「メモワール・聡への64通の手紙」をまとめた 平成15年12月13日掲載
小山内 優子さん 「在りし日の夫を 本にとどめたい」
 冬の初め、手元に一冊の本が届いた。タイトルは「メモワール・聡への64通の手紙」。昨年の三月一日、五十歳の若さで突然亡くなった弘前市役所職員小山内聡さんとの思い出を、友人、兄弟、家族たちがつづった本だった。

 淡い桜色の表紙を開くと、六十四人の描く聡さんの姿が静かに浮き上がってくる。編集したのは妻の優子さん。聡さんに対する優子さんの思いが、本からずんと伝わってくる。

 本を携え、小山内家を訪ねた。あふれるほどの花に包まれた仏壇の中で、聡さんは笑っていた。写真の前には、聡さんが好物だったビールが積まれている。「本の表紙に載せるお父さんの写真、酔ってないものを探すの苦労したんですよ」。優子さんが笑顔を見せた。

 保健師の優子さんと行政マンの聡さんは、裾野出張所で知り合い、結婚した。ともに働き、ともに子どもを育て、ともに五十歳になった。子どもたちが家を離れた後、二人で山を歩き、高山植物を眺め、二人の生活にやっと馴(な)れたねと言い合っていた矢先、聡さんが亡くなった。これからも、ともに年を重ねていくはずだったのに、優子さん一人が残された。

「本当に急だったので、頭がパニックになりました。急逝心筋梗塞(こうそく)。前の日まで役所で働いていたのに」聡さんが亡くなった後、小学校、中学校、高校、市役所の同期、同バドミントン部員、研修を受けた仲間、釣り友達など大勢の友人らが月命日に小山内家を訪ねては、聡さんの思い出を披露していった。「あぁ、聞いているだけではもったいない。何かにとどめておきたいと思いました」優子さんが聡さんの友人や仲間に聡さんとの思い出、エピソードを寄せてくれるよう手紙を書いたところ、六十通を超す手紙が集まった。小学校や中学校の恩師からも原稿が寄せられた。

 ページを繰ると、ひょうきんで、温厚で、仕事には厳しく、アフターファイブは楽しく、優しい父親で面倒見がよくてと、いろんな聡さんが顔を見せる。それぞれの文章にはぴったりの写真が添えられて。写真が趣味だった聡さん自身が撮影した写真も含まれている。「本を作ることが支えとなりました。文章を読んで、写真を選んで、いつも彼に触れているようで寂しくなかった。彼と一緒にいるような気分になっていたんだと思う」と話す優子さん。

 今年の春から、優子さんは市役所の高齢福祉課内にある基幹型在宅介護支援センターで働いている。庁内で聡さんの友人たちに出会うと「どしてら?」「子どもたちは?」と声を掛けられる。「あの人の人生は短かったけれど、たくさんの友人に囲まれて幸せだったのだと思います。本を作っていてそう思いました」聡さんは一冊の本とともに、たくさんの友達を優子さんに残していった。「メモワール」の中で、聡さんは永遠に生き続けていくはずだ。

ライター 時事随想のメンバー 平成16年1月24日掲載
大野 妹子さん 「ユニークな視点で 妹子ワールド構築」
 大野妹子さんの名前は前から知っていた。男なのか女なのか、ちょっと分からない遣隋使のようなお名前。「グラフ青森」に長年にわたり、「ピンクティータイム」というユニークなエッセーを連載してきた

 一見どうでもいいようなことに向ける妹子さんの視線は熱い。身の回りに起きた小さな出来事を、ここまで楽しい話に仕立て上げる大野妹子はただ者ではないと思っていた。

 登場する妹子一家はユニークキャラぞろい。超ミーハー生涯現役のお母様。ルイ・ヴィトンのコレクターで買い物マシーンと呼ばれている松子お姉様。「超ドケチ。またのところが擦り切れて中身が見えるパンツをはく夫」。私が言っているのではありません。すべて妹子さんがエッセーの中で書いているのだ。

