第50回毎日書道展会員賞を受賞した 平成15年7月12日掲載
寺田 沙舟さん 「新しさを追究して 書の楽しさ伝える」
 うつくしい海をいちまい
 買った記憶がある

 ほっそりとした筆が真っ白な紙の上を舞う。筆が紙と接するや否や、そこから生まれる鮮烈な筆致。足袋を履いた足で床を踏ん張り、体全体でリズムを刻む。息を吸い、力いっぱい筆で紙をねじ伏せる。かと思えば紙の上で、筆が軽やかにステップを踏む。筆の動きに合わせるように黒い髪が揺れた。

 第五十回毎日書道展において、最高賞である「毎日書道展会員賞」を取った。受賞作は近代詩文「うつくしい海をいちまい」きょう十二日、東京の赤坂プリンスホテルで授賞式が行われる。満面の笑みでステージに上がるのか、涙、涙になるのか。「雲の上の賞。手が届くなんて思ってもいなかった」。寺田沙舟さん(55)はそうつぶやいた。

 高校を出てすぐ、故佐藤中隠さんの下で書を学び始めた。初めは趣味のつもりだった。四十歳を過ぎたころ、一つの転機を迎える。「一人でやる」。佐藤さんの元を離れ、独立。日展、毎日書道展、創玄展と一人で出品を続けた。落選が続き、ただ一人、書くだけの五年間。「でもね、その五年があって、一人前になれたと思うのさ。この時、書を仕事にしようと決めました」常に新しいものを目指してきた。書もおしゃれも食も、何もかも。無類のワイン好き。毎晩、夫の茂樹さんと二人でボトルを一本空にする。ほんのり酔ってから、筆を握る。

 この人ほど見た目と中身にギャップのある人はいない。粋に着物を着こなす姿は任侠(にんきょう)のあねごのような雰囲気だが、家庭的で料理と裁縫が得意。子どものころは、人前で話すことの苦手なおとなしい子だった。「お嫁さんになるのが夢だったのさ」と笑う。

「飲んでから書く方がいいものが書ける気がするの」。飲むと自分の殻を壊せる気がするのだろう。今回の受賞作も飲んで書いた一枚だった。優しい海の色を出したくて、あかね、茶、青と三種の墨を混ぜるうちに、何色ともつかない淡墨が出来上がった。ほっそりと柔らかな羊の毛で一気に書き上げた。のびのびと明るい作品。紙の上にいちまいの海が広がった。

 一九九四年から東京の書家金子卓義氏の下で学んでいる。「師と同じように、書の楽しみを伝えることのできる人になりたい。いい作品を書くだけでなく、後進を育てる。そういう形でお返ししていきたいですね」金子門下生の受賞パーティーでは、受賞者がステージで歌を披露する習わしになっている。妹で同じく書家の肥後黄娥さんと二人、意を決し、こまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」を感謝の気持ちを込めて歌うつもりだ。

 年を取るに従い、年々楽しくなるという沙舟さん。自ら主宰する北妖会の社中展には、さまざまな協力者が現れる。鉄工所の社長、詩人、画家、デザイナー、ちなみに北妖会とは北の妖怪だからと茶目っ気ある金子氏が命名したものだという。
今回の受賞は、北の妖怪に恥じないものだった。受賞をきっかけに沙舟さんと書がどう変化(へんげ)するのか。妖力がアップすること、請け合いである。

日本海拠点館内・amf事務局で働く 平成15年7月19日掲載
寺沢 愛子さん 「海、人、ホールにほれ 神奈川から鰺ヶ沢へ」
 青い海原が見たくなったら、弘前から車で走ることおよそ一時間。勇壮な姿の岩木山と広々とした日本海の見える町鰺ヶ沢に到着する。

