書  家 平成17年12月25日掲載

           吉澤 秀香 さん

「 鉄の心で書に向かう 」           

d206_1.jpg 朝起きるとすぐに書の部屋に向かう。吉澤秀香さん(73)は西の窓を開き、霊峰岩本山の気を受け、白い紙と向き合う。

 気迫がみなぎり、ぴんとした空気が部屋に満ちる。思いを表現するために選んだ一本の筆先から、白と黒が織りなす美が生まれる。
柔らかくふわりとした線、思いが弾けるような線、力みなぎる線。軽やかであったり、重厚であったり。
「書きたいものを自由に書けるようになりたい。その思いで書を続けてきました」
         ( 栗形昭一さん撮影 )

 青森県はもとより、日本を代表する書家の一人として海外での書展に出品するなど、その活躍とエネルギーは目を見張るばかりだ。
何か吉澤さんを、そんなにも駆り立てるのだろう。「負けん気とじょっぱり」と吉澤さんは答える 「くやしいこと、悲しいことをバネにし、書くことで乗り越えてきました」

 吉澤さんの本名はテツ。刀匠二唐國俊の長女として弘前市紺屋町に生まれた。五歳の時父に勧められて始めた書が、後の吉澤さんを支える。「父と母に感謝の気持ちでいっぱいです」

 刀鍛冶を仕事とする父から受け継いだものは多い。刀鍛冶にとって最も大切な素材である鉄を名前にもらったことが、鉄のような信念を吉澤さんに与えたといってもいいだろう。「鉄は鍛え方によって名刀にもなれば、鉄クズにもなる。名前通り、鉄の心で生きようと思いました」

 順風満帆の人生かと思われるが決してそうではない。弘前中央高校を卒業後、書の学校に進みたいと希望したが、東京で書家になるとは何ごとかと祖父母に猛反対され断念。地元の短大の被服科で学び、中学校の教師となった。

 だが洋裁を学んだことが、その後吉澤さんの書を支えるのだから人生は不思議だ。二十二歳で結婚し、教員をしながら吉澤家の一員として暮らす中、「書道をする嫁」は理解されない存在だった。

 給料は袋ごとしゅうとに差し出した。「紙を買うこともできなかった」と苦笑する。そこで活躍したのが仕立ての技だった。スーツー着仕立てれば二千円。少しずつ貯金してはいい筆を購入した。

 教師の仕事、家事、育児と追われる中、部屋のすみで隠れるように書に向かった。「書くことで救われました。時間は自分でつくるものだとその時気づきました」

 毎日書くこと十年。絶対に信念を曲げない姿に、家族も理解を示すようになる。

 ひたすら書いた十年が大きな力となり、第十八回毎日書展で初出品初入選を果たす。「とける鐵鐵鐵フイゴの風を受けて炎の中で」。
還暦を迎えた父への思いを込めた作品だった。

 五十歳できっぱりと教職を辞し、その後は書の道を一心に歩んできた。主宰する書道会には「鐵の心で書に向かおう」と「鐵心書道会」と名付けた。「弟子には書で自分の綴代、墨代を稼げるようになってほしい」の思いを持つ。
苦労して書の道を進んできた吉澤さんならではの言葉だろう。

 今年の六月、弘前中三で開いた個展には多彩な作品が並び、吉澤さんの書の世界の幅広さを見せつけた。力強くエネルギッシュな書風で知られるが、「一番好きなのはお母さんのにおい」など、母信世さんへの感謝を表した作品はやさしさにあふれている。

  「これからは今まで書いたことのないものに挑戦していきたい。
こんなものも書くのかと見る人を驚かせたい」と挑戦への意欲は尽きない。

 雪国津軽で生まれ育った者でなければ書くことができない作品、線、思い、激しさ。
今後も、中央書壇へ津軽ならではのエネルギーをぶつけていくに違いない。




    津軽書房 平成14年12月 7日掲載

           伊藤 裕美子さん

一冊一冊の本を大切に
   津軽書房の光を受け継ぐ            

d206_2.jpg 弘前市亀甲町。弘前城のお堀に面した民家に「津軽書房」の看板は掛けられている。気をつけないと見過ごしてしまうほどひっそりと。

 小さな玄関を開けると、京都の町家を思わせる細長い土間が続く。その二階が「津軽書房」の仕事場。クラシックが静かに流れる中、伊藤裕美子さん(50)はたくさんの本に囲まれて仕事をしていた。耳を澄ませば、本の息づかいが聞こえてきそうな空間。

