平成19年3月28日掲載
藤井 一江さん 「浅草生まれ青森在住 自然体で自由を満喫」
 二月の二十四日から三月四日まで東京ドームで開かれた「第十七回世界らん展日本大賞」。設営準備中の会場を訪れた。

 スタッフジャンパーを身に着け、てきぱきと動く藤井一江さん。その藤井さんに「おっ。青森のいなかから出てきたか」。親しみを込め、実行委員のメンバーが声を掛けていく。「出て来ましたよ」と笑顔を返す藤井さん。

 東京浅草生まれ、江戸っ子の藤井さんが転勤族のご夫君と住まいした青森市が気に入り、ついのすみかと決めて六年が過ぎた。

 「青森の暮らし、エンジョイしてますよ」。四十代を過ごした青森の数年間が忘れられず、夫が定年退職した後は青森に住もうと十年ほど前から準備を進めてきた。
仕事相手に名刺を渡すと、「えっ藤井さん、青森なんですか」と驚かれる。「東京で映画観て、温泉行って、ゴルフしてなんてしようとしたら大変。青森のいいとこ挙げろって言われたら、もう山ほど教えてあげる」と大きな笑顔を見せる。

 藤井さんはフラワーデザイナーとして二十代から活躍し、イベントやステージなど大型のフラワーデザインを仕事にしてきた。中学生のころから生け花を習ってきたが、家元制度に反発を覚え、フラワーデザインの道に進み、アメリカンスタイルを学びたいと渡米した経験を持つ。「技能や感性を段や級で測るのはおかしいでしょ。私は無手糧流。それが自由でいる秘訣」とフットワークの軽やかさ、自然体を崩さない。

 ランとの関わりは長い。向ヶ丘遊園で開かれた世界らん会議でブース展示を担当して以来二十年、ランの花の魅力にひかれ、世界らん展日本大賞の主催者展示を担当してきた。 今年は入り口から真っ直ぐに伸びるオーキットロードの展示をはじめ、ウエッジウッドの器とランの花のコラボ、入賞者の作品を展示するシンボルゾーンの装飾、大使夫人らのディッシュ・ディスプレイなど七カ所の展示でコーディネーターの腕前を披露した。

 天真らんまんでダイナミックな性格。「けんかっ早いわね。下町育ちだもん」と歯切れがいい。大振りの枝で大胆に空間を切り取ったり、華やかで明るい仕上がりが魅力。作品は藤井さんそのものだ。

 らん展のために三週間東京で過ごし、青森の自宅に戻るとほっとしたという。金浜の自宅からは八甲田の山並みが見え、隣の畑から顔を出したフキノトウの黄緑が目に鮮やかだ。「いい環境でしょ」。東京から遊びに来る友人たちに自慢する。一度遊びに来た人はみんな青森ファンになって帰っていく。また来たいというリピーターも多い。

 青森にはいいものがたくさんある。鮭やタラコ、コンブに果物。魚介類もいいものが北海道より安く手に入るの、知っている?」新鮮なイワシを塩水でさっと洗って、一日風に当てる。あっという間に干し魚が完成する。若生を巻いておむすびを握ったり。フキノトウみそでゆべしを作ったり。青森の食材、自然を目一杯味わい、楽しむ毎日だ。

 「じたばたしたって一生。笑っても一生。無理はしない。かっこはつけない。趣味は青森」と藤井さん。自然に包まれた青森暮らしは、首都圏から見れば夢のよう。こんな選択もありだねと藤井さんの暮らしを見て思った。
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平成19年2月21日掲載
藤本 佳代子さん 「手作り小道具を使って物語の世界を披露」
 五所川原市沖飯詰小学校の体育館。全校生徒六十一人と父母がお話会が始まるのを待っている。
 ドドドっ。体育館に積もった屋根雪が落ちる音を合図に、お話会の始まりはじまり。

 黒いドレス姿で登場したのは、藤本佳代子さん。持参した古いかばんに手を入れて、ガサゴソ。何が出てくるんだろう。見守る子どもたちの目の前に、大きなちぎり絵の絵本が現れた。

