津軽三味線奏者 平成16年4月10日掲載
村冨 満世さん 「原点は津軽の桜 風景を思い演奏」
 一九九五年の五月。母から借金して購入した練習用の三味線一本を携え、大阪発寝台特急日本海に乗り込んだ。

 弘前では満開の桜が出迎えてくれた。その時見た津軽の桜が、村冨満世さん(32)の原風景だ。降りしきる雪。豊かに広がる津軽平野。津軽の風景を思いながら、「山唄」と「津軽藩ねぷた村」で三味線を弾く。力強い弾きっぷりに聴衆から拍手が起こる。

 昨年五月、弘前市民会館で開かれた津軽三味線全国大会女子部門で王座に就いた。三味線を始めてから十年目の快挙。「寝台車に乗って弘前にやってきた時の気持ちに、やっと戻ることができました」

 村冨さんは志功の描く女人をほうふつとさせるが、大阪女。学校を卒業後、地元で幼稚園の保育士をしていた。母に誘われて行ったコンサートで三味線にはまった。初めて聴いた津軽三味線の迫力。芸者さんがつまびく音色を想像していた満世さんは、淡い音色から激しい音まで多彩な音を創り出す津軽三味線の世界に魅せられ、すぐに弾いてみたいと思った。

 公民館の三味線教室に通い始めた満世さんは一年後、「もっと勉強したい」と弘前行きを決意。保育士を辞めた満世さんに、父は烈火のごとく怒った。「今さら芸人になってどうする、勘当だ、勝手にしろと言われました」と振り返る。

 内弟子になった山田千里さんの前で満世さんは三味線を弾いた。「あぁ分かった分かった」という顔をし、師匠は何も言わなかった。大阪では楽譜どおりに弾いていた光世さんにとって、三味線の即興演奏は驚きだった。店の手伝いをしながら、音色や旋律を耳で盗んだ。数ヵ月後、店の舞台に立った満世さんを温かい拍手が迎えた。「がんばれ、がんばりやーというお客さんの励ましが、今でも一番ありがたいですね」

 九五年から大会に挑戦。おなご三味線といわれなように、初めは力任せに弾いていた。「力で男に負けたくないと思いました。今は男に人に出せない音を出そうと思っています。切ない音、微妙な心境、経験した時間が創り出す音を出したいですね」

 九八年に独立。大阪に帰りプロとして演奏活動を始めた。大会には毎年出場してきたが、順位は下がるばかり。納得のいかない満世さんに、師匠は「都会の音になった」とぽつり。知らず知らずのうちにテクニックに走り、観客の喜ぶ音を出していた自分に気がついた。「津軽にいた時の気持ちを思い出せ」と言われた満世さんは、再び津軽に舞い戻った。岩木山神社の近くに家を借り、籠もって練習した。津軽の遠さを改めて実感した時、うまく弾こうという気持ちを捨てることができたという。

 チャンピオンとなった後は拠点を弘前に移し、関西を中心にコンサート活動を行っている。「弘前は勉強の場。王座を取ったこれからがスタート」とほほ笑む満世さん。これから恋をし、結婚もし、子どもを育てていきたいと考えている。人生の変化の中で、三味線の音がどう変わっていくのか、自分でも楽しみにしている。

弘前石川流やまぶき会 平成16年4月17日掲載
「手踊りを守り伝えて 強まる家族のきずな」

倉内 早苗さん   水口 勝江さん   石川 真紀子さん

 三人の共通点は明るく、元気で、頑張り屋なところ。石川真紀子さん(49)が三味線を弾き、母水口勝江さん(76)が太鼓をたたき、娘の倉内早苗さん(25)が張りのある声を披露する。今は仙台に暮らす二女の静香さん(23)、長男の寿孝さん(20)も加わり、津軽手踊り「弘前石川流やまぶき会」を支える。

