平成13年12月8日 掲載
堀尾 妙子さん 「古伊万里の店「陶美苑」をひらく」
 弘前市北川端町に古伊万里「陶美苑」と看板を掲げた店がある。店内には骨董(こっとう)と洋服が並び、ブティックと呼ぶには不思議な雰囲気。骨董品、美術と聞くと、おじいさんが店番をしているようなイメージだが、店を切り盛りするのは堀尾妙子さん(52)。笑顔がチャーミングな女性だ。
「骨董に引かれて二十年。古いものにはストレスをいやしてくれるものがあるんじゃないかな」。妙子さんの隣では猫の福之助がとろとろとお昼寝中。「福之助はお江戸の生まれ。猫も骨董で、もう八十八歳なのよ」と笑う。江戸時代のものというそばちょこで妙子さんがお茶を出してくれた。やさしい藍色にほっと心が和んだ。

 妙子さんは二十一歳で実業家としてスタートを切った。母美知子さんの洋装店「カルダン」の二階に開いた「堀尾妙子服飾研究所」を皮切りに、庭園喫茶「京」、バスを買い取り改装して店にしたカレーショップ「バス停」などバリバリと仕事をこなした。「母は京都の生まれで、先祖は近江商人。血が騒ぐというのか、わたしにもきっとその血がながれているのね」とカラカラ笑う。そんな妙子さんの心をつかんだのが刀のつばだった。

「見て、きれいでしょう」と大切にしまわれた桐の箱を開けてくれた。中から出てきたのは、刀のつばというにはあまりにもしょうしゃな品。波と桜の花があでやかに刻まれた刀のつば。おひなさまと羽子板、梅の花や絵草子が刻まれたもの。「刀というと闘争の道具だから、猛々しいと思うけれどこんなに美しい。つばのデザイン性、職人さんの技に引かれたんです」人を殺傷するための武器にかけた、日本人の美意識に驚かされた。今も妙子さんとともに店を守る「番頭」の長谷川洋一郎さん(78)と骨董品屋をのぞくうちに、妙子さんもすっかり古いものの魅力に引かれていったという。

「新しい何かを始めたい」という思いがあふれ、三十一歳で東京の自由が丘に古美術・古伊万里の店「陶美苑」を開店。東京銀座四丁目の骨董店を手伝いながら、目を養った。「とにかく柿右衛門、鍋島など本当にいいものを見るのが一番。この世界は奥が深くて、何十年やっても勉強。見ることで目が鍛えられる。藍の色一つでも目で覚えるしかないんです」桜、菊、ボタンなどが描かれた色鮮やかな元禄色絵の湯のみは三百年もたつという。「いいものほど大切に保存されているから新鮮。古伊万里にはエネルギーがある。名もない陶工の素直な気持ちが込められているから、見ているだけで何だかほっとしますね」

 十三年前、弘前市北川端町に「陶美苑」弘前店をオープン。五年前美知子さんが病に倒れ、母の介護をしながら陶美苑を続けている。弘前店にもたくさんの骨董好きが訪れる。ゆっくりと器を眺め、手にとってその感触を味わい、楽しい時間を過ごしていく。毎年夏には、明治、大正時代の懐かしいガラスコップも展示する。「いいものが手に入った時が一番うれしい。自分でも売りたくないなと思うものを扱わないと。かっこよく言えば、私はお客様への美の橋渡し役」と言って笑顔を見せる妙子さん。

 即断即決のきっぷのよさと「なんとかなるさ」のおおらかさ。「家庭には向かないでしょ。骨董ほど引かれる男がいなかったってことかな」。歳月を重ねたものならではの安らぎと温かさ。殺伐とした、こんな時代だからこそ、そのぬくもりが心に響くのかもしれない。
平成13年12月16日 掲載
三橋 充子さん 「スリーブリッジ」オーナー
 わたしの手元に一枚の名刺が残っている。一九九八年八月に三十四歳で亡くなった三橋健さんの名刺だ。三橋さんは弘前市上瓦ケ町にあるパン屋「スリーブリッジ」のオーナーだった。亡くなる前年だろうか。取材の申し込みを断られた。「まだ修行中の身ですから」。照れたように笑った三橋さんの笑顔と名刺が、わたしの元に残された。

 あれから四年。「スリーブリッジ」は、妻充子さん(37)の手に引き継がれ、健さんが生きていたころとまったく変わらない姿でそこにある。「今度は断らないで」、少しためらいながら、充子さんに電話した。「今も修行中。夢とかそれほどの目標もないんです。毎日、毎日ベストのパンを作るだけ。それでもいいなら」という充子さんの言葉に、「スリーブリッジ」を訪ねた。