 たららんタンタン。たららんタンタンと口ずさみなが本を開く。その時、絵本から飛び出した鳥が一羽、すーいすいと宙を舞う。絵本の中には収まりきれない、それが佳代子さんのお話のスタイルだ。

 「この絵本はね、百年前に生まれたセツおばあさんが作ったちぎり絵を使ったもの。今はもういないセツおばあさんとの合作なのよ」。子どもたちに話しかける佳代子さん。 あらよっと黒い布を取り去ると、お手製の人形が登場した。煮え立て煮え立て私のかまよ。ほかほかおいしいスパデティ出ろ。魔法使いになりきって、おばあさんの声色で歌う。子どもたちはいつの間にやら、佳代子さんの作り出すお話の世界の住人になり、一緒に笑ったり、心配したり。

 パネルシアター、切り絵絵本。小道具、大道具全部手作りして持参する。七色の声を使い分け、子どもも大人も自分の世界に引き込んでいく。読み聞かせというより、全身を使って表現する、「芸人さん」。そんな肩書きがぴったりだ。「パフォーマンスは邪道だとおしかりを受けることもあります。淡々と読み聞かせするというよりも、むくむくと自分が出てきてしまうんです」と大きな目で見つめ返す。そのエネルギッシュな舞台は佳代子さんの生き方そのもの。押さえきれないパワーが体中からあふれ出す。

 黒石市山形地区の生まれ。温泉で朝風呂を浴び、自転車で黒石高校に通う元気な女の子だった。「貧しい家で育ったので、ないものから物を作るという生活。暮らしの中からものを作り出す楽しみを学びました」。
 短大の保育科を出て、幼稚園教諭として四年働いた後、藤崎町の旧家に嫁いだ。自宅では姑に仕え、夫の長伸さんが経営する「青森リンゴ加工株式会社」で嘱託社員として働く毎日。「私が一番私らしくいられる場がお話会です」。

 一昨年の大雪でリンゴ倉庫が倒壊。その後先代が亡くなり、多大な固定資産税と負債が残された。「夫婦で力を合わせ、頑張っています」と笑顔を見せる。 昨年、一昨年と鶴田町から頼まれて「つるたまちのすちゅーべんたろう」の物語、「早寝早起き朝ご飯」をテーマにした物語を持って、幼稚園や保育園を回った。お話会を依頼されれば、遠く深浦や中泊まで足を伸ばす。土曜、日曜はスケジュールがぎっしりという人気者だ。

 ある日ひゅっと小道具のアイデアが天から降ってくる。そうなったら最後、鶴の恩返しの「おつう」状態になり、食事も取らず部屋にこもって、制作に打ち込む。その集中力には脱帽だ。三枚のお札など十八番はさまざまあるが、わたしのためにパネルシアター「四季」を披露してくれた。春のかばん、夏のかばん。秋のかばん。冬のかばん。年季の入ったかばんを開けると、歌と一緒に手作りの四季の風景が広がった。

 ご先祖様が残してくれた着物や品々を生かして、子どもたちに絵本や物語の楽しさを伝えたい。佳代子さんは子どもたちの心に夢の種を植え付ける、不思議な魔法使いかもしれない。
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平成19年1月21日掲載
佐藤 幸子さん 「宮園町会の人気もの笑顔で地域を元気に」
 「これ食べて食べて」。テーブルにずらりと並んだ漬け物。大根の切り漬け、菊と鮭のはさみ漬け、紫キャベツのもち米漬け。「これも食べて」と次々に並ぶ手作りの品々。カスピ海ヨーグルトにリンゴのコンポートに牛乳寒天。

 佐藤幸子さん(70)の口癖は「食べて食べて」と「持って行って」。「さっちゃん」とみんなに呼ばれる幸子さんは、周囲に元気のもとを振りまく人気者だ。 玄関に入ると、幸子さん手作りのデコレーションが迎えてくれる。大好きなパッチワークの大作、リースなど手作りの作品が飾られ、にぎやかなことが好きな幸子さんらしい演出が楽しい。

 「眠る時間がないほど、毎日がわくわく」という幸子さんだが、五十二歳で未亡人となり、五十七歳で乳ガンを患うなど人並み以上の苦労をしている。
 「夫が亡くなってしゅんとしていたら、宮園町会の人が声をかけてくれ、婦人会に入ったら楽しくて。性格も変わってしまったの」。ペコちゃんのような丸い目をくるりと回して見せた。 「乳ガンも悲しんだり、悲観したりしなかったの。悪いとこを取れば、いいとこしか残らないって考えればいいはんで。絶対治るって思いました」。

