平成18年1月15日掲載
竹内 久美子さん 「農村の風景と思い 生け花に託して」
 北津軽で農業を営む女性たちの集いで出会ったかあさんたちは、みんな明るくてパワフル。地吹雪をものともせず、じっくりと自分の道を歩む。おおらかな笑顔の竹内久美子さん(64)もそんな農家のかあさんの一人だ。

 久美子さんは、箕(み)や背負子など農具を器に、カボチャやネギ、ナスやトマトなど自分で作った農産物に野山の花をあしらった「農の生け花」を展示している。野菜と草花が作り出す生き生きとした表情。自分が生産した農産物への誇りにあふれた「生け花」だ。

 久美子さんの人生は幼くして金木に来たことで大きく変わった。「私は三つかそのくらいで、北海道の木古内から金木にもらわれてきたの」。鶏と馬を飼い、田んぼと畑を耕して生計を立てる農家の働き手として期待され、養女となった。

 木古内の実家に養女がほしいと申し込みに来たおばさんに、七人兄妹の三番目だった久美子さんは「オラ行くスケ」と答え、新しい着物に着替え、新しい母さんに手を引かれてこの土地にやって来た。
 「小学校は出してくれたけど、中学校になると春と秋は農業が忙しくて、学校には行かれなかった」と当時の暮らしぶりをそれでも笑顔で話してくれた。

 はきはきと活発でいつも笑顔の絶えない久美子さんは、誰にでもかわいがられたことだろう。小学校に上がるころ、二歳で本家にもらわれてきていた義宜さんといういいなずけがいると教えられた。

 農業を手伝いながら小学校に通う久美子さんには、不思議に思うことがあったという。それは「学校の宿題はしなくていい。字は読まなくていい。女は勉強しなくていい」。両親からそう注意されることだった。「どうして勉強したら怒られるんだろう」。疑問に思いながらも、母さんを困らせたらいけない。そう自分に言い聞かせながら大きくなった。

 「当時はそれが普通だった。百姓の娘は百姓をやるしかない。勉強して外に行きたくなったら困る。結婚してお父ちゃんより字を覚えていたらだめと両親は思ったんだろうね」と振り返る。

 十八歳で結婚し、五人の子の親となった久美子さんは、農業をしながら、町の郵便局で働き、荷物や速達の配達を三十年間担当してきた。その合間に仲間たちと野菜の直売も行っている。久美子さんの働きぶりには頭が下がるばかりだ。

 「大儀だとかいやだとか思ったことはないの。前に前にとだけ思う。いやなことがあっても、これは済んだことだってね」

 農家の仲間たちとの勉強会が支えとなり、地域の生活改善グループの会長を十年務めた。文字が読めない時は、五人の子供たちが丁寧に教えてくれた。「アチャ、これが分からない、この字は何て読むのって。ありがとうと子供たちに教えてもらいました」。素直で人懐こい人柄が、見知らぬ土地で生き抜く手助けをしてくれた。

 頼まれれば、どこにでも「農の生け花」をしつらえに行く。ホレンソウやキャベツを菜の花やネコヤナギと共に生け込んだ春の風景。「ひとやすみ」と名付けた作品は、山ゴボウの実にクワや麦わら帽子を添えた素朴なもの。農作業をする中で見た風景や気持ちを素直に表現するところが、「農の生け花」の魅力だろう。

 五人の子はそれぞれ独立して家を出た。東京で働く義宜さんに代わり、家と土地を守る久美子さん。楽しく前向きにをモットーに、これからも農業と農作物を慈しみ暮らしていくつもりだ。

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平成18年2月26日掲載
「小渡恵利子リサイタル実行委員会の仲間たち」


「夢をずっと追い求めてきた人の歌を聴いてほしい」。昨年十二月、仲間五人で「小渡恵利子ソプラノリサイタル」の実行委員会を立ち上げた。六月九日午後七時、弘前文化センター大ホールでの開幕を目指し活動を始めた。

 鈴木弘子さん(64)、植木明美さん(51)、佐藤美紀子さん(38)、伊瀬谷香奈さん(31)は小渡さんの声楽の弟子、今恭子さん(66)は小渡さんの芸大時代からのファンだ。五人は小渡さんの歌と人柄にほれ込み、一人でも多くの人に小渡さんの歌を聴いてほしいとコンサートを企画した。

