弘前で教室を開く
江戸芸かっぽれ師範
平成16年11月13日掲載
櫻川 后燕さん 「江戸の粋伝えて 観客を楽します」
 弘前文化センターフェスティバルの最終日。舞台の緞帳(どんちょう)が開いた。チリテツチリテツチントンシャン。軽妙なお囃子(はやし)と「アかっぽれかっぽれ」「ちょいな」「こらさ」の明るい掛け声に乗り、登場した陽気な面々。

 「やっこさんだよ」。「へーやっこさん、どちらーゆーく。ハーこりゃこりゃ」。粋でひょうきんな踊りを披露し、喝さいを浴びたのは江戸芸かっぽれのメンバーたち。フェスティバルのとりを飾った。

 一団を取り仕切るのが中央で踊る櫻川后燕さん。梅后流江戸芸かっぽれの師範だ。

 元は仕出屋の女将(おかみ)。「結婚を卒業してね、何をやろうかと考えて老人介護の仕事についたの。車いすのお年寄りでも楽しめるものを伝えたいと始めたのが江戸芸かっぽれ」。竹を割ったような性格。江戸の粋をそのまま体現している。

 ステージ前日、練習風景をのぞきに行った。「気張らない。私みたいに楽しくやる!」「頭で覚えない。体で覚える!」。てきぱきとした言葉が飛んでくる。
 「てやんでい江戸っ子だい」といった雰囲気だが、仙台人。月に一度、弘前、八戸で教室を開いている。かっぽれは声を出し、きびきびと踊る。見ているとつられて体を動かしたくなる、心弾む踊りだ。

 もともとは江戸の文化文政時代、大道芸として発祥した。その後はお座敷芸としてたいこ持ち(ほうかん)によって伝えられてきた。ひっそりお茶屋に通う坊さんの様子をコミカルに演じる「風流深川節」。きぬぎぬの別れの後の姉さんの姿をつやっぽく表現するなど、江戸の庶民の暮らしが織り込まれている。

 目線を低くして踊り、座敷に座っている人と目と目を合わせ、対話しながら踊るのがみそ。一見簡単そうに見えるが、シンプルに見せるのが難しいという。「かっぽれはお客様に見ていただき、ほっと力を抜いてもらう踊り。お座敷芸とはそういうもの」と后燕さんは歯切れがいい。ステテコに男仕立ての浴衣を羽織り、豆絞りに赤いたすき。小道具なしの体一つで踊り切る。

 「何の道具もないから顔で見せる」の言葉通り、ひょうきんな表情、しっとりした雰囲気など顔と体で豊かに表現していく。「舞台で踊っていると、見ているお客さんの顔がどんどん明るくなっていく。それを見るのが何よりうれしい」という后燕さん。弘前文化センターのステージでも、観客たちがみるみるうちに引き込まれ、笑顔になるのが分かった。

 「こんな時代、みんなが元気になってくれるのが一番。声を出しながらストレス解消にもいいわよ」と不二家のペコちゃんみたいな表情を見せた。「すたこらせ!」「こらさ」「ちょいな」「ハーこりゃこりゃ」。体がむずむず動き出す。粋な江戸芸かっぽれ。引き込まれ、魅せられ、ほれた。


墨彩画を描く 平成16年11月20日掲載
加藤 典子さん 「故郷離れ良さを確認 絵介し人と触れ合う」
 ふっくらとまあるい桃。ごつんとした黄色いリンゴの絵に「きょうも一日おつかれさまでした」の言葉が添えられている。

 十月の末、鯵ヶ沢町にある日本海拠点館で開かれた加藤典子さん(28)の個展には、岩木山とリンゴ、愛らしいウサギの「うっさ」などおおらかな線で描かれた墨彩画が並んだ。

 典子さんは昨年の五月、鯵ヶ沢町の自宅に「でざいんおふぃすNORIKO」を立ち上げた。鯵ヶ沢町の高台に建つ市民風車「わんず」のユニークなロゴデザインをはじめ、お菓子のシールのデザイン、室内装飾などを手掛けている。「宣伝していない割に仕事はぽつぽつきますね」とマイペース。

