを手本にしながら、地域に信頼される会社を目指してもうひと頑張りするつもり、とほほ笑んだ。

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平成17年11月6日掲載
 斎藤 愛子さん 「亡きわが子らへの思い 手作りの人形に込める」
 ギャラリーRyoで初の人形展を開く斎藤愛子さん(85)を訪ねた。「一人で作って、楽しんできただけなんですよ」。通された座敷には、愛らしい人形が所狭しと並んでいる。

 こたつでうたた寝をする女の子。ねぷたの笛を吹く男の子。着物姿で跳び馬に興じる子供たち。ふっくらとしたほお。笑顔の子供たち。どの人形も明るく幸せそうだ。

 愛子さんが作る人形は子供の姿が多い。それには訳がある。

 一番最初に作った人形は「宏子と孝」。ランドセルを背負い小学校に通う子供の姿を人形にした。「満州逃避行の中で亡くした二人の子の姿を思いながら作ったのが最初です」。

 愛子さんは「これを読んでね」と十六年前に出版した一冊の本を差し出した。「赤いほおずき|満州逃避行」。戦争は二度といやという気持ちで、愛子さんが自らの体験をつづったものだ。

 愛子さんは戦時中、満州鉄道に勤務する夫健四さんと朝鮮半島北部の町羅津(らしん)に暮らした。この本には愛子さんの痛哭(つうこく)の思いが刻まれている。

 愛子さんは逃避行の中で、長女の宏子ちゃん(04)、長男の孝ちゃん(03)を失った。はしかにかかり衰弱した宏子ちゃんが、おいしいと食べたのが赤いホオズキだった。

 大陸を逃げまどう汽車の中で生まれた次女の妙子さんも、二十四歳で亡くなった。愛子さんが子供の人形を作り始めたのは、健四さんが亡くなった後、七十歳を過ぎてからだ。

 火鉢を囲んでもちを食べる子供たち。竹馬、ずぐり、糸電話。人形たちは楽しげに遊びに興じる。

 もともと手仕事が好きで編み物や和紙人形、押し絵、ひな人形などを作っていた愛子さんは、子供時代に見た津軽の遊びや農村の風景などを人形で表すようになった。平和な時代が続き、子供たちがいつまでも幸せに暮らせますようにとの思いを込めて。

 愛子さんは笑顔のすてきなおばあさま。「やってみたことのないことをやってみたい。ちゃかしなのね」。お料理が大好きでテレビを見ながらメモを取り、新しいレシピに挑戦したり。それが若さと元気の源だろう。

 弘前に引き揚げてきてから生まれた三女の洋子さん(54)、次男の厚さん(53)がそれぞれ家庭を持ち、幸せに暮らしていることを励みにしている。

 「次々子供を死なせて。私は人殺しだって思っているの。でも人生悪いことばかりあるわけでないとここまで生きてきて思います。落ち込んでいてもまたいいことも来ます、必ず」。自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 人形作りに精を出すお母さんのために、隣で暮らす厚さんと妻の笑子さんが一計を案じた。愛子さんの人形をみんなに見てもらいたい。そんな思いが実を結び、斎藤愛子のほのぼの人形展が十二、十三の両日、弘前市下白銀町のギャラリーRyoで開かれる。

 「こんな年寄りのばあさまの作ったもの、誰が見に来てくれるかしら」と照れる愛子さんだが、厚さんと笑子さんの思いが何よりもうれしい。

 作品展に来た人に手渡したいと根付作りに励む愛子さん。八十五歳で開く初の作品展をどきどきしながら待っている。

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平成17年11月13日掲載
小暮 蘭さん 「正しく歩いて 美しく健康に」
  シュン・シュン・シュン。手をねじって頭上に挙げ、シュン・シュンと息を強く吐きながら右に左に身体をひねりながら歩く「トルソーウォーク」

