アイデアル美容室を営む

                                                                 平成12年1月30日

  工藤 秋江 さん  

「髪通し女の人生見詰め 店と共に年齢を重ねる」

162.jpg 大鰐町の「大日様」の近くで、アイデアル美容室というユニークな名前の店を構える。「大日様」の道筋だけで、今は十軒ほどの美容院が軒を連ねるが、工藤秋江さん(67)が店を開いた四十五年前、大鰐には二、三軒しか美容院はなかったという。

 「当時の大鰐は温泉客でにぎわっていて、まだ赤線も残っていた。置屋のおねえさんたちや旅館の女中さんが毎日のようにセットに来てくれました」と秋江さんは懐かしむ。パーマが二百五十円、セットが百三十円という時代だ。

 アイデアル美容室という名は辞書を調べて決めた。「あなたの姿に合った、理想的なスタイルをつくりますという意味」と秋江さんはにこやかに笑う。

 開店当時、正月ともなれば、芸者さんたちが秋江さんの美容室にやって来て、紋付きに着替え、芸者島田に髪を結い上げてもらい、各旅館にあいさつ回りに行ったという。そんな華やかな情景も今では遠い夢。

 南に面した美容室の窓からは、平川に沿って建ち並ぶ旅館が一望できる。雪の茶臼山をバックに、湯煙の上がる温泉街には、郷愁にも似た情緒が漂う。年の暮れは一層の活気を呈したに違いない温泉場も、しんしんと雪が降るばかりだ。

 秋江さんは碇ケ関村の生まれ。村の中学を卒業し、弘前の美容院に修行に入った。花嫁さんの支度をする美容院だった。当時は「二日祝い」と言い、自宅で二日にわたり、持参した着物を親戚の人や手伝いの人々に披露したという。

  「一日目は髪を島田に結い、二日目は丸まげ。農閑期の冬に結婚式が多くて、一日に二十五人もお嫁さんをつくりました。馬ソリに七輪を置いて花嫁さんを乗せ、相手の家まで一緒に付いていったのも懐かしい思い出」と秋江さん。

 その後東京で修行し、二十三歳の若さで店を開いた。「とにかく何でもできる美容師を目指そうと思ったの」。古着の花嫁衣装を買い、「花嫁さんをつくる美容室」としてスタート。忙しい合間を縫って東京に通い、講習を受け、「かつらを結い上げることができる講師」に任じられた。「今はかつらの結い上げができる美容師さん、少なくなったのよ」と秋江さんは少し寂しげだ。

かつらを見せてもらった。箱を開けると、鬢(びん)付油の独特のにおいが広がった。「昔、芸者さんはこの鬢付油のにおいがしたの。男性が懐かしむ香りね」。その言葉から、温泉他大鰐の昔を思った。

 やるからには徹底してやるたち、という秋江さん。今でも毎年、新趣帯結びの発表会に出場する。「常に勉強していないと時代に遅れちゃうものね。死ぬまで勉強」と張り切る。二階には色とりどりのカクテルドレスや純白のウエディングドレス、華やかな打ち掛けが並ぶ。ここからたくさんの花嫁さんが生まれたのだろう。

 髪を整えてもらいながら、身の上相談をしたり、愚痴をこぼしていくお客さんも多い。

 張りのある少女の髪。花嫁さんのずしりとした文金高島田。初々しい若妻の髪。年齢とともに細く柔らかくなった髪の毛。髪を通して、秋江さんは女性たちの人生を見てきたのだろう。

 「先生に付き合って四十年になるなあってお客さんに言われます。一緒にカラオケしたり、旅行に行ったりするのよ」。お客さんと一緒に歳を重ねてきた秋江さんならではの言葉だ。大鰐町の「あぐり」目指して、秋江さんはきょうもお客さんの髪にくしを入れる。
 

絵本作りする

            黒石市緑町                                          平成11年3月27日

岩崎 眞理子さん

「子供の心の扉を開く 手作り絵本のパワー」

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 手作り絵本とどっぷり四つに組む。これも絵本?と目を見張るのが大きなタペストリーのような布絵本。「賢治残照」とタイトルが付く。絵本の土台は母親が愛用した和服のコート。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」の詩が、表紙を入れて三十四枚の布に刺しゅうとアップリケで表現されている。

 詩はミシン刺しゅうで力強く描かれる。「手縫いの静けさと違って、パワーのあるミシンの縫い目が好き。子供たちがワっと触る布絵本にはミシンでたたいたパワフルな縫い目が合うの」と、ダダダッと進む電動ミシンに負けないほどパワフルな眞理子さんは言う。