 青森県手踊り名人決定戦、黒石よされ組踊り大会、県ちびっこ手踊り王座決定戦など多くの大会で優勝を重ねてきた。昨年は子供の弟子たちを連れ、ロシア公演を行い大成功を収めている。会主である真紀子さんの「ぎりっとかかれっ」の掛け声で、会全体がびしっと引き締まる。

 今では押しも押されもせぬ社中となったが、三十年ほど前、勝江さんが趣味で始めた民謡がスタートだった。教室で太鼓と民謡を習った勝江さんは、高校生だった真紀子さんに手踊りを勧めた。真紀子さんは近所に小原節の踊りがうまい人がいると聞けばそこで小原節を習い、津軽あいや節が上手と聞けばそこに行き、手踊りを覚えていった。勝江さんが民謡を歌い、真紀子さんが踊り、老人ホームの慰問を始めた。

 「お前たち、どこの踊りっ子だと聞かれるようになり、きちんとした師匠がいないといけないなと思い、母と二人で青森市の石川義衛宗家を訪ねたのが会の始まりです」と真紀子さんは話す。今まで覚えた踊りを全部捨てるなら教える−と言われた真紀子さんは新たな出発を決意。弘大医学部付属看護学校で学ぶ傍ら、手踊りに熱中した。

 足さばき、間の取り方にめりはりがあり、はぎれのいいのが石川流の手踊りだ。「やると決めたらむたむたとやる性格」の言葉通り、真紀子さんは一九七五年に弘前石川流やまぶき会を発足。弘大付属病院で看護師として働きながら、三味線を弾き、踊ってきた。

 「好きも嫌いもなく、気付いたらもう歌ったり踊ったりしていましたね」と話すのは早苗さん。初舞台は四歳の時。小学校四年で県民謡王座決定戦子供の部で「津軽あいや節」を歌い優勝。「民謡はなんぼ練習しても駄目な人は駄目。生まれついて持っているものがあった」と勝江さんは太鼓判を押す。幼い頃から勝江さんと一緒に歌い手を務めてきた早苗さんは、この春東北大大学院を修了。青森公立大で英語を教える傍ら、自ら踊り、歌う。

 八八年に看護師を辞めた真紀子さんは現在、自宅やNHK弘前文化センターなどで教室を開く。「かあさん」と皆に慕われる勝江さんと二人で、四歳から七十代まで九十人ほどを指導している。

 依頼があれば社中そろってどこへでも演奏に行く。礼儀正しく愛らしい子供たちの踊りはどこへ行っても評判だ。「同じものを踊っても決して飽きない」と早苗さん。「子供たちに教えるのが生きがい」と勝江さん。「石川流の踊りを守り伝えていきたい」と真紀子さん。民謡、手踊りを通じて出来上がった家族のきずなは太くたくましい。
会席料理「草庵つくし」を開く 平成16年5月15日掲載
  木村 ヨシさん 「懐かしく温かい情景 愛らしい人形で表現」
 いろり端でくつろぐおじいちゃん。鼻眼鏡を掛け、縫い物をするおばあちゃん。赤ん坊に乳を含ませる幸せそうなお母さん。かつてあった懐かしい情景がふくよかな人形で表現されている。

「昭和の家族の姿を人形にして残したい。今はもうなくなってしまった光景ですね」。木村ヨシさん(65)が営む「草庵つくし」にはヨシさんが作った人形たちがそこここに密かれ、温かい雰囲気でお客様を迎えてくれる。

 畑仕事の合間に一休みするもんぺ姿のあば。振袖を着て嫁いでゆくお嫁さんと送りばさま。「この花嫁さんは自分の結婚式を思い出しながら作ったの」とほほ笑むヨシさん。 古い刺し子を生かした胴着をはおり、耳にはハイカラなピアス。「なんも世間の目は気にしない。やりたいことをやっていく」と話すヨシさんはなかなかの苦労人だ。