 「歩く量ではなく質です。毎日十歩から十五歩正しく歩いて、心も身体も元気になってほしいですね」と笑顔で話す木暮蘭さん(29)。

 テレビや雑誌で活躍する「ウォーキングドクター」デューク更家さんの愛弟子の一人として東京を中心に各地でデュークさんのウォーキングエクササイズを教えている。

 デュークさんはモデルのナオミ・キャンベルに歩き方を指導していたウォークのプロ。気功やヨガ、呼吸法を取り入れた独自の理論とオリジナルなストレッチが人気を呼んでいる。

 しなやかなボディと弾ける笑顔。ウォークのプロである蘭さんが歩くと、華やかなオーラが立ち上る。
 「正しく歩けば背中のラインがきれいになり、お尻の位置も高くなる。体型や体重に関係なく、美しく見える歩き方をすればいいんですよ」

 蘭さんは弘前市の生まれ。弘前南中学を卒業後、剣道を極めたいと八戸聖ウルスラ学院高校に進み、インターハイで団体八位になったスポーツウーマン。二十一歳で上京し、OL生活をする中で体重が十・も増えた。最初はダイエット目的で始めたのが、デュークさんのウォーキングエクササイズだった。

 内蔵を縮めたり伸ばしたりしながら歩く「アコーディオン・ウォーク」。細胞を活性化させる「息吐きウォーク」。しこ踏み、モナコ立ちなどユニークなレッスンにはまった。何より気持ちがいい。

 自分の身体を動かしながら自然に骨格を整え、呼吸法と正しい歩き方で深部の筋肉を作り上げていくという考え方に魅せられた。たくさんの人に楽しさを伝えたいとインストラクターを目指し、全国に千人余りいる弟子の中で四人しかいないという「ウォーキングスタイリスト プロフェッサー」の資格を取得した。

 蘭さんの教室にはやせたい、きれいになりたい、肩こりや頭痛持ち、ストレスを抱える人などさまざまな人がやって来る。「レッスンを受けた後、笑顔になって帰っていく姿を見ると私も元気になります」。

 蘭さんは二十三日弘前市豊田の県武道館にデュークさんを呼んで「ウォーキングレッスン」を開く。「デュークさんの魅力にじかに触れてほしい。トークと本物ウォークを見て、今乗っている人のパワーをもらってほしい」。

 蘭さんの夢は世界中にウォーキングエクササイズを伝えること。「歩くことは一生のお付き合い。最後まで二本足で歩けるように、元気で健康を目指しましょう」と蘭さん。かっこよく美しい姿勢で歩く人が増えれば、弘前の街ももっと元気になりそう。

問い合わせは木暮さん(090-3249-4432)

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平成17年10月23日掲載
近藤 マリ子さん りりしく美しく 武道の心伝える
 紺のはかまに白いけいこ着。きりりとした表情でなぎなたを構える近藤マリ子さん(74)。鋭い目に見据えられると、自然と身が引き締まる。

 東北なぎなた連盟、青森県なぎなた連盟の会長を務め、女子武道の要的存在だ。

 笹森記念体育館で毎週木曜日、県武道館で毎週金曜日になぎなたの教室が開かれている。背筋をぴんと伸ばし、女性たちに指導を行う。「常に相手の動きを見る。向かい合ったら目線をはずさない」「もっと間合いを取って」。パンチの効いた檄(げき)を飛ばす。

 なぎなたは古来から伝わる武道の一つで、江戸時代には護身用として武家の女子が修練した歴史を持つ。明治以降は女子の武道として体育の授業にも取り入れられてきた。 

 声に張りがあり、若々しいのは「なぎなた」による鍛錬の成果だろう。「八十歳を過ぎた方々もやっています。基本を覚えれば、幾つになってもできるスポーツ」とほほえむ。

 誰もが親しみを込め「マリ子先生」と呼ぶ。なぎなたを置けば、笑顔の優しいマリ子さん。青森師範学校を出、十九歳で弘前三中の体育教師となったのが、「マリ子先生」のスタートだった。