 手術の後、すぐから針を持ち、病室でパッチワークを開始した。乳ガンの経験者らで作った「ひなげし会」の会長を務めたこともあり、患者たちを励ましてきた。毎日のように通うスイミングが幸子さんの健康の秘訣(ひけつ)。持ち前の明るさとプラス思考が幸子さんの日々を支えている。

 宮園町会婦人部副会長として先頭に立って指揮を取る。昨年の敬老会ではお年寄りの前でフレンチカンカンを踊った。髪にはピンクの羽飾り、白いフリフリのブラウスに黄色とアズキ色のロングスカート。衣装はもちろん幸子さんの手作り。

 寸劇ではかれんな衣装をまとい、主役の白雪姫を演じて拍手喝采(かっさい)を受けた。リンゴ栽培に使う反射シートで舞台衣装を作り、ピンクレディのUFOを踊ったこともあるという幸子さんのパワーには脱帽だ。

 「宮園町会の婦人部はすてきな先輩たちばかり。ちゃかしな人よけいなんだよね。あんなことして―という人がいないの。いい地域で暮らすことができて幸せ」と話す幸子さん。 新年会、総会、遠足、宮園祭り、運動会、ねぷた、婦人部の文化祭など町会の行事にはいつも幸子さんの笑顔がある。

 朝は北小学校に通う子供たちに「おはよう」と声をかける。「おはよう」と子供たちから元気な声が返ってくればうれしい。 「今が青春。やっと青春。この時間は主人の置き土産」とピカピカの笑顔を見せる幸子さん。これからも「ちゃかし」の精神と好奇心と前向きなエネルギーで、地域を明るく楽しくしていくに違いない。
「さっちゃん、がんばれ」。


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声楽家
平成18年12月13日掲載
虎谷 亜希子さん 「母の死を乗り越え成長見せた歌声」
  紅葉散る晩秋の夕べ。弘前市の石のむろじホールで小さなコンサートが開かれた。ステージに立ったのは弘前市出身で現在はイタリアに留学中の虎谷亜希子さん(31)。幾千もの星を散らしたような濃紺の衣装で聴衆の前に立った。母親で弘前オペラのプリマドンナだった千佳子さんの面影と重なった。

 フォーレの「夢のあとに」で華やかに幕の上がった舞台。グノーの「アヴェマリア」。凛(りん)と高く澄んだ歌声が会場に満ちて、シャワーのように降り注ぐ。プッチーニのオペラ「ロンディネ」のアリアでは感情を込め、自由自在に表現する亜希子さん。

 とぎれそうなほど細く繊細な高音から会場一杯に響き渡らせるテクニック。その熱唱に大きな拍手がわき起こった。

 「母が亡くなった後、歌えなくなったんです」と取材の際に聞いた亜希子さんの言葉がよみがえった。千佳子さんが亡くなってからきょうまでの亜希子さんの一年と八ヶ月。

 「最近、母に似てきたと言われることが多いんです」と笑った亜希子さん。亜希子さんにとって母千佳子さんはどんな存在だったのだろう。

 「弘前でまだクラシックが今ほど普及していない時代に、今の私より若い時から頑張ってきた母は、開拓者」とシャッポを脱ぐ。

 亜希子さんは最初から声楽家を目指していたわけではない。弘前中央高校時代、「音大も受けてみたら」という母の言葉に触発された。受験のぎりぎりまで千佳子さんの指導を受けた。

 国立音大の大学院では迷った末にオペラコースを選んだ。「小さいころ、オペラが嫌で嫌で泣いたんですよ」。弘前オペラのプリマドンナを母に、指揮者を父に持つ幼い亜希子さんにとって、オペラは大切な父や母を奪う存在だった。「そんなオペラを自分がやるなんて不思議なもの」と苦笑する。