 小渡さんは三年前から月一回弘前を訪れ、鈴木さんの自宅で声楽のレッスンを行っている。どうしても小渡さんから声楽を習いたいという四人の情熱に、小渡さんが根負けした。

 「コンサートで小渡さんの声を聴き、どうしてもこの方から指導を受けたいとお願いしました」と鈴木さん。若いころ合唱部に籍を置いた鈴木さんは、再び歌いたいと四十八歳から練習を始めた。闘病中の夫の看護の日々、ストレスと加齢で次第に声が出ない状態になっていった。「とにかく歌いたい」。すがるような気持ちで小渡さんに電話をかけた。

 植木さんは音大で声楽を志したが、挫折し途中でピアノ科に転科した経験を持つ。「言語障害があるんです。なるべく目立たないように人生を過ごしてきました。封印してきた歌を再び始めたいという思いをずっと温めてきました」。

 佐藤さんは弘大教育学部声楽科で学んだが、結婚、出産を機に歌から離れた。本格的に声楽の勉強をし直したいという思いから小渡さんのレッスンに加わった。伊瀬谷さんは弘大大学院でドイツ歌曲を学んだ。プロとしての発声をもう一度学びたいと仲間に入った。

 小渡さんのレッスンは一人二時間から二時間半。最初の一時間は筋トレと発声練習だ。仰向けになったり、前屈しながら呼吸法と発声法を学ぶ。ジムで汗を流すような光景が展開する。脚力、のどの周りや声帯の筋肉を鍛えるのだ。「声楽はまず楽器である体を作らないとだめ。筋肉さえ鍛えれば八十歳ぐらいまではきちんと歌えますよ」とレッスン生を励ます。

 小渡さんのレッスンを受けて三年が経った。「まだ声帯のリハビリ中」と話す鈴木さんだが、レッスンの中でどんどん声が変わっていく。「レッスンは厳しくてつらいんですよ。でも楽しい」と笑顔を見せる。

 小渡さん自身努力の人だ。弁当屋でアルバイトをしながら東京芸大大学院を修了。二度のイタリア留学を経て、何度も挫折を経験しながら声楽家として大きく成長した。「ある程度声が出てチヤホヤされるとストップしてしまう声楽家が多い中で、彼女の躍進は目を見張るものがある。魂を揺さぶるような歌を歌える人」と五人は声をそろえる。

 厳しいレッスンを受ける四人に温かい視線を向けるのが今さん。「歌に傾けるみんなの努力と情熱はすごい。小渡さんの歌はこの十年で飛躍的に変わった。ぜひ聴いてほしいですね」

 クラシックになじみのない人にも足を運んでほしいと入場料を二千五百円と設定した。小渡さんが大きく花開いた姿、芸術的に極めたすべてを聴いてほしいと考えている。

 ポスター、ちらし、チケット作り。足と口コミが頼りだ。手伝ってくれる仲間たちと力を合わせ、コンサートに向けて準備を進めていく。

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ATVビジョン営業企画
平成18年3月26日掲載
山内 和枝さん 「県産品の魅力を 全国に向け発信」
 農業にこだわる。昨年の十一月から、県庁のあおもり産品情報サイト「青森のうまいものたち」の中の「あおもり産品チャンネル」でこだわりの食材をレポートしている。毎月、これはという農漁業者を訪ね、生産者の声、産地の様子などを取材。動画で青森の「旬」を情報発信している。

 「農業って面白い。農業からいろんなことが見えてきます」という山内和枝さん(53)。ハンディカメラを持ち、どこにでも行く。弘前市内のリンゴ園、深浦町の冬掘りニンジンなど旬の現場を求め、動く。

 ホッキ貝漁の映像を撮るため、漁船に乗り込み、極寒期の海へ繰り出した。寒い。震える手でカメラを繰り、インタビュー。編集して、ナレーションを付けて。すべて一人でやってのける、軽やかなフットワークの持ち主だ。営業企画が本業だが、ライフワークのテーマに「農業」を掲げる。

 四十歳でATVビジョンに入社。それまで事務職に就いていたが、何か違うことがやりたいと営業職を希望した。番組制作、CM制作、広告取り。県庁など役所を回って仕事をこなすうちに、農漁業に携わる魅力的な人物たちと出会うようになった。

 「いつかこの人たちを主役に番組を作りたい」。思いを胸の中で温めてきた。農業の役割、安心、安全な食べ物について考えませんかという企画書を作り、スポンサー探しに奔走。六年前、初めて制作した番組が「食卓の農業講座」だった。