 兵舎の跡を用いた校舎には裸電球がともり、体育館もない中で体育の授業、体操部の顧問として力を振るった。男子と取っ組み合いのけんかもする名物教師だった。「自分の弟や妹みたいに付き合ってきました。今だったら暴力教師として訴えられてるよってかつての教え子に笑われます」とマリ子さんは苦笑いする。

 中学生と一緒に始めた新体操で第三回国体に出場した経験を持つ。三中に続き弘前市立女子高校、弘前中央高校、弘前高校で体育を担当し、スポーツの楽しさを生徒たちに伝えてきた。

 教職を離れた後は、市民体育館や弘前市海洋センター、サンライフ弘前などで市民になぎなたをはじめ、さまざまなスポーツの指導を行ってきた。

 一九七九年、仲間二十五人とともに県なぎなた連盟を立ち上げ、十年前に県連盟の会長となった。「中途半端はきらい。引き受けたらまっすぐやるだけ」。言葉通り、県連盟と東北連盟の仕事に加え、弘前市体育協会理事などを兼務して目の回る忙しさ。そんな中、雪かきの最中に足を滑らせ、この冬あばら骨四本、背骨一本を折るおおけがをした。約七十日間の入院生活を体験。不死身のマリちゃんもさすがにこたえた。

 仕事をしなければならないのに体が言うことをきかない。身動きもできずベッドの上で天井を眺めて過ごす日々。ストレスで声がでなくなったり、帯状疱疹がでたり。

 だが弘前ねぷたまつりではギブスをつけたまま、医師会の高等看護学院の女生徒たちによるなぎなた隊の先頭に立った。「一端引き受けたことは笑顔でやりたい」その一心。マリ子さんの根性には頭が下がる。

 弘前二中でなぎなたを教え、子供たちに武道の心を伝えている。間合いという言葉が好きだ。「攻めるばかりでなく、間合いを取ることが大切。人生にも人間関係にも間合いが必要ね」。りりしく美しく。これからも武道の心を体現するマリ子さんでいてほしい。


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平成17年9月25日掲載
城田 あい子さん 「リンゴの夢 追いかけて」
  桜や栗、クルミの木に囲まれた「医果同源」のオフィスを訪ねた。「まずは飲んでみて」とジュースが出された。甘過ぎるリンゴジュースが多い中、適度な酸味でさっぱりとした風味。

 飲んだ人が健康になりますように。そんな願いを込めて「医果同源」と名づけた。食べることと医術はどちらも健康に通じるという意味の「医食同源」をもじった名だ。

 リンゴジュースに未熟果実を25%加えてある。未熟リンゴには成熟果実の五倍から十倍のポリフェノールが含まれ、未熟果実と成熟果実を混合したリンゴジュースを毎日飲むことで、ナチュラルキラー活性が活発になると実験で判明。今春には、「リンゴの成熟果実と未熟果実を両方用いることで得られる免疫賦活剤」の特許が確定した。

 「リンゴで夢を見せてもらっています」とほほえむのは「医果同源」の代表を務める城田あい子さん(57)。あい子さんはこれまでも、夫の安幸さん(57)と一緒にリンゴに関するたくさんのチャレンジを行ってきた。

 リンゴをかじった人の願いがかなうという英国の童話「マジック・アップル」の翻訳。摘花したリンゴの花で押し花を作ったり、リンゴジュースの搾りかすではがきを製作したり。数年前からあい子さんと安幸さんは岩木山のすそ野で、農薬をいっさい使わずにリンゴの木を育てている。ジュースの未熟果実はこの農園であい子さんたちが摘果したものだ。「農園にはサルも遊びに来ます。無農薬のリンゴの木に咲く花はとても香りがいいんですよ」と顔をほころばせた。