 大胆な構図とダイナミックな手法。だがようく見ると給本の中から、フェルト、ビーズ、レースの切れ端、懐かしいにおいの布たちが顔をのぞかせる。
「これ使えそうって、布の切れ端と目が合うと大事にしまっておく。しまっておくと自分の中に布がしみこんでしみこんで、時々出して眺めて、その布が自分になじんでいく。布ってしみこむまで時間が掛かるのね」

 そんな風に自分にしみこんで、なじんだ布を使って絵本に仕立てていく。ダイナミックな眞理子さんの優しく、繊細な一面。「人はね、新しい布を使ったものより、古い布に目も心も止まるものだと思います」。古い布を慈しむ思いが「かすりのうた」という布絵本を生んだ。

 夫の着古した丹前、母が嫁人りに持ってきた肌襦袢(じゅばん)、父の白がすり、子供をおぶったねんねこなど懐かしい布を生かして、小さな絵本が誕生した。必死でミシンを踏むと、自分の指まで縫ってしまうこともある。「ミシン針がぶち抜いた指をしみじみ見て、まあいいかって思うの。あまり細かく考えない方が布もデザインものびのびしていいじゃない」

 眞理子さんが絵本にこだわるのは若いころの思い出にさかのぼる。仙台の東北福祉大で社会福祉を学んでいた眞理子さんは、事情があって両親と暮らせない子の施設で一年間寝起きを共にした。その後弘前市の母子寮で働いた眞理子さん。そのつど、子供たちと眞理子さんの心をつないだのが絵本だった。

  「少しでも長く本を読んでほしくて、子供たちはすごくぶ厚い本を持ってくる。本の中身はなんでもいいの。少しでも長く人の声が聞いていたい。自分に向けて出される生の人の声の大切さに気付きました」

 眞理子さんが初めて作った絵本は自分の子供のつぶやきを集めた「おはなしつぶつぶ」。「大きくなったら、ぼくライオンのお母さんになるんだ」「地震ってどうやってうちに入ってくるんだろう」。子供たちのさりげないつぶやきが時を止めて、きらきらと今も輝く。

 手描きの絵本もいい。青森市にある国立松丘保養所で暮らす高野明子さんを描いた絵本「明子さん」。川柳を友に生きる明子さんを淡々と描き、手描きのさし絵が優しさを添える。台風19号を描いた「吾亦紅」。落ち着いた水彩画が真実を伝える。

 ストーリーテリング、オリジナル紙芝居で子供の心をわかす。「子供も大人も関係なく、絵本ってほっとする。わたしの言葉が最初に施設の子に届いたのも絵本だった。これからの時代、絵本がもっともっと大きな役割を果たすような気がするの」

 気にいった古い布やボタン、ひもを大切にしまう眞理子さん。引き出しの中であっためて、あっためて、やがて指先からすてきな物語が生まれてくるのをじっと待とう。

ボーカル&ピアノの
グループ  サ・エ・ラ

             五所川原市大町                                   平成12年4月8日

        

「子育ての中のお母さんへ ほっとする時間を贈る」 
 

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          ボーカル                ピアノ・キーボードとアレンジ             
        菊池 由利子さん            高橋 友子さん

  華やかなスポットライトを浴び、ステージで軽やかなポップス、懐かしい童謡を歌い上げる菊池由利子さん(40)。その横で鮮やかなピアノテクニックを披露する
高橋友子さん(45)。二人の名前はサ・エ・ラ。子育てが一段落した主婦二人でつくる、ボーカル&ピアノのグループだ。

  「あそこの、いつもはかっぽうぎを着ているあの人たちが、一生懸命やればこんなこともできるんだって、子育て中のお母さんたちも思ってくれたらうれしい」。菊池さんは十五歳と十六歳、高橋さんは十二歳、十六歳、二十歳の子どもたちの母親。「ほんのちょっとのきっかけで、人って変われるんだと伝えたい」と二人は顔を見合わす。

 鶴田町生まれの菊池さんは学生時代からアマチュアバンドを組み、五所川原市内の歌声喫茶で演奏していた。二十一歳で結婚してから、生活が全く変わった。二人の子を年子で出産。
「子どもと一緒に思いっきり引きこもり。暗くなって、ノイローゼ寸前でした。視野も狭くなって、子どもたちをしかっている自分が怖かった」と子育て中の自分を振り返る。

 かたや高橋さんも音大でピアノを専攻し、学生時代から東京や横浜のレストランで演奏。ジャズあり、演歌あり、リクエストなんでもありの世界で活躍していた。二十四歳で結婚し、故郷五所川原市に戻ってきた。
「夫の仕事の都合で青森市で子育てを始めました。わたしも育児ノイローゼになり、神経心臓病と診断され、精神安定剤を飲むような毎日。この子がいるからわたしの人生変わっちゃったとうらめしくて」と率直に話す。