 超人的な観察力、変な視点は一体どこで培われたの?「もてなかったから、ひねくれていたんですね。友達を池に突き落としたり、いじめたり」という答え。「女の子ってものは私とは異質なものだと思っていました」という妹子さんは、これまでスカートというものを数回しか履いていない。

 中学時代もズボンの制服で過ごした。北海道大学に入学し、札幌に行ったら女やってみようかなとスカートに挑戦したが挫折。以来パンツルックを通しているつわものである。北大では哲学を専攻した。爆笑エッセーの中にほの見える人間観察、風刺はもしかして哲学者の視点だったのか。「これって変じゃないって、つまらないことに徹底的に突っ込んでいくところが哲学的かもね」

 昨年からなりわいをちょっと離れ、弘前大学教育学部の大学院に通っている。初めて読んだ時から、三島由紀夫の「豊穣の海」の結末が納得ゆかず、二十年間温めてきた疑問を解明し、新説を打ち立てるつもりだ。「書くことが好き。自分にしかできない切り取り方をしたいですね」映画好きの妹子さんはあおもり映画祭の実行委員もしている。昨年は熟女三人でチーム「桃茶娘。」を作り韓国映画四本を上映した。実行委員になったいきさつも変わっている。

 第五回の映画祭のゲストが豊川悦司だった。背の高い男にめっぽう弱い妹子さんは悦司の大ファン。「あの悩殺ボイスすてきよね」「そうかしら」という私に不満そう。豊川悦司の接待係をやらせて、やらせてと頼んだそうだが、若い子でないとだめと言われた妹子さん、「なら体を張ってお守りするわ」と警備隊長役を買って出たらしい。

 ボディーガードの出てくる映画を見たり、国会のSPの動きを研究してその日を迎えたが、怪しいファンと間違えられ、羽交い絞めにされ、全く役に立たなかったというおちがつく。以来あおもり映画祭とは切っても切れぬ仲。「今年の六月も韓国映画を上映するので、桃茶娘。をよろしくね」とPRに余念がない。

 そんな妹子さんが昨年の十二月から、陸奥新報の時事随想のメンバーに加わった。「ものを言わないうちに世の中どんどん変な方向へ流れていく。こいつばかだなと思われても言ったほうがいいと思う。素人理論で貫きます」とけなげな妹子さん。「大野妹子って誰やねん」と思っていらした方、お分かりいただけましたか? 妹子さんの今後の活躍、お楽しみに。

弘前大学人文学部助教授 平成16年2月7日掲載
  羽渕 一代さん 「ケータイ、津軽の若者 現代的なテーマを探る」
 一般人が抱くいかめしい大学教官のイメージを一新するキャラクターだ。茶髪に加え、チャーミングな笑顔と親しみのわく話しぶり。誰とでも友達になれそうな雰囲気。だが「小学生のときから羽渕はこういう人だからね、と別の席を用意されていたんです」と明かす過去は意外に重い。

 ずっといじめられっ子だった。女子は無視。男子には暴力を振るわれた。本に夢中になっていて、周りの子は皆理科室に移動し、気付くと三十分も経っていたり、周りから浮き上がっていたらしい。「一生、本と漫画とお菓子があればいいと思っていましたね」

 東京学芸大一年の時、家族社会学と出合った。両親が不仲で、小さいころから幸せそうな友達の家族がうらやましかったという。「どうしてうちばかりひどい家族なんだろう」。それまで疑問に思ってきたことに言葉を与えてくれたのが社会学だった。

 大学院は新進気鋭の社会学者がいる奈良女子大に進んだ。修士論文はセクシュアリティ、女性の性欲をテーマにした。過去五十年間に「文芸春秋」で取り上げられた女性の性欲の記事をピックアップし、どのように扱われているか、言説研究を行った。だが、資料だけを相手にすることに不満を覚えたという。