 自分でも何でここで仕事をしているのか、なぜ今ここにいるのかも不思議という表情。それもそのはず、二十歳で米国に出国し、いったんは飛び出した故郷だからだ。

 短大卒業後、もっと英語の勉強がしたいと米国に渡った。シアトルによるコミュニティ・カレッジに留学中、絵手紙と出合った。「自由な表現が性格にぴたりと合った」という典子さんは型にはめられるのが大の苦手。幼い頃からなじんでいた墨とカラフルな顔彩を使い、伸び伸びと好きに描ける絵手紙は、異国の地で孤軍奮戦する典子さん自身の慰めともなったようだ。

 日本人の二世、三世がたくさん住むシアトルで開かれた「日本祭り」の会場で絵手紙のデモンストレーションを行ったところ、作品を見た人から勧められ、ニューヨークで個展を開くことになった。事の成り行きに一番驚いたのが典子さん自身だったに違いない。

 「米国だからできたんだと思う。大げさに考えずできることをやろう、一人でも私の絵が好きだという人がいてくれるなら、描きたいなと」二年前、一時帰国のつもりで帰郷した鰺ヶ沢でも、請われて墨彩画展を開いた。会場を訪れてくれた人とのさまざまな出会い。帰郷中、それまで気付かなかった故郷の魅力にも出合った。鰺ヶ沢の自然、水、津軽弁、米。すべてが新鮮だった。

 「当たり前だと思っていたことが素晴らしいものだと身にしみた。離れて初めて、故郷の良さがわかりました」と苦笑する典子さん。両親の反対を押し切って行った米国での生活が教えてくれたのは、皮肉にも故郷の良さだった。「自分が一番あずましい所。自分が自分らしくいられる場所が鰺ヶ沢」と語る典子さんにとって、人と触れ合うツールが「絵」だと考えている。

 今年の春からは「子どものあそび場・体験活動コーディネーター」として、鯵ヶ沢の子どもたちとともに楽しむ企画をコーディネートする仕事も始めた。子どもたちとキャンプをしたり、お菓子を作ったり。自分の世界がどんどん広がっていくのが楽しい。

 個展は日本海拠点館ギャラリー支援事業の一環として開いた。「個展を開けばいろいろな人に出会える。もっともっと鰺ヶ沢のことを皆に知ってほしい」と考えている。個展開催に合わせ、自分でデザインした「恋姫」をラベルにした町内限定発売の日本酒「吟醸あじがさわ美人」まで造ってしまったノリのいい典子さん。「飲みたい人は鰺ヶ沢に遊びに来てね」。これからも自分が楽しいと思うことを積み重ねていくつもりだ。


パッチワーク・モラ作家 平成16年11月27日掲載
  岩崎 智杜子さん 「モラの文様に魅かれ パナマの自然を再現」
 待ち合わせの喫茶店に現れたパッチワーク作家岩崎智杜子さん(67)の華やかなコートに目がくぎ付けになった。黒地に赤、オレンジ、青、緑などの原色が不可思議な文様を作り出している。

 これが「モラ」。響きまでもがエキゾチックなこの手芸は、中米パナマのサンブラス諸島などに住む先住民クナ族の女性の民族衣装がはじまり。智杜子さんは二十年ほど前にモラと出会い、生命力あふれるモラの色とデザインに魅せられた。

 「モラは一時間でほんの少ししかできないの。パッチワークが十針ならモラはたった一針」。気長な人でなければできそうにない。「私はすごくせっかち。次の模様が早く見たいから前へ前へと針を進めてきたの」。

 最初は本を見ながら我流で。土台になる布の上に図案を描いた布を重ねたり、布をくり抜き、布端を織り込んでまつり縫いをしていく。何枚も何枚も布を重ねることで、華やかで力強い文様が生まれる。東京に教室があると知った智杜子さんは「宮崎ツヤ子モラ研究所」に通い、現地も見たいと十五年ほど前にはサンブラス諸島まで出掛けた。

