平成14年3月2日 掲載
丸山 有子さん わらび座一人芝居「十三の砂山」に出演する
 昨年の二月、黒石市の伝承工芸館で劇団わらび座の一人芝居「十三の砂山」を見た。一時間半の舞台を一人で務めたのが中里町出身の女優丸山有子さん(37)だった。北津軽郡相内村に住む九十四歳の「ばさま」佐藤雛(ひいな)の人生を時にユーモラスに、パワフルに、切々と演じ、そのパワーは見事だった。
 
 鼻をかむしぐさ、お茶を飲む姿。顔の表情、話し方、声、体の動き全てが、九十四歳のばさまになりきる。その一瞬のちには初々しい二十四歳の若妻の姿に早変わり。声を張り上げ「弥三郎節」を披露し、跳ね、しみじみと「十三の砂山」を歌う。しがらみに手足を取られた津軽の嫁、雛は芝居茶屋の三味線の師匠音吉に「どこかに連れ出して」と懇願する。

 しっとりとした色気が流れ出す。しんと静まり返った場内。涙あり、笑いありのあっと言う間の一時間三十分だった。「十三の砂山」をもう一度。弘前、市浦、鯵ヶ沢、小泊、木造、五所川原、鶴田、板柳で公演実行委員会が立ち上がった。三月十日市浦村コミュニティーセンターを皮きりに、津軽八市町村での公演が決まった。

 各地で宣伝を兼ねた交流会が開かれている。「言葉で話すのは苦手だから、歌います」。有子さんは集まった支援者を前にして、スーツ姿のまま「ソーラン節」を歌い、踊る。「一緒にハーどっこいしょ、どっこいしょって声をかけてくださいね」と笑顔を向ける有子さん。会場は一瞬にして和み、有子さんは会場に溶け込んでいく。

「小さいころはおとなしい子で、物も言えない子でしたね」と笑う。中里高校を卒業後、何をしたいのか分からなかった有子さんに、わらび座の存在を教えたのは父の外崎文夫さんだった。高校三年の夏、二人で田沢湖町にあるわらび座を見学に出掛けた。団員たちは皆笑顔で迎えてくれた。「団員たちのその笑顔にほれこみました」と有子さんは言う。冬休みに再びわらび座を訪ねた有子さんは、入団試験を受けて合格する。

 歌も演劇も舞踏もすべて初めての世界。東京ドームの何倍もの広さを持つわらび座の敷地内に寮があり、当時は全員が共同生活を送っていた。「自信がなくて、怖くて、自分で思ったことを言葉に出来なくて、しょっちゅう泣いていましたね」と今は笑顔で振り返る。二十四歳で劇団員の丸山成美さんと結婚した。二ヵ月間公演で全国を回り、わらび座の拠点がある田沢湖町に戻る。そして再び全国を回る日々。そうやって十七年過ごしてきた。

 照明係の成美さんとは年に数度しか会えない生活だという。成美さんの母親もかつてわらび座の団員で、成美さんは「わらびっ子」と呼ばれる団員二世。「同じ夢を持つ人と結婚したから、今も続けられるんです」。公演中は成美さんの母親が七歳になる海咲希ちゃんの面倒を見てくれる。

 透明感のある声。親しみのわく笑顔。そして何より達者な津軽弁が有子さんの武器だ。「若いころは津軽弁嫌だなぁと思ったこともあったけれど、今は作品の中で津軽弁をどーんとぶつけたい。津軽に生まれてよかったって思う。『十三の砂山』を見た人にも、そう思ってもらえたらうれしいです」雛さんはどこにでもいそうな津軽のばさま。自分を育ててくれたおばあちゃんの姿を思い返しながら、有子さんは愛らしい津軽のばさまを演じる。
平成14年3月9日 掲載
須藤 みどりさん 「水彩画を描く」
 昨年の秋、弘前文化センターギャラリーで開かれた日本水彩画会県支部展でさわやかな作品を見た。「想」とタイトルの付いた絵には穏やかな光が射し、静かな風が吹いていた。ざらっとした石の質感、柔らかな布の感触。透き通るような空気。こまやかに描き上げられたその作品の前にしばらくたたずんだ。作者は須藤みどりさん(61)。

