「すずき和装研究所」代表 平成12年12月9日
鈴木 とみさん 「まだまだこれから 勝負して闘って」
「夫婦と着物の生地は同じ。表が男で裏が女。裏地によって品の善しあしが出る。裏は出過ぎてもいけないが、いい裏地がちらっと見えるとその着物の格がぐんと上がるのよ」

 名言だ。こんな言葉をさらりと放つ鈴木とみさん(67)。「楽衣」と名付けたオリジナルの着物を身に付け、てきぱきとした身のこなしを見せる。小柄だが、肝っ玉の座った女性だ。

 弘前市徳田町に「すずき和装教育文化センター」の大きなビルが建つ。「わたしの汗と涙の結晶」ととみさんが話すこのビルで十一月、「きもの思い出展」が開かれた。

 館内に入ると、「きもの仕立所」と染め抜かれた紺のれんが出迎えてくれた。昔の仕立屋さんの雰囲気を再現した懐かしいコーナーだ。二階に続く階段は女性たちの防寒着だった角巻、金持ちのだんな衆が身に付けたという着物コート、津軽塗の雪ゲタなどが並び、郷愁を誘う。

 三階の会場にはとみさんの塾生が出品した思い出の着物の数々が並んだ。その中でもひときわ目を引いたのは花嫁衣裳の見事な打ち掛け。とみさんととみさんの師匠だった松本喜三郎さんが一九六三年に縫い上げた品だ。
 「昔のわたしに戻りたいと思って開いた思い出展なの」ととみさんは穏やかな表情を見せた。

 とみさんが初めて針を持ったのは一六歳の時。今からちょうど五十年前のこと。当時、弘前市親方町にあった「松本仕立所」に通い始めた。弟子は三人。「和裁が好きとか嫌いとかではなく、食べていくためですよ」ととみさん。花嫁修業で針仕事を覚える女性たちとは別の部屋で、とみさんは和裁師としての道を歩き始めた。

 兄弟子の仕事を見よう見まねで覚えながら、ひたすら運針に励んだという。「当時は何も考えてなかったけど、今思うと自分の身を守るのは『手に職』ですよ。自分の才覚で動ける。親がそう言うならと仕方なく始めたけれど、この道しかなかったのね」

 五十八年に独立して、和裁の塾を開いた。「教室ではなく塾。塾というのは仕事としてやっていけることを教えるところ。物の考え方、食べていく方法を教えました」。当時土手町にあった「かくはデパート」の着物の仕立を担当した。その五年後、徳田町に移転。ここで現在の基礎を作った。

 「鈴木和装塾」から「鈴木和装技術学院」そして「すずき和和装研究所」へと名称を変えるごとに事業を拡大。取り引き先も鈴乃屋、三松など東京の大手へと移っていった。

 「わたしは仕立所の親方。みんなに仕立ての仕事をしこんで仕事を振り分けて。みんなで食べていきましょうよって、さい配を振るう親方ね」と親分の貫禄を見せる。「足を引っ張られたり、たたかれたりすりたび、たったこれだけの人間か。もっと頑張らねばとそれをバネにしました」

 「四十代、五十代は戦いの時代だった」と話すとみさん。九三年に大病をし、十ヶ月間闘病生活を送った。無我夢中で過ごしてきた日々。そんなとみさんもここ二、三年、こんなに「ばほらっと」生きていいのかと自問自答してきたという。「もらった命。死ぬまで現役でいたいわね」。思い出展を終え、改めてスタート点に立った気分だとさわやかな笑顔を見せる。「まだまだこれから。勝負して、闘って」と逆にはっぱをかけられた。

 けさの雪を見て、白は始まりの色だと思ったというとみさん。その顔には、腕一本で生きてきたという自負とこれからに向ける強い意思が浮かぶ。津軽女の底力を見た思いがした。
しそ巻梅漬の「いした」 平成12年12月16日
石田 まちさん 「梅に思いをひとすじ 「津軽」の味を残す」
 「津軽では昔からアンズを『アンズ梅』と呼ぶの。地元の母さんたちが漬けていた味なのよ」。津軽の母さんを代表するような笑顔で石田まちさん(68)が勧めてくれた「いした」の梅漬け。口に入れるとまろやかな梅の味とシソの香りがほわんと広がった。確かに母さんの味だ。