 サンブラス諸島は自然のままの島だ。お風呂もトイレも電気も水もない。「現地の女性は起きたいときに起き、眠たいときにハンモックで寝る。気が向いたときにはモラをし、かかあ天下で女性天国」ときれいな笑顔を見せる

 智杜子さんは手先がとても器用。母親から「これからの女性は手に職を持った方がいい」と言われ、美容師の道を選んだ。美容学校に通い、インターンの地に選んだのが弘前だった。「天間林村で育ったから、弘前に来たことがなかったの。弘前に来たくてこの地を選びました」。その後東京で美容師となった智杜子さんだが、インターン中に知り合った男性と長い長い文通を経て結婚。あこがれの地弘前に嫁いで来た。

 「丑年生まれだからじょっぱりよ」と笑う智杜子さんは、思い込んだらやり通さなければ気が済まない性分。パッチワークとの出会いもそう。四十年ぐらい前、婦人雑誌で見かけたパッチワークがひと目で気に入り、「これは何?」と出版社に電話を入れた積極派だ。

 当時はまだ日本でパッチワークが紹介されていない時代だった。その後ヴォーグ社がパッチワークの教室を開いたと聞きつけ、早速通信講座を受け始めた。「何せ実物を見たことがないんだもの。教科書を見ながら必死でやりました」

 子どもが通うバザーに作品を出品したところ、「これは何?」「教えて欲しい」の声が起こり、教室を開いたのが智杜子さんの転機だった。以来現在まで途切れることなくパッチワークとモラを教え続けている。

 今年もパッチワークとモラの教室展を二十九日から十二月一日まで、弘前のNHKギャラリーで開催する。智杜子さんとメンバー二十五人が百点ほど出品する。もちろんモラの大作も並ぶ。月や星、虹やカメ、花や木の葉などクナ族伝統の文様が楽しい。智杜子さんは現地で見たモラの伝統模様を大切にしようと考えている。

 手に職を持って−という母言葉通り、その器用な指先を最大限に生かし人生を送ってきた智杜子さん。おしゃれな銀髪にパナマの太陽を思わせるモラの色彩が映えていた。


挿絵作家 平成17年2月5日掲載
和田 和歌子さん 「絵を描く楽しさ喜び 子どもたちに伝えたい」
 絵本を出すのが長年の夢だった。去年の秋、夢が半分かなった。描いた絵が、藤崎町出身の作家福田健雄さんの童話「かおりとリンゴのほっぺたちゃん」の表紙と挿絵になったのだ。

 和田和歌子さん(34)は、永遠の少女のような人。「写真撮りますよ」と声を掛けると、「かおりちゃんと同じように」。お茶目な表情でカメラに収まった。
 挿絵を描くため、津軽のリンゴ園に幾度となく足を運んだ。花盛りのリンゴ園。実すぐり、袋掛け。台風の大風に揺れるリンゴ。収穫風景。和歌子さんの指先からリンゴ園の四季がつむぎ出されていった。

 ほんわかした性格のようだ。「弘前高校受験して、二回落ちているんですよ。希少価値でしょ。半分誇らしく半分複雑な気分」と自分で言って爆笑する。

 聖愛高校時代は絵にかいたような優等生だった。「もう二回落ちてますから、ぎりぎり危ない橋渡るの嫌ですから」。特別進学コースの一期生として、朝から晩まで勉強という生活。その中で唯一の楽しみが絵を描くことだった。

 「この絵はとてもへたくそですが、描きたいものが描かれているとてもいい絵です」。中学時代に出会った美術教諭秋田豊さんのひと言が和歌子さんを絵の道に向かわせた。

 弘大教育学部美術科では、村上善男さんの構成研究室で名刺やポスターのデザイン、イラストやほんの装丁などを学び、卒業制作では絵本を出版した。

 「たからもの」。繊細なタッチのペン画に短い言葉が添えられている。孤独な青年が球根とおしゃべりを続けるうちに、球根の妖精が現れてほのかな恋が始まる。読み終えるとぽっと心が暖かくなる。不思議な絵本だ。

