情報ネットワーク・グループ「リエゾン」を主宰する

        弘前市田園              平成13年1月27日

工藤 緑 さん

「何かを見つけたい そんな女たち集まれ」

184.jpg 昨年の秋、弘前市元寺町に学習活動や交流活動の場を提供する「弘前市民参画センター」が作られた。いすとテーブルが置かれた無料スペース「ふれあいホール」は明るい光にあふれ、ちょっとした会合や打合せなどに活用されている。

 ここを拠点に活動を開始したのが工藤緑さん(50)が主宰する「リエゾン」。IT時代の幕開けにふさわしい情報ネットワークグループだ。 会費、会則なし、ボスもつくらないというのがリエゾンのやり方。「何かしたいという漠然とした夢を持つ人、集まれ!」と工藤さんは呼び掛ける。「掛け声ひとつでみんなが同じ行動をするという組織は時代に合わなくなっている。女性の価値観が多様化する中で、昔の形の婦人運動はもうできない。群れたくないという今の人の気持ちをどうつかむか、工夫しました」と工藤さんは話す。

  「リエゾン」は既成の組織とは異なり、ゆるやかなつながりが特徴だ。気の合った身近なグループがひとつの「ユニット」。それぞれのユニットを連結(リエゾン)していこうというのが工藤さんの試みだ。「ユニット」はランチを食べる仲間でも趣味の会でもなんでもいい。市や県や各大学が開く公開講座のお知らせ、会員からの情報をeメール、ファクス、郵送などで各ユニットに発信。各ユニットがそれぞれの仲間にその情報を伝えていくシステムだ。全体としてどれくらいの人がリンクしているのか、つかんではいない。ゆるやかな連帯、情報交流のあり方に時代の空気を感じた。

 工藤さんは弘前市の生まれ。東京で十九年間暮らし、三十六歳で弘前に帰ってきた。その後結婚、子育て、両親の介護。
「弘前に帰って来て、『女のくせに』という言葉がまだあったことにびっくり。すぐに何とかしよう、なければ作っちやおうと思うのがわかし」と笑う。走りながら考えるタイプだ。子育てが一段落した一九九九年の春、工藤さんは新しい一歩を踏み出した。

 弘前市が企画した「きらめき女性塾」、県の「青森女性大学」にそれぞれ一期生として参加し、県内の女性史、財政、女性学などを学んだ。「津軽の女性に足りないのは行動力だと思いました。潜在能力があっても生かせないでいる。素晴らしい人がいてもひとつの点に過ぎない。一人で出来ることは限られている。その点を線に、線から面に、そして面から立体にしていけたら」と夢はひろがる。

 工藤さんのフットワークは軽い。インターネットで知り合った人に会いたい、聞きたい、話したい。興味を持てば全国どこにでも出向く。「弘前でこんなことやってる工藤ですってぶつかっていく。ネットワークをどんどん広げたい」とどん欲だ。
 今は締め切りが追った塾のレポート制作に追われる。レポートのテーマは女性たちの活動の拠点となる「女性センター」について。「弘前市民参画センター」の立ち上げにも塾生としてかかわってきた。

 「実際はこれから。税金使って勉強させてもらったんだから、今まで勉強してきたことを生かし、還元していかないと」。手始めが「リエゾン」。さまざまな情報を受け取り、自分なりの考えを持って、社会に参画できる女性を増やしていきたいと工藤さんは思っている。

 「みんな何かを見つけたい。その何かを見つけるために集まっているんです。丑八通の悩みを持つ仲間、女友だち、居心地いいですよ」。何かをしたいと思っている女性たち。何をしたいのか分からないでいる女性たち。「この指とまれ」   

裂織作家

            青森市朝日山                                       平成11年11月6日

村上 あさ子さん

「古い布を横糸にし  裂織で自然を描写」

166.jpg

 四年前、青森の町が眼下に広がる青森市朝日山に、テキスタジオ村上を開いた。自宅の一階を開放した、三十畳の広さのギャラリーとアトリエ。太陽の光がいっぱいに差し込む部屋で、とんとんとん、ぱったんと機(はた)を織っていく。縦糸には草木染の糸、横糸には裂いた布。「どう出るかは、偶然と計算の合体」と村上あさ子さん(45)は言う。