 実際に人間と会って話をする「フィールドワーク」を行いたいと、「地べたをはいずり回る」といわれる分野に飛び込んだ。家族から始まった社会学への興味だが、そこから人間の親密性へと広がり、研究テーマの一つに「ケータイ」を選んだ。ケータイから人間関係の親密性が分かる。「ケータイという道具の特徴が面白い。一人ひとりが発信機を持っているようなもの」と羽渕さん、年内には、仲間の社会学者との共同研究をまとめ、ケータイに関する英語の本を出版する。

 ジャマイカのエドナ・マンレー音楽芸術学院の講堂で、日本の若者とポピュラー音楽との関係性について英語で講演する予定もある。活動は徐々に広がりつつある。弘大では「マスコミュニケーション研究史」と「現代社会のメディアの状況」のを教える。今最も興味を持っているテーマは、津軽の若者の文化、恋愛、生活、人生、価値観だ。女子高生に直接会い、恋人のこと、ケータイのこと、家族について話を聴き、データをまとめる。

 先日、津軽についてもっと知りたいと友人とともに金木に赴き、「地吹雪体験ツアー」に参加した。「面白いことは何でもやりたい。面白いことがなかったら死んでしまう」と屈託のない笑顔を見せる。逆に興味のないことは一切しないという。
「興味ないことって何?」「ウーン掃除、あと料理かな」。女性が抱えてきた束縛から自由になりたいと考えている。

 結婚はしたくない。パートナーはいるが互いの自由を認め合う関係だ。「今の民法制度が許せない。ゲイセクシュアリティの人の結婚も認めるべき。日本もスウェーデンのように産めば産むほど楽しくなるなら皆産みますよ。社会システムを変えない限り、少子化は食い止められないですね」家族、ジェンダー、ケータイ、若者文化。気付いたら時代を映す最先端のテーマを追い掛けていた羽渕さん。自身も何ものにもとらわれない、最先端の行き方を模索中だ。
弘前音楽学院院長 バイオリニスト 平成16年3月6日掲載
岩田 幸子さん 「子供の心を解き放ち 音楽の楽しさ伝える」
 部屋の中に、バイオリンの澄んだ音色が広がった。温かく豊かな音。バイオリンの演奏を支えるように、チェロが落ち着いた音色を響かせる。

 バイオリニストの岩田幸子さん(57)がチェリストの矢島三雄さんとともに、弘前市松原に弘前音楽院を開いて三十年になる。幸子さんの弘前での日々は子供たちとともにあった。

「ポンポンポンとボールが弾むみたいに弦をはじいて。楽しい気分で弾くと音も弾んできますよ」。生徒と一緒にバイオリンを弾きながら、適切なアドバイスを与える。かすかな音の変化に、「そう、いいですよ、一歩前に歩いていく気持ちでね」と優しい笑顔を向ける幸子さん。教えるのがとても楽しそうだ。この部屋からたくさんの音楽家が育ち、日本はもちろん、世界で活躍するバイオリニストも誕生した。「青森から世界に通じる音楽家を育てるのが夢でした」と幸子さんは言う。

 三重県桑名市生まれの幸子さんが弘前にやって来たのは、不思議なえにしによる。幸子さんは東京芸大バイオリン科を卒業。同大でバイオリンを教えながら演奏活動を行う、気鋭のバイオリニストだった。地方の子どもたちに弦楽器の楽しさを伝えよう。ちょうどそのころ、芸大の仲間や演奏家たちが集まり、地方の弦楽音楽を振興させるための基金「ミューズ」を立ち上げた。音楽好きの子ども、やりたい子どもがたくさんいるのに、地方では専門教育が行き届かない現状があった。

 演奏家たちは希望を携え、全国十七ヵ所に散った。そして弘前にやって来たのが幸子さんだった。「一緒にやろうと、この人をこの地に引きとめたのは私かな」と矢島さんはほほ笑む。「最初はここで二、三年やって、留学しようと考えていたんですよ」と幸子さんは笑った。ドイツに音楽活動の道が用意されていた幸子さんだったが、気がつけば三十年がたっていた。