 そのまま絵本作家を目指すかと思われたが、卒業と同時に結婚。出産、子育ての傍ら、本の装丁や挿絵を手掛けてきた。一人息子の達也君(9)が小学校に入学すると同時に和歌子さんも弘大大学院修士課程に入学。友人と二人展を開き、水彩で描いた手作り絵本が、会場を訪れた人の心に小さな明かりをともした。

 自宅では「スタジオpipin(ピピン)」を開き、子どもたちに絵の楽しさを教えている。ピピンとは英国のリンゴの種類だという。「小さな子にはクレヨンや絵の具で自由になぐり描きしてもらいます。自分の手で表現してみることは子どもにとってとても大事なこと。小さい時に自由に色や形と出合ってほしいですね」。

 教室の終わりには子どもたちと一緒におやつを食べる。息を吸ったり食べたりするのと同じように絵を描いてほしい。絵を描く楽しさを子どもたちと分かち合いたいと和歌子さんは考えている。

 ふんわりまあるい和歌子さんはまるでリンゴのよう。ペパーミントグリーンの愛車スパシオの車体では、和歌子さんが描いた真赤なリンゴが笑っていた。
 暖かくなったら「おかりとリンゴのほっぺたちゃん」の原画展を開こう。和歌子さんはそう心に決めている。


「北奥気圏」を主宰する 平成17年2月19日掲載
 船越 素子さん 「父の精神受け継ぎ 地域から文化発信」

 「高校時代? 死にたがりの不良少女でしたよ」と煙に巻く。同人誌「北奥気圏」を主宰する船越素子さん(54)。才媛という呼び名がぴたりとはまる。
 弘前高校時代、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹の評論を読んでいて、「生命エネルギーが少ないから研究していないと死んでしまうんだ」の一文に出合い、はたと悟った。私も生命エネルギーが少ないから、何かをしていないと死んでしまう。では何をすればいいのか。分からずもがいていた。

 父親は地方紙の「鬼の編集局長」だった。「血の気の多い人で家の中で皿は飛び交う、障子は破れる」と強烈な子供時代を振り返る。高校時代は父に連れられ、繁華街の飲み屋に通ったこともある。「精神の貴族であれ」。それが父の口癖だった。

 酔っ払うと会社の人を家に連れて来て「津軽の灯台になれ、ここのために何かをしろ」と熱く語る父を見て、「母一人幸せにできず何が津軽の灯台だ」。疾風怒濤の少女時代だった。

 ひたすら津軽を出たかった高校時代。「ここにいてもつまらない日常に押しつぶされる」。東京に出たい。その一心で受験勉強し、上京。東京女子大では社会学を学び、フランス現代思想という難物に取り組んだ。舞台女優になりたいと戯曲研究会の舞台に立ったこともある。でも何だか違う。東京で探しものを見つけることはできなかった。

 帰りを待つ母の姿を思い、故郷で高校の教師となった。専門は倫理学。結婚。子育て。教える傍ら弘前大学の大学院に通い、中江兆民について研究。「詩人」としても知られている。満ち足りた人生。

 五十歳を越えた時、やり残した宿題をしなければと切実に思った。「死にたがりの少女がここまで来た。これは周りのおかげだなと。何かでありがとうの気持ちを返したいと思いました」

 何ができるだろうと考えた。詩は自分のために書く。研究も自分のためだ。「自分が立っている場所、ここから何かを発信したい」。地域へのお返し。それは若い日の父が繰り返し語っていた言葉だった。

 同人誌「北奥気圏」はこうして生まれた。「北奥」という響きが持つ青い透明感。北奥が放つ気の潔さ。北の文化の扉を開け放ち、北の地を掘り下げ、まだ見ぬ財宝を探る冒険家のようだ。「数百年前には文化果つる地と言われた場所には、素晴らしい宝があると伝えたい」と船越さん。

