今は廃刊となった青森市のタウン誌「月刊キャロット」の表紙を描いていた北林小波さん。
「おとな気分こども気分」というコラムの中で「大人になったら、人前に出ても顔が赤くならないだろうか、思ったことが堂々と言えるだろうか、小さな字の本もあきずに最後まで読めるだろうか」と書いていた。
なんだか、子供の心のまま大きくなってしまったような人。
そう伝えれば、「そんなことないですよ。なまけものだしぃ」と小波さんは答える。でもなんだかこの人の回りには、不思議な時間が流れている。とっても自由に生きているって感じなのだ。「青森でフリーのイラストレーターだなんて。どうやって食べているのかなあ」と不思議に思って聞けば、「わたしもよく分かんないの。ぎりぎり食べているって感じかなあ」なんて、ポリポリと首筋をかいてみたり。ほんと、どうやって食べているんでしょ。
小波さんのイラストは、どこかで見たことがあるはず。相馬村の「星と森のロマントピア」の看板では、濃紺の星空をバックに、三つ編みの女の子と帽子をかぶった男の子が「ぴかぴか光る夜空の星よ」なんて歌いながら、こちらを見ている。
弘前市のパン屋さん「スリーブリッジ」の看板の中では、そばかすの女の子が大きなバケットを抱えてうれしそうに笑っている。雑貨屋さん「グレゴリイ」の愛らしい女の子の顔は知っている?みんな小波さんの分身のような子供たちだ。
いつも、あしたがあるさと思って生きてきた。小さなころから絵を描く仕事をしたいと思ってきたが、世の中そう甘くはない。高校を出てから、事務員として二年働いた。二十歳でリストラされて、途方に暮れていた時見つけた「イラストレーター募集」の広告。バイトとして採用されたのが「キャロット」を出版しているATプランだった。
表紙を描くことになった時、付けた名前が本名の美菜子をさかさまにした「こなみ」。照れ屋の彼女は、「ファンです」なんて言われると、今でも途方に暮れてしまうという。一九八八年からフリーに。親元を離れ、自活を始めて三年になる。「今だに、独立したなんてかっこいいこと言えませんよ。去年なんか悲惨。カネなくって保険崩したし」なんて、けろりと話してくれる。
高校を出たてのころは、デザインの学校か美術学校に入りたいと思っていた。イラストレーターの仕事を始めたころは、東京で仕事をしたいと思っていた。でも今は違う。「学校に入らなきゃイラストレーターになれないってことはないし、東京に行かなきゃ仕事できないってことないしね」
去年の十一月、初の作品集を弘前市の路上社から出版した。優しい色調のパステル画が六十四点。子供たちの笑顔がまぶしい。この中には、ゆったりとした子供の時間が流れている。透き通った羽を背中に持った女の子。小さな茶色のクマを大事そうに抱えた子。麦わら帽子の少女。おしゃまな目をした子供たち。見る人をやさしい時間にいざなう。
子供の時間はいつもゆっくり。子供のころの、あの一日の長かったこと。一年間の長かったこと。小波さんの回りでは、今も少しだけゆっくりと、時間が流れている。子供のころみたいに。
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