「サンフェスタいしかわ」友の会会長 平成12年7月15日
工藤 良子さん 「母さんたちの頑張りで 農業をもっと楽しく」
  国道七号線を弘前から大鰐に向かうと、左側にトレードマークの道の駅「サンフェスタいしかわ」が見えてくる。

 日曜日ともなれば、駐車場には車があふれ、店内は採りたての野菜や果物、加工品を買い求める人々でごったがえす。百円均一で売られるインゲンやトマト、ナス、キュウリなどの夏野菜、モモやサクランボ、スモモなどの果物は午前中に売り切れるほどの人気。百円でひと抱えもある切り花が買えるのもここならでは。

 地元の野菜や果物に交じり、焼き立てのアップルパイ、おからのパウンドケーキ、にんにくみそ、手作り豆腐や漬物が並ぶのが最大の魅力。それらの加工製品に必ず付いているのが責任者工藤良子さん(60)の名前だ。

 工藤さんは一九九五年、「サンフェスタいしかわ」が開設されると同時に「友の会会長」となった。「友の会」はJA津軽石川に所属し、「サンフェスタ」に農産物を出している農家のお母さんたちの会。三十歳代から七十歳代の幅広い女性たちをまとめるのが工藤さんの仕事だ。

 開設当時、「売る」という経験は初めて。勝手がわからず、何でもかんでも並べ、トラブルもあった。人にあげるのと違い、たとえ百円でも売るということの大切さを味わったという。

 「会長の仕事は、お客さんの苦情処理から雑用係一切ね」と」穏やかな顔を見せる工藤さん。試行錯誤、手探りで始めた事業だが、今では仲間同士助け合い、技術を交換するまでになった。「女ばかりの団体だから、小さなトラブルはしょっちゅう。泣いたり笑ったりは当然」とゆったり構える。

 昨年四月、「サンフェスタいしかわ」の」裏手に加工所が完成した。「余ればせっかく作った農産物に気の毒でしょ。アイデアを出し合い、新しい加工品を女性たちで研究しています」。友の会の女性たち百四十四人が「もち」「お菓子」「豆腐」「漬物」「そば」「工芸品」など十の部会に分かれ、製品を作る。工藤さんはサンフェスタ内部の商品、加工所、食堂などすべてに目を光らせる。「みんなを怒って回って。人相悪くなりました」

 減反で作り始めたダイズを使い、天然にがりで固めた豆腐、手作りキムチ、カボチャやトマトのジャム、甘味を抑えたしとぎもちなど各部会がアイデア、腕前を競う。農家のお母さんたちの頑張りが評価され、弘前市石川地区はこの春、農林水産省から「農業構造改善局長賞」という全国第二位の大きな賞を受賞した。

 評判を聞きつけ、全国から加工場へ視察団がやって来る。「何回も加工はやめようと思ったけれど、全国的に評価してもらい、またやっていこうと大きな自信につながりました」

 工藤さんは若いころから保母として働き、四十歳から農業に就いた。「農業をやってよかった。楽しいし、生きがいもある。怖い面もあるけれど、農産物を通してお客さんとつながることが楽しい。農家の女性たちもいい意見を持っている。それを生かせる場がこの加工場。若い嫁さんたちも花を作ったり、民芸品やリース作りの会員として頑張っている。それが後継者につながってくれたら」と将来に託す。

 工藤さんは今、お年寄りに話しを聞き、この土地に伝わる料理、ここならではの商品の掘り起こしに力を入れる。「ここに伝わる食べ物を次の世代に伝えていくのが女の仕事。女の人が元気になれば地域も元気になると思っています」と話す工藤さん。女性たちの頑張りが農業をより楽しく、元気なものに変えていきつつある。
藍染め 平成12年8月5日
渡辺 恵美子さん 「瓶のぞき色にひかれ 藍とともに暮らす」
  打ち水の施された庭を通り、日本風の玄関に入ると、藍染めの暖簾がわたしを迎えてくれた。藍の青は透明感があり、とても涼しげ。一瞬、外の暑さを忘れさせてくれる夏の色だ。