 古い綿布を袋いて横糸とし、再び織って便うという庶民の知恵から生まれた裂織(さきおり)。裂織には布を太切にする女たちの優しさや愛情が込められている。

 この秋、あさ子さんはここで「布からの便り展」を開いた。
布に係わった手仕事をする女性五人が加わった。藍染、草木染、パッチワーク、ホームスパン。布が織り成す温かい雰囲気。あさ子さんは「裂織のコラージュ」を並べた。古着を裂いて織り上げた布を切り張りしたコラージュ。「霧」「光」「森の中」をイメージした作品に仕上げた。

  「ここはまるで森の中。朝起きると真っ白な霧におおわれています。虹も眼下の田んぼから立ちあがってそれはきれい。その感激を作品にしました」。淡い色調のグレーの裂織に、白く織られた裂織が重なる作品「霧」。木々の芽吹きをイメージしたような「森の中」。裂織を使ったあさ子さんの表現が少しづつ、胎動を始めている。

 「あきっぽい性格だったのに、織りだけはがまんできるのよ」と笑う。小さいころ、おばが布の切れ端でつくってくれたきれいな箱を犬切にしていた。自分でも包装紙を集めたり、きれいなものが好きな子供だった。一方で、「お前が男だったら」と言われ続けてきたという。「家長制度があるような古い農家の生まれ。女は勉強しなくていいといつも言われた。男に生まれたかったと思ったこともありました。だからわざと男っぽく振る舞ってきたところもあったかな」

 そんなあさ子さんが織りと出合ったのは二十歳代のはじめ。高校卒業後東京で働いていたあさ子さんは二十歳で結婚。「家事は君の仕事と夫に言われ、じゃ、外で仕事はしませんと宣言したの」。織りの勉強がしたくて、結婚の祝い金で「東京テキスタイル研究所」に入学した。「家具は何もなくて、あったのは織機だけ。という新婚生活でした」

 機織りの音がうるさいとアパートを追い出され、夫と二人、青森市に戻ってきたのが二十年ほど前。青森で知った裂織の技法で、バッグ、クッション、帽子、べスト、ジャケットなどを作ってきた。
 朝日山に来てから、「作品が変わってきたね」と言われる。「自分が素直に出せるようになった。自然に囲まれた生活の中で、新しい自分に出会った気がします」
 春になると一斉に芽吹く山の木々。深い緑に包まれる夏。燃えるような紅葉を見せる秋。そしてすべてが白で塗り尽くされる冬。アトリエから見る青森の町は、灰色の海に浮く蜃気楼のよう。自然の営みがあさ子さんの作品にヒントを与え、ぴかりと光る感性を添えた。

 これからも新しい自分をゆっくり探していきたいというあさ子さん。「新しい自分を作品にできたらいい。だから自分の生き方が大切なんですよね」。男っぽく振る舞いながらも、きれいな布端が大好きだった女の子は、いつしか布を使って自分を表現する大人の女性になった。今なら、女に生まれたこともまんざらじゃないと、胸を張って言える。

コスモス短歌会          
  青森支部長

             尾上町日沼字高田                                   平成11年4月3日

 福士 りかさん

  「異彩を放つ若手支部長   短歌は自分を知る手段」

158.jpg

    自分を表現する手段に短歌を選んだ。

   いま誰もわれに触るるな薄氷の
                  うへにふはりと淡雪かかる

 触れられれば崩れてしまう、薄い氷のようなはかない心持ち。じっと持ちこたえる自分の心を包むように、静かに降り積もるものは淡雪だけ。東京の同人誌「桟橋」に収められた、りかさんの歌だ。
「われに触るるな」と人をつっぱね、自分の心とじっと向き合う、女の心根がいい。
わたしの好きな歌だ。

  なぜ短歌を?とよく問われる。「いい手段なの、自分と向き合うには。自分の持っているものを形にすることで救われてきたように思います」
 短歌と真剣に取り組み始めたのは三十歳を過ぎてから。俵万智の「サラダ記念日」はひとつのきっかけとなった。「短歌は堅苦しい、歳を取った人がするものという認識をくつがえしたのは画期的」と評する。万智さんの歌が口語にこだわり、さらりと淡白な感触が持ち味なら、この人の歌には艶がある。

  「わたしは文語で作っていきたい。口語はその時の気分を出すにはいいけれど、文語には奥行きがあります」。確かに、俵万智のチョコレート語訳「みだれ髪」を読んだ時、与謝野晶子の力量もさることながら、原作の文語が持つ日本語の美しさと力強さに圧倒されたのを思い出す。「古い部分はあるけれど、美しい言葉は残しておきたい」とりかさんは言う。

