「繭」を出版した 平成15年3月8日掲載
阿部 寿子さん 「阿部家16代目に嫁いで大家族との日々つづる」
 五所川原市の阿部家はその地で「大阿部」と呼ばれ、“おおやけ”として知られている。阿部寿子さん(66)は阿部家十六代目当主育也さん(69)の妻として、阿部の家を守ってきた。

 五所川原市郊外の羽野木沢にある阿部家を訪ねた。およそ一万坪(つぼ)の広さという屋敷の入り口に建つ木造の門を抜けると、庭の向こうに重たげな雪を乗せた家屋敷が見えた。

 何百年という歳月を過ごしてきた庭の木々。重厚な雰囲気の建物。庭にたたずみ、耳を澄ますと屋根雪の滴る音が聞こえて来る。「いらっしゃい」。玄関の戸が開き、真っ赤なセーターを身に着けた寿子さんが笑顔で迎えてくれた。

 いくつもの部屋を通り抜け、通された応接間の窓の外には三角形の岩木山と雪の津軽平野が広がっていた。寿子さんは二十三歳で岩手県大船渡市からこの地に嫁ぎ、この風景を眺めながら四十三年の月日を過ごしてきた。

「結婚して、夫の第一声は『とにかくおれよりも年寄りを大切にして』だったのよ」。笑いながらさらりと言う寿子さん。育也さんのご両親、祖父母、そう祖母、寿子さんのご両親と続くお年寄りとの生活、介護の始まりだった。

 旧家の嫁、主婦、母という役目と同時に、ピアノ教師という自らの才能を生かした仕事もこなした寿子さんの生活は闘いの日々だったに違いない。三十数室あるという部屋の掃除、大家族の食事作り。パチンとスイッチを切り替えて、四十人近い生徒へのピアノの指導。疲れとストレスで帯状ほう疹が出たり、のどにポリープができ、声が出なくなったこともあった。

「夜眠る時間だけ確保して、あとは全部働く時間。夜は倒れ込んで、枕に頭がつかないうちに眠っていました」 寿子さんのモットーはやると決めたからにはぐちらず、にこにこ笑顔で。「介護にしてもあーまたおしもの世話だと思えばいやだから、チックタックチックタックボーンボーンと歌いながら、さあ元気にやろうと自分を暗示にかけるのね」じゅうたんの上にりっぱなウンチが落ちているのを見つけ「なかなかお目にかかれないような芸術品ですね」と切り返したというおちゃめな寿子さんに頭が下がる。

 寿子さんのストレス解消はお掃除。家中の窓ガラスをぴかぴかに磨き上げると、いつの間にか心の中もさっぱりするという。何事からも逃げない姿勢、明るい発想。聡明(そうめい)でちょっと男性的な寿子さんならではの行き方だ。その四十三年の介護の体験と思い出を「繭(まゆ)」という本にまとめた。

 さまざまな体験から紡ぎ出した絹糸のような一冊。表紙には緑の木々に包まれた阿部家の門が柔らかな水彩で描かれている。この家で一緒に過ごしたお年寄りとの日々を、寿子さんは明るいタッチで表現する。

「介護やいろいろな苦境もその人の気持ちの持ち方次第。自分が変われば相手も変わる。それらはお年寄りと暮らすことで学ばせてもらったことです。できたらそれを生かして、少しでも地域のお役に立てれば」強い意志と笑顔でさまざまな出来事を乗り越えて来た寿子さん。帰り際にもう一度振り返ると、阿部家の門が青空を背景に静かに建っていた。

AOMORI「花嵐桜組」リーダー 平成15年4月26日掲載
小野 郁子さん 「YOSAKOIソーラン津軽のパワーを表現」
 高鳴る津軽三味線の音色。津軽塗りをイメージした衣装で華やかに乱舞するAOMORI「花嵐桜組」。「ソイヤ・ソイヤ」の掛け声も勇ましく、ダイナミックな踊りを披露する。チームの先陣を切り、ひときわ華麗な動きを見せるのがリーダーのキャサリンこと小野郁子さん。

