平成14年8月10日 掲載
能正 幸子さん 親業訓練インストラクター
 弘前市立和徳幼稚園にある「ことばの教室」。子どもと一緒にミニカーで遊んだり、絵本や紙芝居を楽しそうに読んでいるのが講師の能正幸子さん(47)。明るい笑顔の持ち主だ。

「ことばの教室」には言葉の遅れ、自閉症などさまざまな問題を抱える子どもたちがやって来る。ここでカウンセリング指導に当たるのが能正さんの仕事。

 一緒に遊びながら、子どもたちの心がゆっくりと開くのを待つ。と同時に連れ添う母親や父親の話を聞くのも大切な仕事。そんな能正さんにはもう一つ「親業訓練インストラクター」という顔がある。

 「最近は子どもとのコミュニケーションの取り方が分からない人が増えている。そんな人のお手伝いができれば」「親業訓練インストラクター」とはどんな仕事だろう。「親業訓練」は、一九六〇年代にアメリカの臨床心理学者によって始まった、親と子のコミュニケーションの基本的訓練のこと。

 「子どもの気持ちを受けとめる」「親の気持ちを率直に伝える」「親子の対立を解決する」ことを柱に、インストラクターが講座を開き、受講生はロールプレイを交えながら体験的に子どもとのコミュニケーションの取り方を学習していく。「子どものことで困って受講しても、結局は自分の姿が見えてくる。親としての自分が変われば、子どもも変わります」

 能正さんがインストラクターの資格を取ったのは三年前。「ことばの教室」の講師をする中で、言葉の少ない子どもとどうしたら上手にコミュニケーションを取れるか考えていた時、「親業訓練一般講座」の存在を知り、受講。「親業」に興味を持った能正さんは続けて東京での「上級講座」を受け、面接、論文審査、最後に「親業訓練養成講座」を受講してインストラクターとなった。

 「大切なことはまず子どもの話を聞くこと。命令、強迫、説教、非難、激励、尋問やごまかしたりせずただ相手の言葉に耳を傾けること」と能正さんはアドバイス。「次にわたしメッセージを出すこと。反抗期の子どもに『返事ぐらいしろ』と責めるのではなく、『返事をしてくれたらうれしいんだけどな』と自分の思いを伝えます。親と子どちらかが勝つのではなく、双方納得する解決法を一緒に見つけていくことが大切です」

 どう言葉で表現するかで子どもの反応が全く違ってくるという。能正さん自身、講座を受講してからは仕事だけでなく、自分の子どもに対する接し方が変わってきたという。「これは親と子の関係だけでなく、すべての人間関係に応用できるんですよ」

 能正さんはインストラクターとしてこれまでに青森市、浪岡町、弘前市などで「親業訓練一般講座」を開いてきた。「若い人からお父さんにも受講してもらえたらうれしい。やればやるほど深いなあって感じです」という能正さん。以心伝心という言葉があり、言葉で思いや愛情を伝えるのが苦手な日本人。話す技術、聞く技術を身につけ、たとえ親子でも、親子だからこそ上手にコミュニケーションを取ることが必要な時代になったのかもしれない。
平成14年3月9日 掲載
田中 弘子さん 弘前文化会館・中央公民館館長
 「早く女性第一号なんて記事が新聞に載らないようになってほしいですね」と話すのは四月から弘前文化会館・中央公民館の館長となった田中弘子さん(55)。行政職としては弘前初の女性管理職。「どの会議に出ても女性はただ一人」と田中さん。

 就任早々、館長室を取り払った。みんなの顔を見ながら仕事がしたいと中央公民館の事務室に自分の机を置いた。人間大好き。常に人と接する職場を歩いてきた。

 ふっくらとした体型が頼りになるお母さんの雰囲気。これまでに作り上げたネットワーク、人脈という財産を生かし、田中さんならではの企画を立てる。

 一九六五年、福祉事務所のケースワーカとしてスタートを切った。東洋大学では社会福祉を学んだ。実家は作業工場を営んでいた。父親かアルコール依存症や精神分裂症の患者を受け入れ、寝起きを共にする姿を見て育ち、福祉に関心を持ったという。