 五十代でも若手といわれる短歌の世界の中で、三十七歳の支部長は特異な存在。全国支部長会議に出ると、異彩を放つ。「支部長は普通、実力と経歴と年齢において、トップの人がなるんです」と謙そんする。だが、高齢者が多い短歌界で、若手が支える青森支部の活気は他の地域からうらやましがられもする。

 昨年二月、私家版で歌集を出した。「幻の歌集」と笑う。自費出版で二百部。そのほとんどは、今も自室のダンボール箱の中で眠る。どこにも出してはいない。「自分のために作った本」だ。
 ここが君の闇の入り□ われの知らぬ黒子をひとつさぐりあてらる

 別れぎはの言葉が大事むなしさも不安も夢もかき消すやうな「朱夏」と名付けられた歌集を手にした時、扉の向こうにどんな世界がひろがっているのだろうと胸がときめき、一気に読んだ。大人の女の息づかいが聞こえる歌集だと思った。「自分の気持ちを整理するために作ったんです」というその歌集は、一年を経て、静かな落ち着きを取り戻していた。トータルして眺めると、まるで短編の小説のよう。行間を埋めていくのは、読み手の感性。

  「無難な歌ばかり作っていると、可もなく不可もないものばかり、簡単に作れてしまうようになる。すっと入って、すっと忘れてしまうような歌」。この歌集をひとつの区切りに、彼女は脱皮を試みているのだと感じた。以前、先輩から聞いた「歌を作るとは裸で町を歩くようなもの」という言葉が頭を巡るという。 俳句ではいい足りない、小説ではとめどなくなってしまう自分の思いを、三十一文字で切り取っていくのがりかさんの表現手段。「自分を知りたいから、だから表現したい。そしてそれ
が自己完結ではなく、人口何かしら伝えることができたら」。自分を知るための長い旅はまだ始まったばかりだ。

イラストレーター

          青森市新城平岡                                     平成12年1月29日

 北林 小波 さん

  「パステルでふんわり描く やさしい子供たちの世界」

126.jpg 今は廃刊となった青森市のタウン誌「月刊キャロット」の表紙を描いていた北林小波さん。
「おとな気分こども気分」というコラムの中で「大人になったら、人前に出ても顔が赤くならないだろうか、思ったことが堂々と言えるだろうか、小さな字の本もあきずに最後まで読めるだろうか」と書いていた。
なんだか、子供の心のまま大きくなってしまったような人。

 そう伝えれば、「そんなことないですよ。なまけものだしぃ」と小波さんは答える。でもなんだかこの人の回りには、不思議な時間が流れている。とっても自由に生きているって感じなのだ。「青森でフリーのイラストレーターだなんて。どうやって食べているのかなあ」と不思議に思って聞けば、「わたしもよく分かんないの。ぎりぎり食べているって感じかなあ」なんて、ポリポリと首筋をかいてみたり。ほんと、どうやって食べているんでしょ。

 小波さんのイラストは、どこかで見たことがあるはず。相馬村の「星と森のロマントピア」の看板では、濃紺の星空をバックに、三つ編みの女の子と帽子をかぶった男の子が「ぴかぴか光る夜空の星よ」なんて歌いながら、こちらを見ている。

 弘前市のパン屋さん「スリーブリッジ」の看板の中では、そばかすの女の子が大きなバケットを抱えてうれしそうに笑っている。雑貨屋さん「グレゴリイ」の愛らしい女の子の顔は知っている?みんな小波さんの分身のような子供たちだ。

 いつも、あしたがあるさと思って生きてきた。小さなころから絵を描く仕事をしたいと思ってきたが、世の中そう甘くはない。高校を出てから、事務員として二年働いた。二十歳でリストラされて、途方に暮れていた時見つけた「イラストレーター募集」の広告。バイトとして採用されたのが「キャロット」を出版しているATプランだった。

 表紙を描くことになった時、付けた名前が本名の美菜子をさかさまにした「こなみ」。照れ屋の彼女は、「ファンです」なんて言われると、今でも途方に暮れてしまうという。一九八八年からフリーに。親元を離れ、自活を始めて三年になる。「今だに、独立したなんてかっこいいこと言えませんよ。去年なんか悲惨。カネなくって保険崩したし」なんて、けろりと話してくれる。

