工房ポレポレ 平成15年10月4日掲載
安田 美代さん 「のんびり、ゆったり ポレポレ生きたい」
 テラスでは白い猫がとろとろとお昼寝をしている。目の前には大きな岩木山。さわやかな秋の風が吹き抜けてゆく工房ポレポレ。ポレポレとはスワヒリ語で「のんびり、ゆったり」の意味。見わたせば、周りは本当にポレポレだ。

「ここに来てから作風が変わりました。そんなにがんばらなくてもいいんだと思えるようになりました」と安田美代さん(39)は静かに笑う。

 美代さんは十年前、夫の修平さん、息子の星乃介君とともに鯵ヶ沢町の通称山田野に移り住み、工房ポレポレを開いた。ここで土をこね、焼き物を造り、生活している。「どうやって暮らしているのとよく聞かれます」とにこやかな笑顔を見せる美代さん。今の生活に落ち着くまでにはさまざまな起伏があった。

 美代さんは岐阜県の生まれ。高校時代から陶芸に興味を持ち、多治見市の陶磁器意匠研究所で焼き物の基本を勉強。卒業後は地元の陶器会社の企画部門で働いた経験を持つ。研究所で一年先輩だったのが修平さん。東京で結婚式を挙げ、一九八八年から修平さんの故郷板柳町で生活を始めた。

 板柳で暮らし始めた後も、置いてきぼりにされるような気がして、気持ちは東京に向いていた。「名声を得ないと陶芸家としてやっていけないんだと当時は思い込んでいました」。自分を表現しようと頑張り、公募展にも出品した。そんな中で妊娠。星乃介君を出産した。「赤ちゃんを抱えて、作品を作ることができない生活にいらいらしていました」と美代さん。陶芸だけで暮らすことは難しい上に、子供を抱えて何もできない自分などいない方がいいのではないかとまで思うようになったという。うつ病だった。

 山田野は何もかもが広々だ。「自然が作るものに比べたら、大したことないなって思いました。本物の一本のアスパラにはかなわないなと」。開拓時代、元は馬小屋だったところを工房にしている。黒猫のタンゴ、猫のノンタン、犬のバルト、カメのガメラと一緒の穏やかな暮らし。中学生の星乃介君を登校させてから、美代さんは陶芸にいそしむ。

 美代さんと修平さんは十五日から十九日までさくら野弘前店で仲間とともに「スローライフ工房展」、十五日から二十一日まで東京新宿高島屋で久しぶりの二人展を開く。家の形をした愛らしい明かり。おおらかなフォルムのスプーンや鉢。修平さんが生地を作り、美代さんが模様を描いた初の合作シリーズ「ラブ イズ アクション」など多彩な作品を作成中だ。

 白い磁器に甘いトーンの水玉と文字が象眼された作品は洗練された印象。「疲れたなと思った時に手に取ってもらえるようなものを作っていきたい。ほっとしてもらえたらどんなに幸せだろうと思います」と美代さん。「ラブ イズ アクション」は朝のテーブルに並ぶと、幸せな気分になれる、そんな器だ。朝になればぴかぴかの新しい一日が始まる。トンボが飛び、虫が鳴き、猫が眠る穏やかな午後。夜になれば、たくさんの星が顔を出す暮らし。静かな時間の中から、どんな作品が生まれてくるのか。美代さん自身楽しみにしている。

サムエル保育園名誉園長 平成15年10月11日掲載
山鹿 さたさん 「楽しい保育園に 思い通して52年」
 弘前市鷹匠町を歩くと、どこからともなくピアノの音色と子どもたちの元気な歌声が聞こえて来る。サムエル保育園の園児たちだ。同園は大正時代の初め、東北で一番早い託児園として開設された。

「大正二年に津軽で大飢饉(ききん)があり、女も日雇いで何でもしなくてはならなくなり、ここを開くことになりました」と話すのは、サムエル保育園の名誉園長山鹿さたさん(88)。ふっくらとして面立ち。優しい笑顔。子どもたちには「おばあちゃん園長先生」と慕われている。

 さたさんは板柳町の生まれ。幼くして父親と死に別れ、四歳の時には、再婚のために上京した母と別れ、祖父母に育てられた。「母と別れて暮らした小さい時の寂しさ、わびしさ。だからかしら、元気の出る赤が好きなんです」。

 弘前女学校を卒業し、青山学院の神学部に進んだ。本当は音楽学校に進みたかったが、金銭的に難しいと知っていたさたさんは、賛美歌が歌え、オルガンを弾くこともできる神学部を選んだのだった。そこで生涯の伴侶となる素(しろし)さんと出会う。「銀座の不二家のティールームでデートしました。当時は銀座の柳がきれいでした」。