 福祉事務所に十六年、保健予防課(現在の健康推進課)に六年、続いて市民課、国保年金課、この三月までは学習情報館の館長補佐としてバリバリ仕事をこなしてきた。と書くと仕事一辺倒の仕事の鬼を想像するが田中さんはちょっと違う。二人の子どもを育てる中、城西小学校、弘前二中のPTA会長をやり、趣味の三味線と琴は芸歴三十五年だという多才ぶり。

 「PTA活動が面白いのはいろんな職種の人と知り合えるところ」と言い、PTA活動を通して地域の人とのつながりを培ってきた。すべてを栄養にしてしまう。「身体だけじゃなくてね」と柔らかく笑う。明るくエネルギッシュな田中さんだが、登庁拒否になったこともある。ケースワーカーをしながらの子育ての最中、実家の母親としゅうとが倒れた。仕事に子育てに介護。残業する時間も取れず、食事の片づけを済ませた後、子どもを背中にくくりつけて泣きながら仕事をしたこともあったらしい。

 「その時々、いろんな人に助けられました。二十代の頃は落ち込んだり、くよくよしたり。子育てとともにたくましくなった気がする」と田中さん。母は強しを地でゆく。子どもからお年寄りまで、生涯学習に関わる中央公民館。地域の文化向上に務める弘前文化会館。さまざまな事業があるが、中でも田中さんは家庭教育支援に力を入れる。

 自らの子育てを振り返り、「子育てやしつけなど家庭教育を見つめ直していくことが大切。子どもが一歳なら親も一歳。子どもが一年生なら親も一年生。子どもの年代に応じて、親育ての学習機会を提供したい」と張り切る。

 学生時代は読み聞かせや人形劇などを見せる児童文学研究サークルに入り、住んでいた東京の大塚で地域の子どもを集めて子ども会まで作ってしまったという子ども好き。中央公民館が主催する各種講座や子どもクラブにもこまめに顔を出す。フットワークの軽さは抜群。初の女性館長という気負いはない。楽しく自然体で男も女も関係なく仕事をしていくつもりだ。
平成14年4月6日 掲載
川口 みさ子さん 「ギャラリー川口」オーナー
 「ギャラリー川口」と書かれた入り口をくぐると、そこは別世界。染めた反物を干していたという土間。ひんやりとした空気。時の流れを重ねた天井、柱、土壁のやさしい色合い。そこには今も大正の時間が流れている。

 「やっとここにたどり着いたという気持ちです。ただその時々を乗り越え。ここまで遠かった」と話すのは、ギャラリーのオーナー川口みさ子さん(50)。鹿児島生まれの「薩摩おごじょ」。おっとり、おおらか、マイペース。いかにも南国育ちといった雰囲気の女性だ。

 みさ子さんは二十三年前、川口染工場の跡取りだった夫俊明さんとともに弘前にやってきた。みさ子さんと俊明さんを結びつけたのは「絵」。

 漫画家を目指し上京したみさ子さんは貿易会社に勤めながら、デッサン教室に通っていた。油絵を描き始めたみさ子さんの前に現れたのが、東京で絵を教えていた俊明さんだった。「こんなへたな絵は見たことがない。ぼくが教えてあげるよって。それが手だったんですね」と笑うみさ子さん。

 結婚後、聖愛高校で美術を教えることになった俊明さんは、みさ子さんを伴なって弘前へ帰ってきた。染め物の手伝い。家事に子育て。静かな日常は三年後、俊明さんが静脈瘤破裂で倒れ、破られる。一度は筆を折ったみさ子さんだったが、入退院を繰り返す俊明さんを励まそうと、再び絵を描き始める。「へたくそな私をこのま残して死ぬのって」