 藍染めの作者は渡辺恵美子さん(60)。十五年ほど前に耳にした、「瓶(かめ)のぞき色」に出会いたくて、藍染めを始めたという。瓶のぞき色とはどんな色だろう。

 「これが瓶のぞき色のハンカチ」と恵美子さんが見せてくれたのは淡く、優しい水色。光を通した海の中のようなブルーだった。「藍は最初、瓶に中から素晴らしく元気な青色をくれます。そして最後の最後に藍がくれる色が瓶のぞき色。薄い中にも力がある。不思議な不思議な藍の色です」

 藍の染め液を作ることを「藍を建てる」という。夏、藍の草を刈り、葉を干し、それを室に入れて発酵させ、出来たものが藍玉。恵美子さんはこの藍玉を徳島から仕入れている。藍玉を砕いてすくもにし、木灰のうわずみで練っていく。耳たぶ状に練り、灰汁(あく)で溶いたものに石灰と栄養分となる日本酒を入れて発酵を促す。

 発行が進むと液は少しづつ紫色に変わっていく。「今回はうまく藍が建ったでしょうかと棒でかくはんします。その時、瓶の底からふわふわと沸いてくるのが藍の華。藍の華が浮いてくると成功。ワーうれしいって思うんです」と話す恵美子さん。藍は手間の掛かる染め物だ。

 「今の世の中は青いと何でも藍染めだと思ってしまう。藍染めだと思っている物の大半は化学が生んだ薬品の色。本当の藍染めは正倉院の宝物にも見られる古来の青」と化学染料と藍染めの違いを強調する。

 恵美子さんは五十歳まで幼稚園の教諭として働いていた。五十歳で仕事を辞める決意をし、何かの形で自分を表現したいと考えていた時、思い出したのが「瓶のぞき色」だった。それから試行錯誤を始め、藍がうまく建つようになったのはここ四、五年だという。

 厚いと藍液の温度が上がり過ぎて、発酵菌が死んでしまう。「それが藍は生きているということ。藍の機嫌を取るのはとてもむずかしい。あまり心配し過ぎて手を掛け過ぎてもいけない。むしろ瓶にお任せするのがいい。そこがつらいところ」。藍染めは子育てに似ている。藍の力を信じて、手を掛け過ぎず、藍に任せる。

 昨年の秋に建てた藍が今、美しい瓶のぞき色を見せていた。瓶のふたを取ると、赤味掛かった紫の液に、ふんわりと青紫の泡が立っている。藍の華だった。手を入れるとつめが青色に染まる。「変わったマニキュアでしょ」と恵美子さんは青く染まったつめを見せて笑った。

 藍は水と風と光の染物だという。液に漬けては干し、漬けては干しを繰り返し、染めた布を水で丹念に洗い、残った色が藍の色。その色を風に当てて色を出す。

 三月、岩木おろしの風に当てると藍の色が一層締まると恵美子さんは言う。天気のいい日、さおに何枚も藍染の布を風にさらす。藍染めは光によって沈んで見えたり、透明に見えたり、いろいろな姿を見せてくれる。

 藍がくれる色。藍からもらう色。そんな表現がぴったりの、自然と一体となった染めが藍。藍染めをやっていると気持ちが大きく、おおらかになっていくという恵美子さん。「家中を藍の染物で埋め尽くしたい」と笑顔を見せた。

 瓶のぞきの優しく、甘い水色は、子供の日の夏休みに見た、あの朝顔の青を思い出させてくれた。
ゆい農園オーナー 平成13年11月10日
小野 敬子さん 「人と人を結ぶ 情報発信の場」
  「ちゃんとした名刺はないの」と、手渡された薄いクリーム色の紙。長靴をはき、麦ワラ帽子をかぶり、エプロン姿で大きな大根を抱えた女性のイラストが描かれている。昨年の春、平賀町役場を退職した小野敬子さん(57)の新しい名刺だ。そこには「農業」をテーマに新しい一歩を踏み
出した敬子さんの思いがあふれる。