 本の持ち主で「津軽書房」の代表だった高橋彰一さんは一九九九年一月十八日、七十歳で亡くなった。和服を着流し、悠々と土手町をかっ歩する高橋さんの姿は「津軽書房」そのものだった。

 「高橋は本当に本が好きで、活字の好きな人でした」。高橋さんが亡くなって一年が過ぎた春、伊藤さんは「津軽書房」を続けようと心を決めた。それから二年半。十日には、伊藤さんが手掛けた十冊目の本「姑三年嫁八年(佐藤きむ著)」が出版される。

 伊藤さんは七五年に「津軽書房」に入った。長部日出雄さんが津軽書房から出版した 「津軽世去れ節」が直木賃を受賞した二年後のこと。津軽書房は活気にあふれていた。

 「東京営業所もあり、スタッフは十二人ぐらいいて、本もすごく売れていた。私は校正のやり方から教えてもらいました」

 活字を愛した高橋さんはいい本を作ることに精根を傾けた。八四年、津軽書房は不渡り手形を出し、経営は困窮。八六年からは伊藤さんと高橋さんの二人で津軽書房を切り盛りしてきた。そして高橋さんの死。後には高橋さんが思いを込めて作り上げた五百点の本が残された。

 「やれるかどうか不安でした。けれど太宰や葛西、長部さんの在庫があった。高橋の残した結晶を引き継いでいきたいと思いました」と伊藤さんは話す。

 「津軽書房から本を出したい」。そんな地元の声に支えられ、ぽつりぽつりと新しい本の出版も手がけてきた。「高橋ならどんな紙を選ぶだろう、高橋ならどんな色を使うだろう、高橋なら」。いい本を作るために決して妥協しなかった高橋さんが常に手本だ。

 本が一冊できあがるたびに伊藤さん高橋さんの仏前に供える。高橋さんは何と言うだろうかと思いながら。

 伊藤さんは本を置かせてもらっている書店に週に一度は顔を出し、自分の手で本を補充する。「自分で直に本を置きたいんです。高橋は入院中も本屋に顔を出しているかと気にかけていました。本が大切だから自分の目で確かめたいんです」とほほえむ伊藤さん。

 書店の本棚に並ぶ津軽書房の本を確かめ、日焼けしたり汚れたカバーを取り替え、帯を新しくする。店によって売れる本は違う。それを見定め、補充して歩く。高橋さんの姿を思い出しながら。

 「これからも手さぐりでゆっくりやっていきます」。伊藤さんは笑顔を見せた。高橋さんの残してくれた本、人そして津軽書房をこれからも大切に守っていくつもりだ。





県立さわらび医療療育センター所長 平成18年10月 1日掲載

           吉村 伊保子 さん

子育ての楽しい社会に思いを込め講演会企画  

d206_3.jpg 岩木山の山すそにある県立さわらび医療療育センターを訪ねた。西洋フヨウや黄色いキクイモの花が咲く道を走り抜け、眼下に弘前市街を眺めることのできる山ろくに到着。すがすがしい山の気に包まれて同センターは建っている。

 長年「さわらび園」の名で親しまれてきたが、四月からさわらび医療療育センターと名前が変わった。重症心身障害児施設と病院の二つの機能を持つ施設だ。肢体不自由や知的障害など重度重複した障害を抱える子供たちなど約三十人がここで生活している

 同センターの所長が吉村伊保子さん(63)。「入所者に生き生き輝いて過ごしてほしい」と考え、さまざまな企画を立て、豊かな時間を過ごせるよう工夫を凝らしている。

 訪れた日は体育館でボウリング大会の真っ最中だった。子供たちと職員が一緒になってボウリングを楽しむ。車いすから下りて、自分で斜面からボールを投げる子。職員にサポートしてもらい一緒にボールを落とす子供。ピンが倒れるたびに歓声が上がり、笑顔が浮かぶ。

 就学児童、生徒以外の人たちは「フレンドクラス」に入り、ちぎり絵、フラワーアレンジメント、詩吟、能などを職員と一緒に見たり、聴いたり、実際にチャレンジしたり。「日々の活動を生き生きさせないと、子供たちの心が死んでしまいます」と吉村さんは話す。