 笑顔が抜群に明るい女性だ。「還暦を過ぎて楽になった。肩の力が抜けたのかな」。アトリエを訪ねた私に、みどりさんは笑ってこう答えた。南に面して明るいスペースがみどりさんのアトリエ。午前中は家事をこなし、午後は心ゆくまで絵を描く。自宅のあちらこちらに、庭のバラやアジサイ、近所の風景を描いた作品が並び、おしゃれなギャラリーのよう。

「これ食べてみて。ふるさとの料理なの」と出してくれたのは「鶏卵」。すまし汁の中にそうめんとあんの入ったおだんごが浮いている。甘いあんことすまし汁が混ざり合って、絶妙な味。みどりさんはむつ市で生まれた。
小さな頃から絵を描くのが好きだった。小学校時代からさまざまなコンクールに入選。いつか画家になりたいという思いが、みどりさんの心の中で育っていった。
小遣いを貯め、小学校五年生から、新聞で見つけたさし絵の通信教育を内緒で始めたがんばり屋だ。

「子供のころは絵を描くのは悪いことをする感じでしたね。母は農業を手伝ってほしくて、絵を描くなんてろくな者にならないと、しょっちゅうしかられていました」小学校一年の時に父親が亡くなり、母親が大きな農家の支え手だった。手に技を付けて一人立ちし、貯金をして、いつかは絵の勉強をしたいというのがみどりさんの夢となった。

 中学卒業後、盛岡の美容学校に入学。市内の美容院で働き、手先が器用なみどりさんは人気抜群の美容師となる。だが働きすぎて体調を壊し、ふるさとむつ市にUターン。そこで出会ったのが夫の健二さんだった。「私が絵を描くことに初めて理解を示してくれた人でした」。結婚し、黒石市にやって来た。しゅうと、しゅうとめに仕え、子育て、家事。そんな中でも隠れるように絵を描いた。朝、だれよりも早く起きて、近くの川や野を写生する。子供をおぶいながら、猫がいれば猫を、夫が寝ていれば夫の姿を。

 最初は油彩画を描いていたが、忙しい主婦の生活には、一日で描ける水彩画がいいと日本水彩画会県支部に入会。それから三十年間、水彩画を描き続けてきた。
日本水彩画展に九十歳になった実母の姿を描いて出品したことがある。その時初めて、そんなに絵が好きだったなら、絵の道に進ませてやればよかったと言ってくれた母の言葉が忘れられない。

「いろんなことがあって今がある。どうせなら何でも楽しんでしまいたい。夫は石橋をたたいても渡らないけど、私は川に落ちてからアラ川だったのねって思う人間。でも川だって泳いじゃうし、落ちてみなきゃ浅いか深いか分からないもの」という楽しい人だ。

 そんなみどりさんの絵がここにきて変わった。「これまでは人よりうまく描きたいと思ったり、周りが気になっていた。でもあくせくしても仕方がない、人生一度きりだから描きたいものを思い切り描きたい。還暦を迎え、これからがスタートです」

 庭で好きな花を育て、洋裁をし、孫の文太君の絵を描いたり。ゆったりとした人生の午後を楽しむ。「いつかは、見た人の心が和むような絵を描けたらいい。そして個展を開きたい。それが夢」。そう言って笑ったみどりさん。いい笑顔だった。
平成14年4月6日 掲載
櫻庭 真理子さん 「雛人形作家」
 小指のつめの半分ほどのお顔。和紙で作られたおすべらかしに十二単(ひとえ)のお雛(ひな)様、衣冠束帯(いかんそくたい)のお内裏様。その愛らしい姿に思わず「わあ、めごい」と言う人が多いから、「めご雛(びな)」と名付けた。櫻庭真理子さん(51)の手作り雛だ。

 四月十五日は旧暦の雛祭り。「めご雛」は誰のためでもない、自分だけのお雛様として買い求める女性が多い。真理子さん自身、二十四年前、自分のために雛人形を作ったのがその始まり。

 弘前市内のデパートの千代紙展で見つけた縮緬(ちりめん)の着物地のような美しい和紙。その和紙を使って初めて作ったお雛様が、たまたま友人の目に触れ、頼まれては雛人形を作るようになった。人づてに広がり、今では毎年桃の節句のためのお雛様はもちろん、さ来年の雛祭りのためのお雛様まで待っているファンがいるほど「めご雛」は人気だ。

 お雛様が座る台座も、五人噺子(ばやし)や三人官女、右大臣、左大臣の持つ小道具、漆塗のおかごや牛車、絵を描いた金びょうぶやお茶器まですべて真理子さんの手作り。シジミ貝に金彩を施した貝合わせや半分に折ったようじに色とりどりの和紙を巻いた反物など、いたるところに細かい工夫が施されている。幼い頃に友人の家で初めて見た、愛らしいお雛様が真理子さんの雛人形の原点だという。