 その昔、弁財船の湊(みなと)町として栄え、津軽藩始祖光信公の居城のあった鰺ヶ沢は歴史と文化の香りも漂う。そんな鰺ヶ沢の自然と文化に魅せられ、この春、神奈川から鰺ヶ沢に移り住んだ女性がいる。寺沢愛子さん、二十三歳。明るくて前向きで夏の海のように健康的。「鰺ヶ沢の大きな海と日本海拠点館のホール、ここで暮らす人々が気に入って、どうしてもここで就職したいと頑張りました」愛子さんは四月から日本海拠点館にあるamf(あじがさわミュージックフェスティバル)の事務局で働いている。

 愛子さんが鰺ヶ沢の海と出合ったのは二〇〇一年の夏。鰺ヶ沢町は音楽の里づくりを目指し、二〇〇年からAMF(当時)ミュージックキャンプを開催している。キャンピングパーク内のログハウスに泊まり込み、第一線で活躍する講師から、ピアノ、バイオリン、チェロなどを学ぶ。

 昭和音大でピアノを専攻していた愛子さんは友人に誘われ、ミュージックキャンプに参加した。たまたま参加したこのキャンプが愛子さんの人生を変えた。開校式が開かれた日本海拠点館に足を踏み入れた途端、目の前に広がる青い海に圧倒された。キャンプでの四泊五日は、音楽の楽しさを再確認させてくれたという。

 ピアノ、チェロ、バイオリン、三つの楽器が織りなす室内楽のハーモニー。仲間と一緒に一つの音楽を作り出す喜び。「小学生や中学生にもこんな素晴らしい経験をさせてあげたい。この仕事にかかわりたい。鰺ヶ沢で暮らせたらとその時思いました」それからが大変だった。長野に住む両親に鰺ヶ沢で働きたいと伝えたところ、返ってきた反応は「鰺ヶ沢ってどこ?」「何で鰺ヶ沢なの?」。

 卒業後は昭和音大のある神奈川から長野の実家に帰ってきてほしいと願っていた両親にとって、鰺ヶ沢に就職したいという愛子さんの希望は理解できないものだったろう。鰺ヶ沢がいいのだと一年かけて説得した愛子さんに、両親は根負けした。
そして今年の四月。愛子さんの元を訪ねた両親は、温かく迎えてくれた鰺ヶ沢の人とおいしい魚に感動。「本当にいい所に就職したねと言って、帰って行きました。

 長野には海がないですからね」と愛子さんはにこやかな笑顔を見せた。愛子さんは今、八月に開かれるミュージックキャンプの準備を進めている。今回はスタッフとしてキャンプに加わる。「一人でも多くの人に参加してもらい、来てよかったと思ってもらえれば。その人たちが鰺ヶ沢を好きになってくれればいいですね」と愛子さんは話す。

 事務局の仕事はキャンプの企画運営ほか、日本海拠点館でのコンサートの企画、公開講座、地域の家庭に出向いての“出前コンサート”の開催など。出前コンサートでは、愛子さん自身ピアノ演奏も行う。「音楽を身近に感じてもらえたらいい。地元の方とも音楽を通してもっと交流できたらいいな」。夢だった鰺ヶ沢での暮らし。音楽の楽しさを伝える仕事。キャンプに向けて、愛子さんの暑い夏が始まる。

弘前・熊野奥照神社 平成15年8月9日掲載
  宮司 林 雪子さん
  禰宜 渡辺 友美さん
「夫から宮司継ぎ 母娘で守る伝統」
 国の重要文化財に指定されている熊野奥照神社は、弘前で最も古い神社といわれている。七八八年、弘前に遷座して依頼千二百年余り、熊野さまの名で市民に親しまれてきた。

 熊野さまの宮司を務めるのが林雪子さん(58)。四十一歳で宮司となり、伝統ある神社を守ってきた。禰宜(ねぎ)が娘の渡辺友美さん(33)。子育ての傍ら、母の片腕として熊野奥照神者を支えている。

「宮司になって十七年。何も分からず、普通の主婦が宮司になったものですから、周りから手取り足取り教えていただきました」と雪子さんは振り返る。

 二十三歳で県庁の職員だった美紀(よしのり)さんと結婚した。熊野奥照神社の宮司だった父親が亡くなり、美紀さんが跡を継いで十年。四十六歳の若さで美紀さんが亡くなった後、雪子さんが夫の思いを引き継いだ。