 子育てが永遠に続くような、暗い洞穴に入ってしまったような狐立感は、わたし自身も感じたことがある。「そんなお母さんたちに、ほっとできる時間をつくってあげたい」とサ・エ・ラは子育て支援の「ほっとコンサート」をこの春から始めた。

 五所川原市の保育園に置かれた支援センターで開いたミニコンサートには、地域に住むお母さんと子どもたちが四十人ほど集まった。「卒業写真」「翼をください」「赤いスイートピー」「犬のおまわりさん」。歌の合間に、「わたしたちにも子育てが大変な時があったんですよ」と語りかけた。

  「もう一度歌いたい」と入ったコーラスグループで出会った二人。ジーンズにTシャツ、短髪にノーメークという少年のような菊池さん。PTAの役員をし、大きなメガネをかけたちょっと怖そうな教育ママだった高橋さん。歌を歌うことが二人の心を結び付けた。

一生に一度だけと開いたライブコンサート。「恋の季節」「みずいろの恋」。二人にとって懐かしい青春の歌を披露した。会場には二人と同じ年代の女性たちがあふれた。「これで終わるはずが、ますます本気でやりたくなったの」と笑う二人。六月二十九日には弘前文化センター大ホールで、大きなコンサートを開く。

 こうなるまでには家族との葛藤もあった。「なんで今さら」「恥ずかしくないのか」。反対の声の中、「それでもやりたい仕事だと自分でも分かったんです」と二人は胸を張る。「コンサートは主婦が食事の支度をしてから来れるように七時から。
女性たちへの応援歌を歌っていきたい」とにこやかに話す。

 施設を訪ねる手づくりの「ハートフルコンサート」、お母さんたちとI絡に歌う「ほっとコンサート」そして自分たちの演奏活動。サ・エ・ラは子育てや家事、什事々介護でちょっと疲れた女性たちに、これからも元気な歌を贈っていく。

久渡寺こどもの森
  売店経営者

                                                        平成11年7月3日

 小山内 陸奥子さん

  「エプロン姿のお母さん 30年変わらない味を守る」

154.jpg 「いつものね」。小さな店内にお客さんの声。奥の台所から陸奥子さんの笑顔がのぞく。黙っていても通じる「あ・うん」の呼吸。「チャーシューが一枚多い人、シナチクが好きな人。常連さんの好みはみんな飲み込んでいる」と陸奥子さん(59)は胸をたたく。

 市内から車で十五分。わずか走っただけなのに、久渡寺の山は別天地だ。春は山桜。木々によって微妙に色合いの異なる芽吹きが山肌を華やかに彩る。夏はせみ時雨。重たげに葉の繁った森の中に、子どもたちの歓声が渡る。秋は実りの季節。ドングリにナナカマド、森のこびとが作ったような不思議なキノコも顔を出す。

 そして冬。動物たちが冬眠の準備を始めるころ、森の小さな売店も冬支度を始める。陸奥子さんはこどもの森のお母さん。エプロン姿が陸奥子さんの正装だ。森がオープンする五月になると、山登りやハイキングにと家族連れやグループがわんさかやって来る。そして必ず寄るのがこの売店。うどんやそば、おでんで一休みが常だ。

 なかでも人気があるのは開店以来三十年、全く味が変わらないという中華そば。ちぢれめんとシンプルな具が「しなそば」という懐かしい雰囲気を作り出す。「この味はずっと同じ。トリガラ、ブタガラ、コンブに煮干し。化学調味料は一切使ってません」

 三十年も開いていると、親子二代でこの森に遊びに来る常連さんも多い。この森で遊んでいた子どもが結婚し、やがて子どもを連れて遊びに来る。そんな時が一番うれしい。弘前で一人住まいの陸奥子さんにとって、孫が遊びに来るような、そんな気持ちになるのかもしれない。

 バイクに乗って、毎日久渡寺の山に通う。去年までは休業日もなかった。朝六時には開店。無理がたたって、今年の冬は店じまいをするや否や入院。もう店を閉めようかと真剣に考えたという。

 やがて春が来て、山の雪が解けるころ、不思議なことに陸奥子さんの体も少しづつ回復した。「みんな持っていると思うと、やめることなんてやっぱりできない。そう思ったらワーッと元気になったの」。三十年目にして初めて、火曜日を定休に決め、朝六時の開店を七時にした。

  「なんか食わせて」と朝七時には常連さんが山に登ってくる。「はいよ」と出てくるのは品がきにはない山菜料理や漬物。フキノトウ、コゴミ、ワラビ、ウド、ミズ、ゼンマイ。「母さんが作るものは何でも好き」というファンも多い。何十年と通ってくれても、名前も分からない常連さんもいる。「何さまでも関係ない。百円買ってくれた人も何千円買ってくれたお客さんもみんな同じ。『いらっしゃいませ、ありがとうございます』ですからね」と陸奥子さん。