 真理子さんは上北郡六ヶ所村泊で生まれた。小さな漁村で育った真理子さんは、小学校三年生まで雛人形を見たことがなかったという。「三年生の時、仙台から村の診療所にお医者さまの一家がやって来ました。同じクラスになったお嬢さんのお座敷で、初めて見た雛人形のあでやかで愛らしかったこと。その時の雛人形が忘れられません」と話す真理子さん。

 見よう見まね、手探りで雛人形を作り始めて二十四年。七段飾り、五段飾り、三段飾り、一段飾りと多彩な種類がそろう。「めご雛」作りは0コンマ何ミリの世界。細かい技が要求される。手を抜かず、きちんと、それが真理子さんのモットーだ。
「雛人形作りが大好き。私が私を表現できる唯一のものですから」と話す真理子さん。雪の日ほこりが立たないように玄関わきで雛道具に漆を塗る。漆にかぶれて顔がはれ、一週間も家族に顔を見せられない時もあった。「あまりかぶれがひどくて、夫に雛人形作りなどもうやめろと言われたこともありました。主人の言うことは何でも聞くのだけれど、これだけはやめられません」とヒマワリのような笑顔を見せる真理子さん。

 明るく元気な真理子さんは、十一歳から三十歳までの五人の子の母でもある。仕事部屋で真理子さんが雛人形を作っていると、小学校から帰宅した真衣ちゃん(11)が顔を出す。「子供と夫は私の宝物。楽しく、長く子育てできて幸せ」とほほえむ。

 そんな真理子さんも一度だけ雛人形作りをやめようと思ったことがある。この春高校生になった二女理絵さんが八年前、交通事故で大けがをして入院した時だった。もう雛人形は作れない、作らないと思い詰めた真理子さんを支えたのは「めご雛」のファンの「いつから作り始めるの?」というラブコールだった。今年の一月、初孫龍斗君が誕生した。「結婚して三十一年。宝物が随分増えました」苦あれば楽あり。五人の子育ては大変だったと想像するが、その何倍も喜びがあったのだろう。

 これからは桜の花びらやリンゴの花びらで和紙を染め、弘前らしい雛人形を作るのが夢だという。真理子さんのその大きく温かな手から生まれた雛人形は、さまざまな所にお嫁に行った。そして、それぞれの場で持ち主の心を温めているのだろう。
平成14年4月27日 掲載
山田スイッチさん 「白塗ダンサー兼コラムニスト」
 顔は白塗り。頭のてっぺんからつま先まで全身白い衣装。手をロボットのように上下させ、軽快な音楽に乗せ、舞台の上で飛び跳ねる「テクノ舞踏」。体に映像が写しだされ、人間スクリーンとなって踊りまくる。

「エネルギーがたまっちゃうと気持ちが悪くなるんです。飛んだり、跳ねたり、書いたりでエネルギーを発散させるときもちいい」山田スイッチ(25)。変わった名前だ。もちろん本名じゃない。昨年十二月に解散したお笑いコンビ「しあわせスイッチ」の芸名。現在は板前出身のコラムニストとしてねウイークリー「ぴあ」に文章連載中のちょっと不思議な女の子だ。

 山田さんの人生は、板前、タレント、お笑い芸人、コラムニストと二十五歳ながら波瀾万丈。「四十歳半ばになったら、暖かい国でサンマ屋を開くのが夢」と語る。のほほんとした表情、ほんわかとした雰囲気、ちょっとシビアな視点。漫画のちびまる子ちゃんがパワーアップして二十五歳になった感じ、かな。

「英語の仕事をしたい」と弘前南高校から弘前学院大の英米文学科へ。在学中に見た「世界ふしぎ発見!」が山田さんの人生を変えた。「ミステリーハンターになって、裸同然の部族に囲まれ、土地の虫なんかを食べさせられたい」。大学卒業と同時に、タレントを目指して上京した。だが、猛反対する両親の手前、きちんと就職するのが山田さんの不思議なところ。将来サンマ屋を開くのに役立つかもと山海料理屋「十千」新宿店に正社員として入社する。