 カントリー調の木のドアを開けると、こうばしいパンのにおい。アットホームな温かい雰囲気が体を包む。棚にはソーセージパンからおしゃれなナスのピザ、パリジェンヌが似合いそうな生ハムをはさんだフランスパン、ずしりと重たいドイツ風のパンなどが並ぶ。スリーブリッジのパンにはしっかりとしたかみごたえがある。かめばかむほど味わいのある、そんなパン。二人が修行した東京世田谷の「ベッカライ・ブロートハイム」直伝の味だ。

 五所川原市生まれの健さんと東京生まれの充子さんは北海道の大学時代の同級生。酪農学科で共に学んだ仲だ。二十四歳で結婚し、札幌で新居を構えた。健さんの夢は、高校時代を過ごした弘前でパン屋を開くことだった。二人で上京し、三年後の開店を目標にパン屋で修行した。充子さんは販売、健さんは製造の勉強を。「とても計画的な人でした」と充子さんが話す通り、三年後の九三年、二人は夢を実現する。「スリーブリッジ」の誕生だった。

 店の経営が順調にいく中、健さんが発病。闘病中は健さんの希望で充子さんとスタッフが店を守った。「いつか自分が見せに戻るからという思いだったと思います」と充子さんは振り返る。健さんが亡くなって、充子さんは体が半分なくなったような気持ちになったという。どうればいいんだろうという迷いの中、二人の子どもたち、友人、スタッフに助けられた。「お客様の声にこたえたいと思いました。二人で築いてきたものですから。自分で作れなかったら、売ることはできないと思いました」それから店のスタッフの下でかま、仕込み、パンの成形と充子さんは修行を続けてきた。

「わたしにとってパンは特別な存在」と笑顔を見せる充子さん。「パンはわたしにとって幸せの象徴。健康で幸せでないとパンは食べられない。彼が病気になった時、私はパンを食べることができなくなった。最近やっとパンがおいしいと思えるようになってきました」。充子さんは少し遠くを見た。

 店にはスタート時と同じく、四十種類のパンが顔をそろえる。時々、「おとうさんの味がする」とお客さんに言われる。充子さんの顔に笑顔が広がる。厨房には健さんの身長に合わせて作られたパン焼きがまや作業台が残る。健さんより三十センチも小柄な充子さんには大きすぎる。何度もかまでやけどを作った。友人たちが充子さんの背丈に合わせて踏み台を作ってくれた。その踏み台に乗って充子さんはパンを焼く。「スタッフや友人、お客様、みんなに支えられてここまで来た。ここまでこれたことに感謝しています」。きりっとした笑顔の中に、充子さんの三年間が見え隠れした。
平成13年12月22日 掲載
太田 八重子さん 日本服飾文化史研究会教授
(ゆりか美容室オーナー)
「はい、後ろからひもを回して」「てきぱきとね」。きびきびとした声が明るい部屋に響く。初めて見る十二単(ひとえ)の着付け。長い髪を持つ「髪持ち方」、前から着付けを行う「前衣紋方(まええもんかた)」、後ろを担当する「後ろ衣紋方(うしろえもんかた)」の三人で十二単の着付けは行われる。「前衣紋方」として指図するのが太田八重子さん(67)。着付けをする相手に息がかからぬよう、中腰での作業が続く。

 始めてから三十分ほどで日本のロイヤルコスチューム十二単におすべらかしの姿が完成。初めて目にした華やかな装束(しょうぞく)に目を見張った。弘前市駒越にある「ゆりか美容室」の「大先生」八重子さんは東北でただ一人、十二単の着付けのできる美容師さん。十二単で結婚式を上げたいという花嫁の願いをかなえる。「かさねの色目の美しさ。これがやりたくてやりたくて、ここまで頑張ってきたんだものねえ」と八重子さんはほほえむ。

 平安中期に誕生した十二単と男性の装束である束帯(そくたい)は、宮中御衣として現在に伝えられている。八年前の六月九日、宮中で取り行われた皇太子殿下と雅子妃殿下のご結婚の儀の際に両殿下がお召しになった装束だ。昨年の夏、八重子さんは東京の国立劇場で開催された「王朝物語絵巻」に出場。満席の観客の前で束帯の着付けを披露した。「なぜ十二単や束帯の着付けを学ぼうと思ったんでしょう?」。そう尋ねると「同業の人からは商売にもならないものを習ってと言われたこともありました。でも美容師として生きるなら着付けの奥の奥まで、とことん学びたかったんです」と答えた。

 八重子さんの美容師としての人生は二十歳過ぎから始まった。十九歳で結婚したが、訳あって離婚。第二の人生を自分の力で生きていきたいと考え、美容師を志した。青森市にある山田高校の美容科に通い始めたが通学が困難となり、退学届けを出したことがある。「当時の山田きみ校長があきらめちゃだめと励ましてくれました。その一言がわたしの支えとなりました」八重子さんはその後、山田高校美容科通信教育の第一期生となり、一九六〇年美容師の免許を取得し、駒越に「ゆりか美容室」を開いた。「苦労している時は必ずこの後にいいことがあるって思うことが大切」と話す八重子さんのまなざしは強い意志を感じさせる。