 「『イモ煮会』を開くから、『ゆい農園』に集合」と知人から声が掛かったのは秋の初めのこと。「ゆい農園って一体どこ?」。東北自動車道の高架橋をくぐり、先導者に導かれてたどり着いたのは平賀の山の中腹だった。眼下には大鰐、尾上、黒石、弘前の町が広がる。大きな風景。大きな岩木山。この景色に敬子さんはほれた。

 役所に勤めて約三十年。敬子さんは総務課、企画商工課、農林課、議会事務局、生涯学習課とさまざまな業務を経験した。社会教育の係長となり、男女共同参画のイベントなどで多忙な日々を過ごしていた敬子さんに突然告げられた夫松男さんの病状。「あと半年の命」というがんの宣告だった。

 残業のない部署を希望して移り、懸命の看病を行ったが、診断からちょうど十ヶ月、一九九八年九月に松男さんは亡くなった。「二人してこの土地いいなあって狙っていたの。夫は体育の教師だったから、ここに陸上のコースを作りたかったみたい」と敬子さんはほほえむ。

 昨年の二月、「仕事、辞めるかなあ」と思ったという。突然のことに周りはみな驚いた。「女性たちが気軽に集まれるような場所を作りたい」。敬子さんの夢だった。退職金をはたいて、夫と二人で目星をつけていたこの土地を購入した。「ほら見て、こっちからのこの眺めもいいでしょう。ほんとにふるさとって感じ」と笑顔を見せる敬子さん。

 リンゴの木を六十本残し、大きな建物を建てた。その名もゆい工房。一階は駐車場、二階はどーんと広い板の間。三階は「まぎ」。ここなら三、四十人は軽く集まることができそうだ。「初めはオーム真理教が来るんだべかなんて言われたものよ」とにこやかに笑う。

 農作業は初心者の敬子さんだが、母のミツさん(78)の指導の下、最近東京からUターンした息子さんの聡寿さん(28)とともにリンゴと畑の仕事をこなす。「子供のころは口をとんがらかして農作業を手伝っていたのにね。でも子供心にも野菜の種をまいて、小さな種がみんな一斉に芽を出すそのパワーに驚いた。それがずっと心に残っていたのかな」

 リンゴ畑で農業体験を実施したり、工房ではリンゴの花の押し花教室や料理講習会なども行われる。月に一回、農業者や主婦などからなる「地球村津軽」のメンバーが集まり、環境を汚さずに暮らす工夫について話し合いをもったり。「ゆい工房を建てるのに借金もしょっちゃったから、これから頑張らないとね」と張り切る敬子さん。

 ゆい工房で作っている無農薬の発芽玄米のせんべいはこうばしくて、やさしい味。白米と一緒に炊ける発芽玄米やうま味のあるメキシコの天日塩など健康を考えた商品を取り扱っている。「ゆい工房に地元のおばあちゃんたちに集まってもらって、この風景を見ながら食べ物の話など情報交換できたらいいなあ」と敬子さんは夢見る。

 ゆい農園の話を聞きつけ、少しづつ人が集まるようになってきた。「これまでやってきたことの集大成がゆい工房。役場を辞めてから、おカネはないけれどいろんな人に出会えた。ここをいろんな情報が集まる場所、そしていろんな情報を発信していく場所にできればいいね」

 ゆい−結。ゆい農園は人の心と心を結ぶ、人と人を結ぶそんな場所になりつつある。
「音楽療法」を行う 平成12年10月21日
桜庭 由美さん 「笑って、揺れて、歌って、音楽を通して心開く」
 「たとえば君が傷ついて、くじけそうになった時は、必ずぼくがそばにいて、支えてあげるよその肩を」。元気な声が部屋に響く。マイクを片手に、声を張り上げて楽しそうに歌う子。にこにこ眺めている子。黙って体を動かす子。
子供たちはいろんな表情を見せる。