 あい子さんは二十九年前、弘前大学に赴任した夫とともに大阪から弘前にやって来た。夜行列車から降りると、学生たちが横断幕で迎えてくれた。駅の外は一面の銀世界。いっぺんに弘前が好きになったという。この地を終(つい)の住み家と決めた。

 九月から、弘前市りんご公園や藤田記念庭園洋館のレストランで「医果同源」がメニューに並ぶようになった。食にこだわるレストランとして、東京大手町にこの夏オープンした「オーテマチ・カフェ」でも十月から取り扱われることが決まっている。「ジュースはやっと産声を上げたところ。いいものを作って、おいしいと喜んでもらえれば」とあい子さんは話す。

 次男の創さん(23)、妻の沙織さん(23)も夏からスタッフに加わった。家族ぐるみでジュース作りに取り組む。リンゴジュース作りは子育てに似ているという。手を掛け、心を掛け、ゆっくりと育てていく。収穫が終わった農園では、来年に備えて草刈りが行われているところだ。

 「リンゴにはまだたくさんの機能があるはず。いつか収益が上がったら、リンゴの機能性の研究基金を立ち上げたい」と語るあい子さん。飲んだ人が元気になる、そんなジュースを作り続けたいと夢見ている。

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平成17年9月11日掲載
「藤田編物学院」院長
藤田 芳子さん
「手編みのぬくもり 楽しさが若さの秘訣」
 弘前市鍛冶町。ネオンが夜空を彩る飲食店街の一角に「藤田編物学院」はある。

 階段を上がっていくと、毛糸や編み針とともに、洋服や愛らしいポーチなど毛糸で作られたさまざまな作品が飾られた空間が広がる。ここが藤田編物学院院長藤田芳子さん(82)のお城だ。

 昭和三十年代の初めから、芳子さんはここで生徒たちに編み物を教えてきた。それにしても芳子さんの若々しいこと。つややかな肌に愛らしい声。「皆様にエステに行ってるの?とか言われますが、大したお手入れはしていません」とはにかむ。

 「これも編み物を続けてきたおかげ。若返りたかったら、あなたも編み物習いにいらっしゃいって皆に言ってるの」とぴかぴかの笑顔を見せる。
 編み物になくてはならない早見表。細かい数字がずらりと並ぶが、老眼鏡は一切使わない。「ぜーんぶ見えますよ。生徒さんが見えない時は私が代わりに見てあげてます」と軽く言い切る。パワフルでチャーミングな女性だ。

 結婚前は銀行の行員をしていたというキャリアウーマン。大恋愛の末、新鍛冶町で自営業を営んでいた藤田勇治さんと結婚。しゅうとに勧められ、まだ珍しかった自動編み物機「ロケット編み機」を購入し、生徒に教えたり、注文を受けてセーターなどを編み出したのが学院の始まりだ。

 当時はお茶、お花、洋裁、和裁に加え、編み物が花嫁修行の一つだった。既製品は売られていない時代、主婦が家族の「衣」を支えた。寒い津軽で編み物は欠かせなかった。あれよあれよという間に生徒は増え、注文も殺到したという。

 かぎ針編み、棒針編み、アフガン編みが三大技法。芳子さんの手にかかれば、パーティで着るフォーマルウエアも編み棒からするすると生まれてくる。

 古くなったら、編んだものをほどいて、洗って巻き取って。残り毛糸と合わせて編み直していく。「こうすると毛糸は何度も生まれ変わる。リサイクル、リフォーム。古い毛糸も生き返ります」。手仕事を大切にした昔の女性たちの暮らし。編み物には「もったいない」の心が生きている。

 どこに行くにも小さなポーチに入れて編物セットを持っていく。「新幹線の中で片袖が編めちゃうの」と芳子さん。編み物の大好きなおばあさんが登場する童話「おばあさんの飛行機」を思い出した。芳子さんなら「空を飛ぶ編み物」だって編めてしまいそう。