 美容師となって四十年余り。常に前向きに生きてきた。「商売というのはお客様に満足してもらうこと」という信念を持つ。「そのお嫁さんに似合う衣装を着せてあげたい」という思いから八年前、市内代官町にブライダルサロン「匠苑」を開設。ウエディングドレスから華やかなカクテルドレス、あでやかな和装までさまざまなコスチュームをそろえる。その中で八重子さんがどうしても着付けてみたかったのが十二単と束帯だった。京都に本部を持つ日本服飾文化研究会に入り、平安時代から江戸時代までの装束の着付け、服飾の歴史、髪型の変遷などを勉強した。

「十二単や束帯は作法にのっとって着付けるので難しい。鎌倉時代の白拍子水干(すいかん)姿や大奥の中臈(ちゅうろう)の打ち掛け姿など着付けると楽しいのよ」と笑顔を見せる。「この二つの手を使ってここまで生きてきたんだものね」と自分の手の平をしみじみ眺める八重子さん。「美容師が天職」と笑う。「十二単はどこの国に出しても恥ずかしくない文化。若い人にも自分たちの国の服飾文化に触れてほしい」と考えている。十二単を実際に見たことがない人のために、いつか弘前で『王朝絵巻』を披露するのが八重子さんの夢だ。三月にまた一人、十二単の花嫁をこしらえる。十二単にかける八重子さんの思いは着実にかないつつある。
平成14年1月19日 掲載
辻 桃子さん 俳句誌「童子」を主催する
「これから藤崎まで白鳥を見に行くの。一緒に行きましょう」。明るい声に誘われて、「童子」の津軽メンバーといっしょに藤崎まで吟行した。うららかな冬の光にあふれた白子の平川に到着。思わず「白鳥日和」と言うと、「それすてき。されを使って俳句を作ってみて」。辻桃子さんはだれでも人を俳人にしてしまう。褒め上手だ。

 辻家では一人でも二人でも客人があれば、句会が始まる。「じゃあ一人十句作ってね」と事もなげに言う桃子さん。ある時はパンソリのCDを聞きながら、ある時はしじみ汁を飲みながら、句会は始まる。桃子さんといっしょにいると、俳句がするするできてくるから不思議。

 桃子さんにとって見るもの、触れるもの、すべてが俳句になる。白鳥を見れば「氷上を来る白鳥の足二本」。雪降ろしを眺めれば「雪卸す屋根にあらはれ顔二つ」。徹底した写生が信条。「白鳥のことは白鳥に、カモのことはカモに聞いてみないとね」とおっとり笑う。「俳句って楽しい」が桃子さんの口癖だ。そんな桃子さんも三十歳代までは「俳句は苦しんで作るもの」と考えていた。当時入っていた結社で「いい句を作ろう」「人よりもいいものを」とお尻をたたかれた。ある朝鏡を見ると、頭のてっぺんより少し右側のところが十円玉ほどにはげていた。

 知り合いの医者に「何事によらず楽しくやりなさい。どんな好きなことだって、嫌々やればはげます」と言われた桃子さん。楽しくやればはげはできないと納得し、その時から「病気が治るような俳句、生きているのが楽しくなるような俳句」を作り始めた。そして四十二歳で、新しくて楽しい俳句誌「童子」を誕生させた。全国に「童子」の同人は五百人余り。毎月の選句、添削、全国各地で開かれる句会に出向いたりと超多忙な日々を送ってきた。「東京での忙しい暮らしで、心が病気になりそうでした。それで弘前にやって来たんです」と話す桃子さん。夫で俳人の阿部元気さんが弘前に転勤になったのを機に、二〇〇〇年三月、弘前の住人となった。

 広月煮来て一年十カ月。めいっぱい津軽での暮らしを楽しんでいる。津軽で過ごした最初の一年の印象を大切にしたいと昨年の十一月、第九句集「雪童子」を出版した。ページを開くと、初めての雪国暮らしに、見るもの聞くもの、すべてに目を大きく見開き、驚く子どものような桃子さんの顔が見えてくる。「雪白の婆の裸や雪の出湯」「雪代の猛るに花見櫓かな」。「私の感じた津軽の良さがふわーっと伝わるといいですね」。

 「童子の編集部は一月から弘前に移った。「これから津軽の色を濃くしてやっていきます」との言葉通り、「津軽料理歳時記」など新しい企画が始まる。けの汁、じゃっぱ汁、アザミの油いため、カタクリのお浸しなど津軽の季節感あふれる料理を紙面で紹介していくつもりだ。雑誌「NHK俳壇」では毎月新しい俳画も披露。「画家になるのが夢だった」という桃子さん。早稲田大学では美学を専攻した。四月からは同誌で津軽の風景をはがき絵と手紙風エッセーでつづる「林檎の村便り」が始まる。