 ここは岩木町高屋にある「生活リズムセンターノーム」。リンゴ園に囲まれた小さな施設には、年齢も障害の程度もさまざまな子供たちや大人が通ってくる。

 「はーい、もっと大きな音ちょうだーい。はい、今度は小さな音ね、もっと小さくねー」。ここで音楽教室を担当するのが桜庭由美(よしみ)さん(42)。由美さんの声に合わせ、子供たちはトライアングル、小太鼓、タンバリンなどの楽器をたたいていく。大きな音や小さな音が入り交じり、とてもにぎやか。

 「じゃあ次は、『きょうから君は』をみんなで演奏しようね」。大きな太鼓の前でとまどう子供にぴたりと寄り添い、一緒にバチを持って太鼓をたたいていく由美さん。子供の肩を抱き、音楽に合わせて一緒に揺れる。子供たちに体ごとぶつかっていく由美さんの姿があった。

 「わたしはこの子たちができないとは思ってないの。何らかの形でできると思っている。太鼓のばちが持てなくても、少し手を添えれば持てる。ばちが持てたら、音だって出せます」。

 由美さんは高校生のころから、音楽を通していろいろな人と知り合いたいと考えていた。なかでも子供が大好きだったので、東北女子大の児童学科に進んだ。卒業後は自宅でピアノ教室を開いていたが、自閉症の子供や耳に障害を持つ子供がピアノを習いに来たことがきっかけで音楽療法に関心を持ったという。

 「障害を持つ子にどうやってピアノを教えたらいいのか、最初は戸惑いました。体で音符の長さを教えるために一緒にジャンプしたり、振動に合わせて踊ったり。今は、あなたとわたしは同じなんだと分かってもらうために、その子がころがったらわたしもころがる。鼻をほじくったらわたしも鼻をほじくります」と笑う由美さん。話し振りから、おおらかで屈託のない人柄が伝わってきた。

 由美さんは四年前、全日本音楽療法連盟の中にある「バイオミュージック学会」に加わった。「一人では出来ることに限界がある。子供たちと接していて、分からないことがいっぱいあったのでいろいろ勉強したいと思いました」。学会には全国から音楽療法に携わる人が集う。精神障害やマタニティ、不登校児のための音楽療法など分野はさまざまだ。

 聴覚障害を持つ子供が音の振動を感じてリズムを取ったり、発語障害の子供が楽器で自分を表現したり、知的障害のある子が楽器に反応して踊り出したりと音楽を通して子供たちはさまざまな変化を見せる。「三倍も四倍も体力を使うけれど、ささいなことができた時の喜びも三倍、四倍。音楽に接した時、素直に一生懸命表現する子供たちの姿、パワーに驚かされます」

 由美さんの自宅の音楽教室にも障害児が七人通っている。毎年、子供たちはおめかしをしてピアノの発表会に参加する。緊張した面持ちでピアノの前に座り、精一杯の演奏を披露する。「子供たちにいろいろなことを経験させてあげたい」と由美さん。子供たちに丸ごとぶつかり、ころころと笑う由美さんは本当に楽しそう。

 「障害児が音楽を楽しむように、障害児も音楽を楽しむ。当たり前のことを当たり前にやりたい。音楽療法なんていうと難しく聞こえるけど、笑って音楽を楽しむこと。一緒にやってくれる人がもっと増えたらいいな」と話す由美さん。その言葉に気負いはなかった。


