書 家 平成14年12月14日 掲載
長利 紫虹さん 「天上の星目指し ひたすらに書く」
 長利紫虹(しこう)。響きの良い美しい名前だ。本人もその名のまま。穏やかで淡々とした雰囲気の持ち主である。本名は佐藤ひさ(55)。情念あふれる書家が多い中で異色の存在とも言える。

 弘前市御幸町にあるおさり煎餅(せんべい)店が実家。父親とともに店を切り盛りする母親の姿を見て育った。小さい頃、その母から「ひさ子、これから何にでもなれるんだよ」と言われたことが心に残っている。「煎餅屋だとこで、ある意味底辺の生活ですよね。ただいいお母さんになるんだと思っていましたが、あぁ何にでもなれるんだとそのまうのみにしたのかな」と素直な笑顔を見せる。

 中央高校の卒業間際、書道の授業で初めて近代詩文に出合った。好きな詩を選んで、自由にデザインして、思いのままに文字を書く。書道の先生だった故佐藤中隠さんに初めてほめられた。「近代詩文を学びたい」。その時そう心に決めた。
 中隠さんが主宰する弘玄書道会に通い始めた紫虹さんに、中隠さんはことのほか厳しく接した。淡白な性格の紫虹さんを発奮させようとしたのだろう「もっと積極的になれ」「気配りが足りない」「お茶を出すタイミングが悪い」「プロの魂に欠ける」。厳しい言葉が飛んできた。

 中隠さんから二十二歳の時、紫虹の名をもらった。中国の四書五経の中に出てくる紫虹は天空に架かる大きく美しい虹だ。紫虹さんは三十九歳で個展を開いている。その中に福士幸次郎の詩を書いた作品がある。「汝は愚鈍な木である 葉はしげり梢はのび春が来れば花が咲き鳥もきて鳴く だが汝は愚鈍な木だいくら花が咲いても鳥が来て鳴いても葉が繁っても汝は愚鈍な木に違ひない だがこの木があの底光りのする天上の一つ星を見てゐるとは誰が知ろう」。やわらかな色合いの墨を使い、淡々と書き上げている。自分に言い聞かせるように。

 結婚し、子育てをしながらもただひたすら書き続けた。「やれと言われればハイハイと素直に、あきずに、単純にね」二〇〇二年四月の弘玄展に「大地に根を ゆっくりとでいい 目立たずともいい」と自作の言葉を書いた。自分の根の部分を大切にしたいという思いが今あふれている。「華やかな面だけでなく表に見えない部分、家庭や家族を含めた自分の根の部分を大事にしたい」と話す紫虹さん。

 十九日から田中屋画廊で開かれる詩画店には、おしゃれな小品を出品。〇三年の新春三日から五日まで中三弘前店スペースアストロで開かれる第三十七回弘玄展には淡墨を使った大作を展示する。近代詩文を書こうと心に決めて三十七年。作品の中に長利紫虹さんのどんな顔を表現していくのか。天上の一つの星を見ながら歩み続ける。
押絵教室を開く 平成14年12月21日 掲載
櫛引 ヌイさん 「古い着物地を 押絵に生かす」
 「お嬢さんたち集まって」と櫛引ヌイさん(72)が声をかける。「ちょっと昔のお嬢さんだけど」と笑いながらヌイさんの周りに集まるメンバー。ヌイさんは平賀町の農村環境改善センターを会場に「押絵」の教室を開いている。

 押絵ははご板に見られる立体的な造形だ。型より少し大きめに布を切り、布に綿を乗せて型紙を置いて布で一つ一つくるんでいく細かい手作業。小さな部品を組み合わせて一つの押絵が完成する。

「急げばだめ。時間を掛けてゆっくりと」「もっと綿を入れて、ねずみをふっくらとさせねば」。正月に向け、はご板を作る人、十二支のびょうぶに挑戦する人。時折、楽しそうな笑い声が起きる。