 「いい空気といい水。古いものもたくさん残っている。津軽は実に面白い」と語る桃子さん。「すべてが東京にかたよっている現代だけれど、俳句には反骨精神があるべき。みんなが見ているのと反対の方向を見るのが俳句の精神」と言い放つ。
「きゃー俳句って楽しい」なんて少女のようにはしゃぎながら、時々男性的な顔が現れるのが桃子さんの魅力。これからも見たものをさらりと表現した俳句を、弘前の地であっけらかんと楽しく作っていくに違いない。
平成14年2月23日 掲載
外崎 令子さん 写真集「わたしのふるさと みやのさわ」を出版した
一面の雪景色と鳥居の写真が表紙になった一冊の写真集が手元に届いた。タイトルは「わたしのふるさと みやのさわ」。ページを繰ると、「えびり」を押して代かきをする農家のオド、田植えの初日、御神酒(おみき)や赤飯を水口に供えて拝む農家の人の姿に交じり、田んぼの隅にしゃがんで「オシッコ」をする農家の女性の姿が目に飛び込んできた。

 写す者と被写体との間によほど信頼がないと撮れない写真だ。撮影したのは外崎令子さん(60)。嫁ぎ、子どもを産み、育て、農家の嫁として生きてきた土地宮野沢の姿を平成元年から十三年間カメラに収め、今回写真集を自費出版した女性だ。

 外崎さんに会うために吹雪の中、中里町に向かった。肩からバッグを下げ、黒い帽子にアズキ色のジャケットといういでだちが令子さんの撮影スタイル。二万円で買ったキャノンオートボーイが令子さんの相棒だ。令子さんはこのカメラで、変ぼうする村の姿を撮ってきた。大きなユウガオを肩にしょって満面の笑顔を見せる農家のオガ。鐘をたたきながら百万遍を拝む村人たち。農村の四季、村の祭り、信仰、いろいろな角度から令子さんの目で見つめられた村の姿がそこにある。

 令子さんは二十歳で六キロ離れた中里町豊岡から宮野沢に嫁いできた。田んぼと畑が令子さんの仕事場だった。三人の子を育てながらの農業。農閑期には土木作業で働いた。三歳年上の夫喜満さんは農業の合間に林業を手伝った。山に入って木を切り出す仕事。穏やかな日々が続く中、喜満さんは四十五歳で亡くなった。山の事故だった。

 「二人して、年を取ったら何するかってよく話をしていました。おやじは花や盆栽をつくるかなって。ワ、小説でも書くじゃって言ってたの」。突然の夫の死。「どうやって生きていくか、ただ真っ暗やみになってしまった」と令子さんは当時の心の内を語ってくれた。その後、寝たきりになったしゅうとの看病。入院したしゅうとめの世話で日々が過ぎ、気づくと五年の月日がたっていた。「ただこうしていればまいね、なにかやらねばなって段々思うようになりました」と令子さんは笑顔を見せた。

 農村の写真を撮ってみたら」。そうアドバイスしてくれた人の言葉が胸に残り、令子さんは一九八八年十二月、初めてカメラを手にした。最初にシャッターを切ったのが写真集の表紙となった村の産土神「白幡さま」の写真だ。「いい写真が撮れますように」、そう祈って撮ったという。翌年、すぐに平成になった。それなら平成元年から、村の記録を撮ろうと思いました。十年撮りつづけたらまとめようとその時から思っていたんです」

 いつでもどこでも愛用のキャノンを持っていった。田植えをしながら、泥の付いた手で撮った写真もある。「ワ、写真とってもいいな?」「んだな、さ、さ、撮れ、撮れ」。カメラを向けると気軽に応じてくれた村人たち。人々の温かな気持ちに支えられ、令子さんは写真を撮りつづけてきた。写真集には、少女時代から作文や小説を書くのが大好きだった令子さんならではの文章が添えられている。

「おらは写真家ではないから、写真だけでは伝わらないものを文章で書こうと思ったの。村の姿を撮っているけど、文章と写真で今の時代を感じてもらえれば」と話す令子さん。田んぼがつぶされ、村の中に大きな道路が走り、新しい家が次々と建ち、山の奥に運動公園ができた。この十三年の村の変化は大きい。

「写真を撮らせてもらった人も、随分亡くなった。早く写真集を出さなくてはと思い続けてきました。倒れないでここまでこぎつけたから、それでよかったって思うの。こうして形に残ったからね」写真集を開けば、失われた村の風景、人々の姿が今もそこにある。
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