 一時間番組で五回にわたり、食料自給率や農業者の高齢化の問題、グリーンツーリズムなど山内さん自身が疑問を覚えたり、不安に思ったり、これは面白いと感じたことを映像で紹介した。「日本の農業が危機的な状況にあるんだよと伝えたかった。農業って素晴らしいと思うんだよね」。言葉に力が入る。

 その後も直接販売に取り組む農家のお母さんたちの姿、産直店の魅力、農家レストラン、地元の食材を使った学校給食の取り組みなど年に一本のペースで番組を制作してきた。消費者としての視点を忘れず、番組づくりを行っている。

 「商社も消費者も国内農業の大切さを忘れている。農業は水や大気を浄化し、気温の上昇も防いでくれる。自然環境を守る働きを農業は担っている。農のある暮らしの豊かさを伝えていきたいですね」

 農業に関する本は手あたり次第に読みあさった。「これからの農業は頭を使わないとだめ」と言い切る。生産物の味、農業技術、生産方法。何にこだわるのか。ほかとは違うものを流通関係者も消費者も求めている。

 県庁のサイト「青森のうまいものたち」には全国から毎月二万件のアクセスがある。山内さんが担当する動画で見る青森産品レポートは、青森の今が伝わってくると人気だ。四月は下田町の春掘りナガイモを紹介。ミルクセーキのような風味のナガイモジュースの作り方も伝授する予定だ。

 青森の豊かな産品を全国の人に知ってほしい。どんな人がどのように作っているのか。どんな苦労があり、どんな喜びがそこにあるのか。生産現場の声、顔、思いを紹介したい。そんな意気込みが画像から伝わってくる。

 「地元にいて気づかない青森の魅力を発信していきたい。当たり前に思っているけど、すごいんだって伝え、自信を持ってもらいたい」。取材した農家の人たちの五年後、十年後をじっくりと追いかけ、いつか番組を作りたいと考えている。


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平成18年4月23日掲載
津川 あい さん 「自分を遊ばせて 俳句と向き合う」
 赤ちゃんが笑った、チョウチョが飛んできた。実景をそのまま詠む句を「極楽俳句」と表現する。

 おおらかな笑顔。ゆったりとした語り口に反し、手厳しい。そのギャップが俳人津川あいさんね75の魅力だ。実景を見、そこに虚の風景、自分の内面を映し取ることを大切にする。
 所属する俳句同人誌「黒艦隊」がこの春、創立十周年を迎えた。記念号に三十二句を載せている。

 ことごとく人魂明りこぶしの芽 力強い句だ。武装を解き、苞(ほう)の間から白い先端を見せ始めたコブシの花芽を人間の魂に見立てた一句。見つめる対象の中に自らの姿や思いを重ねる。

 子供のころから活字の虫だった。食事をする時も本から目を離さず、母からしかられた。「文学少女ではないの。活字を食べてるだけだった」とおっとり笑う。

 俳句と出合ったのは女学生のころ。仲良しだった友人が亡くなり、弔詞を読んだ。それを聞いた友人の父親が俳句を作るように勧めた。その人が俳人の相馬兎二さんだった。女学校を卒業し、銀行勤めの間も、結婚してからも俳句を続けたが、のめり込むことはなかったという。

 あいさんの心が俳句に向って開いたのは、一人息子が大学入学を機に故郷を離れた後のこと。徳才子青良、橘川まもるら、ちょっと変わった俳句をつくる仲間との出会いがきっかけだった。

 「俳句が文学として成り立っていた。私がそれまでつくってきた俳句と全く違った。その違いは俳句にポエジーがあるかどうか」

 今までとは違う、新しい俳句を作りたい。仲間で俳句同人誌を立ち上げた。名前は何にしよう。仲間の作った俳句の下五から「黒艦隊」と決まった。攻撃的な名前だ。

 「私一人が反対したの。右翼みたいでめぐせって」。会計係のあいさんが銀行に入金に行くと「黒艦隊さま!」と呼ばれ、みんなに振り向かれたこともある。

 今はあいさんも「黒艦隊」が気に入っている。「いかにもほかの人が変な目で見るところがいいのよ」。腰の座ったところがいい。

 黒艦隊の同人たちと吟行に行くのは袰月海岸。奥平部で下り、海岸に沿って各々のペースで歩く。寺や神社、そば屋や農家の小屋。どこでも句会が始まる。吟行に行けばいつでも少年少女だ。「冗談して、何にも見てないようでいて、見るものはしっかり見ているの」。しっかり見る。「それが俳句の種っこ」とあいさん。見たもの、あるものを大切にし、どっしりした骨格の上に「虚」を構築し、飛躍させる。俳句が別の次元に行く瞬間だ。