 中学三年生だった友美さんを頭に、中学一年、小学校四年と三人の娘を育てながら、国学院大學の神職養成講習会に通い、岩木山神社で実習を行って階級をもらい、宮司の任命を受けた。「最初は女性の宮司に偏見もあった。みことのりをあげる際、男の神主さんにやってほしいと言われたこともありました。今は逆に重宝がられています」。雪子さんは時の流れをかみしめる。

 宮司になった翌年には、遷座千二百年祭の大きな節目を迎え、十五町会の協力の下、三社殿の改築を行うなど美紀さんの長年の思いを実現させた。失敗もあった。地鎮祭に行って、いざおはらいとなった時、大切な大麻(ぬさ)を持ってくるのを忘れたことに気付き、鈴で代用したこともあった。「怖いもの知らず。自分の運命とただがむしゃらに突っ走ってきました」とほほえむ雪子さんだが、母親の思いはそのまま娘の友美さんに引き継がれ、現在は二人で力を合わせ、元旦祭、厄除祭、宵宮とこなしている。

「何年やっても難しいことばかり。慣れるということはありませんね。いつ緊張しています。でもいろいろな世代の方と交わることができるのが魅力です」と話す友美さん。結婚式、七五三など神職には土曜、日曜の区別はない。休日はサラリーマンである夫の輝樹さんが長男響君の面倒をみてくれる。「夫の協力があってこそ」と友美さん。

 普段はTシャツにズボン姿で境内の掃除、草取りまでこなす雪子さん。今は猫八匹との穏やかな暮らしを慈しむ。「なんぼ時代がかわっても、目に見えないものに手を合わせる気持ち。感謝の気持ちを持ちたいですね。この仕事は定年がないので、元気なうちは娘と二人でご奉仕したいと思います」。社務所に座り、ゆっくりと境内を見回しながら、雪子さんは話した。神社を包む杉木立の奥から、津軽の短い夏を惜しむように、ジジジとセミの鳴き声が聞こえてきた。

「はねっと」をテーマに描く画家 平成15年8月16日掲載
福岡 幸子さん 「津軽の祭りを描き 故郷の姿見詰める」
 弘前市相楽町の喫茶店「うーの」で三十日まで、弘前市の詩人葛西美枝子さんと共に、絵と詩の二人展を開いている。

「うーの」のドアを開けて中に入ると、作品から津軽の祭りの残り香が立ち上る。画材は墨と顔料、油彩にペンとさまざま。油彩もいいが、さらりと描いた墨彩画もいい。墨を含ませた筆で一気に、祭りの闇を描き出す。闇の合間で紅の衣装を揺らし、跳人(はねと)たちが風になる。

 息を合わせ、リズムを合わせ、激しく跳ねる男と女。夜の中に浮かぶ白い顔。狂ったように踊る女たち。なまめかしい体の動き。激しい息遣いまで伝わってきそうな跳人たちの動きに目を凝らすと、遠くからまつりの太鼓とラッセラーラッセラーの掛け声が聞こえてくる。

「『はねっと』と私は呼んでいます」と話すのは作者の福岡幸子さん(59)。弘前市に生まれ、現在は埼玉県川口市に住む。「はねっと達」をテーマに絵を描いて三十年以上になる。

 武蔵野美術大学で油彩画を学んだ。二十五歳の時、初めて青森ねぷた祭りで跳ねた。「これだ」と思った。それからずっと、「はねっと」を描いてきた。闇と明るさ、陰と陽が交錯する。「跳人を描いているけど、これは弘前の絵ですねと言われたことがあります」と福岡さんは話す。