 七人兄姉の末っ子として生れた。母は葦原のヨシのように、切られても切られても強く生きてほしいとヨシと名付けた。学校を出た後、女も手に職をと和裁、洋裁を学んだ。十八歳で農家の四男に嫁し、リンゴと畑を手伝う傍ら、和裁と洋裁の腕を生かして家計を支えた。次々と職を変えた夫に代わり、保険会社に勤めたのは三十歳の時だ。バイタリティーあふれるヨシさんは常にトップの営業成漬を収めた。

 「和裁をやめて、始めた会社勤め。辞めればほれ見たことかと言われるでしょ。後ろ指をさされないようにと頑張りましたね」六十歳まで全力疾走をして退職。さてこれから何をやろうかと考えた時、好きな料理をみんなに食べてもらいたいと思ったという。自宅を使って草庵つくしを開いたのが三年前の春だった。

 献立を考え、材料を買出しにゆき、料理を作る。あねご肌で豪胆な雰囲気だが、出来上がった料理からはヨシさんの温かな人柄が感じられる。心を尽くし、人に尽くすのがモットー。だからお客様は一日一組だけ。「板前兼おかみ兼仲居兼掃除婦。楽しく料理を作り、来てくれた人に楽しんでもらえたらいい」とヨシさん。

 料理を食べに来た人に見てもらいたいと同時に人形作りも始めた。得意な針仕事が生きる。会社勤めの間に集めた古い布や着物を生かし、人形たちに着せる。ヨシさんの部屋にあるイタリアのおしゃれなアンティーク家具には、ぎっしりと古い布たちがしまわれ、出番を待っている。

 「お母さんの肩をたたいている人形、これは私。おっぱいをあげているのも私」。人形を見ながら楽しそうに話すヨシさん。これからむしろを編む人形を作る予定だという。「人形をいっぱい作って、ここを人形の館にできたらいいな」。さまざまな思いが込められたヨシさんの人形たちは、今にも動き出しそうな気配だった。

書 家 平成16年6月5日掲載
工藤 久美子さん 「ボルドーで初個展 書の世界性を実感」
 フランスのボルドーといえばワインの名産地。ボルドーの街で四月十五日から三十日まで、書の初個展を開いた女性がいる。「黒い髪、こじんまりした鼻、細い目がフランス人にとってはあこがれ。神秘的な美人と言われたのが一番の収穫かな」と笑顔を見せるのは工藤久美子さん(54)。隻葉(そうよう)の雅号を持ち、東工業高校、弘前高校、尾上総合高校で書の指導を行っている。

 ボルドーの街はパリから新幹線で三時間。日本の大阪、名古屋に匹敵する都会で、水道などローマ帝国時代の遺跡が点在している。街の周辺には広大なブドウ畑が広がり、ボルドー大学を有する学都でもある。

 久美子さんの個展は、弘前大学に在学する娘の知絵さん(21)が姉妹校のボルドー大学に留学したことから実現した。個展を開くならば、美術展の企画などアートマネージメントも勉強している知絵さんに企画を任せたいと久美子さんは考えていた。ボルドー大学に留学が決まった時、「初個展はボルドーで」という夢が久美子さんの胸に沸き上がった。

 昨年の十月、知絵さんが留学してから久美子さんは個展に向けて作品を書き始めた。フランス人が見て楽しめるようにと、甲骨文字や近代詩文、一字書などさまざまな作品を仕上げ、知絵さんに送った。

 作品を持って知絵さんはボルドー市内を歩き回り、文化人の集まる古い大きな書店を展覧会場に決めた。四月の初めに渡仏した久美子さんは会場の雰囲気に合わせておしゃれな額を選び、作品を展示していった。甲骨文字で書かれた馬や星、行書体で象現された無数の蝶々が紙の上で飛び跳ねる。作品の下にはフランス語でパピヨン、パピヨン、パピヨンなど訳を付けた。

 作品展のタイトルは「一人を楽しむ」。昨年秋、三十五年開所属した書道グループから独り立ちした。その前年、大病を軽験した久美子さんは命の極限を意識し、これからは自由に好きなことをやろうと心を決めたのだった。「会を離れ、これからはどう書いてもいいんだと思った時、一人を楽しむというタイトルが浮かんできました」