 昨年六月、本場札幌大通り公園での「YOSAKOIソーラン祭り」に初出場し、津軽パワーを爆発させた。「津軽らしさを踊り出表現したかった」という小野さん。羽織を脱いで、赤いたすき姿に早変わり。「ラッセラー・ラッセラー」とステージいっぱいに跳ね回る。リズミカルな動きに合わせ、リカちゃん人形のような茶髪が揺れた。

 満開の桜が一斉に散る弘前城をイメージした名を持つ「花嵐桜組」。その顔である小野さんは、普段はジャズダンスやエアロビクスを教え、ヒップホップのダンサーとしてステージに立つ。

 運動神経抜群のスポーツレディーを想像するが、「高校までは部活もしていない目立たないおとなしい子でした。体育は全然だめ。今もたまに町内運動会に誘われても走ったりはだめなんですとお断りしています」と意外な告白。

 十九歳で初めてみたジャズダンスにほれた。公民館のジャズダンス講座に通いだしたのがダンスとの出合いだった。青函博のキャンペーンガールに選ばれたのをきっかけに、人前で踊る楽しさに目覚めた。中学校の購買部などで働きながらエアロビクスのインストラクターの資格を取った。華やかな外見とは異なり、堅実な人だ。

 弘前や青森で教室を持ち、ダンスの指導を行ってきたが、思うところあって米国へ。「指導だけしていて自分は本当に楽しいのかなと思いました。自分を変えたくなりました」踊りは自由なものだと米国で再確認したという。「同時に東京がすべてではない。青森でもできると心が定まりました」踊りを披露する場を求めて、市町村にPRに出向いた。次第に一緒に踊る仲間が増え、女性だけのダンシングチーム「ふわふわシャインMELLOW」が誕生した。

 県の文化観光立県宣言の時には、縄文をテーマに三内丸山遺跡で踊った。和のチームを作りたいと二○○○年の四月、「花嵐桜組」を立ち上げた。平均年齢二十八歳。メンバー六十人。札幌では全国から集まった三百六十チームに交じり、津軽をアピール。バックに扇ねぷたの大きな絵を掲げて喝さいを浴びた。

「今年の大会には津軽じょんから節を持っていきます。津軽と南部藩との戦いを表現し、祖先への感謝の気持ちを込めて踊ります」。アジア冬季競技大会の開・閉会式で熱のこもったダンスを披露した百四十人の子供ダンスチーム。その振り付けと指導を担当するなど活動の場がどんどん広がっている。「踊りしかない。踊ることで自分の存在を確かめているのかな」と小野さん。「ふわふわシャインMELLOW」のキャサリンとして自らの踊りを発信していくつもりだ。

 四十になったら四十歳の、五十になれば五十歳の踊りをつくっていきたいと意気込む。「いくつになっても自分のために踊ってあげたいな」。六十歳のキャサリンが茶髪で乱舞する姿。想像しただけで楽しい。ガンバレ。

「君の力になりたい」の挿絵を描いた 平成15年5月10日掲載
  倉内 美幸さん 「多くの子供たちへ そんな思い込める」
 春の初め、陸奥新報文化部に一冊の本が届いた。「君の力になりたい」。表紙には晴れた日の青空のようなブルーと、卵の中から飛び出したハート。そのハートは白い包帯でぐるぐるに巻かれている。ハートの周りには小さなキラキラの粒が描かれていた。まるでハートがこぼした涙のように。

 本の作者は古市佳央さん。バイクの暴走事故で顔をはじめ全身にやけどを負い、何回もの手術を乗り越え、十五年の月日を経て、傷を負った自分が生きることの意味にたどり着く、厳しい体験と思いをつづった本だ。

 重い内容のストーリーには、四十五枚の挿絵が添えられている。子供たちにも気軽に読んでほしいという配慮からだ。さわやかなタッチの表紙と挿絵を描いたのが本の送り主でもある倉内美幸さん(33)だった。一生懸命さの伝わる挿絵。どんな人が描いたのだろう。倉内さんは二歳と三歳、二人の男の子を育てながら働く女性だった。