 高校を出たてのころは、デザインの学校か美術学校に入りたいと思っていた。イラストレーターの仕事を始めたころは、東京で仕事をしたいと思っていた。でも今は違う。「学校に入らなきゃイラストレーターになれないってことはないし、東京に行かなきゃ仕事できないってことないしね」

 去年の十一月、初の作品集を弘前市の路上社から出版した。優しい色調のパステル画が六十四点。子供たちの笑顔がまぶしい。この中には、ゆったりとした子供の時間が流れている。透き通った羽を背中に持った女の子。小さな茶色のクマを大事そうに抱えた子。麦わら帽子の少女。おしゃまな目をした子供たち。見る人をやさしい時間にいざなう。

 子供の時間はいつもゆっくり。子供のころの、あの一日の長かったこと。一年間の長かったこと。小波さんの回りでは、今も少しだけゆっくりと、時間が流れている。子供のころみたいに。




翻訳通訳の会社

                                                                       平成11年7月31日

「コスモス」

 「県内初の翻訳会社設立  タフで大人の女性たち」

             128-1.jpg                     128-2.jpg
         代表取締役 ウィルキンソン          取締役 ウェスタホーベン
                              恵理子さん                     せい子さん

 三年前、恵理子さん(49)と せい子さん(46)、恵理子さんの夫スティーブさんとで県内初の翻訳通訳の会社「コスモス」をつくった。子育てが一段落した女性二人、四十歳を過ぎてからの挑戦。「わたしたちのセールスポイントは津軽弁を英訳できるところね」と二人、チャーミングな笑顔を見せる。

 恵理子さんは実業家タイプ。
「翻訳したり、秘書業務をしたり、人材派遣会社をつくるのが若いころからの夢でした」。せい子さんは実務家。ダイナミックに仕事をこなす恵理子さんに対し、家事を片づけてから、こつこつと仕事に向かう。二人とも全く性格が異なるという。
「最初はずいぶん□げんかもしました」と顔を見合わせた。

 そんな二人の共通点は夫が外国人だったこと。せい子さんは弘前大学在学中に知り合ったオランダ人のジェームズ・ウエスタホーペンさんと二十五歳で結婚。三十五歳まで県内で中学の英語教諭として働いてきた。仕事を辞めたのは家族に手をかけたいと思ったから。何事にも全力投球のせい子さん、退職後は主婦としての腕を磨いてきた。

 恵理子さんはとても「タフ」な女性。東京で貿易商社の秘書として働き、帰郷後は市内でホテルのフロントクローク、スーパーのレジ係、ウエートレスなどさまざまな職種をこなした。
「いろんなことをやってきて、自然にスポットライトが当たるように、翻訳の仕事に向かいました」

 三十六歳の時、六歳下の英国人スティーブと結婚した。「日本の夫婦は男と女であることを忘れがち」と言う恵理子さん。スティしフとは週末になると二人で飲みに出掛けたり、二人の時間を大切にする仲のよい夫婦だった。そんな恵理子さんを襲ったスティーブの事故死。昨年三月のことだった。 気力をなくし、精神的に落ち込む恵理子さんを支えたのがせい子さんと翻訳の仕事だった。
「スティーブは仕事をしているわたしが好きだった。わたしの回復を一番喜んでいてくれると思います」

 コスモスには官公庁や地元企業から翻訳や通訳の仕事が舞い込む。資料や手紙、研究論文の和訳、英訳。スタッフは全部で七人。互いに組んで仕事をこなし、間違いのないよう必ず複数の目を通す。年々、仕事が増えてきた。「個性がここまで違ったのが良かったのね。ぶつかっても、お互いを尊重し、尊敬できたから」と二人。

  「せい子さんはまじめで温かな人」と評する恵理子さんに対し、「恵理子さんはスケール、キャパシティが大きい。踏まれても芽を出し、花を咲かせるタイプ」と表現するせい子さん。
パートナーとしてストレートに言い合う関係をつくることができたのは、二人が賢い大人の女性だったからだろう。

 二人とも生まれ育った青森が大好き。「地元のわたしたちが通訳する良さは地元の良さをアピールできるところ。青森っていいところだよって外国の人に紹介したいわね」。最初はそれぞれの夫の語学力に頼っていたという一一人がやがてI人立ちし、現在は女二人で会社を切り回すまでに成長した。「夫たちに育ててもらったかな」。「わたしはスティーブの人生の後始末役。タフに生きて彼の人生を完結させないと」と話す恵理子さんの隣で、せい子さんは静かに笑っていた。                                        

 

 

 


inserted by FC2 system