 二〇〇四年十月。イタリアに渡った。母の死後、歌おうとする度に涙が止まらなくなり、歌えなくなった。「私の歌の中に母の痕跡があまりにもたくさんありましたから」。

 イタリアでの歌の師匠はジュリアーノ・チャンネラ氏。「どんなに楽しい歌を歌っても、悲しい心を持っていれば歌えない。常に幸せで満足していなければいい歌は歌えないよ」。その言葉を支えに、歌うことを楽しもうとここまでやってきた。

 そんな亜希子さんも二十代の半ばまでは、「千佳子さんの娘さん」と呼ばれるのが嫌だった。「虎谷亜希子という名があるんだからって。鼻息荒かったしね、若かったから」とにっこり。

 今は千佳子さんの娘さんと呼ばれることを素直な気持ちで受け入れられるようになった。「実際に千佳子さんの娘だしね。それで私の歌を聴いてくれて、名前を覚えてもらえればいいかな」

 ボローニャの街の古いアパートに暮らす。ポルティコというこみせのような回廊があり、土手町を思い出すという。十月にはこの街の教会が主催するコンサートに出演した。自分が日本人であることを改めて実感した。
 「イタリアで怖い思いもたくさんしたし、差別だってある。でもそれを差し引いてもイタリアは魅力的。勉強すべきものがたくさんある」と話す亜希子さん。

 今回のコンサートの一番最後。アンコール曲として美しい日本語で「初恋」を歌った。一回りも二回りも大きくなって、いつの日か日本に戻る日を待ちたい。
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弘前市出身のイラストレーター
平成18年9月24日掲載
山内 マスミさん 「ほのぼの温かい絵に古里弘前が見え隠れ」
 シンプルな線で描かれた木に、紅いリンゴがたわわに実る。一見、子供が描いた絵のようなおおらかさ。ほのぼのと温かいタッチの絵の中から、鳥のさえずりが聞こえてきそうだ。

 弘前市立百石町展示館で開かれた同市出身のイラストレーター山内マスミさん(34)の個展会場に入ると、明るく楽しい色彩に包まれた。古里での初めての作品展「緑町14の2 036―00」にはのびのびとした作品が並んだ。

 山内さんはベストセラー「世界がもし100人の村だったら」の装丁や挿絵で注目を浴びた。「あんなに売れるとは思わず、気軽に引き受けました」とほほえむ。描く絵と同じように、自然体で素直な雰囲気の持ち主。化粧気のないキュートな笑顔は作品の持つ素朴さと重なる。

 山内さんがフリーランスのイラストレーターになって三年になる。それまでは東京のギャラリーに勤務しながら、音楽バンド「クラムボン」のライブステージに飾るのれん型の作品を描いていた。

 会場には一九九八年から描いてきたのれん型の作品約六十点も展示された。岩木山と満開の桜と弘前城、広々と続く雪野原、紅い実をついばむ鳥たち。のびのびとした画風は、深呼吸した後のようにさわやかな気持ちにしてくれる。

 「楽しんで描いている素の自分がいます」。肩の力を抜き、描くことを心底楽しんでいる様子が見る者に伝わり、柔らかな心持ちになるのだろう。

 会場の一隅に弘前の町を描いたシリーズが顔を並べた。土手町にはカネ長武田、紅屋、百石町には東映の映画館や青森銀行が立ち並ぶ。今はもうない弘前の街並み。「私の思い出の風景はすっかり変わってしまったけれど、自分の心の中に今も残る風景を描きました」

 弘前市緑町14の2は山内さんが子供時代を過ごした家の番地だ。そこにはもう山内さんの家はない。幻の家。情景。山内さんは失われた風景を絵の中でよみがえらせている。

 ランドセルに積もった雪をジャンプして落とした冬の日。お母さんと兄さんと一緒にバスを待った停留所。友だちと祝った誕生会。シロツメクサの白い花の咲く原っぱ。山内さんが描くと、どんな風景もやさしく温かくなるのが不思議だ。「にぎやかで楽しい弘前の町であってほしい。アートや音楽など、若者が中心になって町を盛り上げてくれたらうれしい」と話す。

 「世界がもし100人の村だったら」のシリーズが四冊、「やさしいことばで日本国憲法」「地球では1秒間にサッカー場1面分の緑が消えている」など話題作の挿絵や装丁を引き続き担当している。