「顔や体に傷や障害をもった人に偏見を持たないでほしい、という古市さんの思いを伝えたいと思いました」とさわやかな笑顔を見せる倉内さん。倉内さんが本の挿絵を描くことになったのは不思議な縁だ。

 昨年の十一月末、倉内さんは東京の出版社「北水」が一冊の本の挿絵を描く人を募集していることを新聞で知った。無免許でバイクを運転し、無理な追い越しで事故を起こし、顔も体も心も大きく傷ついた古市さんがさまざまな人と出会い、少しずつ立ち直り、やがて事故を起こす前の自分よりも事故の後の自分を好きになるという実話。「どうしても自分が挿絵を描きたい」と強く思ったという倉内さん。

 十日後に迫った締め切りに向け、応募するための作品を描き始めた。事故を起こした古市さんが炎に焼かれる場面を描いた。表紙用には傷ついた心をイメージしながら、作品を作成した。白いトレーをカッターで切り、割れた卵を表現した。厚紙に布を張り赤く塗ったハートには、本物の包帯を巻いた。背景には布に青いポスターカラーを乗せた。時間がなくなり、作った物をそのまま箱に入れて北水社に送った。

「応募した当時、離婚の調停中で、私自身心も体もずたずたの状態でした。すがるような気持ちで描きました」。その思いが北水社の社長で市浦村出身の片山育子さんの目に留まった。編集スタッフが満場一致で選んだのが倉内さんの作品だった。

 発効日は古市さんが事故を起こした日であり、古市さんが「人生の軌道修正日」とこだわる四月二日と決まった。体調を崩し、点滴を受けながら執筆する古市さんの原稿が届くのを待ち、ラフを描いては出版社にファクス。片山社長から直しが入り、また描くという日々。日中はホームヘルパーの仕事をし、家事を終え、子供たちを寝かし付けてから、夜中に絵を描いていった。

「古市さんの記念日である四月二日に絶対に発行させようと思いました。追い込まれて描いてかえってよかったのかも」とほほえむ倉内さん。「君の力になりたい」はこうして誕生した。「たくさんの子供たちに読んでほしい」というメッセージを発しながら、本屋の店頭に並んでいる。「いつか自分の絵本を出せたら」。倉内さんは今、そんな夢を温め始めている。


賞華園料理人 平成15年5月24日掲載
葛西 百合子さん 「厨房が私のステージ 蝶のように一人舞う」
 弘前市富田三丁目の住宅街にひっそりと、中国料理店賞華園はある。小さな看板がなければ、誰もここがお店だなんて気付かない。百年近くたつという住宅の玄関をくぐると、お座敷が三つ。障子にふすま、床の間と純和風の空間が広がる。

 賞華園の厨房(ちゅうぼう)で中華鍋を振り、素早く台湾料理をこしらえるのが葛西百合子さん(66)。粋できっぷがよくて人情に厚い、江戸っ子といった雰囲気の女性だ。

 綿のTシャツに黒いエプロン、頭にはバンダナを締め、足元は赤い鼻緒のねぷたのぞうり。クラシックバレエで鍛えたスリムな体で厨房の中を蝶(ちょう)のように舞う。

「料理は男の仕事。熱いし、重労働。男にならなきゃやれないって感じ。最初は火を付けるのも怖かったけど、私がやるっきゃないって思ったの。女は度胸」と威勢がいい。

 聖愛中学、高校時代の百合子さんのニックネームはヒマワリ。下級生たちのあこがれの先輩だった。紺のセーラー服姿はきっと、雑誌「それいゆ」に登場する少女のようにかれんで愛らしかったに違いない。今もその面影を残す。

 「小学校時代の男の子がここに来ると、まさかって言うの。高校時代はよく喫茶店のひまわりに出入りしてね。好きでしたよ、ヒマワリの花」。視線をちょっと遠くにやった。百合子さんは両親が決めていた婚約者祐次さん(71)と短大卒業後結婚。祐次さんは実業家で、弘前で初めての飲食ビル「二葉会館」を建て、会館の一階、山道町に面した一角に賞華園を作った。「当時の私はただ食べる人。女性は頼るものだって思っていたの」