 創業百年の看板を掲げる。「しそ巻梅漬」の「いした」。こざっぱりとした店内には梅を使ったさまざまな商品が並ぶ。

 「梅の花も実も大好き。だからここまでやってこれたのでしょう」。梅漬けの効用だろうか。まちさんのふっくらとつややかなほおに思わず見入った。

 父親の跡を継ぎ、四人姉妹の長女だったまちさんが店主となったのは二十四歳の時。「父が急死して、葬式が終わった後、同業者からやめるのかと問い合わせがありました。やめられないとその時強く思ったの。かまど消しにはできないもの」。負けず嫌いのじょっぱりと自他ともに認める。

 店のある岩木町高屋はかつて大浦村と呼ばれ、大浦城のあった所。城主の命令で梅やクリ、柿などの実のなる木がたくさん植えられたという。まちさんの孫じいさんに当たる多作さんがそれらを生かし、熟柿や梅漬けを出荷する商売を始めたのが「いした」の始まりだ。

 当時四dの梅を仕入れ、漬け込んでいたが、自分で梅を作ったらどうかと考えたまちさん。岩木山の原野を自ら開墾、梅の木を一本一本植えていったという。「生まれて初めてクワを持ちました。わたしがやらねばだれもやりませんから」。商売と四つに組む、その心意気に頭が下がる。

 店に伝わる「しそ巻梅漬」から出発したまちさんだったが、「酸っぱいだけでなく、いろんな味の梅漬けがあったら」という声にこたえ、さまざまな新商品の開発に努めた。

 県内産の豊後梅を塩漬けし、天日干ししたものにハチミツを加え、赤ジソで一個一個手巻きした「ブンゴ梅」、アンズを使った「あんずのしそ巻」、ヨーグルトと相性がぴったりのアンズの甘露漬け「しそ吹雪」などさまざまなバリエーションが自慢だ。

 「これはうちの畑で採れた梅を使っているから熟し具合がちょうどいいでしょ」と味見させてくれたのが「まつの梅」。不老延命の効能があると言われる松の葉と梅漬けを合わせた逸品だ。

 「いした」の梅干しは梅を収穫して一年以上塩漬けするのが特徴。塩の角が取れて優しい味になる。丁寧に種を取り、天日干しにするという昔ながらの手作業が梅の味を生かすのだろう。

 「梅は元々薬だった。赤ジソは精神を安定させる働きがある。アンズは鉄分が豊富で体を温めてもくれる。そんな先人の知恵、伝統を残して、モダンな形で伝えてくれたら」とまちさん。輸入物は絶対に使わない。現在は六十dの梅を漬けるが、地元産の梅、赤ジソにこだわる。「地元の人、農家の人と共存共栄でいかなくちゃね。梅干しに添加物や着色料を使うなんてもってのほかです」

 「いした」は家族で切り盛りがモットーだ。昨年、娘の暢子さんと娘婿の俊さんが四代目を継いだ。デザイン担当は次女の聡子さん。贈答品の表書きはまちさんの夫睦夫さんが腕を振るう。「商売していて良かった。これで終わりということがないから」とぴかぴかの笑顔を披露する。

 「これからやりたいことがあるの」とお茶目な表情を見せたまちさん。それは「梅干し談義」。地域の人が交流できるスペースを作るのが夢だという。「わたしみたいな年齢の人がこれから増えていく。みんなで寄り集まって楽しく交流できたらいい。しわくちゃになっても梅干し談義ならいいでしょ」

 細く長くを信条に、ゆったりと商売を行うまちさん。春浅い季節に咲く、一輪の梅の花のようにりんとした女性だった。
ぺんしょん「ひばのくに迎賓館」 平成6年12月24日
山内 まつゑさん 「自然と共に生き ぬくもり与え続ける」
 ひばのくに迎賓館のドアを開けると甘いパイの匂(にお)い。部屋にはまきストーブが燃えている。「アップルパイを食べさせたくて」。まつゑさんは台所に立って、リンゴを煮たり、カボチャを刻んだりしていた。「やりたいことばっかり。季節は待ってくれないでしょう。ハゼのジャムを煮なくちゃいけないし、漬物も漬けたいし」

 まつゑさんは六年前に大鰐町早瀬野に作られたひばのくに迎賓館の自称厨房係。夫で画家の昭光さんはひばのくに理事長を務めている。「ここは次の仕事のバネになるように、みんなに休んでもらう所なんです。六ヶ月ここで暮らした人もいるんですよ」

 ひばの香りが漂う部屋には、まつゑさんが前の日に作ったという大きなクリスマスリースが吹き抜けのはりからどーんと下がっていた。山から取ってきた巨大なツルにガマノホ、ミニカボチャ、ウバユリ、ホオズキなど自然の実りがいっぱい刺してある。