 ヌイさんは今年の八月、弘前で初めての個展を開いた。「連獅子」「かむろ」「藤娘」など大きなものは1メートル以上もあるあでやかなはご板をはじめ、細やかな細工のびょうぶやつい立て四十五点を展示した。十年間作りためた力作の披露だった。押絵は手触りのやさしい絹ちりめんからなる。ヌイさんはおばあさんやお母さんが着た着物やじゅばん、羽織などをほごした懐かしい布を使っている。

「古い着物や布を部屋にいっぱい広げて、眺めているだけで幸せ。この模様を押絵のどの部分に使おうかと考える。それが楽しいの」ヌイさんは結婚してからずっと米とリンゴを作ってきた。農業の傍ら、三人の子の子育て、しゅうと、しゅうとめの世話をしてきたが、六十歳を目前に何か始めたいという思いが湧き上がってきたという。

「はご板を作りたいと思いました。はご板は高くて買えなかったから自分で作ってみたかったんです」東京の久月人形学院に通い、十年前に押絵の正教授となって「華縫」という名をもらった。春から秋までは農業にいそしみ、一面の銀世界になるのを待って、押絵の世界にこもる。朝から晩まで、布と遊ぶ。シューシューと鉄瓶の沸くだるまストーブの隣で制作を続けるヌイさん。浮世絵の本を見て型を取り、自分ならではのはご板に作り上げる。

 白いサテン地を好みの色に染め、クジャクの羽にし、ボタンの花びら作り上げる。大きな作品は完成するのに三ヵ月は掛かるという。出来上がった作品は友だちにあげたり、新築祝いになったり。ほとんどがお嫁入りしていく。

「気が長くないとできません。春までゆっくり作品を作りますよ」と笑顔を見せるヌイさん。リンゴ園に明るい日差しがあふれ、雪が溶けるまで、押絵と遊ぶ楽しい日々が続いていく。
舞踏家 平成15年1月18日 掲載
伊藤 由香さん 「自然に身体を任せ 踊って心開放する」
 真っ暗な舞台にころがるほの白い流木。夜明けを思わせる光が差し、伊藤由香さんは舞台の上をゆっくりと動き始めた。

 バックには水琴窟(くつ)に滴る水の音。縄文の火のように赤い絹布をはためかせ、伊藤さんは舞台の後ろから前へとダイナミックな動きを見せる。素焼きの楽器が奏でる風の音色と共に、伊藤さん自身が風となり、流木をなぎ倒していく。

 十二月二十二日、伊藤さんは弘前市の中三スペースアストロで二〇〇二年の踊り納めをした。昨年は青森、八戸、仙台、弘前と舞台を踏み、大きなステップを踏み出した。スポットライトを浴びて踊る一方、伊藤さんにはもう一つ大切にしているステージがある。知的障害者や身体障害者の施設、老人施設、保育園や幼稚園で舞踏を披露し、入所者や園児らと一緒に踊る。昨年は全国百六十ヵ所で踊った。舞踏家を志して十五年、目指すものが見えてきた。

 伊藤さんは東京の大学で英文学を学び、卒業後は企業を対象とする語学学校でコーディネーターとして働いていた。西洋に対してコンプレックスを抱えている日本人の姿を随所に見て、逆に東洋的なものに引かれ、二十四歳でインドへ渡った。
「ガンジス川のほとりで、全身全霊で踊る人々の姿を見、こういう生き方、いいなあと思いました。私もこうなろうと心に決めました」

 ベナレスの町でインド舞踊を学び、帰国後は子どものころから親しんでいたクラシックバレエを本格的に始めた。東京で三年。ニューヨークで三年。だが、挫折感を抱えて帰国した。「負け戦という感じでした。ダンサーを目指してきたけれど定職もなく、周りからは何やってるんだ見られたでしょうね」と振り返る。