 北辺と中央、どちらの視点も持っていることが強みだ。「若いころは故郷に対する愛憎両面があった。今は外部からと内部からの複眼的視点を大切にしたいですね」
 「北奥気圏」には評論、詩、俳句、短歌、小説、随筆さまざまなジャンルが包含されている。各分野の若手精鋭を選んだ。

 自らも研ぎ澄まされた詩と「テラヤマさんをめぐる偏光的都市論」を執筆している。江戸っ子のような生きのいい文体。やってやろうじゃないか。そんな気迫が「北奥気圏」からにおい立つ。

 「文芸だけではなく、舞踏、音楽あらゆるジャンルを超えて企画、発信していきたい」。その気迫は、二十代から社説を書いていたという素子さんの父の姿と重なった。

初の版画展を開いた 平成17年3月12日掲載
関 典子さん 「ピュアな空気伝える 繊細なエッチング群」
 貸し画廊というのは不思議だ。そこで開かれている展示によって雰囲気は一変する。個展の場合は一層。

 雪空のような淡いグレー、降り続く雪を眺めながら制作したという銅版画「雪催い」。朱赤が地の色を思わせる銅版画「胎」。子宮で眠る胎児のうごめきを想像させる。

 関典子さん(22)の銅版画の会場に足を踏み入れた途端、ぴんとピュアな空気に包まれた。こうでなければ嫌だ、というこだわりを感じさせる清らかな空間だ。

 作品はすべて銅版画。木版がおおらかな温かさを感じさせるならば、銅版画はカリンと硬質な感触。それは銅という金属の持つ性質でもあり、そこに使われた技法の特質でもあるのだろう。と同時に銅版画という手法を選択した作家自身の雰囲気でもある。

 切れ長なひとみ。長い髪。ふっくらとした面立ち。もの静かな印象だが、好きと嫌いがはっきりしている。ひと言ひと言かみ締めるように話し、浮ついたところを感じさせない。ひと昔前の女子大生のような空気を持つ。

 関さんは弘前大学教育学部美術教育講座の四年生。個展を開くのは大変なことだ。卒業と同時に個展を開く人はそうはいない。「四年になるころ、個展をやろうと心に決めました。卒業までにどれだけできるかやってみようと」

 弘前工業高校で松江喜代寿教諭からシルクスクリーンを学び、ものを造る道に進みたいと弘大美術科に進んだ。そこで銅版画と出合った。「相手が金属ということにひかれました」と関さんはいう。

 銅板は糸のように細い針状のニードルでがりがりとひっかいて傷をつけていく。硝酸の液に浸し、傷をつけた個所が酸によって腐食されていくのを見守る。
 インクを乗せた時、傷の深さが色の濃さへと変化する。硝酸の力を借りて版を完成させるエッチングは関さんの使う技法の一つだ。

 版にインクを乗せ、溝にインクを詰めていく。余分なインクは布で拭き取る。版に紙を乗せ、プレス機で刷り取っていく。納得がいくまで何度も刷る。刷る前にあらかじめ予想はしていても、色の出方、質感など刷ってみないと分からないことも多い。気に入らなければ再び削りを入れ、硝酸に浸す。

 「技法が持っている表現をどう使うか。技法をどれだけ自分のものにできるかが大切」と関さん。十一の版画と十一の短歌が呼応し、互いにイメージを広げていく「こと」は、本のような造り。生き生きと枝葉を広げる木を表現した版画には、「命みな張る五月雨に小枝伸び彼の畠々も花芽育む」という自作の短歌が添えられている。高校時代の後輩をモデルにした「最後の十代」は制服姿の女子高生が鋭く細い線でエッチングされ、移ろう季節の危うさが伝わってくる。

 「作品を作る時は一人でないと嫌だけれど、作品を介して見る人との関係が生まれてくるのだと分かった。自分の中で大事に持っているだけでは次には進めない。作品を通して人と出会いたい」と関さん。

 個展を開くことにより、一人でこつこつとものを作ることからもう一歩踏み出すことができたようだ。春からは働きながら版画制作を続けていこうと考えている。


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