 まつゑさんがナタを腰に下げ、一人で山をかけずり回ったり、崖をよじ登って木の実やツタを取る姿を見て昭光さんは「名前に子って字を付けてもらえばもう少し女らしくなったんでんねが」と笑うらしい。「チャカシなんでしょ。毎日きょうは何が起きるかなって楽しみでドキドキしちゃう。年取るのって新しい自分を見つけるゲームだと思っているの」と屈託なく笑う。

 まつゑさんは大鰐町の生まれ。嫁いだ山内家は農家で、まつゑさんは舅にくっついて山仕事手伝いをした。山に入り、杉の下草を刈ったり、枝払いをしたり。田んぼ、畑、リンゴ、山仕事と初めての経験ばかりだったという。

 「若い時はと東京に出たいと思ったこともあったんですよ。もっと何か出来ることがあるんじゃないかって悩んだこともあるの」。そんな時、あなたはすごい所にいる、いくらでも楽しいことがいっぱいあるんだと言われたのだという。「その時は分からなかったけど、今なら分かる。山にはいつも新しい発見があるもの。自然の中で山と向かいあって暮らしてきて、風の匂いで季節がわかるようになった。町で暮らしいたらきっと気づかなかったでしょうね」

 冬休みには全国からたくさんの「ひばにくに国民」がここへやって来る。女の人はまきストーブの前で編み物をしたり、男の人は木で何かをこしらえたり。みんなが思い思いの休暇を楽しんでいく。「悩みや辛いことはここにおいてけって言うの。ここは自分の家みたいに使っていいんだから」。

 毎年来てくれる人たちはもう家族のようだと言うまつゑさん。たくさんの家族に囲まれて、温かいクリスマスを過ごすのだろう。夕暮れが近づいた部屋に、まきの燃える音が響いた。
日本舞踊 平成13年5月12日
藤間 藤奈さん 「芸に道に悔いなし 思いのままに舞う」
 ダイナミックな男踊りに本領を発揮する。力強く空を切る手の動き。しなやかな足の運び。トンと床を踏み鳴らし、きれのいいすそさばきを見せる藤間藤奈さん(75)。きびきびとした動きは無駄がない。さわやかな所作だ。

 「お前さん恋したことがないだろう。なんも色香がないよとよくお師匠さんに言われました」と笑顔を見せる。

 長唄「小原女」ではたおやかな女踊りに続き、軽やかに奴(やっこ)の舞を披露する。視線の運び方、手の表情が全く変わる。「恋なんてしたこともない」と言い切る顔を、思わずのぞき込むわたしに笑顔を返す藤奈さん。「芸一筋」という言葉があるが、藤奈さんは言葉通り、芸の道をひたすらに歩んできた女性だ。

 小学校三年生で日本舞踊を始めた。本格的に鳴り物、三味線も学んだ。たたかれて、たたかれて体で覚えたという。父は藤奈さんが八つの時、母は十五歳、姉は十七歳の時、結核で亡くなった。次は自分の番だと思い、最後に好きなことをしたいと一人上京したという。

 さまざまな流派の日本舞踊を見て、最後に出会ったのが後の人間国宝故藤間藤子さんの舞台だった。「歩く姿から違っていた。ざわっと鳥肌が立ったのを覚えています」と藤奈さん。やっとの思いで直弟子となったのが、戦後の混乱がまだ収まらない一九四六年のことだった。

 内弟子となり、三年間なりふり構わずけいこ場に行こうとするあまり、スカートはき忘れてシミーズのまま電車に乗ったこともありました」

 藤奈さんの名前をもらい弘前に帰ってきたのが二十五歳の時。けいこ場を開き五十年間、藤間流の日舞を指導してきた。「けいこ事のひとつと思って始めたのが、いいお師匠さんについて、気がついたら日本舞踊で身を立てていたのね」とほほえむ。力まず、自然体な生き方が心地よい。

 「なよなよと踊るのが日本舞踊じゃないのよ。めりはりですよ、めりはりがきちんとしないと」と話し、けいこ場の舞台に立つ藤奈さん。「式三番叟」。軽妙な手さばき、足さばき。片足を上げ、華やかに見えを切る。一曲踊り終えても呼吸ひとつ乱すことはない。「何十年と毎日一人で踊ってきたんだもの。元旦は一人盛装して踊るの。今年はこれでいくぞという気持ちを込めてね」