 三歳で弘前から関東に移り住んだが、毎年夏になると弘前公園の中にあった母方の実家に遊びに行き、闇に揺らめく扇ねぷた、鏡絵、見送りを見た。「小さいころから、自分の中にある津軽の血を感じてきました」「はねっと達」を描くために、夏になると必ず青森にやって来る。青森ねぶたを見、自らも跳ねる。一人で跳ねていた福岡さんが、やがて夫の新一郎さんと二人で跳ね、子供が生まれて三人で跳ね、四人で跳ね−。子供たちは成長し、友達を連れてきて跳ねるようになり、今年は再び夫と「二人はねっと」に戻った。

 家族の形が変わっていったように、福岡さんが描く「はねっと達」も変化していった。津軽のおどろおどろしい闇を表現したかった年もある。怖いほどに美しい女の「はねっと」を描いた時もある。降りしきる雪の中で跳ねる人々を描いた時もある。色彩が澄み、躍動し、そして今、愛らしい笑顔の津軽娘が和紙の上できらきら飛び跳ねる。

「平和の音」と題した作品は、手のひらにハトを乗せた少女が描かれている。「世の中が平和でないとお祭りはできません。はねっとが鳴らすチリチリという鈴の音は平和の音。子供たちの時代に戦争が起きないように祈る気持ちで描きました」
絵を描くことで故郷津軽を見詰めてきた福岡さん。「祭りに参加することで一年分のエネルギーをもらってきた」と笑う。これからも、空と大地と闇に包まれて跳ねる故郷の人々の姿を、ひたすらに描いてゆくつもりだ。

(株)タツノ 平成15年9月6日掲載
 会長 鎌田 タツノさん
 専務 鎌田 尚子さん
 社員 鎌田 裕子さん
「祖母から娘や孫へと 手渡す商売のバトン」


「三人とも男っぽいね」「あんたは男みたいだよ」。ポンポン言い合う祖母、娘、孫の三人。今も現役、四、五年に一度しか休みを取らないというタフな鎌田タツノさん(73)歳は身長170センチのビッグなおばあちゃん。ママさんバレーで鍛えたスリムなボディをチャイナドレスに包み、店内をかっ歩する娘の尚子さん(57)。ギャルソンのイメージで少年っぽくきめる孫の裕子さん(23)。中華レストラン「豪華楼」と「海馬(ハイマ)」を支える元気な女性三代だ。

 タツノさんは浪岡町の生まれ。出征する前にと、十五歳でいいなずけの誠司さんと結婚。十六歳で尚子さんを産んだ。終戦後は製材業を営む誠司さんを支え、穏やかな日々を過ごしたが、七四年に誠司さんが亡くなり、タツノさんの人生は一変した。

 二年後、タツノさんは弘前市駅前に第一ホテルを建設。その中に作ったのが「豪華楼」だった。「無鉄砲の怖いもの知らず。分からないからできたんでしょうね」。全くの素人から実業家への転身だった。

 第一ホテルが駅前開発にかかり、一時はやめようかと考えたタツノさんだったが、従業員らの「やめないで」という声と、尚子さんの「仕事辞めたらぼけるわよ」の励ましに背中を押され、九五年、株式会社「タツノ」を立ち上げた。新装オープンした「豪華楼」のマダムに抜擢されたのが尚子さんだった。尚子さんは二十三歳で婿を取り、四人の子育て、PTA活動など主婦業を満喫していたが、四十九歳で社会人としてデビュー。「子供の手も離れたし、働かないとだめと母に言われました。人に会うのが大好きなので、この仕事はとても楽しい」と尚子さん。

 裕子さんは幼いころからバレエを習い、筋力、腕力に自身あり。エアロビクスと水泳のインストラクター養成学校に通ったこともある体育会系だ。「気質も体育会系で、力持ちと言われて喜んでいるわね」と尚子さんは裕子さんのタフネスに太鼓判を押す。裕子さんは平成十一年十一月十一日にオープンした郊外型のおしゃれな中華レストラン「海馬」のサービス係としてさっそうとした姿を披露。祖母と母を脇から支える。