 何か始めなくてはと考え、ボランティアで老人施設を訪れた伊藤さんは、ここで踊りたいと強く感じたという。「きらびやかな明かりの中ではなく、日常の中で踊りたいと思いました。一緒に踊ることで心を開放してもらいたい。踊りには自らの心を開かせる力があると経験を通して知っていました」

 それから五年。北海道から関東まで、さまざまな施設で踊ってきた。伊藤さんが音楽に合わせて伸びやかに体を動かすと、子どもたちも体を動かし始める。「自分と共に踊る子ども、障害者を目にした時、踊り続けてきてよかったと思いました」
青森市の社会教育センターを会場に、音楽に合わせて身体を動かし、表現する教室「星の子クラブ」を開いている。「無心になってただ踊る。現代人は頭で考えてしまいがちだけれど、自然に身体を任せてみると心と体が一致する。身体を動かす喜び、自分を解放する気持ちよさを味わってほしい」と伊藤さん。

 弘前公演の最後、「一緒に身体を動かしましょう」という伊藤さんの声に誘われ、会場も一緒になって踊った。何だかふんわりいい気分。風に乗る鳥になったような気持ちだ。踊ることで伊藤さん自身も癒されてきたのだろう。「みんなの身体を動かし、踊ってみたいんだと思う。私はそのための刺激剤。普段は自分の中にしまい込み、出せないでいるものを開放して踊ってみてほしいな」五感で感じ、心で見、体で考える。たまには心を自由にして、踊りながら自分の身体と対話するのも気持ちいい。
バルーンコーディネーター 平成15年1月25日 掲載
北澤 由美子さん 「夢と愛をデリバリー 楽しい風船のアート」
 オープンしたばかりのお店の店頭で、青やピンクのまあるいはかなげな玉が揺れていたりすると、今でも欲しくなってしまう風船。子供はもちろん、大人にも夢を与えてくれる風船を使って、楽しいデコレーションをつくるのが北澤由美子さんの仕事。自ら「ふうせんや」と名乗る。

「私は車力村なので、ルーンコーディネーターですと言っても、で何屋さん?と聞かれる。説明すると『風船屋なあ』と言われる。だから『ふうせんや』」とにっこり。

 風船と並ぶと、由美子さん自身がまるで風船みたいにふんわり丸くて、温かい。バルーンと出合ったのは五年前のこと。青森市のデパートのイベント会場で風船を使って犬を作る人の手元に思わず見入ったという由美子さん。自分もやってみたくて、「マジック・バルーン」という英語版の本を買い込み、独学でバルーンアートを始めた。息子の郷志くんのために作ったゴジラが一番最初の作品だ。

 村内の子供たちに仲間と一緒に本の読み聞かせを行ってきた由美子さんは、村の文化祭で本を読み、子供たちへのお土産としてバルーンで犬やウサギを作ってプレゼントするなどの活動をしてきた。バルーンについてもっと勉強したいと、二年前盛岡市にあるバルーンスクールに通い、初級・中級・上級のクラスで学んだ。

 風船に空気を入れることから始まり、風船を手で割る訓練。いつでも笑顔がポイントだ。風船のブーケ、アーチ、オブジェと習得した。それからの由美子さんはバルーンに夢中。鶴田町に「鶴の里あるじゃ」がオープンすると聞き、バルーンで特産のスチューベンをかたどったオブジェを作り、飛び込みで営業。熱意が買われて店内のデコレーションを担当した。「今思うと冷や汗がでます。やりたいって気持ちがいっぱいで怖いもの知らず」と笑顔を見せる。

 本格的な資格を取りたいと考え、筆記試験、写真審査、面接実技の試験を受け、昨年の暮れにCBA世界公認バルーンアーティストとなった。これからばりばりバルーンの仕事をやるぞと張り切る。「子供を産んでから沙久良ちゃん、郷志君のお母さんと呼ばれるようになった。でもそれだけじゃ寂しい。小さな村で出歩いているとあそこの嫁はと言われたけれど、出るくぎも出てしまえば打たれない。仲間のお母さんたちとお互いに頑張ろうねと励ましあっています」