 昔は小学生、中学生が遠足で久渡寺の山にやって来た。「弘高の生徒さんも全校で歩いてきた。だんだんバスで遠出するようになったんでしょうね」と寂しい表情を見せる。スーパーで安いお菓子を売っているので、森の売店でうれしそうにお菓子を買う子どもの姿も滅った。それでも体が続く限りは店を続けたいと陸奥子さんは考えている。

 夏休みも近づき、森にこどもたちの歓声が響くのを、陸奥子さんは楽しみにしている。


早川泰子カルテット・ジャズコンサートを企画した

                                                                       平成13年10月20日

猪股 秋子さん

 「いつも夢に向かって ゴーイング マイウエイ」

186.jpg   差し出された名剌のにぎやかなこと。「ユー・キャン・フライ(あなたは飛べます)」と書かれた文字。ルンルンと鼻歌を歌いながら雲の間を飛ぶ飛行機の絵。その後には「キンバリーイングリッシュスクール」「マイティーゼミナール」「マイティーキッズイングリッシュ」「青山キッズアカデミー」「エジソンクラブ」と秋子さんが経営する英会話の教室の名前が続く。

 かわいい笑顔の持ち主はいくつものイングリッシュスクールやパソコン教室を経営する実業家であり、自家用操縦士の免許と米国連邦航空局公認上級学科教官の資格を持つ夢いっぱいの女性だった。

 秋子さんの生き方はプラス指向。「不利な状況ほどやる気がでる。困難なほど燃える。逆境をエンジョイしたい。私ってお気楽人間かも」と自己分析する。

 秋子さんは頑張り屋だ。子供のころから英語の歌が大好きで、そのまんま大好きな英語の道を突き進んできた。周りがピンク・レディに夢中になっていた小学生のころ、秋子さんはオリビア・ニュートンジョン、イーグルスを口ずさんでいたという。中学時代はロック・スチューアートにあこがれた。中学校で授業を聞いているだけでは英語を話すことはできないと、本屋さんに走り独学を開始。おと
し玉で高校生向けの英語の辞典を買い、ロック・スチュアートの歌の意味を調べたり。ボロボロになった旺文社の英和中辞典は今も秋子さんの宝だ。

 根っからの自由人。「英語が好きになり過ぎて、嫌いな教科を勉強するのがいやになって高校をやめました。これってなったらそれだけになっちゃう不器用な人間なんです」と言って、秋子さんは笑って見せた。独学して東京の専門学校に入学。そこで国際ビジネスを学んだ。卒業して弘前に帰ったが英語を生かす仕事が見つからず、それならばと自分で「キンバリーイングリッシュスクール」を開いた。二十歳の実業家の誕生。生徒は幼稚園児一人からのスタートだった。

 学校を営みながら、弘前高校の通信教育で学んだ。空を飛ぶのは小さいころからの夢。今から六年前、アメリカに通い、二年がかりで自家用操縦ライセンスを取得。独学で学科教官の勉強をし、一年後再び渡米して米国連邦航空局公認上級学科教官の資格も取った。

  「自分をしっかり持って、ああしたい、こうしたいと思うことが大切。スクールにやって来る子供たちに夏休み何するの?と聞けば別に、とか寝ていたいとか、そんな答えを聞けば悲しくなっちゃう」と秋子さん。

  「受験生に英語を教える時、テストで知らない単語が出たら待ってましたと思いなさいと言います。私の所に来たからには逆境に打ち勝つ力を持ってほしい。いいこととつらいことは常に背中合わせ。それが生きているってこと。とんとん拍子では来なかった分、私はそれを教えることができるかなって思うの」

 今秋子さんが夢中になっているのはジャズ。秋田市のジャズピアニスト早川泰子さんについてジャズピアノを学んでいる。「いきなり弟子にしてくださいって頼んだんです」と笑う。弘前の人にも早川さんのジャズを聞いてほしいと、コンサートの企画を立て、奔走中だ。

  「早川さんの魅力は自分のスタイルを崩さないところ。昔ながらの懐かしいジャズ。たくさんの人に聞いてほしい」と寝る間を借しんでPRに走る。「ジャズはとっても自由」と秋子さん。自宅のグランドピアノに向かい、気持ちよさそうに一曲披露してくれた。

  「いつかニューヨークに早川さんのジャズを持っていきたい。夢はどんな状況でも待ち続けたいですね」。夢に向かって、きょうもホップ・ステップ・ジャンプ!

 

 

 


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