 思い切った事業展開だが、「私のことですから深く考えることもなく建てたんですよ」とおっとり話すタツノさん。「海馬」とはタツノオトシゴのこと。タツノの落とし子と語呂を合わせた。「海馬」は手ごろな値段設定でありながら、ゴージャスであか抜けた雰囲気が魅力。裕子さんら若手の丁寧なサービスも気持ちがいい。
「息を引き取るまで現役でいたいですね」「幾つまでチャイナ服を着られるかチャレンジしたい」「夢は人類平和で商売繁盛かな」。三者三様の夢を語る三人。タツノさんから尚子さん、尚子さんから裕子さんへ、バトンはしっかりと手渡されていく。

高木静一商店 平成15年9月20日掲載
高木 弘子さん 「神奈川から弘前へ 縁の不思議さ思う」
 今では市内でも珍しくなった金看板が風格と趣を添える弘前市松森町の高木商店。店内に足を踏み入れると、薬品と肥料の入り混じったにおいが鼻を刺激する。

 高木商店は、初代の静一さんが肥料と農薬の店として店を興し、二代目の修さん、三代目の健宏さんに引き継がれ、現在、亡くなった健宏さんに代わり店を切り盛りしているのが妻の弘子さん(64)。店を引き継いだ後、心機一転頑張るぞとの思いを込め、看板の金ぱくを新たにした。

 はっきりとした口調。相手が誰であってもきちんと自分の思いを話す。そのきっぱりとした姿勢は、PTA活動と長年にわたる三大地区地域づくり協議会の事務局長として活動する中で培ったものだ。「知らない土地に嫁いで来て、この土地のことを知りたい、友達が欲しいという思いからPTAの役員を引き受けたのが最初」とほほ笑む。

 弘子さんは神奈川県川崎市の生まれ。薬学部の同級生だった健宏さんと結婚し、一九六五年に弘前にやって来た。「当時は雪が多くて、かさに降る雪の音も今とは違いました」。昭和に初期に建った家はサッシでも二重ガラスでもなく寒かった。店内は弘子さんが嫁いできた当時と全く変わらない。しっくいの天井。観音開きの窓。木製の事務机。昭和のままの時の流れが止まったようなたたずまいだ。

 健宏さんが店を守り、弘子さんは薬品の卸会社に管理調剤師として勤務するという穏やかな生活は、九三年の健宏さんの死で破られる。「神奈川に帰ろうなんて気はさらさらなかったの。とにかく高木商店の看板を守らなくてはと思いました」
お葬式の後、弘子さんが店を続けると宣言した時、大方の人が女ではやっていけないという反応を見せた。「肥料と農薬を扱うこの商売は男の世界。主人もこの業界は女が出るものではないという考えでしたから、私自身、やるとは思ってもいませんでした」

 四代目として店を守って十年がたった。きゃしゃな体で一袋二十キロの肥料を担ぐ。農家の人が直接農薬を買いにやってきて、「今の時期ならリンゴに何の薬を掛けたらいい?」と尋ねてくる。「一生勉強」と弘子さん。その傍ら、三大地区地域づくり協議会の事務局長となって二十一年目を迎えた。学区の子供たちと地域で暮らす人々との触れ合いの場づくりを進め、地域で子供を守り、育てていこうという活動に力を入れる。

「三大学区はみんな仲良し。学校、町会、PTA、体協など地域が力を合わせてネットワークを作り、子供たちを守ろうとやってきた結果です」弘子さんは時折、弘前の弘の字を持つ自分の名前を不思議に思うことがある。「弘子さんは弘前に来たから、これだけの活動ができるんだよね」と言われることもある。「高木の仏様をみんな送って、よそ者のわたしがこの店を守っている。思えば不思議な運命」と静かに笑う弘子さん。

 健宏さんが残してくれた高木商店とたくさんの友人たちに囲まれ、弘前の地で心豊かな日々を過ごす弘子さんにとって望みはただ一つ。いつまでも高木商店が続きますように。それが弘子さんの願いだ。


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