「津軽の子どもたちは素直で感性豊か。よその土地の子どもたちに比べて断然いい音を出すね」と二人はうなずき合う。年に一度は子どもたちに大きな舞台で演奏させたいと、弘前市民会館大ホールで発表会を開いてきた。昨年の発表会では、生徒十一人によるアンサンブルも披露され、透明な音色と豊かなハーモニーが聴衆を圧倒した。

 これまでの三十年は、簡単な道のりではなかっただろう。音楽院の経営を維持するため、夜行バスを使って東京に出向き、オーケストラで演奏しては弘前にとんぼ帰りという日々。「自分たちが選んできた土地ですから、しっぽを巻いて逃げるわけにはいきませんでした」と振り返る。「バイオリンは本当にすばらしい楽器。弓と弦、右手と左手のコンビネーションを使い、自分で音も音程も作ることができます」。記念にと二人でエクレスのバイオリンソナタ ト短調を演奏してくれた。慈しむようにバイオリンを肩に抱き、楽器と一体になって演奏する幸子さん。力強く温かな音色は幸子さんの人生そのものだ。

「演奏家の力を地域に還元したい。子どもたちの心を音楽を通して開放してあげられたらいいですね」。今年は弘前で、久しぶりの演奏会を開きたいと考えている。

  平成16年3月13日掲載
「好きな道をみつけ 好きな道を歩む」
いけばな小原流・造形いけばな 藤間流日本舞踊
佐々木 静江子さん 佐々木 洋子さん

 昨年の夏の初め、一枚のポストカードが舞い込んだ。古いいすのクッション部分に詰めた土の中から、黄緑色の芽がにょきにょきと生えている写真。隣に「いけばな造形展」と書かれている。

「これがいけばな?」。弘前市の田中屋画廊を訪ねた。階段を上がると、不思議な情景が目に飛び込んできた。床一面に小さな虫が敷き詰められている。目を凝らすとススキの葉で一匹一匹丁寧に作られたバッタやイナゴだった。「自由に上を歩いて感触を味わって」と声をかけてくれたのが、佐々木洋子さん(56)だった。

 会場にはそのほか、分厚い洋書のページをカッターナイフで一枚一枚切り抜き、どのページにもinternationalの文字だけを残した執念の力作やダンボール千枚を重ねた中に、中国で棺(ひつぎ)を作るのに使われたというコウヨウザンの葉を入れ、透かして見せた意欲作などいけばなのイメージを超えた作品が並んだ。

 そして今年の二月、田中屋画廊で「木目込人形展」を開いた洋子さんと再会。洋子さんは豊洋の名で生け花を教え、真水洋の名前で木目込み人形を作る多彩な人だ。二十三歳から小原流の生け花を始めた。本部の研修で出会ったのが「いけばな造形」だった。興味を持った洋子さんは「いけばな造形大学」に通い、そこで創作の面白さを知る。

 ニューヨークのテロで六千人以上の犠牲者が出たと聞き、六千という圧倒的な数を表現したいと制作したのが田中屋画廊で展示した昆虫だった。会場を訪れた誰もが、ユニークな表現に驚かされた。洋子さんの母静江子さん(76)も藤間流日本舞踊の世界で活躍する。「好きなことをどしどしやればいい。私も好きなように生きてきたからね」と母は娘に理解を示す。

 静江子さんは戦時中、女子挺身(ていしん)隊として海軍に勤務し、そこで覚えたそろばんを生かし、戦後は日本専売公社で一家の大黒柱として働いてきたキャリアウーマンの先駆けだ。「男ばかりの中で働いてきたから、性格も男っぽいわよ」。そんな静江子さんがほれこんだのが、師藤間藤奈さんの男踊りだった。以来五十年踊りに打ち込んできた。

 今は自宅で教える傍ら、城東一丁目町会の婦人部のメンバー、弘前市納税貯蓄組合連合会の婦人部副部長としても活躍する。「この人は何でも花材にするから家中がらくただらけ」と静江子さんは苦笑する。洋子さんの手にかかれば古新聞、縄、なんでも造形いけばなの作品となる。