 バルーンの仕事で一番大事なのはやる気と体力。ベストの状態で風船を届けるために徹夜で制作する。「風船といっても奥が深い。花よりもデリケート」と由美子さん。風船を二枚重ねて微妙な色を出したり、オリジナルの風船花を作ったりと工夫を凝らす。

 箱を開けた途端、バルーンが飛び出すびっくり箱を孫のために注文する人、バレンタイン用にチョコレート入りの風船を頼む人などお届けの注文もさまざま。「結婚式やパーティーの飾りつけ、なんでもやります」と元気いっぱいの由美子さん。風船一つで心があかるくなることもある。風船と一緒に真心を届ける、それが由美子さんの仕事だ。
あらや保育園園長 平成15年2月8日 掲載
斎藤 千恵子さん 「昔ながらのいいもの 子供たちに伝えたい」
 いちべえさんがイモ切って
 にべえさんが煮て食べた
 さんべえさんが酒飲んで
 よんべえさんは酔っぱらって

 昔からのじゃんけん歌を園児と一緒に楽しむ斎藤千恵子さん。鈴をころがすようなきれいな声で子供たちのハートをつかむ。「語り継がれてきた昔ながらのいいものを子供たちに伝えたい」とあらや保育園では十五年前から昔話の影絵を手作りし、千恵子さん以下職員がパフォーマンスを行っている。

「もういいかい」。元気な子供たちの声。「始まりますよ」と千恵子さんの軽やかな声。電気が消され、スクリーンの上におじいさんとおばあさんの影絵が浮かび上がった。

「おむすびころりんすっとんとん ころりんころりんすっとんとん」。ねずみの穴から出てきたかわいい歌に子供たちから歓声が上がる。歌と一緒に音符の影絵が踊るように飛び出してくるのを見て、笑い転げる子供たち。千恵子さんはそんな子供たちの様子を笑顔で見つめる。ねずみの宝物を全部横取りしようと悪知恵を絞ったずるいおじいさんがねずみに食い付かれ、ほうほうの体でねずみの穴から逃げ出したところで「おむすびころりん」のお話はおしまい。

 電気のついたホールには子供たちの満足そうな顔。この顔が見たくて、千恵子さんや園のスタッフは影絵を続けている。「子供たちは昔とちっとも変わっていない。ただ社会環境や人間関係が変化した。変わったとしたら大人が変わった。でもお母さんを責めるのではなく、お母さんと信頼関係を築いて一緒に子育てしていきたいの」。千恵子さんの変わらぬ思いだ。

 小学校六年のとき、隣に住む幼い女の子の子守をしながら「絶対に保母さんになる」と心に決めた、その決意のまんま三十年が経った。保育士が天職といった感じの千恵子さんだが、なりたてのころは十二指腸かいようでダウンしたこともあった。「あまりにも思いがあって、やる以上は精一杯やろうと。頑張りすぎですね」。ふっくらとした笑顔を見せる。一生懸命が大好きな千恵子さんならではの失敗だ。

 二十一歳であらや保育園に嫁いで以来、「休もうと思うな」という申し渡しを守ってきた。「自分の子供が熱を出すと、あぁきょうは一日中子供と一緒にいてあげられるってほっとしたものでした」そんな母親の姿を見て育った長男の憲法(たけのり)さん(28)は、二年前にあらや保育園の副園長になった。それを機に、千恵子さんは新たなチャレンジを始めた。

 毎週日曜日、東京にある映像学校の声優科に通い、若い人に混じって、映画の吹き替え、朗読、芝居、ナレーションを学ぶ。「自分自身の感性を高めたい。表現の仕方をきちんと学んで、本の読み聞かせや影絵に生かしたいんです」