 編み物をしていれば幸せという芳子さんだが、編み物人口が減ったことを寂しがる。「編み物は目数の計算など頭を使うし、手先を動かすから脳の働きがよくなります。手作りのぬくもりはいいものですよ」。

 さわやかな水玉のサマーセーターももちろん手作り。ピンクのマニキュアもよく似合う。「女はね、死ぬまでおしゃれ心を忘れてはだめよ」。はい。前向きな大先輩の言葉を肝に銘じ、学院を後にした。


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平成14年11月30日掲載
「画 家」松野 弘子さん 「自由に官能的に描く パリの思い出の数々」
 個展会場に入って、一枚の絵の前で足が止まった。夜の闇に手足を取られ、もだえ、恍惚(こうこつ)の表情を見せる女の姿。

 墨とブルーグレーのマニキュアで描いたという小品だが、その会場に並ぶどんな大きな作品よりも力強く存在感があった。そこには限りなく死に近い快感が描かれていた。

 「これらは子宮から生まれた作品です」。松野弘子さんは口を開いた。すらりとした姿、しっとりとした雰囲気の彼女からすんなりと過激な言葉が飛び出す。

 「うなりながら描いているの。生みの苦しみ。腰に力を入れてうーんって描き上げます」。ゴムベラを手に持ち、突き上げるように色を塗っていく。手にも、顔にも髪にもまるで血しぶきのように絵の具が飛び散る。

「女って野性的だなって思うよ。子宮に力を入れて描いていく。絵を描くのってエクスタシーですよ」

 十年前、大病をした。それがきっかけで、死ぬ前に一度は見たいと思っていたパリに思い切って行った。モンマルトルの丘、ルーブル美術館、ポンピドーセンター、オルセー美術館。モネが滞在してそこで絵を描いたという古いホテル「ロンドレス」に泊まった。パリの記憶が作品の中に息づいている。

 油彩画「パリの朝」。画面いっぱいにやさしい光があふれ、女性の裸身が浮き上がる。新しい「自分」の誕生を感じさせる作品だ。

 墨と遊ぶように思いのまま描いたモダンな墨の小品。ペンで点描した女性の胸。水彩画にアクリル絵の具、大理石の粉を重ねた現代美術「イヴ」「ルージュ・ノワール」。ふすま大の「マロニエの風」からは、パリの並木を吹き抜けるさわやかな風と緑のにおいが伝わる。

 描きたいという思いにあふれる作品たち。「引っ込み思案で、自分を表現するものは絵しかなかった」と話す松野さん。

 十三年前、初めて開いた作品展は写真だった。当時描いた自画像は細密画のようなペン画。自身の姿が鋭く細かい線の中に埋もれている。「自分が絵を描いていていいんだろうかといつも葛藤(かっとう)していました。今はただ絵を描きたい。すべての自分を受け入れることができるようになった」とやわらかな笑顔を見せる。

 恋多き女を自認する。「恋は苦悩することが多いから荒行みたいなものかな」。見かけよりもうんとエネルギッシュで、突き上げてくる思いを白い画面に思い切りぶつけていく、そんな印象。

 ずっと追いかけているテーマ「シャーマン」はかつて現代美術家工藤哲巳氏と一緒にお酒を飲んだ時に「シャーマンに向いているよ」と言われたのがきっかけだ。

 シャーマン。神に仕える未婚の少女。何かが乗り移ったように描き、年齢不明、少女性と女を合わせ持つ彼女にはぴったりな表現かもしれない。

 色鉛筆、コンテ、油彩、水彩、岩絵の具、マニキュア、墨、パステル、画材は自由。自由に表現する。こだわりを捨て、やっと絵を描くことにたどりついた松野さんがこれからどこへいくのか。「作り出すってエロスだよね」。それに共感。

スリリングで刺激的な時間が過ぎ、とっぷりと暮れた個展会場を後にした。
 
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