 卒業後、さたさんは富山の教会の夫人伝道師として赴任。素さんは黒石教会の牧師となった。三年後、素さんと結婚。一九四三年、弘前に移り住んだ。素さんは聖愛高校の教諭となり、さたさんは素さんの父親が経営していたサムエル保育園を手伝い始める。「子どもたちに楽しい経験をたくさんさせたい、子どもが夜眠る時、きょう一日楽しかったなと思ってくれる園を目指してきました」とこれまでの日々を振り返る。

 素さんは九年前、八十四歳で亡くなった。さたさんは八十五歳まで現役園長を通したが、脳梗塞(こうそく)を患い、息子の紀夫さんに園長の座を譲った。今は月に一回聖書の話をするため園に通う。八十九年の歴史を持つサムエル保育園は卒業生もたくさん。さたさんが町を歩けば、「先生、家さ入っていけへじゃ」と声が掛かる。明るいさたさんはどこに行っても人気者だ。

 さたさんの夢は、老健施設と保育園、障害者の作業所が一緒に入った建物をつくること。子どもたちがお年寄りや障害者と交流できるような施設をつくりたいと考えている。「いいものはどんどん取り入れ、受けて立つという姿勢が大切」と八十八歳の今も常に前向きだ。「今は母子家庭、父子家庭が増えてる。夕食はお母さん、お父さんと一緒に食べる家庭であってほしい。ぽつんと子どもが一人で食べる姿は悲しいです」とさたさん。寂しい子どもの姿は、幼いころの自分の姿と重なるのかもしれない。

 「最後の最後まで、この園では温かい手作りの食事を出していきたい」とさたさんは話す。子どもたちを見詰める目は、五十二年間変わることはない。
山田屋旅館女将 平成15年10月18日掲載
  山田 信子さん 「のんびりマイペース 明かりと絵を楽しむ」
 「かつてはこの道路が浪岡で一番のにぎわいだったんですよ」と話すのは山田屋旅館の女将(おかみ)山田信子さん。青森に通じる国道7号線に面した山田屋旅館は戦前魚屋から出発し、仕出し店となり、戦後に信子さんのお母さんが女将となり旅館業を始めた。

 信子さんは高校を出てすぐ、警察官だった勝男さんと結婚。二十三歳で女将を継いだ。「ここで生まれ、女将になって三十年余り。愛想振りまくのは苦手。うそは言えないじゃない」と女将らしからぬことを言って笑う。

 着物はまず着ない。おしゃれも苦手。「どこに行くにも一張羅よ。十年ぐらい前に友達にもらったジャケットばかり着ているの」とあっさりしたもの。カメラを向けると「このままでいいから」とにっこり。私は私の道を行くというさっぱりとした女性だ。無理はしないし、いい人ぶらないというのが身上という。

 数年前から大広間を山田屋ギャラリーと名付け、時折作品展を開いてきた。十九日までは幽玄な雰囲気の能画を展示している。「能の好きな方、謡いをなさる方にも見に来ていただけたら」と信子さん。会場には「葵上」「羽衣」「草子洗小町」など山形県の画家吉田憧川さんが能の一場面を描いた油彩画が並ぶ。

 数年前、吉田さんが山田屋旅館に長期滞在したのが縁で、広間を開放しての個展が実現した。座敷を使っての展示はギャラリーとはひと味違う。気軽に足を運んでもらえればとの思いから開いた。二年前には旅館の一階に食事処「花ひろ」を作った。結婚と同時に警察官を辞め、板前さんだった信子さんの父の下で修行した勝男さんと息子の洋さんが板場に立つ。

 「花ひろ」には、気取ることが嫌いな信子さんらしく野趣あふれる花が生けられている。店内には草木染めした和紙を貼り絵した「草絵」が数点。信子さんの作品だ。入り口に信子さん手作りの丸い明かりが置かれている。手漉(す)きの和紙でこしらえたかわいい明かりは、心を和ませてくれる。紙を漉き、膨らませた風船に和紙を張り付け、間に色付いた桜やもみじの葉を入れてゆく。

 和紙が乾いた後風船をぽんと割れば、ふんわりとしたオリジナルの明かりの出来上がり。和紙を通す光は柔らかくて温かい。秋の夜を彩るのにぴったりの明かりだ。いつか山の奥に引きこもり、誰にも気を使わず明かりや草絵を作って暮らしたいという信子さん。洋さんに跡を任せる日を夢見て、きょうものんびりマイペースの一日だ。


「はねっと」をテーマに蝸牛庵 平成15年11月1日掲載
花田 友子さん 「手仕事を楽しみ 丁寧な一日送る」
  黄色い小菊の咲く黒い木の門をくぐると、そこは別天地。春には春の、夏には夏の、秋には秋の草花が咲く庭のずっと奥に、心やさしい媼嫗(おうな)が住んでいる。