 フランスでの個展は、久美子さんに書の世界性を実感させてくれた。二十一歳で近代詩文書の父と呼ばれる書家金子鴎亭氏の自宅に内弟子として住み込んだ久美子さんに、金子さんは書の世界性を語ったという。「文字は絵から始まり、いつかまた絵に近いものとなって世界中が同じ文字を使うようになる。そうすれば紛争はなくなるというのが先生の考え方でした。それはヨーロッパのユーロに通じるものだと気付きました」

 書道展を見てくれたフランス人たちの温かい反応も心に残った。異文化を受け入れようという温かい視線を感じたという。ボルドー大学で日本文化を学ぶ学生に書の授業も行い、スペイン人、タイ人、中国人などたくさんの友人もできた。

 来年はボルドーで二回目の個展を開きたいと考えている。「言葉を越えて世界の人に伝わるような作品、絵と文字の境目のないような作品を書きたい」と話す久美子さん。ボルドーで近代詩文の伝道者になれたらいいと思っている。

マリンバ奏者 平成16年6月12日掲載
 対馬 文子さん 「万感の思いを込め リサイタルに臨む」

 チャレンジャーを自認する。経歴がものをいう苦楽の世界では異端児といっていい。対馬文子さん(34)は十八日午後七時から、弘前文化センターホールで初の大きなマリンバリサイタルを開く。長年の夢だったベートーベンの「クロイツェルソナタ」に挑戦する。共演者は弘前大学教授の浅野清さん。

 「ピアノ伴奏ではなくマリンバとピアノがそれぞれに自己主張する。戦争みたいなものですよ」と話す浅野さんの言葉に、静かにうなずく対馬さん。コンサートに向け、最後の仕上げを行う練習場を訪ねた。

 ころころと弾むマリンバの音色。木が響き合う優しさ。それを支える豊かなピアノの調べ。マリンバとピアノが絡み合い、主張し合い、闘い、溶け合う。リズムを刻みながら、体全体でマリンバをたたく対馬さん。マリンバに向き合う対馬さんの表情は素直だ。

 「私はお菓子を選ぶにも時間がかかるタイプ。これが好きと言えずに人と合わせてみたり。最近やっとこれが好きと言えるようになりました」と話す。リサイタルまでの道のりも長く遠かった。対馬さんがマリンバと出合ったのは十七歳。ブラスバンド部で打楽器を担当していた対馬さんに、弘前市の打楽器グループから声が掛かりマリンバを演奏したのがきっかけだった。

 弘前市民会館ホールで聴いたマリンバ奏者安倍圭子さんの演奏が対馬さんを魅了した。「こんな演奏ができるんだ。木琴じゃない、これがマリンバだと思いました」。以来働きながら、演奏活動に加わってきた。二十歳で日本音楽振興会が主催するコンクールに挑戦。だが一次で落ちた。「これでいいのか」。もんもんとしながらも演奏する日々が続いた。

 二十五歳でデンマークの音楽大学で半年間小太鼓とマリンバを学ぶ機会を得た。ばちの持ち方、競奏者としての心構えなど基本から救わった。「打楽器はたたけば音が出る。でも目先のテクニックではなく演奏する心の大切さを教えられました」

 一九九六年、ドイツで開かれた第一回マリンバコンクールにチャレンジ。成績は全く振るわなかった。「もう弾けない」と半泣きで帰国。それでも立ち直る早さが対馬さんの長所だ。数ヵ月後には弘前と青森で小さなリサイタルを開催した。だが緊張して思うように弾けなかった。作品は聴衆に育てられていくと実感した対馬さんは、九九年から藤田記念庭園洋館で無料のコンサートを開くようになった。

 最初は数人だった聴衆が回を重ねるごとに増えていった。二〇〇一年、世界マリンバフェスティバル主催のコンクールで見事二位を受賞。大きな自信となった。「音大出身でなくても大丈夫なんだとうれしかったんです」と素直な言葉をもらす。