 ちょっと難しいかなという内容の本を、気軽に手に取ってもらえる雰囲気に変えるマジシャンだ。書店でこれらの本を見かけたら、手にとって頁をめくって見て。山内さんが子供のころに見た懐かしい弘前の風景が、挿絵のどこかに見え隠れしているかもしれない。
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津軽鉄道執行役員
平成18年7月16日掲載
渋谷 房子さん 「津鉄は地域の財産 全国に魅力を発信」
 奥津軽の田園風景を縫って走る一両電車。青田風を受けて進む津軽鉄道の姿は郷愁を誘う。

 吹雪の中のストーブ列車、涼やかな風鈴列車、秋の鈴虫列車。さまざまな趣向を凝らした列車を走らせる「津鉄」の「管理・企画グループリーダー」が渋谷房子さん。勤続三十年、津鉄への思いは誰よりも熱い。

 津鉄は一九二八年(昭和三年)、津軽半島に鉄道を走らせたいと市民有志が出資し、二年後に全線が開通。五所川原を中心とした北津軽の発展に貢献し、津鉄と呼ばれ親しまれてきた。「民の思いから始まった津軽鉄道。地域の人の愛着も大きい」と渋谷さんは話す。

 だが、昭和四十年代をピークに、乗客数は二百五十七万人から年々減少し、昨年は三十七万人まで落ち込んだ。通勤、通学に車を使う人が増えたのが一因だ。

 津鉄の存続が危ぶまれる中、今年の一月「津軽鉄道サポーターズクラブ」が発足し、県内外から五百五十人を超える会員が登録した。津鉄に寄せるファンやサポーターの応援を受け、「今までと違ったことをしたい」と渋谷さんは思いを巡らせた。

 ひょんなことから北津軽の元気な農漁村の女性たちと知り合い、彼女たちのグループ「VIC・in奥津軽の会」と手をつないで、津鉄に乗る観光客に地域の農産物を味わってもらう企画を立ち上げた。金木桜まつりの開催中、普段は無人の芦野公園駅構内で朝採り野菜やもち、赤飯や生干しイカの販売をお願いし、観光客から喜ばれた。

 「津鉄の駅を人が集まる場所にしたい。そこに行くとおばあさんや母さんがいて、ものを売っていたり、話ができたり。子供たちも遊びに来れる場所。駅が地域の中心になれればいいですね」

 二十二、二十三日、初めて「ホタル列車」を走らせる。津軽五所川原駅を午後五時四十六分に出発し、津軽中里から無料のシャトルバスで中泊町の「ホタルまつりinなかどまり」に向う。一万匹を超えるホタルが闇に舞う情景はきっと幻想的だろう。祭り会場に自家用車で行くことはできない。津軽鉄道に乗ってホタルを楽しむ企画だ。

 会場では農家の女性たちがおにぎりや漬物、旬の枝豆やトウモロコシなどの店を出す。津鉄と地域が共に元気になる企画を立てたいと渋谷さんは考えている。

 津鉄は走る博物館だ。大正時代に製造されたロングシートの「ナハフ1202」は今も「ビール列車」として勇姿を披露している。古い車両を大切に使っていることが評価され二〇〇〇年には「エバーグリーン賞」も受賞した。

 アットホームな雰囲気も魅力の一つ。「どこからいらしたんですか?」と観光客に気軽に声をかける渋谷さん。観光客と地元の人がゆったりと会話する光景も珍しくはない。

 駅の構内や車両には「マイレール文庫」が置かれ、誰でも自由に本を手にすることができる。津鉄を守りたいと、東京の「地方鉄道を応援する有志の会」からたくさんの本が寄贈されている。「津鉄のファンってたくさんいるんだ」と励まされる日々だという。

 津鉄の存続が心配されるが、周辺地域の人が年にあと一回多く乗車することで、存続は可能だという。「県外からの観光客にももっと津鉄の魅力をアピールし、情報発信をしていきたい」と渋谷さん。十月には農村と消費者の交流を図る「津鉄に乗って農村探検・体験に出かけよう」という企画も準備中だ。津鉄は津軽の財産の一つ。渋谷さんは津鉄の新たな魅力の発掘に余念がない。

 
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