 「蝸牛庵」と名付けられた住まいは、既に百六十年以上はたっているという。玄関の戸には白い障子が張られている。冬は寒くないですか?と問う私に「この暮らしが気に入っています。冬は雪のふぎがすーすーと入ってきて、それがまたさっぱりして肌にいいの。隙間から星も見えるしね」。花田友子さん(89)はうふふと笑う。

 野の花が大好きという友子さんは、キュートでチャーミングなおばあちゃま。毎朝庭の花や木に話し掛ける。「おはよう。あんたたちきょうもきれいだね」。だから花も草も木もみんな生き生き。裏の畑からは大きなカボチャがどっさり取れた。

 友子さんは片時も手を休めることはない。小学生の時、みんなの前で運針を披露したというだけあって、今も自分の着物、帯など何でも手作り。干場には庭で採れたホオズキ、トウガラシに交じり、見掛けない種が干してある。庭になったポポーといういい香りの果物の種だ。何にしましょう? 何になるかしら? イヤリングかしら、ブローチかしら?とにっこり。

 父寅次郎さんは作家今東光といとこで、東奥日報の論説委員を務めた人だ。友子さんは幼いころから針仕事、日本舞踊、三味線、華道とたしなんだ。ある日「友子さんよ嫁に」と、花田家から大きな栗まんじゅうの箱が届けられた。「1ヵ月も置いてあって、カビの毛がこんき長くなったのよ」と笑う友子さん相手の千秋さんがどんな人か両親が調べると「親思いのいいあんさで」と皆が口をそろえた。友子さんは二十二歳で花田家に嫁いだ。

 染め物の糊(のり)を持ってお嫁に来たという友子さん。白生地を自分でろうけつ染めにし、羽織に仕立てたり、帯に仕立てたり。今も庭のチューリップの花びらで草木染をする。この日締めていたのは、自分で描き、染め、仕立てたホトトギスの帯だった。

 今年の春、六十七年共に暮らした千秋さんが亡くなった。蝸牛庵には千秋さんが撮った写真がたくさん残されている。千秋さんは写真家小島一郎のおじにあたる。千秋さんも津軽の厳しい冬を撮影した。十三湖のほとりを歩く角巻姿の女性。吹雪の十和田湖畔を行く女性。写真の中の女性は、すべて友子さんだ。

 「冬の十和田湖に行った時は死ぬところでした。十和田南から歩いて発荷峠を越えて、休屋、宇樽部と腰までの雪をかき分けて。防寒着は、刺し子のボトと各巻。凍って足が雪から抜けないの」。千秋さんが残した写真は、友子さんの思い出のシーンでもある。

 今年は大きなヒョウタンがたくさん取れた。それらのヒョウタン胡粉(ごふん)を塗り、友子さんは春までにおひなさまをこしらえる。お内裏様、おひな様、三人官女、五人ばやしと役目を決めた。形の悪いものもそれなりに役割を決め、生かされる。顔を描き、着物を描き、春にはかわいいおひなさまが八セットほども完成しそうだ。「自分の人生をできる限り楽しまなくっちゃ」と友子さん。その丁寧な暮らしぶりはお見事。あっぱれ津軽の女性。頭が下がった。

表千家 平成15年11月8日掲載
 寿恵村 敦子さん 「おっとりがモットー 茶道支えにして48年」

 「三人とも男っぽいね」「あんたは男みたいだよ」。ポンポン言い合う祖母、娘、孫の三人。今も現役、四、五年に一度しか休みを取らないというタフな鎌田タツノさん(73)歳は身長170センチのビッグなおばあちゃん。ママさんバレーで鍛えたスリムなボディをチャイナドレスに包み、店内をかっ歩する娘の尚子さん(57)。ギャルソンのイメージで少年っぽくきめる孫の裕子さん(23)。中華レストラン「豪華楼」と「海馬(ハイマ)」を支える元気な女性三代だ。

 タツノさんは浪岡町の生まれ。出征する前にと、十五歳でいいなずけの誠司さんと結婚。十六歳で尚子さんを産んだ。終戦後は製材業を営む誠司さんを支え、穏やかな日々を過ごしたが、七四年に誠司さんが亡くなり、タツノさんの人生は一変した。

 二年後、タツノさんは弘前市駅前に第一ホテルを建設。その中に作ったのが「豪華楼」だった。「無鉄砲の怖いもの知らず。分からないからできたんでしょうね」。全くの素人から実業家への転身だった。

 第一ホテルが駅前開発にかかり、一時はやめようかと考えたタツノさんだったが、従業員らの「やめないで」という声と、尚子さんの「仕事辞めたらぼけるわよ」の励ましに背中を押され、九五年、株式会社「タツノ」を立ち上げた。新装オープンした「豪華楼」のマダムに抜擢されたのが尚子さんだった。尚子さんは二十三歳で婿を取り、四人の子育て、PTA活動など主婦業を満喫していたが、四十九歳で社会人としてデビュー。「子供の手も離れたし、働かないとだめと母に言われました。人に会うのが大好きなので、この仕事はとても楽しい」と尚子さん。