 昨年の夏、リサイタルを決意した。「浅野さんとの共演は夢のよう」と話す。じっくり考えて曲目を決めた。一曲目のパガニーニ「ラ・カンパネラ」は自分への挑戦。二曲目は尊敬する安倍圭子さんの曲「六本撥による五木の幻想」。バッハの「シャコンヌ」はこれまで応援してくれた人たちへの感謝の思いを込めて。最後は「クロイツェルソナタ」。「ただ一生懸命にやるだけ。みんなの力を借りて演奏させてもらえることに感謝します」と話す対馬さん。万感の思いを込めて、リサイタルに臨む。

パソコン・インストラクター 平成16年7月10日掲載
神尾 文枝さん 「ITの楽しさ伝え そっと背中を押す」
 毎週火曜と土曜の二日間、弘前市のヨークカルチャーセンターでパソコンのレッスンを行っている。
 メールを打ちたい、インターネットをしたい、カレンダーや名刺が作りたい。パソコンで何がしたいのか尋ね、受講生のレベルに合わせてパソコンの楽しさを伝える。神尾文枝さん(42)は頼もしいパソコンの道案内人だ。

 受講生の脇に腰を下ろし、受講生と同じ目線で話をする。「ちょっと文字が大きいかな。文字も私ぐらいにスマートにしようね」と話し、人懐こい笑顔を向ける。ワードを使ってごみの収集表を作ったり、デジカメで撮影した写真を使ったはがき作り、地図や旅行の案内文を作成したり。受講生の要望にぴたりと合ったカリキュラムを個別に作り上げる。「パソコンユーザー応援隊。パソコンを使っている人を元気にするのが私の役目です」。

 文枝さん自身三十歳を過ぎてからITと出合い、自らの人生を切り開いてきた。 文枝さんは二十九歳まで東京でOLをしていた。「都会の暮らしに疲れを感じ、何か資格を持ちたいと思いました。私はこれができますという人間になりたかったんです」と文枝さん。何をしたらいいのか考えようと、東京から故郷盛岡に帰った。

 車の免許を取り、ハローワークに通うと「嫁っこに行かないのか」と言われ、悔しい思いもした。「これからはITの時代。パソコンの学校に行ったらいい」と勧められ、アルバイトをしながら夜間のパソコンスクールに通ったのが人生の再スタートだった。

 電源の入れ方から学んだ。入力が遅く、自信を失いかけた文枝さんに、「あなたはやればできる人」と誉めてくれた先生のひと言が忘れられない。人は何かを始めることで元気になれる。誰かにそっと背中を押してもらうことで、新しい一歩が踏み出せる。あの先生のようになりたい−。そう考えた文枝さんは、自らインストラクターとなった。盛岡、仙台で企業や生徒にパソコンを教えていたが、結婚後、夫と共に青森にやって来た。

 県の女性就業援助センターで女性の再就職をサポートするため、パソコンを教えたこともある。「技術を身につけて、自信を持った女性は顔が輝いてくる。その笑顔を見るのが一番の幸せですね」お年寄りや障害者にもパソコンの面白さを伝えたいと考え、青森県のNPO第一号の承認を受けた「あおもりNPOサポートセンター」のスタッフとして、二年前にITバリアフリー教室を立ち上げた。

 高齢者や障害者にパソコンを教えるIT教師を育てるのが文枝さんの担当だ。「楽しかった。あしたも来るよと言ってもらえればしめたもの。知識や技術を教えるのではなく、楽しさを伝えることができる先生を育てたい」と文枝さんは考えている。

 弘前市の上土手スクエアで月・水・金に開かれている「初心者講座」でパソコンを教えているのは、文枝さんの「楽しさを伝えたい」という思いを受け継いだIT教師たちだ。朝から晩までスケジュールがびっしりだが、「人と接するのが何より楽しい。これからも人を元気にする仕事を続けたい」と文枝さん。常に新しいことに挑戦する心意気は今も変わらない。
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