歌 人

   弘前市生まれ・ 仙台市在住         平成12年 7月22日

斉藤 梢さん

「都会からこがれた弘前は 正しく呼吸のできる町」

122.jpg      歌集「桜雨」より

      耳たぶを飾る小さなオニキスが
         真先に冷えて今宵雪待つ

      わが臓器みな孤独なり桜咲く
         この夜も醒めて生きて働く

                                ブラウスのボタンひとつ取れかかり
                      それよりわれはほつれはじめつ

                   ひまわりを冬の花屋に買ひ求め
                      坂のぼるとき空へ近づく

                   風のドアそよりと押してふるさとに
                      入りてゆかん 草色のドア

 昨年の春、十二年ぶりで故郷の弘前に戻った。「自分で気持ちよく呼吸できるところで暮らしたいと思ったんです」。
東京と横浜で過ごした十二年間は、雪にこがれた月日だったという。「弘前は正しく呼吸できる町」と言って笑って見せた。

 この人の写真を撮るのなら、緑の中で。そう思い、二人で弘前公園を歩き、桜の話をした。斉藤さんの第一歌集のタイトルは「桜雨」。歌集の帯には「津軽を右の肺に持ち、都市を左肺に持って、現実を見つめる抒情歌」とある。歌集には津軽人の視点で見た都会の姿、空気の薄い、季節感のあいまいな都会から見た故郷への思いがあふれる。

 一番最初に彼女を知ったのは、彼女自身ではなく彼女の短歌の方だった。
「雨あとの津軽の若葉すんすんと息をしてをり気孔ひらきて」

 思わず深呼吸したくなるようなすがすがしい歌だと思った。気孔をいっぱいに開き、緑の葉が呼吸していると感じる作者の感性。二年前の若葉のころ、「ポエム&ぽえむ」で紹介した歌だ。いつか会ってみたいと思っていたその人が弘前に帰ってきた。

 「どんな生活をしていても、書いている時はどこか別のところに旅している。紙の上でいくらでも世界が広がる。若い頃から、紙と鉛筆があればわたしは生きていけるって思っていました」。はにかみながら、そう言って斉藤さんは笑った。

 彼女が持ってきたスクラップブックには、高校時代から陸奥新報に投稿したり、掲載された文章がきちんと整理されて張られている。弘前中央高校時代は写真部だったという彼女の陸奥新報デビューは、「写!津軽」。弘前の町の風景写真と短いエッセーが紙面を飾る。ページを繰ると、年齢を経るに従い、最初は饒舌で過飾であった言葉がどんどん削られ、スリムになっていくのが分かる。

 短歌と出会ったのは弘前学院大学の学生のころ。「短歌というのは写真と同じ。いろいろなものを取り除いて、ある部分にだけピントを合わせる。その瞬間をとらえるのが短歌」と解釈する。「五・七・五・七・七の七七は余情。多くを言わずに多くを言う、その余韻が人に考えさせる力を持つんです」

 津軽に帰り、十三年ぶりに経験した雪のある冬。ビタミン剤より雪さえ降れば元気になるのにと思いながら過ごした東京の冬。今回改めて、冬を耐え、地道に生きている弘前の人の強さ、津軽の作家たちのしんの強さを感じたという。

 「周りに白い世界しかないから、自分の内側に目を向ける。作家たちは突き詰めて物を書いたのだと、じょっぱりを実感しました」。斉藤さん自身、自分の中に頑固で、ここぞと思ったことは絶対にひかない、曲げないじょっぱりな面を持つと話す。

 今、表現したいと思うのは普通のもの  取り立てて誰も気には留めないけれど、美しいもの、豊かなもの。「なるべく遠くまで言葉を探しに行きたい。歩いていける限り遠くまで。でないと短歌に対して失礼だと思うの」と静かに微笑む斉藤さん。

 かつての文学少女は結婚し、子を産み、育て、都会の暮らしという異文化を経験して、大人の女性になった。これから彼女が紡いでいく言葉、短歌はどんな輝きを放っていくのだろう。正しい呼吸のできる町でつくる短歌は閉塞感、飢餓感がない分だけ、ある意味難しい。そのハードルを飛び越すのは彼女の感性だ。

 野のはてに春夏秋冬われを待つ白樺のあり 
 木の妻になる

 


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