 土手町に新しい道路ができることになり、十二年前、賞華園は富田町にある百合子さんの実家に移った。住宅をそのまま生かしてオープン。百合子さんは自ら厨房に立つ決意をし、初代の料理人だった李日昌さんを台湾から呼び寄せ、台湾料理を学んだ。

「どんな苦労もいとわないって思いました。無我夢中。昔通りのメニューが作りたかったの。いざとなると男より女の方が度胸が座るわね。武勇伝もいいとこ」と笑う。数ヶ月で料理をマスターし、厨房に立った。タフな人だ。「父が北海道の漁場を仕切る人だったから、眠っていた気質がフライパンを振ることで目覚めたのかな。この町から出て行きたいと思うこともしょっちゅうありました。でも逃げるよりはここで頑張ろうと思ったの」

 揚げタマネギが独特の風味を添える台湾そば六百円。野菜たっぷりのあんかけ焼きそば六百五十円。ピリ辛味の麻婆豆腐定食八百円。値段はずっと変わっていない。弘大生が山盛りのご飯をお代わりしていく。「学生さんはいいね。お腹をすかせてきてくれる。ごはん何杯でもかおわりはただ」。百合子さんは学生たちのお母さんでもある。

 年中無休の賞華園。一週間に一度、クラシックバレエの練習に通うのが百合子さんの息抜きだ。「少しだけ厨房を離れた空間。とても気持ちがいい。でもね、自分の居場所は厨房だなって思う。きょうとあしたのことしか考えない。なればなったなりにやるだけよ」。穏やかな笑顔だ。百合子さんのステージは厨房。エプロンにバンダナをきりと締めて、きょうもまた一人、ステージに立つ。

健生病院産婦人科病棟主任助産師 平成15年6月14日掲載
 岸 千加子さん 「テーマを持って 何かを残したい」

 お母さんの子宮の中で暮らす赤ちゃんを表した、ふわふわの手作り布人形を持って熱演する岸千加子さん。ショートヘアに満面の笑顔。てきぱきとした動作が気持ちいい。

「早く会いたいな。女の子かな? 男の子かな?」とママの声。「もうすぐだね、ママと会えるのも。とっても楽しみ」。子宮の中の赤ちゃんの声とママを演じ分ける。

「子どもたち一人ひとりが望まれて生まれた命と伝えたい。たくさんの精子の中から、たった一つ選び取られた命だと子どもたちに教えてあげたいですね」

 岸さんは健生病院とあおもり協立病院のバックの下、県連助産師会の仲間三人と一緒に、保育園や幼稚園、小学校で命の大切さを伝えるための性教育を行いたいと準備を進めている。

 岸さんはこれまで助産師として十四年間、命の誕生の場に立ち会ってきた。現場にいたからこそ伝えることができる命の重み。それが千加子さんの強みだ。助産師になったばかりのころに取り上げた赤ちゃんが、ちょうど中学を卒業する年齢になった。「小学校五年生でも妊娠したり、虐待もある大変な世の中。子どもに『セックスって何?』と聞かれた時にきちんと答えることができるお母さんはきっと少ない。子どもたちとお母さんの道案内の役ができればいい」と千加子さん。

 命のルーツを知ることが、自分の命やほかの人の命を大切にすることにつながると千加子さんは考えている。千加子さんは看護師として働いた後、弘前大学医療短大を受験し、助産師専攻科(当時)で勉強した頑張り屋さんだ。健生病院で出会った故野村雪光意志の言葉が今も胸に残る。「ただ八時間働くだけじゃだめだと教えられた。自分の研究テーマを持って、何かを残せと言われました」

 千加子さんが最初に取り組んだテーマは「共有カルテ」。出産から退院まで、お母さんが記した赤ちゃんと自分の記録が院内に残されている。同じものが退院していくお母さんの手にも渡させる。「お父さんにもできるだけ出産に立ち会ってもらい、手記を書いてもらいます。宝物としてきちんとしまっておいて、子どもが大きくなって何かあった時に見せてあげてほしい。母として父として、子どもの生まれる瞬間にどう立ち会ったか分かるはずです」