 ところで何でサンマ屋なの?昔、旅行で東京に行って疲れ果て、ゲンナリして入った原宿の喫茶店で食べた、サンマ定食に感動したことがあるという。「あっ、これだって思ったんです。人はご飯を食べて元気になる。ご飯をおいしく作る人は偉い! この世で一番偉いのはご飯屋さんだと思ったんです」板前修業中の失敗談には事欠かない。百八十度の油がたぎる業務用フライヤーの中にみそ汁をなべごとザブンと落とし、油あげやワカメのから揚げを作ってしまったり。

 だがある日、自分はなんのために上京したのか思い出す。再びタレントを目指し、正社員からバイトに変えてもらって、オーディションを受けまくった。「君はお笑い系にいったらいいよ」とアドバイスを受け、入った事務所で出会ったのが役者を目指す溝口さつきさん。山田スイッチ、溝口スイッチ、二人合わせて「しあわせスイッチ」を結成し、独自の活動を始めた。

「OLコント」「ショッカーコント」「手相コント」。二人でネタを作り、オーディションを何度も受けたがすべてボツ。「我々は何かを作りたいんであって、別にお笑いに限ったことではないって自分たちで気付いたんです」。ネタを書くのが楽しかった山田さんは、もの書きにになろうと心に決めた。ちょうどウイークリー「ぴあ」で募集していた「第一回、ぴあコラム大賞」に勉強のつもりで投稿。五百七十四本の中から、独特の表現とリズム、インパクトが買われ、山田さんが大賞を受賞。「ぴあ」での連載権を獲得し、四月からコラム「しあわせスイッチ」が始まった。「ものを書くなら弘前でもできる」と考え、三月から弘前の住人に戻った。

「原稿料は六月まで入らないから、みんなの優しさだけで生きています」と笑顔を見せる山田さん。「そんなばかなってことばかりやってきたから、ネタには困りませんね。書くだけ書いて、エネルギーが鎮まるのを待ちます。そしたらいよいよサンマ屋です」。普通とはひと味違う生き方が光る山田さん。これからの人生も、もしかしたら波瀾万丈かもね。
平成14年5月11日 掲載
北原 かな子さん 「津軽の近代を研究する」
 さまざまな顔を持つ女は素敵だ。できたらいろんな顔を持ちたいと女ならだれでもそう思っている。そんな生き方をさらりとやっているのが北原かな子さん。「その時、必要とされるスタイルで出ていきたいですね。カメレオンのように肩書きを変えて」。

 居間にはパソコンと大きなグランドピアノと食卓テーブルが同居している。かな子さんの生活をそのまま物語るように。津軽の近代化の歴史を調べる研究者としてパソコンに向かって論文を書き、ミュージシャンとしてステージに立ち、近所では「有貴ちゃん(10)のお母さん」と呼ばれるかな子さん。どれもがかな子さんの顔だ。

 かな子さんは元々、石巻市内の高校で音楽を教えていた。夫の晴男さんは弘前大学に勤務。「週末だけ弘前にやってくる通い妻でした」と笑う。一九九〇年、教師を辞めて弘前へやって来た。

 「弘前で子どもを産んだ時、自分はこれはってことをやってこなかったって思いました。これで子どもを育てられるのかなって」。徹底的に何かをやりたいと考えたかな子さんは有貴ちゃんを産んだ一年後、東北大の国際文化研究科の大学院に入学する。三百五十キロ離れた弘前に住み、一歳の子どもを抱える女性にとって決して簡単なことではなかっただろう。

「受験勉強をしている時から常に励ましてくれたのは夫でした。もともと研究というものに本格的に取り組みたいと思ったのは、天然物有機化学の研究に情熱を注ぐ夫の姿を見ていたから」とかな子さんは話す。初めは台湾の文化を研究しようとしたが、現地調査など子育て中のかな子さんには困難も多く、何度もあきらめかけた。そんな時、かな子さんを支えたのが「もう一度足元に目を向けてみたら。弘前は文化の点で面白いはず」という女性教官のアドバイスだった。

 かな子さんは冬の一日、弘前を散策し、追手門広場にある外国人宣教師館を訪れる。「東奥義塾に招へいされた外国人教師は、何を伝えるためにやって来て、どういう思いでこの寒い家にいたんだろうと思ったんです」。かな子さんはそれから憑(つ)かれたように東奥義塾を中心に、津軽が洋学を受け入れていく過程、近代化のあり方を調べていく。