 園長先生自ら歌いながらワニのお姉さんになっておしりをふりふりしたり、ワニの赤ちゃんになっておっぱいちゅっちゅしてみたり。子供たちの笑顔が見たくて、保育園は楽しいところだと子供たちに伝えたくて。子供たちの笑顔のために、千恵子さんの一日はある。 
弘前福祉短期大学助教授 平成15年3月1日 掲載
横浜 礼子さん 「体験か生み出す 津軽言葉の魅力」
 介護の場面で出会う津軽弁をまとめた「三つの津軽ことば」を出版した。ページを繰れば「いで・やむ・へづね」「だほらっとす・ばふらっとす・めたらど」「ぐづめぐ・ぐやめぐ・うやめぐ」と似ていて微妙に異なる、そんなデリケートな津軽の言葉があふれる。
「『いで』と『やむ』では痛みの感じが違う。『いで』はパッとたたかれてイタって感じ。『やむ』はいでよりじきじきとした痛み。その違いが今の学生には分からない。今だからこそ医療現場に立つ若い人に津軽言葉を伝えたい」と静かな口調で話す横浜礼子さん(53)。

 昨年の四月、五十二歳で弘前福祉短期大学の助教授となった。「第二の人生と言うけれど、二だか三だか、四だか五だか」と穏やかな笑顔を見せる。それだけ横浜さんの人生には紆余(うよ)曲折があった。

 横浜さんは弘前大学教育学部特別教科看護教員養成課程の一回生だ。卒業後は五所川原高校衛生看護科の教諭となり、二十三歳で結婚。一度は仕事を辞めて専業主婦となったが、外で働くのが性に合っているのだろう、幼子を抱えながら当時はまだ珍しかった老人家庭奉仕員(ホームヘルパー)の先駆けとなった。

 その後、五所川原市内の病院で看護婦(当時)として医療の現場に立ち、一九九一年には看護婦の立場で津軽ことばをとらえた「病む人の津軽ことば」を出版している。朝日新聞の天声人語の中でも紹介され、ドイツの国立図書館から送ってほしいとの依頼が来た名著だ。

 黒石生まれの横浜さんにとって、勤務地五所川原の津軽弁は微妙に違っていた。「津軽弁で症状を訴えるお年寄りと接する中で、あれーと思う言葉を拾っていきました。そのままにすればエピソードも散らばってしまうと思いまとめたのが一冊目」と横浜さん。本には患者さんとの会話、交流を大切にしている横浜さんの人柄がにじんでいる。

 短大では十九歳から四十四歳までの学生に「介護技術」「介護実習指導」などの講義を行っている。そんな中で津軽弁の分からない学生が増えていることに驚いた。横浜さんは体験から、長年親しんだ言葉がお年よりの心を開くことを知っていた。看護婦時代、「具合はどうですか」と聞いても返事のない患者さんに、家族が「あばや、あんべどだば」は声を掛けると「みじおどし(みぞおち)さっぱどしね」と明快な答えが返ってきた思い出を持つ。

「自分の経験を若い人に伝えたい」。そんな思いから、介護で必要と感じた津軽弁をまとめたのが「三つの津軽ことば」だった。介護の実習に行く学生に本を持たせた。実習先を巡回すると「患者さんとコミュニケーション取ってるよ」「痴ほうの老人めごくてや」と学生の元気な声が返ってきたという。

 二つの本には自身の闘病経験、病と闘った実父と夫を介護、看取った経験も散りばめられている。体験から生み出された文章には力がある。「お年よりの話に耳を傾け、病人の言葉を心に留めてほしい」と横浜さんは願う。

 助教授として短大に迎えたら時、気負わずに自然体でと心に決めた。「でもね、あーしまった、頑張りすぎているって思うことありますね」と笑う横浜さん。さまざまな体験が横浜さんの今を支えている。
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