「誰に似たのかだっこしていないとすぐに泣き出す甘えん坊さん」「抱き上げると私の胸に顔をぴったりくっつけて、すやすやと寝てとてもかわいい」。残された記録からは、それぞれの赤ちゃんへの思いが伝わってくる。

 二年ほど前、千加子さん自身大病をし、生きるって何だろうと立ち止まって考えた。楽しく仕事をする母の姿を見せておこうと、娘の槙乃ちゃん(8)を学会に同伴した。「何でもかんでも手を出してと言われそうだけれど、頑張れるうちはやっていきたい。健やかに産み、育て、働き、健やかに老いる。女性の一生のサイクルにかかわってきたい。性教育もその一つ」と千加子さんは話す。

 手作りの人形を持って笑顔いっぱい。子どもたちの前にデビューする日も近い。

青森県女性のあゆみとくらし研究会メンバー 平成15年6月28日掲載
長谷川 方子さん 「津軽の漁村に生きる 女性の人生聞き書き」
 大正時代から昭和の初期に津軽の漁村に生まれ、家を守り、子を育て、生き抜いてきた女性たちと直接会って話を聞き、「青森県女性のあゆみとくらし研究会」のメンバーとともに「津軽漁村における女性の生活誌」という冊子にまとめた長谷川方子さん(54)。

 青森県史調査研究員、青森市史調査協力員など堅い肩書きを持つが、物腰の柔らかな優しい笑顔の女性だ。「男性の調査員だと緊張して話せないことも、私だと安心して話してくれることもある。お産のときに亡くなった子供への悲しみなど、できるだけ気持ちをくみ取るようにしたいと聞き取りしてきました」

 A4サイズの冊子を開くと、昭和三十年代の小泊村のモノクロ写真が目に飛び込んでくる。もんぺ姿でしょいこを背負う女性。捕った魚を一心に網から外す女性たち。イカを裂き、洗って干す。するめを十枚ずつ束ねる。それらはすべて女性たちの仕事だった。

 ページを繰ると、大正、昭和という厳しい時代を生き抜いた、漁村の女性たちの姿が浮かび上がってくる。小泊村、市浦村、岩崎村、蟹田町と三年をかけて漁村を回り、三十人ほどの女性から話を聞いた。子供のころの話、家業の手伝い、奉公に出たこと、結婚式の様子、料理、婚家での暮らし、出産、産後、しゅうとめのこと、育児、葬祭、現在の暮らし。あらゆることについて事細かに聞き書きをしている。

 おばあさんたちに大変でしたねと聞くと、「みんな同じだったから」という答えが返ってきたという。「家族のメンバーにそれぞれ役割があり、家の仕事を支えていた。女性たち自身、やり抜くことに誇りを持ち、労働の中に喜びを見いだしていたように思う」と当時の女性たちの生き方に尊敬の思いを抱く。

 方子さんは東京育ち。年配の女性の話す津軽弁は分かるのんは と聞かれることも多い。そんな時は事前の下調べがものをいう。調査に出発する前に土地の言葉、風習など民足敵な勉強は欠かせない。聞き書きのノウハウは学生時代、都立大社会学科で学んだ社会人類学のフィールドワークで培ったものだ。

 学生時代、沖縄に二週間住み込み、自炊しながら人々の親族関係、信仰、祭りなどを調査した経験がある。結婚し、夫の仕事の関係で弘前に住むことになって二十五年。一九九六年から青森県史の調査研究員として活動を始めた。

「外から来た人間だから違いが分かる。誰にも言えないことでも、外から来た人間だから気軽に話してくれることもあるんじゃないかしら」。調査に行き、話を聞いていると、女性たちの頑張り、生きがい、喜び、悲しみが伝わってくる。方子さん自身の人生や生活と重なることもあるのだろう。

 今後は会として津軽の漁村と全国の漁村との比較、県内の日本海側と太平洋側との比較、個人としては現代と比較しながら、生活することの持つ意味について調べていきたいと考えている。

「聞き書きした女性たちから学ぶことは多い。生き方はいろいろあっていいんだと思います」と方子さん。津軽の先輩女性の人生を聞き取りしながら、自分自身の生き方を模索していきたいと考えている。


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