 一九九五年の公募展では、神戸の震災の記事を一面に載せた新聞を束ね、今にも倒れそうな危うさを表現した。芽をだしかけた白いスズランの根百本が整然と並ぶ作品もある。「おカネがなくて花材が買えずどうしようと思っていた時、たまたま草取りをしていて見つけたスズランの根がとてもきれいだった。これで賞取って賞金もらったんですよ」と笑顔を見せる洋子さん。素材をどう生かし、表現するか。それは洋子さんの発想次第。その自由さが気に入っている。

 好きなことに打ち込む幸せを持つ二人。互いの生き方を認め合いながら、それぞれに豊かな時間を楽しんでいる。
大鰐町連合婦人会会長 平成16年3月27日掲載
長内 幸子さん 「原点は子どもたち 優しさを形にする」
 仕事は?と聞かれたら「ボランティア」と答えることにしている。きっぱりとした語り口。穏やかな笑顔。ちらりとのぞかせてもらった手帳は、スケジュールが詰まって真っ黒。スリムな体でよく動く。

 大鰐町連合婦人会会長、大鰐町社会教育委員長、大鰐町文化協会副会長をはじめ、県の行政改革推進委員、県ボランティア基金運営委員、県立郷土館協議会委員など県の委員も数多くこなし、聞いているだけで目まいがしそう。「でもね、原点は子どもたち」と長内幸子さん(63)は言う。

 学校を卒業するとすぐに結婚した。教員になる夢はあきらめ、専業主婦となった幸子さんだったが、夫禎孝さんの母ミキさんは進歩的な女性だった。「義母は東京の学校で学んだ人で、女も男を頼っちゃいけない、自立しなければだめだと私に教えてくれました。何かやるなら徹底的にやりなさいと」。そうアドバイスされた幸子さんが、最初に取り組んだのがPTAだった。

 詩や作文の好きな文学少女だった幸子さんは広報部で活躍。その後PTAの仲間たちと一緒に立ち上げたのが「子どもを考える会」だ。子どもを育てる中で学び、感じてきたことが幸子さんのベースだ。「子どもはどの子も目をかければ伸びていく。地域の子どもたちのいいところを引き出してあげたいなって思うの」町内を歩くと子どもたちから「俳句の先生!」と声が掛かる。仲人だった増田手古奈さんの下で俳句を学んだ幸子さんは、大鰐にある四つの小学校で子どもたちに俳句を教えている。「俳句を作るとものをよく見るようになる。動物や植物にも優しくなれるんです」

 大鰐中学では文化祭に全校俳句大会を開き、選者として参加。大鰐高校の生徒も連れて吟行にも行く。「大鰐は俳句の町。俳句を通して安らぎのある町づくりができたらいいと思っています」。多方面での活躍が評価され、「ぜひうちで働いて」と民間の会社から声が掛かったこともある。が、考えた末に断った。「自由にものを言いたい。それにはどこにも所属しない方がいいんです」。以来ボランティア一筋に歩んできた。

 大鰐町連合婦人会会長となって十年がたった。「大鰐の女性たちの意識は随分変わった」と話す。「町長と語る会」「ごみ問題を考える会」など研修を開き、議会の傍聴にも出向く。はっきり物をいう婦人会は、一目置かれる存在となった。婦人会に入って、人材の豊かさに驚いたという。人材を生かすのも会長の手腕だ。サマーフェスティバルでは流し踊りを披露し、万国ホラ吹き大会ではモヤシ入り豚汁を作る。大鰐町で開かれたアジア冬季競技大会では会員一丸となって選手たちをもてなし、運営を支えた。

「いろんな活動を仕事でやっていたら蔵が三つも四つも建っていたねと友だちに笑われてます」と幸子さんは屈託のない笑顔を見せる。忙しい日々だが充実している。旧石川町の町長だった幸子さんの父親も、給料の大半を奉仕活動につぎ込み、母を嘆かせた。「父もボランティアの人だった。少しでも近づければね」。

 いつの日か介護や冠婚葬祭をサポートするNPOを立ち上げたいと考えている幸子さん。「優しさを形に」をモットーに、きょうも楽しく東奔西走している。


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