 高齢者が多い俳句の世界。この先俳句はどうなっていくのかが気がかり。「俳句はつぶれるしかないべ。すっかりつぶれてしまえば、全く新しいものが起き上がるんでないかな。つぶれるならつぶれればいいと思うよ」。その言葉の中には、俳句への熱い思いが込められている。

 夫の良春さん(82)は「うちのかかから俳句取ったらなーんもないもの」と笑う。良春さんが庭で盆栽や松の手入れに勤しむ姿を眺めながら、あいさんは俳句を作り、選をしたり。静かで穏やかな時間が流れていく。

 「俳句はおカネを生まないけど、時間とおカネを使う。そういうのを最高の遊びっていうんでしょうね」。ゆったりと自分を遊ばせ、俳句と向き合う。あいさんを支える貴重な時間だ。

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平成18年4月30日掲載
小渡 恵利子 さん 「語りかけるように歌う」
撮影 栗形昭一
 「最近は金メダルが欲しいという気持ちはないですよ。一番でありたいという思いはなくなりました」。初めて出会った十年前より、数段輝いている。以前より美しく、豊かになった小渡恵利子(42)がいた。

 アカペラで「星とたんぽぽ」を歌ってくれた。金子みすゞの詩に中田喜直が曲を付けたものだ。

 海の小石のそのように
 夜がくるまで沈んでる
 昼のお星は目に見えぬ
 見えないけれどもあるんだよ
 見えぬものでもあるんだよ

語るように、話しかけるように歌う。日本語の持つ美しい響きが耳に残る。温かく包み込まれるような歌声。余韻の優しさ。このように豊かに日本語を響かせる声楽家はそうはいない。この十年で、確かな変化があった。

 「三十五歳が転機。それまでは誉められる歌を歌いたい、コンクールで一位になるための練習をひたすらしていました」
 一九九一年に日本イタリア声楽コンコルソ・シエナ部門で一位となりイタリアへ留学。帰国後の九三年、新人の登竜門として権威のある日本音楽コンクール声楽部門で一位となった。その後、小渡さんは「失敗は許されない」というプレッシャーと闘うことになる。歌うことがつらくなることさえあった。

 二度目のイタリア留学から帰国した後、転機がやってきた。五戸町に暮らす両親と祖母、家族全員が入院した。介護のため小渡さんは東京から五戸に移り住んだ。仕事が入れば、病院から演奏会に行った。ステージに立ち、歌い、観客から拍手をもらう。これまで何度もやってきたことだが、この時は違った。初めて歌うことから元気をもらっていたことに気づいたという。「私は歌うことで生きてきたのだと分かりました」

 それから、自分の歌を歌うとはどういうことかを考えるようになった。一位を取ったという肩書を捨てよう。もう一度裸になろう。そこから勉強が始まった。

 それまでは豊かな声量に頼っていた。オペラの発声はオーケストラを飛び越えて声が伸びなくてはいけない。大きな声を出すことだけに神経を使ってきた。それではだめだ。自分の発声を変えようと試行錯誤を続けた。

 声帯の使い方、腹筋の使い方、口の開け方。体の使い方を変えた。すっと抜けて声がでるようになった。「不可能はない」と言い切る。四十二年生きてきた結論だ。「お蔭様で何もかも恵まれていませんでしたから」と苦笑する。
 「職人という意識」と自分自身を表現する小渡さん。「こつこつと自分の仕事を全うしようみたいな感じかな」と笑顔を見せる。

 六月九日、弘前文化センターでリサイタルを開く。「星とたんぽぽ」をはじめ、小渡さんがひと目ぼれならぬ、「ひと聴きぼれ」した歌曲集「淡彩抄」、イタリア歌曲、アリアなどを歌う。イタリア歌曲とは全く異なる発声法で日本歌曲を表現する。その繊細な歌い分け。

 「目標は高いの。マリア・カラスやヤノビッツみたいに歌ってから死にたい。歩みを止めずに、あそこまでいきたい」。不可能を可能に変えてきた小渡さんならではの自信だ。肩から力を抜いた小渡さんの歌は、聴く人の心を安らかにしてくれる。

歩み続ける小渡恵利子の「今」を聴いてほしい。

 
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