 俊明さんの体調がいい時を見計らって、弘前文化センター、田中屋画廊で二人展を開いたこともあった。みさ子さんは二人の子どもの姿や庭の草花、俊明さんは静物に裸婦、風景画。一九九五年、俊明さんは四十六歳で亡くなる。みさ子さんと、当時中学生だった二人の子どもを残して。

 みさ子さんはしゅうとめと二人で染め工場を切り盛りしてきたが、その義母も三年前に亡くなった。「我が家はこのままではつぶれるって思いました。この家で何をしたらいいんだろうとずっと考えてきたんです」

 今年の正月、物作りの仲間が作品を展示する場所が欲しいと話すのを聞き、ギャラリーの開設を思い立った。陶芸、彫刻、こぎん刺し、写真など仲間たちが作品を持ち寄った手作りのギャラリーが九月二十七日、オープンした。ギャラリーに足を踏み入れた人の口から「懐かしい」の一言がもれる。

 昔ながらのお座敷、土間、古いタンス。以前はどこの家にもあったけれど、今は目にすることができなくなった品々が、訪れた人の心を和ませてくれる。ゆったりと静かな空間。土間は貸しギャラリーとして使うこともできる。

 オープンの日、たくさんの友人がギャラリーを訪ねてくれた。「夫だけを頼りに弘前に来たのに、今ではたくさんの仲間や友達が助けてくれる。絵が縁で主人と知り合って、絵を描いてきたから仲間と知り合った。これからも絵を描いて、津軽のばさまになります」とみさ子さん。ギャラリー川口は懐かしく、いとおしいふるさとの家、そんな空間だった。
平成14年4月27日 掲載
吉田 むつきさん 国立モスクワ・クラシカルバレエ団ダンサー
 国立モスクワ・クラシカルバレエ団のダンサーとして舞台に立つ。

 入団三年目にして初めてヨーロッパ公演の出演者に選ばれた。十二月からヨーロッパ各地を回る。役どころは「白鳥の湖」の四羽の白鳥。白いチュチュをまとい、有名な旋律をバックに四人で手をつなぎ、呼吸を合わせて踊る。常にアンテナを張り、気配りをしながら、自分を表現する。しなやかな動きとは裏腹に体力的にきつい役だ。

 「日本人の足で白鳥に選ばれるのは大変です。見かけでなく、鍛えたこの足で選ばれた。ここまで来るまで長かった」とほほえむ吉田むつきさん(23)。

 高校卒業後、一人モスクワに渡った。ボリショイバレエ学校に入学して愕(がく)然として。「ロシアの人たちと一緒に鏡の前に立った時、なんてかっこ悪いんだろうと思いましたね」。小さな自信は崩れさった。もっとスリムにならなくてはと、拒食症にかかる留学生も多いという。吉田さんの得意技はグランワルツ、大きく踊ること。高いジャンプを買われた。

 卒業後は国立モスクワ・クラシカルバレエ団に入団。プロになった。団員は男女合わせて八十人。日本人はたった一人。演目の踊りをすべて覚えていないと役がもらえない。「私にはバレエしかない。ここで生き残るしかない。私は外国人だから、練習に行って、踊りを見て覚えて、踊って、先生に気に留めてもらうしかないと思いました」

 役柄もないのに必死でリハーサル場に通った。一年目は、休んだ人の代わりに役をもらった。二年目はコール・ド(群舞)の中に自分の居場所が決まった。そしてやっとつかんだ四羽の白鳥の役。素直さとエネルギッシュが吉田さんの持ち味だ。

 八月、夏休みで帰国し、弘前の舞台に立った。吉田さんの師、青山洋子さんが主宰するヒロサキバレエカンパニーのコンサート「くるみ割り人形」でアラビアの踊りを披露した。しなかやでダイナミックな踊りが会場を圧した。