 瀬戸内海の人口九百人の小さな島で生まれ育った。一学年九十人中、普通高校に進学したのは吉村さんと男子生徒の二人だけだった。

 高校三年の時に父親が亡くなり、「女の子は勉強するものじゃない」という親戚の声に従い、一度は大学進学を諦めたという。

 島は無医村のような状態だった。「母が病弱だったので、病気になるたびに心細い思いをしていました」。高校卒業後、三年間働いた後、「やはり勉強したい」と信州大学医学部に進んだ。新潟にある脳神経研究所で神経内科学を学んだ後、一九七八年、県立さわらび園の医師となった。

 並行して弘前大学医学部神経科、精神科で神経疾患の人々を診療してきた。認知症、知的障害、肢体不自由、精神障害、パーキンソン病、ALSなど「障害」をキーワードに、さまざまな年齢層の患者の診療にあたる。

 「相手の話にじっと耳を傾けるのが仕事」と穏やかな笑顔を見せる。
 吉村さんは二年前、日本で最初の知的障害児学校「しいのみ学園」を創立した?f地三郎さんの講演会を企画し、県武道館に千六百人が集まった。吉村さんがこの地で築いてきたネットワークの力だ。
 今年は、児童精神科医で子供たちの心の問題に取り組み、子育てに開する著書も多い佐々木正美さんを呼び、「コミュニケーションの力を育てる」をテーマに講演してもらう計画だ。

 「今はコミュニケーションが難しい時代。子育てを楽しめる社会になってほしい」。そんな願いを込めて企画した講演会だ。

 弘大付属病院や同センターの外来では、医者として過食症、拒食症、リストカットを繰り返す子供たちに接し、お母さんたちの話をじっくりと聴く吉村さん。子供たちが抱える問題の根本は何なのか。講演会を通してみんなで一緒に考えていきたいと考えている。

 「手作りの講演会。一人でも多くの人に聴いてほしいですね」。講演会を通して増えていく人とのつながり、ネットワークが吉村さんの財産となり、次の活勣へのエネルギーとなることだろう。

 ※「佐々木正美講演会」は二十八日午後一時から三時まで、弘前市の県武道館で開かれる。入場無料。





  大間原発に反対する 平成17年12月28日掲載

           熊谷 あさ子 さん

大間の海は生きる力             

d206_4.jpg 本州最北の町下北郡大間町。海を隔て目の前には北海道が横たわり、青々と豊かな大地が広がる。大間の海はマグロやコンブ、ウニやアワビなど魚介の宝庫として全国に知られている。

 この地に原子力発電所建設の計画が進んでいる。既に原発予定地の98%の買収が終わり、着工を待つばかりだが、この地でたった一人反対の姿勢を貫いている女性がいる。漁業に携わる熊谷あさ子さん(67)だ。

 あさ子さんは原発の炉心部予定地に畑を持っている。これまでさまざまな形で事業主である電源開発から土地を売却するよう求められてきたが、一切応じぬという強い意志を持ち続けてきた。「原発ができ、温排水が流れれば大間の海はおしまい。わらんどの職場はここの海。何億円積まれても首を縦には振らないよ」

 たっぷりと温和な表情。厳しい口調と笑顔が交じり合う。「反対派」という言葉が放つイメージとは全く違う。畑を耕し、海で漁を続ける一人のかあさんだ。

 この町でたった一人NOと言い続けることの難しさは容易に想像できる。なぜ? と問えば「自分の働く場所を守るためさ」と明快な答えが返ってくる。大間の海があさ子さんの生きる場所なのだ。

 あさ子さんは大間に生まれ、大間で育った。小学校五年生で父親が亡くなるまで、母親は四人変わったという。「父親が死んだ後はまごじいさんに男としてしこまれたの」と笑う。十三歳から船に乗った。朝五時にはコンブを取りに出、その後学校に行くという暮らし。

 中学を卒業してすぐ、本家が決めた相手と結婚した。「十六歳で結婚届と娘の出生届を出したの。ドラマみたいだね。楽しかった時なんてあったのかなあ」

 結婚相手は酒の好きな人だった。気に入らないことがあるとあさ子さんにあたった。「わらしがいたから我慢できた。根性だよ」と笑顔を見せる。心に決めたことは最後までやり抜くことがあさ子さんの信条だ。