「義塾の歴史は日本の西洋文化受容の象徴。旧藩校で国の援助を受けずミッション系の学校になったのは全国でも唯一。本州の北端で、明治時代に誠心誠意人間を育てようとしたその気概にほれ込みました」九八年、大学院での五年半の研究成果を八百枚の博士論文に仕上げた。そして今年の二月、日本学術振興会科学研究費補助金の交付を受け、博士論文をわかりやすくまとめた「洋学受容と地方の近代」を出版した「東奥義塾のことが全国に知られるじゃないですか。それがとてもうれしかった」と笑顔を見せる。

 研究を進める傍ら、かな子さんは昨年、マリンバ奏者の肥田野恵里さんと二人でピアノとマリンバのアンサンブル「トゥルース」を結成。子育て中のお母さん向けコンサートや各学校を回って、音楽鑑賞会を開いている。「これから、子どものためのコンサートを開いていきたいね」と楽しそうな二人。

 研究者としてはとことん突き詰めていくタイプ。演奏者としては自由に感性のままに。母親としてはおおらかに。三つの要素がかな子さんの中でバランスよくトライアングルを作る。「明治の初めにも、子どもを産んでから学校に通った女性がこの津軽にもいた。いつだって、どこだってできるって思います」と話すかな子さん。私も同感。いつだって、どこだって始めることはできる。一歩踏み出す勇気さえあればいい。
平成14年6月29日 掲載
前田 慶子さん 「前田産婦人科医院長」
 昔とちっとも変わらない。がらがら声にてきぱきとした物腰。今てもヘビースモーカー。ちょっと違うのは、くちびるに紅が差してあることくらい。「これはさ、あなたが来るというから付けただけ。いつもは化粧っけなしのすっぴんよ」。カラリと笑うのは産婦人科医の前田慶子さん(78)。

 久し振りに訪ねた前田医院は慶子先生と同じく、少しも変わらぬ姿でそこに建っていた。「病院っていうのはね。始めるよりやめる方が難しいの。『先生やめないで』という昔からの檀家さんのような患者さんを診ながら、患者さんと一緒に歳取っています」

 二十年前の六月、私はここで長男を産んだ。慶子先生の掛け声に励まされながら。すっぴんに素足、男顔負けのパワー、時折スパーッと吐き出すたばこの煙に圧倒されたのはまるできのうのことのよう。

 弘前医師会副会長、付属看護学院長、準看護学院長など山ほど肩書を持つ。「夫もないし、子どももいない、家事もやらない。医者とマージャンとボランティア。それぐらいはやらないとね」と豪快に笑う慶子さん。父親は青森市の生まれ。へき地、無医村を回る医者だった。父親と共に八丈島、新島、上北郡六ヶ所村で暮らした。「赤ひげみたいな人でね。診療室にざるを置いてさ、カネのある人は置いてけ、ない人はいいよって。最後は六ヶ所村で四十七歳で死んじゃったのよ」

 五人弟妹の長女だった慶子さんは、物心付いた時から医者になろうと考えていた。青森高等女学校で勉強し、その後六ヶ所村で代用教員をした。月給を貯め、三百円の貯金を持って上京。一九四三年、苦学の末東京女子医専(現・東京女子医大)に入学した。

 学生時代に一度だけ恋をしたことがある。相手はアルバイト先で知り合った東大法科の学生だった。自宅に送金していた慶子さんは「うつつを抜かしてはおられない」とアルバイト先を変えた。握手したのが最後だったという。「片思い。昔の人は純情よね。電車の中でその人の顔を見て三カ月も熱が出たんだから。最後は燃え残りのコークスよ」とほほえむ。

 育英資金返すために青森県に戻り、弘前保健所に三年間勤務した後、弘大産婦人科教室に入局。六〇年医学博士となって平賀病院で副院長となった。「私独身だから男と同じように勤務しても院長にはなれなかった。それなら一人で院長になるわいって開業したの」

 現在の場所に前田産婦人科医院を開業して三十六年になる。老人クラブや女性学級での講演も多い。「楽しいことをしてから死になさいってアドバイスするの。若い人のぜいたくを嘆くより、若い人がすしを食べたら、あなたは上ずしを食べなさいって。老人も恋愛しましょう、私が許すって話すと大ウケですよ。時代が女を押し上げようという時代に、女が元気ださないでどうするのさ。女ももっと自覚しないとね。」随分たくさん写真撮るのね。それならもっといい服着ればよかったかなとはにかんだ表情をパチリ。一枚いただいた。
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