 代々歌舞伎役者が家元の藤間流は、お座敷踊りではなく、舞台で披露する華やかさが特徴だ。去年の弘前市民文化祭では子どもを亡くし、気の狂った女性を題材にした「賤機帯(しずはたおび)」を舞った。「八十歳になっても九十歳になっても娘の役が踊れる、そこが楽しいところ。実年齢とは関係なく心は自由よ」と晴れやかな表情で話す藤奈さん。

 毎日、けいこ場のふきそうじを欠かさない。けいこを終えると夜の九時。それから一人の食事を用意する。けいこ場には藤間藤子さん直筆の色紙が飾られている。そこには「芸の道はいくらやってもこれでよしということはないですね。ひとつ踊ってもふたつ踊っても、それでもまだまだ。これで満足ということはないの」

 藤間流の伝統、古典を大切にしていきたと藤奈さんは考えている。「彼氏もいない、夫もいない、ただ芸だけが体に残った。踊りがあって幸せ。踊りは全身を動かすから痴ほう症にはならないそうよ」。芸に生きる藤奈さんの姿は、さっそうとして潔かった。
書 家 平成8年1月27日
吉沢 秀香さん 「競うより楽しむ書 燃える思い漢字に託す」
 緋色に和紙に書き上げた漢詩、桜の花の表情をあでやかに書き上げた「桜桜桜」。吉沢秀香さんの書を見て、男性的と評する人も多い。それだけ秀香さんの書は迫力を持ち、鬼気迫るものがある。

 吉沢さんは漢字一筋に打ち込んできた。近代詩文書が人気の昨今だが、漢字作品に徹する吉沢さんの意気込みは強い。「漢字の大胆で、燃えたぎる思いを紙にぶつけられる点が好きですね」

 吉沢さんの作品の特徴は力強さ。吉沢さんの作品には刀匠だった父親二唐国俊さんの一徹さを見ることができる。

 吉沢さんは国俊さんの長女として生まれた。国俊さんは長女に「テツ」という名を付ける。「鉄は熱いうちに打てのテツですよ。この名には父の熱い思いが込められていたのだと思います」と吉沢さんは話す。

 父国俊さんは仕事に厳しい人であったという。母親の信世さんは弟子など住み込みを含め二十人の家庭を切り盛りし、陰で父親を支えた。「テツの名には徹する、一徹など、ひとつのものを見つけて一生懸命打ち込め、世の中で堂々と生きていけという父の願いがあったのだと、成長してから気づきました」

 五歳から書を始めた吉沢さんは、弘前高等女学校(現弘前中央高校)時代には書道部を作り、初代の部長になる。「そのころはただ好きでやっていたんですね。徹底して書をやろうと決心したのは二十代の半ばでした」

 「中学の教師と結婚生活の中で、書はつらい時の逃げ場でもありました。一日の最後に書く書がすべてを忘れさせてくれ、あしたの糧になりました」。朝早く学校に行き、他の先生が来る前に一枚、昼休みに一枚とあいた時間を利用して細字の練習をした。帰宅後は夜十時から二時まで家族に隠れてひたすら書いたという。

 第二回創玄展を皮切りに、第十八回毎日書道展に入選。書家の道を歩み出す。書に打ち込みたいと五十歳で教職を離れ、一年間東京の書道大学に通った。「子どものこと、しゅうとのこと、主人のことが一段落し、これからは自分の人生を生きたいと思いました。書をやった以上は中央に出たいと思ったんです」

 言葉通り、吉沢さんは着実に書の世界で頭角を現していった。昨年は日本の書展、現代女流書展、同国際展に出品。JLC国際交流使節団として渡米し、オグルトープ大学で書の展示、指導など国際的な活躍を見せている。

 東京と弘前を往復し、がむしゃらに書の道を歩んできら秀香さんだが、ここ数年、秀香さんの書は少し趣が変わってきたようい思う。力強さが目立っていた書の中に、静かな落ち着きが感じられるようになった。

 中三弘前店で久しぶりに開いた個展の作品は漢字ばかりにこだわるのではなく、小品を含め多彩な書が並んだ。「楽しんで作品が書けるようになりました。人と競い、がむしゃらにやっていたころの作品と違います。個展の作品は浅虫の海を眺めながら、ゆったりした気持ちで書いたんです」

 着物地を使うなど表装にも凝り、はんの押し方にも心を砕いた繊細な作品が目だつ。「これからは楽しい書、見た人にやすらぎを与えるような書を書いていきたいですね」。昨年は吉沢さんが主宰する鉄心書道会が県展文化振興会議から文化功労賞を受賞した。着々と歩み進める秀香さん。そのパワフルな生き方はテツの名に恥じない。
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