十年前、夫が亡くなり息子と二人で漁を続け、畑を耕してきた。その畑が原発予定地になった。回りの人は皆土地を売った。漁師は漁業権を放棄し、補償金をもらった。大間の海は暖流と寒流がぶつかり合い、潮の流れが早い。だか    
らこそ海草も魚もおいしい。「わいは腹決めてるよ。花っこ植えて、野菜っこ植えて、ウグイスの声聞きながら畑耕すってさ」

 原発の敷地はぐるりとさくで囲まれている。あさ子さんは自分の畑まで行くのに、チェックを受けなければ入ることができない。愛犬チョロとチビと一緒に行く。「人間の気持ちは金では買われないと。ここで細々とまんま食っていければそれでいい。ここの海がどれだけみんなの生きていく力になるか」

あさ子さん法人で大間原発建設差し止めを求める訴訟を起こしている。「裁判になってもなんもおっかなくない。うそだことしてなければ皆分かってくれると思うよ」。にっこり笑った顔が胸に残った。





    薬草の講座を開く 平成16年 5月 1日掲載

           福士 悦子 さん

夫の遺志を引き継ぎ 薬草の楽しさ伝える   

d206_5.jpg ひとたび薬草の話を始めると、とどまるところを知らない。立て板に水の勢いだ。

 NHK弘前文化センターの日曜健康サロン「身近な薬草」の講座を開く福士悦子さん(70)はエネルギッシュ。「道端や庭に生えるタンポポやヨモギ、ハコベなどはみんな薬草。タンポポの葉はビタミンが豊富で根は健胃作用があるんですよ」。管理薬剤師として現在もばりばりと働く悦子さん。そのパワーはどこから来ているのだろう。

 元弘前大学教育学部養護学科の教授で、ハエの研究家としても知られた夫の襄さんが亡くなって十年。襄さんとともに野山を歩いた経験が悦子さんを支えている。

 県内に生息するハエを採集するのが襄さんの研究課題の一つだった。長袖、長ズボン、麦わら帽子をかぶり、軍手に虫取り網といういでたちの襄さんとともに、岩木山、八甲田など野山を駆け巡った。

 「ハエを取る合間に、夫がこれはニリンソウ、トリカブトと間違えやすいんだ。これは食べられるから採っていって食べようと教えてくれた。夫が私の薬草の先生」と悦子さんは襄さんとの山歩きを懐かしむ。

 襄さんと悦子さんは弘大医学部付属病院で出会った。東邦大学薬学部を卒業し、付属病院の薬局に勤務していた悦子さんを、同大医学部衛生学教室で助手をしていた襄さんが見初めた。

 悦子さん自身、学生時代から高山植物研究会に入り、北アルプスに登って生薬となる高山植物を探しに行くなど、元々薬草に興味を持っていたが、襄さんは悦子さんを上回る植物愛好家だったようだ。

 自宅にはイカリソウや紅花など、襄さんが手作りした薬草酒や果実酒がたくさん残されている。自宅の庭は襄さんが大切にしていたタンポポ、スギナ、フキノトウ、ワサビなどが今も自生する。「入が見れば雑草だらけで何も手入れしていないように見えるでしょう。でもこれらも全部薬草なの」と笑顔を見せる悦子さん。

 庭で襄さんが育てていた薬草は百種ほどもあった。襄さん亡き後、頼まれて悦子さんが薬草の生け花展を開いたこともある。「何流ですか?と聞かれたから、薬剤師流と答えたのよ」。襄さんの思いを継いだ悦子さんは、薬草の話などの講演も行う。

 毎月第三日曜日に開かれるNHKの講座では、身の回りにある薬草に親しんでもらおうと考えている。朝、庭から引き抜いた薬草を持っていき、受講生に見せながら説明を行う。「フキノトウは生薬名が款冬花。陰干しして、ゆっくり気長にせんじればせき止めになるんですよ」。健康おたくの私は興味津々だ。

 五月は民間薬と生薬、漢方薬との違いを紹介し、六月には受講生と一緒に弘前城植物園に足を運び、実際に薬草を見つける予定だ。「弘前城植物園には生薬となる植物が七十五種もあります。薬効を紹介しながら見ていくと楽しいですよ」。

 今後は薬草を漬けたお酒や薬湯の作り方、薬膳(ぜん)料理の作り方なども紹介していく予定。「夫が教えてくれたことが私のベース。夫の代わりに薬草の話を伝えていきたい」と話す悦子さん。亡き夫襄さんとの二人三脚はこれからも続いていく。




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