 今月はサンクトペテルブルクの劇場で、古代ローマの奴隷の反乱を描いた大作「スパルタクス」に出演する。ロシアならではの力強いダイナミックな演目だ。初演で踊った後、「マラッツィ(よくやった)」。そう監督に言われ思わず「プラービリナ?(ほんと?)」と答えた。

 「目指すのはアーティスト。ただ足が上がるだけのダンサーならロシアにも日本にもいっぱいいる。ため息がでるほどたくさん。その中で個性を出したい。見ている人があっと思ってくれるようなアーティスト」と吉田さん。 これからたくさん本を読んで、映画を見て、いっぱい恋をして、もちろん精進して、大人のダンサーを目指す。
平成14年5月11日 掲載
藤田 公子さん そば「高砂」おかみ
 のれんをくぐり、店に入った途端「いらっしゃいませ」。藤田公子さんの明るい声が響く。「ありがとうございます」「いらっしゃいませ」の声が交差する店内。活気あふれる「高砂」を切り盛りする、三代目おかみが公子さん。白いブラウスにきりりとしめた紺のエプロンがよく似合う、清潔感漂う女性だ。

 学校を出て二ヵ月後、二十二歳で「高砂」の後継ぎである敬三さんと結婚した。さぞかし清楚(せいそ)なジューンブライドだったろう。「若くて世間知らず。全く覚悟もなくここに来ました」と話す公子さん。結婚と同時に「高砂」の一員となり、注文、お運び、お勘定と一から始めた。

 きびきびと働く公子さんだが、初めは戸惑うこともあっただろう。「注文を聞き間違えたりはしょっちゅう。いつも人に助けられてきました。先代たちが作り上げたものを引き継ぐ難しさ。自分たちのものではなく、預かっている大変さはありますね」

 そばつゆを作るのはおかみの仕事。三年前、しゅうとめで二代目おかみのサダさんから「高砂」の味を引き継いだ。サダさんは体調を崩して病院を訪ね、一九九八年秋、全身の筋肉が動かなくなる難病「ALS」(筋萎縮性側索硬化症)と診断された。

 発症して四年。サダさんは人工呼吸器を着け、自宅で暮らしている。店の仕事と介護の両立は可能か、在宅か入院か。公子さんはALSについて一生懸命勉強し、家族みんなで協力してゆく在宅介護の道を選んだ。「ここはおばあちゃんの家。意思はしっかりしているし、自宅で暮らしていけると思いました」。一時間に一度の痰(たん)の吸入、体位の変換、人工呼吸気の管理。仕事の合間をぬい、公子さんはサダさんの寝室に走る。呼吸器に異常が起きれば、店の調理場に設置したアラームが鳴り出す。

 夜、公子さんはサダさんのベッドの隣に自分の床をのべる。夜中も二時間に一度の痰の吸入は欠かせない。食事は三回、直接胃に経腸栄養剤と湯冷ましをあげている。サダさんは目と首をかすかに動かすだけだが、店を閉めた後、敬三さんと公子さん、二人できょうの店の様子を話して聞かせる。「おばあちゃんの知っている人が来たよと話したり、店のことを相談したり。目でコミュニケーションしています」

 昨年の暮れ、弘前市でALSの家族会が誕生した。二ヶ月に一度、家族が集まり、互いに心を開いて話し合う。「同じ立場の人間同士話をすれば気も楽になる。その時その時、まずやってみること。行動してみないと」公子さんは話す。

 「二十年間、嫁、しゅうとめでずっと商売をしてきたから、二人で旅をしたりする時間はなかった。これからは二人で一緒に楽しみたいですね」「曇りのち晴れだよ。いぐね顔すればまいねよ」がサダさんの口癖だった。いつも笑顔で心に太陽を持って。それが二代目から引き継いだ「高砂」のおかみの心意気だ。
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