 裕子さんは幼いころからバレエを習い、筋力、腕力に自身あり。エアロビクスと水泳のインストラクター養成学校に通ったこともある体育会系だ。「気質も体育会系で、力持ちと言われて喜んでいるわね」と尚子さんは裕子さんのタフネスに太鼓判を押す。裕子さんは平成十一年十一月十一日にオープンした郊外型のおしゃれな中華レストラン「海馬」のサービス係としてさっそうとした姿を披露。祖母と母を脇から支える。

 思い切った事業展開だが、「私のことですから深く考えることもなく建てたんですよ」とおっとり話すタツノさん。「海馬」とはタツノオトシゴのこと。タツノの落とし子と語呂を合わせた。「海馬」は手ごろな値段設定でありながら、ゴージャスであか抜けた雰囲気が魅力。裕子さんら若手の丁寧なサービスも気持ちがいい。
「息を引き取るまで現役でいたいですね」「幾つまでチャイナ服を着られるかチャレンジしたい」「夢は人類平和で商売繁盛かな」。三者三様の夢を語る三人。タツノさんから尚子さん、尚子さんから裕子さんへ、バトンはしっかりと手渡されていく。

弘前民主文学メンバー 平成15年12月6日掲載
国 麻美さん 「子育てと書くことで “いのち”の重み実感」
 アルバムを開くと、家族三人の笑顔が飛び込んできた。国麻美さん(43)と夫の昭さん、そして五歳ののんちゃん。麻美さんは七年前に里親登録をし、のんちゃんと出会った。自分たちの子として育てたいと、のんちゃんが三歳になった時、特別養子縁組をしている。

 「のんちゃんにはいろんな所に連れていってあげたいの」。麻美さんのアルバムには、春、夏、秋、冬、のんちゃんとの思い出がたくさん詰まっている。一歳半で麻美さんの元にやってきたのんちゃんは言葉の少ない、表情のない子どもだったというが、アルバムの中ののんちゃんは笑ったり、泣いたり。いろんな表情を披露している。

 のんちゃんの隣で、元気な笑顔を見せる麻美さんだが、この笑顔にたどり着くまでにはさまざまなことがあった。麻美さんがグッドパスチャー症候群と診断されたのは二十歳のころだった。肺出血によるせき、呼吸困難。加えて血尿、たんぱく尿などの腎症状。多くの人は急性腎不全に陥るという難病だ。麻美さんが診断を受けた時、日本には二十七人の患者しかいない珍しい病気だった。

 「小さいころから熱を出し、病院で胸が苦しいと訴えても病名が分からず、学校に行きたくないからじゃないかと言われたりしました」。麻美さんの胸には、当時の思い出がとげのように今も残っている。どんな実験的な治療も拒まないという特約を交わし、さまざまな治療を受けた二十歳代。「肺に血がたまって息ができず、苦しいから殺してと叫んだこともありました」

 そんなころに知り合ったのが全国の難病者でつくる「あせび会」だった。会報に苦しい思いをつづった。麻美さんの元に全国からたくさんの手紙が届いた。「私がこうやって生きていることを励みに思ってくれる人がいるなら、生きなくてはいけないとその時初めて思いました」その時から、麻美さんにとって書くことが支えとなった。生まれ変わるのだという思いからつけたのが、ペンネームの「国麻美」。一九八〇年には身体障害者手帳一級認定され、生活保護を受けながら、小説を書き続け、弘前民主文学の同人となった。

 そのころ入院中に知り合ったのが昭さんだった。三十四歳で結婚。奇跡的に妊娠した。「普通に日常生活が送れるだけでいいと思っていたのに、少し病状が良くなると彼氏が欲しいと思い、彼氏ができると結婚したいと思い、結婚すれば子どもが欲しいとと思う。人間て本当に欲張りね」と笑う麻美さん。

 出産は母体と赤ちゃん二人の生命を賭けたリスクの大きいものだった。子どもを産むことをあきらめた麻美さんだったが、授かった命を殺してしまったと自分を責める日々が続いた。「私はみんなのお陰で生命を永らえ、生かされている。だったら私にできることをしようと思ったんです」。そしてのんちゃんのお母さんになった。

 のんちゃんは、麻美さんの周りの人々の愛情もたくさんもらって育っている。のんちゃんを育てることと弘前民主文学に小説や童話を書くのが麻美さんの生きがいとなった。自分の病気を包み込み、ともに生きる麻美さん。青空の下洗濯物を干す麻美さんの笑顔は、きらきら輝いていた。


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